- オネゲル:牝山羊の歌 受講者:清水 あゆみ
- ゴーベール:ロマンス 受講者:谷内 由布子
- ボザ:イマージュ 受講者:三浦 茜
- ドップラー:ヴァラキアの歌 受講者:林 加奈子
札幌フルート協会主催、ヤマハ北海道支店協力による工藤重典さんの公開レッスンが開催された。レッスン曲は、私の技術レベルを遥かに越えているものであるが、生工藤に接することができるので聴講してきた。
聴講するには本来楽譜を持って、しかもあらかじめその曲に接していないと、ほとんど意味のないものだ。それでも、曲解釈における考え方や、短いレッスンの中で受講者がどのようにアドバイスを受け止め、音楽的に表現するのかということ見聴きするだけでも、少しばかりは得るところはあると思う。今回も、受講者が工藤さんの模範演奏などを耳にしながら、少しあるいは劇的にその表現を変えてゆく様を見ることができ、興味深いものであった。
それにしても、工藤さんの表現力の幅の広さとドラマチックなことときたらどうだろう、一瞬のフレーズ、いやたった一音の中にまで物語が出来上がるのだ。どんな音も「死んだ」音となっては音楽にならないということを教えてくれるものであった。
はっきり言って、個別の曲に関することは、難しすぎてよく分かりませんでしたっ! 公開レッスンの後は工藤さんのミニコンサートが開催された。こちらも素晴らしいものであった。
��閑話休題)
ボザのイマージュを受講者が演奏した後に、工藤さんが興味深いことを述べていたので思い出して書いてみたい。ただし、言葉使いは工藤さんのものではないし、ニュアンスなどにも間違いがあるかもしれない。録音やメモを元に書いているのではないので、間違いなどがあればご指摘願えると幸いである。
「ボザのこの曲もそうだが、武満徹の楽譜も非常に事細かに演奏上の指示が書かれている。それこそ一音ごとに記号がついている場合もあり、考えようによっては誰が演奏しても同じ音楽になってしまうのではないか、と思うフシさえある。」
「武満さんの作曲した曲を、彼の前で演奏したことがある。自分(工藤)としては、作曲家の意図とおりに吹くのは難しかったのだが、武満さんは演奏を聴いて『フランスの香りがして非常に良いですね』と言ってくれた。」
「武満さんは、私にだけではなく、他の人にも同じように言っていたのかもしれない。でも例えばガロアが武満の前で同じ曲を演奏したなら『ドイツ的で非常に良いですね』と言ったかもしれない。」
「そう云いう風に、演奏家の演奏スタイルが、作曲家のイマジネーションに還元されるということはある。」
「演奏にはある程度演奏家の自由な奏法というものが許される。今の受講生の演奏のように、作曲家の意図したことを忠実に演奏できたのなら、それから先に、演奏者がその曲を自分のものとして消化し、新たな表現として何を加えるということが重要になってくる。非常に難しく高度な問題だが、演奏家として考えなくてはならないことで、そこにこそ演奏する意義がある。」
だいたい、以上のような内容だったと思う。工藤さんは、全く作曲家の意図しないことを自由きままに演奏すれば良いと言っているのではない。演奏家に残された数パーセントの表現ということについての言及なのだが、当たり前のようで非常に難しいことを彼は提示したように思える。
まあ、いずれにしても私には到底及びも想像もつかない境地なのだが・・・