2013年7月15日月曜日

村上春樹の1Q84を読んでのメモ

これで完結している
純愛
欠落
空白
喪失
欠落
そういうものを埋めるもの
月の多義性
表と裏
失われた分身
性の意味
孤独
人が生きるということ
何を求めているのか
心の問題
精神
宗教的なもの
それを必要とする人としない人

喪失と再生の物語
失うということ

リトルピープルとは?
良きもの?
啓示を与える
ただ犯す、壊す存在ではない
自分探しの旅
淡いロマン
あるいは幻想

アドベンチャー
小説としての面白さ
謎は謎のまま

説明しないとわからないものは説明してもわからない
最初から説明的なものを拒否

小説の入れ子構造。

2013年7月6日土曜日

大野和士指揮 新日本フィル ブルックナー7番

2013年7月5日(金)19時15分
すみだトリフォニーホール
指揮 大野和士
新日本フィルハーモニー交響楽団



シャリーノ/「夜の肖像」(1982年)
ツィンマーマン/「ユビュ王の晩餐のための音楽」(1966年)
ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノーヴァク版、1954年)


ワーグナー生誕200年を記念したプログラムなのだが、ワーグナーは一曲も演奏しない。大野氏がこだわりぬいたプログラムとはいえ、ひねり過ぎの感がなきにしもあらず。

シャリーノはバイオリンのフラジオレットの上に、静かな音か薄膜のようにかぶさる10分程度の曲。無調?という点ではワーグナーにつながるか。

ツィンマーマンもメジャーな曲ではない。バイオリン、チェロなどの弦が入らず、逆にオルガンやギター、ピアノ、ハープ、エレキギターなどの楽器が加わる。いろいろな曲からの引用が展開されるが、期待させたほどには乗り切れない。最後の乱痴気騒ぎのような場面(幻想の暖断頭台への行進とワルキューレが奏されるところ)も浮ついた印象だけを残す。

オモチャ箱をひっくり返したような感じ、という点では、むしろマーラーにテイストが近いように思える。

休憩をはさんでの今回のメインとなるブルックナー7番。大野氏の指揮は、過大な感情は移入せず、速めの軽快なテンポで曲を進める。盛り上がるところもしっかり音量はあり、目立った大きな破綻もない。少し雑と聴こえるところや、ブルックナー的な音の重奏感が不足しているように思え部分がなきにしもあらず、聴く場所が2階席であったせいだろうか。

しかしながら、どこか不完全燃焼の残るプログラムと演奏であったことも確か。私が聴いたのはワーグナーの息吹だったのか、正真のブルックナーだったのかと自問。


それでも、この手の音楽は生で聴くのに限ると思う。現代音楽は、聴き方や集中力が異なるから、組み合わせは別の曲が望ましいと思った次第。情よりも理が勝ったプログラムであったか。

2013年7月2日火曜日

東京ー元田久治 アートフロントギャラリー 代官山

見慣れた風景が、地震や洪水、あるいはその他の外的な要因で崩壊し、人間が不在となった世界を描く。

というと、暗くネガティブな印象を受けるが、実際に作品に接した時には、むしろ暴力的な印象よりも、静謐感や哀しみとともに沸き起こる懐かしさを感じる。

それは、リトグラフという技法のもつ肌合いや温かさ、そして昏さゆえなのだろうか。作品は大きく、図録や写真から受ける印象程に画面は細緻でない点も、実物を見て初めて確認できた。

見慣れた風景の中に生じる違和感とか、歪み。そして引き伸ばされた時間。画面の中では空間も時間も歪められている。破壊やカタストロフに主題があるのではなく、その後の置き忘れられた時間がつくる、廃墟のみが有する穏やかな荒廃というゆるやかな時間の歩み。

廃墟に植物をからめることで、さらに人間の時間軸から離れた永遠と新たな生命感、再生を感じる。

それが、いかなる再生なのかは示されていないけれども。


2013年7月1日月曜日

本日でGoogle Readerのサービス終了

7月1日をもってGoogle Readerがサービスを終了する。


IT Techなど幾つかの記事にもあるように、情報収集ツールとしてRSSが役割を終えたということだろうか。

ニュースフィードを集めるという役割、それらはTwitterやFacebookなどの、ストリーム情報にとってかわられたことになっている。知り合いやフォローする人がすすめる情報の方が、生な信頼できる情報であるということなのか。

分からないでもないが、そうであっても自分的にはネットから得られる情報源は相変わらずRSSが中心であり続けている。私はもう少々RSSに付き合わなくてはならない。