2004年7月5日月曜日

岸田秀:「日本がアメリカを赦す日」


岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」という本によって彼の唱える「史的唯幻論」に触れたのは、かれこれ20年以上も前、まだ大学生の多感で無知な時期でした。


「人間は本能の壊れた動物」という考え方、国家や集団の行動原理を個人のように扱い、精神分析的手法から解明してゆくさまに、文字通り眼から鱗が落ちるような驚きを覚えたものです。

その後いくつか氏の著作を読みましたが、「ものぐさ精神分析」で得たほどの驚きはなかったものの、氏の揺るぎのない論理的な考え方には感銘を受けました。


さて、そんな彼が、満を持してとでもいうのでしょうか、「アメリカ」について書いたのが本書です。この本は、再び私にとって眼から鱗どころではなく、何か積年の瘡蓋が剥げ落ちるかのような思いを抱かせてくれる本となりました。




私はサイト上で、私の聴いたCDやら本の感想をダラダラと無意味に掲載し続けていますが、自分がどんなに感動したものであっても、あまり人に薦めることはしていません。自分は自分、人は人、無知な私が推薦なんておこがましくも、おせっかいであると思うからです。しかし、この本は違います。すべからく、日本人もアメリカ人も読んで、深く内省し、そして次の行動原理を考えるべきであると思うのです。(>おお、究極のおせっかい)


明治に開国を迫られて依頼、日本は自我の分裂した国家であるという説は、いまさら驚くには値しませんし、その自我を外的自我と内的自我とに分けて説明することにも、初めて触れたわけではありません。岸田氏に馴染んでいない方もいらっしゃると思いますので、近代日本の自我に関する主張を引用しておきましょう。


近代日本は、自国を貶め、外国(アメリカを初めとする欧米諸国)を崇拝し、外国のようになろうとする卑屈な外的自我と、外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自我とに分裂した精神病患者のようなものである(第三章 ストックホルム症候群 P.61-62)


氏が言う「自己欺瞞」ということも含め、こういう説に改めて驚いたわけではないのですが、通読しますと、いままでもやもやとしていた部分が、何かあまりにもあっけなく、ストンと落ち着くところに落ち着いたという感慨なのです。

しかし、そんなに簡単に、たった一冊の本で納得してしまうわけにもいきません。しばらくは、岸田氏の主張と自分の中で折り合いをつける作業が必要なようです。例えば、氏の憲法に関する以下のような主張についてもです。


��日本国憲法について)内容が正しいのであれば、押し付けられたものだっていいではないかという議論がありますが、これは誇りを失った卑屈なものの議論です。(正しい)正しい目的は不正な手段を正当化するのではなく、不正な手段は正しい目的を腐らせるのです。(第三章 ストックホルム症候群 P.71-72)


ここだけ読むと、最近主流になってきたナショナリストと同様の主張に読めますが、彼らの主張とは大きく異なっています。すなわち、アメリカと日本の関係を論ずることなく、世界における日本の立場を考えることなくは出発できないと強く主張する点、ここが、今の日本にすべからく欠けている論調であり、私がここのところずうっと拘り続けている点なのです。


国家の分析に個人に当てはまる精神分析の手法を用いるのはおかしいと考える方もあると思います。私もそう思いました。しかし氏は丁寧にも「補論 個人の分析と集団の分析」という一文を文庫本の最後に掲載してくれています。ここにおいて個人の超自我、自我、エスからなる精神構造と国家における皇帝、政府、民衆という役割が同じとする説は瞠目に値します。また記憶というものが、『過去の映像の持続あるいは再生ではなく、現在においてその都度、再構成されるもの』とする説にも説得力があります。そこが氏の史的唯幻論の元になっているのでしょうが。


氏の「ものぐさ精神分析」は今は手元にないのですが、改めて再読も必要かもしれません。いずれにしても、簡単に紹介をし終えることが出来る本ではないようです。都度、私はこの本に書かれたことを反芻してゆくことになるかもしれません。