2003年9月21日日曜日

東京交響楽団第506回定期演奏会

日時:2003年9月20日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ヘンリク・シェーファー
ピアノ:梯 剛之   ソプラノ:天羽 明惠
演奏:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
マーラー:交響曲 第4番 ト長調



本日東響を指揮するのはヘンリク・シェーファーという68年ドイツ生まれの若き指揮者である。2000年にはアバドの指名でベルリン・フィルのアシスタント・コンダクターに選ばれている実力の持ち主らしい。演奏会パンフレットには「未来のマエストロの呼び声高き、注目の指揮者」と紹介されている。ピアノの梯氏については説明はもはや不要だろう。今日の演奏会は、彼のピアノを聴くことが先ず目的ではあった。

梯氏が演奏するのはモーツアルト絶頂期のピアノ協奏曲21番である。明るくモーツァルト的天真欄間さのなかに見え隠れするちょっとしたアンニュイや寂しさが表現された、親しみやすい名曲である。ややもすると、あまりに耳障りが良すぎて逆に災いするところがあるのだが、梯氏のピアノは評判のとおり非常にピュアな音を奏でてくれ、清朗にして明瞭、モーツァルトの美しさを十全に表現しつくしているように思えた。

��階20列であったので遠くてよく見えなかったが、梯氏の打鍵はあまり強く、あるいは深くないようで、そこに彼の感性がかぶさることで、梯氏の独特の繊細な音楽が生み出されているように感じられた。(ピアノにも詳しくないので、頓珍漢かもしれないが)

シェーファーの氏振る都響も、適度に贅肉を落としたフットワークの良さを聴かせてくれ、梯氏のピアノとのアンサンブルは絶妙であった。プロのオケを相手にして言うのも何だが、確かに都響の弦はクリアで独特の艶やかさがあるように思える。

梯氏のアンコールはモーツァルトのニ短調幻想曲であった。モーツァルトの短調というのは、どうしてこんなにも哀しく美しいのだろう。この一曲を聴くだけでも雨の中サントリーに行った甲斐があったというものだ。

マーラーの交響曲第4番は、マーラー作品の中では短いため "親しみやすい" ということになっており、しかも演奏回数が1番や5番と比肩しているのではないかと思う。私も拙い演奏会経験の中で、この曲には何度か接している。

しかし私にはこの曲は結構難物で、特に第3楽章とソプラノ独奏の入る第4楽章がうまくつながらず、交響曲としてまとまった完成度という点では疑問を感じていた。「マラ4は第3楽章で聴くのを止める」という人もいたくらいだ。

私が今日の曲を聴いて驚いたのは、その第3楽章のまさにクライマックスとなる盛りあがりの中で、ソプラノが左手から静々と登場したことだ。こういう演出(?)は普通なのかしら。勝利を告げるかのようなファンファーレ(トランペットとティンパニが強打されるところ)とともに表れたソプラノの天羽明惠さんは、あたかも天国からの使者のように見えた。なるほど、こういうつながりもあったのかと関心してしまった。

指揮者のシェーファー氏がどういう芸風なのかは知らないが、彼のマーラーは全く感情に溺れず、淡々と音楽を提示してくれているように感じた。マーラーの曲はどれもバラバラな断片が組み合わされているが、彼の指揮はモザイクのひとつひとつにピントをくっきりと合わせているようで、そのため独特のパースペクティブを感じることができた。第3楽章のマーラー的なアダージョにおいても、音楽が陶酔してしまうことはなく、そのようなアプローチから現代的なマーラー像が浮かび上がっていたようにも思える演奏であった。

2003年9月14日日曜日

アムランのアルカンほか


Adolf von Henselt (1814-1889)
 Piano Concerto Op.16
 Variations de Consert Op.11 (Frist Recording)
Charles-Valentin Alkan (1813-1888)
 Concerto da Camera Op.11/1
 Concerto da Camera Op.10/2 (First Recording)

Piano:Marc-Andre Hemlein
Conductor:Martyn Brabbins
BBS Scottish Symphony Orchestra
Recording in Govan Town Hall, Glasgow, on 2 3 December 1993

ここに納められている Henselt と Alkan は、リストやショパンと同時代の作曲家であるらしい。Alkan は名前くらいは聴いたことがあるが、Henselt は読み方さえ分からない。この盤のふたつの曲がともに世界初録音とは驚く。

数多くの作曲家の中で現代でも聴き続けられているのには理由があるのだろうが、歴史の中に埋もれてしまっている作曲家も、私が知らない以上に多いのかもしれない。アムランが発掘したこの二人の作品も、これが何故に今まで誰も演奏しなかったのか不思議でならない、あまりに不当な扱いではないか。

どちらの曲もピアノの技巧をこらした、壮大なる曲である。音楽的な起伏も大きく、しかも深刻になりすぎず良い意味で刺激的でかつ健康的な美しい曲であると思う。特に凄まじい速さで速さで上下する旋律はロマン的な華やかさに満ちていて、アムランの精巧なテクニックで聴かされると、ふつふつと快感のようなものまで感じる。

しかし、何度もこの曲を聴いていると、「彼は、素晴らしくて、とてもいい人なんだけど~」的なつまらなさを感じることがなきにしもあらず。これらの曲が埋もれてしまった理由は、そんなところにもあるのかもしれない。もっともアムランのような者が弾けば、作品は生き生きとして蘇るのではあったが。

2003年9月9日火曜日

アファナシエフのベートーベン ピアノ協奏曲


ベートーベン  
 ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ協奏曲第5番『皇帝』

指揮:Hubert Soudant
ピアノ:Valery Afanassiev
演奏:Mozarteum Orchester Salzburg
Recording:December 12&13,2001(No.3)/June 10&11,2002(No.5)


アファナシエフとしては初のピアノ協奏曲録音は、モーツアルテウム管弦楽団と、東京交響楽団の首席客演指揮者もつとめるユーベル・スダーン氏との共演。2001年の同楽団定期公演のベートーベン協奏曲チクルスの一貫の中で録音されたものらしい。アファナシエフと聞けば、つい遅い極端な演奏を想像してしまう。ここに納められたベートーベンの協奏曲も例外ではなく、非常にゆったりとしたテンポで鳴らされている。ピアノに造詣の深い方の中には、どこが遅いとか、あの演奏と比べてどうだとか評することができることだろう。

聴いてみれば、確かに第3番 第2楽章など遅い! 私は今手元に比較できる盤がないので、感覚的なことしか書けないが、それでも中間部など眠ってしまうかのようなテンポである。第5番「皇帝」も例外ではない。

しかし全体を通して聴いてみるならばテンポの遅さを、それほど意外にも奇異にも感じなくなってくるから不思議だ。アファナシエフの演奏は、のべつくまなく遅いわけではなく、細かなパッセージの部分など軽やかに疾走する部分も聴かれる、むしろ緩急の綾が自在というべきなのだろうか。「皇帝」の第3楽章も、最初の出だしはつんのめりそうなテンポとして感じたが、慣れるにつれて曲が染み入るように体に馴染んでくるのだ。ヴィルトオーゾをひけらかして弾ききった演奏では、なかなかそうは感じない。

協奏曲第3番は、まだモーツアルト風の古典的な響きを残した曲に、ベートーベンらしさが萌芽しつつある曲だが、彼の演奏からは何かを予感させるような響きが説得力をもって迫ってくるように思える。第5番「皇帝」にしても、やたらと力瘤を固めたベートーベンとしてではなく、曲本来の優美さや構成力をしっかり伝えてくれているように思えるのであった。

この話題のアファナシエフであるが、今年の秋に来日してベートーベンなどを聴かせてくれることになっている。



2003年9月7日日曜日

ホロヴィッツ・カーネギーライブ


Horowitz Carnegie Hall Recital
  1. シューマン:花の曲集Op19、
  2. ピアノ・ソナタ:第3番Op14
  3. ラフマニノフ:前奏曲 Op32-5、
  4. 絵画的練習曲 Op39-5  
  5. リスト:忘れられたワルツ第1番、泉のほとりで
  6. ショパン:ワルツ Op34-2、スケルツォ第1番 Op20
  7. ドビュッシー:人形のセレナード、シューマン:トロメライ
  8. モシュコウスキ:花火、絵画的練習曲 Op39-9
  • Recording:カーネギーホール 1975

ホロヴィッツの1975年カーネギーホールのライブ録音をアンコールまで全て収録した2枚組のCDである。ホロヴィッツは超絶的名技巧と少しアクの強い演奏で、好みが分かれる演奏家だと思のだが、ここで聴くシューマンの2曲は限りなく美しく、シューマンがこんなにも素晴らしいものであったかと再認識させてくれた。

二枚目の小品集は、非常に多彩で次から次へと形の変わる万華鏡を見ているようだ。アンコールにはホロヴィッツお得意のモシュコウスキなども納められているが、ラストの音が鳴り響く前に聴衆の叫び声と拍手がかぶってきており、ライブの興奮が伝わってくるようだ。軽妙な曲も素晴らしいが、ラフマニノフの絵画的練習曲やショパンのようなパッショネートな曲での打鍵はやはり凄まじく、緩急や濃淡の表現と対比など、まさにピアノの技芸とホロヴィッツ節を堪能できた。



2003年9月4日木曜日

ケーゲル/ショスタコーヴィチ交響曲第7番















ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード

指揮:Herbert Kegel
演奏:Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig (MDR Sinfonieorchester)
録音:1972年 Kongreβhalle Leipzig Konzertmistschnitt

許光俊という評論家の影響か、ケーゲルという一般的には(そして独逸的にも世界的にも)あまり知名度の高くない指揮者が、日本の一部のファンの間では脚光を浴びている。

許氏曰く、
ついに、待望久しい超弩級の名演奏が日の目を見た。これほどまでに感情豊かに演奏された「レニングラード」は他にないだろう。(中略)こんなに身近で、人間的で、表情豊かで、楽しくて、悲しい、ロマンティックでセンチメンタルな音楽だったのだ
と。

そして、クラシックのイロハも分からないような私のような輩も、許氏とHMVに乗せられて盤を求めてしまっているというのが現実だろうか。私は定番さえ聴いたことがないというのに、ケーゲル盤について語ろうとしている。

さて、ゲルギエフ/ロッテルダム盤を聴いた後にケーゲル盤を聴くと、演奏の違いに若干驚かされる。ケーゲル盤は何と言っても、冒頭からして推進するエネルギーに満ち、それでいて軽やかで美しい。非常に素直な曲を聴いているようで、心洗われるような印象を受ける。この印象は、最後まで変わることがない。静かで強い推進力により曲はあっという間に進行するという印象だ。タコ7がちっとも長いと感じない。

全曲を通して表現の巾が広く、そして感情的だ。決してエモーショナル過ぎなエグイ演奏というわけではない。演奏解釈上は非常に正当なのではないだろうか。爆発する部分の表現も凄まじいが、弦や木管を中心とした旋律の部分の歌い方も、ときに哀しいほど明るく、そして、ずしりと重い。そこかしこに、ケーゲルの繊細さと誠実さが聴こえる音楽に仕上がっているように思える。

それは第一楽章のティンパニが鳴り始める「戦争の主題」に至る部分もそうだ。しかし、これが真の明るさなのか、表面的なものなのか。『酔っぱらいの千鳥足踊り』という許氏の表現は的確かもしれない。滑稽にして明るいだけに、カタストロフへ向うスピードと得体の知れない恐怖は、あたかも明るいお化け屋敷のようだ。許氏も指摘する13分以降のカタストロフには慄然とする。なんだろう、この凄さは。ゲルギエフ盤ではただ音量が大きいことで押しまくっていだけなのではなかろうかとさえ思える。ここにはただならぬものがある。何かが完全に崩れてしまった絶望と恐ろしいほどの悲しみがある。これは爆演という種類のものとは明かに異なった表現だ。演奏が凄いことも確かなのだが・・・。21分を過ぎるあたりからの弦による旋律も深く流れるようで心を打つ。そこかしこに、戦場に咲く花のような哀しい美しさや、瓦礫の中で聴こえる故郷のラジオのような懐かしさを覚える。なんとセンチメンタルな音楽であることか!

劇的な第一楽章と第四楽章にはさまれた、第ニ、三の両楽章も彫りの深い音楽になっている。特に第三楽章は、アダージョ楽章であるが、感情的にも複雑なものが込められているように感じる。特に私の好きなフルートソロの部分の静寂さと美しさは、どこか違う世界を夢見るかごときだ。感想が抽象的にして感傷的になるので、ここらあたりで留めるが、ケーゲルの音楽からは様々な風景や感情が沸き起こってくる。特に第三楽章のラスト2分の表現と懐の深さには目を見張る思いだ。よく聴くとケーゲルの唸り声が聞える。

第三楽章から最終楽章に向けては一気加勢だ。ゲルギエフ盤と比べるとこの楽章も4分も速い、スピード感を感じるのはそういうわけか。圧倒的なカタストロフと歓喜に向けての推進は、白馬に乗った騎士が髪をなびかせ駆け抜けるかのような颯爽ささえ感じる(<もう少しまともな表現ないのかね)。

クサイ比喩が出てしまうほどに、許氏も指摘するようにケーゲルの音楽は表情豊かだ。『ショスタコを一部のマニア向け作曲家』『やたらと暗い内向性の音楽』『石像かロボットかと思っていた音楽』というのも許氏がケーゲル盤以外に抱いている、ショスタコーヴィチの一般像であるらしいが、ケーゲル盤からは確かに違ったものを感じる。

当然、ここまで感極まった音楽のラストは素直に私は歓喜として捕らえる。そう、勝利の歓喜である。

2003年9月3日水曜日

ふたつのショスタコーヴィチ交響曲第7番

Gergiev
Rotterdam Philharmonic Orchestra

Kegel
Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig

HMV池袋店に行くと魅力的なタコ7が並んでいた。怪物的な爆演らしいスヴェトラーノフ盤や、最近出されたビシュコフ盤、そして、最近話題になったゲルギエフ盤、そして許光俊氏も絶賛するケーゲル盤などである。ここではゲルギエフとケーゲル盤を買って聴き比べてみた。

ショスタコはそれほど親しんでいる作曲家ではないのだが、両者とも凄い演奏であった。大音量で聴いていたら耳がガンガン、聴き終わってもティンパニの刻みが耳から離れず、まさに"耳にタコ"なのであった。

ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第7番


ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管&ロッテルダム・フィル 録音:2003年 Live Recording ロッテルダムのデ・ドゥーレン
ショスタコーヴィチの交響曲第7番について、どのような背景の音楽として考えるかは大きな問題かもしれない。戦争を扱った表題音楽としての見方や、スターリン、ヒットラーなどから完全に自由になって解釈することの是非もあるとは思う。しかし、音楽をいつも成立背景と結びつけて聴くことについての疑問がないわけでもない。ゲルギエフの満を持して録音した演奏が、どのようなスタンスに立つ音楽であったか。
この演奏は、ロッテルダム・フィルとキーロフの合同演奏という形で、彼の最近の公演のパターンを踏襲した演奏になっている。合同演奏から醸し出される音響は圧倒的であり、私の現在の拙い音響装置を通してもその迫力がビシビシと伝わってくる。
第一楽章の冒頭の弦ユニゾンからして力強い。明るく重層的な深い響きに、しっかりした打楽器が打ち鳴らされ音響的にも盛りあがりを見せる。最初からこれはただ事ではない演奏であると期待は高まる。
中間部から始まる「戦争の主題」、スネアドラムに導かれボレロ風に始まるところが第一の聴きどころのひとつだ。徐々に緊張が高まって行くが、長調であるために雰囲気はグロテスクに明るい。次第に音量が大きくなって、刻みも力強くなるが、レニングラード包囲をやはり表わしているのだろうか。近づく軍隊を象徴しているのだとすると、こんなに諧謔的な音楽もないものだ。最初はオモチャの兵隊と思えたものが、いつのまにか鋼鉄の大編隊に変わっている。トロンボーンが奏でる当たりになると、繰り返されるテーマは変わっていないのだが不気味さが増してくる。それにしても、この劇的な破壊性はどうだ、裏で奏でる旋律が歪みまくり悪魔的な響きを醸し出している。どこまで音量が増大するのか計り知れない。切迫感と緊張をはらみ圧倒的な迫力で押し寄せるさまは凄まじいの一語に尽きる。
大音量は第一と第四の両楽章で極端で、第四楽章の次第に高まるテンションと壮大なラストは、まさに歓喜へ向けての爆発とも言える音楽になっている。どこかマーラー的な歓喜の片鱗を感じないでもない。
大音量で奏でるだけではなく、例えば第二楽章の叙情的にして寂しげなメロディなどは、実に丁寧にかつ美しいし、第三楽章のフルートソロも哀愁に彩られた美しい旋律を聴かせてくれる。少し力を入れて吹き過ぎているようにも感じるが、逆にそこに喪われつつあるものへのパッションが感じられる。
まさにブラボー連発の演奏と言えるが、では私はこの演奏で心底感服したかというと、今ひとつの印象も拭えない。彼のまさに得意とする分野の音楽において、更に音量的には全く申し分のない演奏ではありながら、どこか鬼気迫る切実なものが感じられない。それが何なのかは分からないが、もしも作品にロシア人の持つ、悲しみや絶望や希望が込められているのだとしたら、それが少し大味になって表現されてしまったという気がしないでもない。彼特有の、獣じみた、あるいはロシアの黒く冷たい大地をイメージするような生々しさが、少し薄いように感じるということだ。ロッテルダム・フィルとの混声だからというわけではないのだろうが。
決して演奏の質は低くないと思う、ゲルギエフの力量とオケの緊張は最高レベルかもしれない。別な日に聴くとまた違った感想を持つことだろう。
石原 俊は「クラシック・ジャーナル 002」において、『私の聴くかぎり、ゲルギエフの演奏に標題音楽的なわざとらしさは微塵もない(中略)ゲルギエフは七番を、普遍的な「交響曲」として描きたかったのではなかろうか』と書いている。演奏を聴いた後に彼の解釈を読んだので、先入観があったわけではないし、逆にこの曲を聴いた後でも、彼の考えに同調できるほどに、私はこの曲に親しんではいない。よってこれ以上コメントすることもできない。