C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 I-Poco adagio
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 II-Allegro
C.P.E.バッハ:フルートソナタ イ長調 III-Allegro
ドビュッシー:シランクス
フェルー:恋にとらわれた羊飼い~3つの小品より
ボザ:イマージュ
イサン・ユン:エチュード第5番
リーバーマン:ソリロキー(独白)
武満徹:エア
高木綾子(fl)
録音:2001年5月29~30日 福島市音楽堂 COCQ-83553(国内版)
高木綾子というフルーティストがいることは以前から知っていた。東京芸術大学在学中にCDを発売、カーペンターズやユーミンの聴きやすい曲を録音していること、ジャケットに見られるヴィジュアル系の容貌。レコード会社がいかにも「売り出し」たい人材なのだという先入観が先に立ってしまって、いままで彼女のフルートを聴かずにすごしてしまった。
今年2001年の神戸国際フルートコンクールで惜しくも本選への出場ができなかったものの、第70回日本音楽コンクールでは第1位を(ついにというべきなのだろう)獲得し、名実ともに実力が認められた感がある。知り合いのフルーティストが「素晴らしい」と絶賛するので、これを機会に聴いてみた。(ここまで条件が整わないと、新人とか新譜を聴かないというのは、自分の固定観念と閉塞感を象徴を象徴していると思うのだが・・・)
このCDは、フルート独奏曲だけを集めたものである。フルーティストの音楽性がモロに表出される、まぎれもごまかしもできない世界だ。
期待と不安が混ざった気持で最初のマレの「スペインのフォリア」を聴いたたのだが、出だしから打ちのめされてしまった。何と言う音だろうか。ヴィジュアルな外見とは裏腹の、物凄い芯の太い力量感のある音だ。偏見かもしれないが、これが女性の出す音なのだろうか。この曲が終わるまで、私は自分が息をしていることさえ忘れてしまった。
何がここまで惹きつけるのだろう、バッハのソナタにしても武満にしても、ほかの演奏を聴いたことがないわけではない。しかし彼女の演奏は何度も聴いてしまう、何か今までにない新鮮さに満ちている。
例えば、イサン・ユンのエチュード第5番、この曲ははじめて聴く曲であったし、この手の曲が得意でない人には楽しい曲ではないかも知れない。しかし、ここに表現された自在さはどうだ。アジア的な曲調をフルートという一本の笛で、限界に近いまでの表現力で描ききる。テクニックの完璧さにも目を見張るが、裏打ちされたテクの上に、まるで両翼を広げて羽ばたいているかのような印象を受けるではないか。その軽やかさと、そして鋭さよ。
音は「きれいな」という言葉を超えている。単にきれいというより、独特の摩擦感があるのだ。フルートというとヒャラヒャラと美しく奏でるという印象をもたれる方も多いかもしれないが、彼女の笛の抵抗感と重さを受け止めると考えを改めるかも知れない。
彼女の吹く独奏曲を聴いていて、私はふと現代美術のさきがけとなった、ブランクーシの「空間概念」という作品が頭に浮かんだ。あの作品も、空間のある一点において極度に緊張を凝縮させた見事な作品であるが、彼女の造形する音には、それに似たゴツゴツしつつもステンレススチールの鈍く光るがごとき緊張感に満ちている。(こういう比喩はよくないと思いつつも使ってしまうなあ・・・ああ、貧困)
またはドビュッシーの「シリンクス」。フルートを愛好するものならば聴きなれた曲を(ほとんどミミタコ状態の曲をだ)、これほど面白く聴けた事は近年なかったのではないかとさえ思った。ふくよかに立ち上る香気に夢幻の世界を浮遊するかのごとき。それは続くフェルーの「恋にとらわれた羊飼い」においても同じことが言える、気品と裏腹の恐ろしさに満ちた演奏だ。
彼女が内外を問わず、数多くのフルーティストの中でどのような評価を受けてるのかは分からない。ほとんど予備知識なくこのレヴュウを書いている。従来の演奏とどこが違うかを述べることは今は出来ない。誰それよりも上手いとか言うことも、意味がないかもしれない。ただ、何かわからないが心を捉えて放さない魅力に満ちた演奏家であることは確かなようで、とにかく、そう感じてしまったということなのだ。
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