2003年1月30日木曜日

《指環》を概観する

《ニーベルングの指環》は上映するだけで15時間もかかるという大作である。物語の概観をつかむのは非常に困難を極める作業だ。ネットを検索すると多くのサイトが見つかるが、そのなかにBunⅢの音楽よもやま話というサイトがある。ここはワーグナー作品ばかりではなく、オペラ作品の多くがMIDIなどを提供しながら分かりやすく解説されており初めに読むのに良いと思う。ワーグナーの《指環》につても複雑な人間関係を含め丁寧に解説してくれている。かくいう私も、ここから《指環》に取り組み始めた。

《指環》は長さとともに、複雑な人間関係に辟易して作品を敬遠してしまう向きもないではない(私もそうだった)。しかし、しばらく眺めたり聴いたりしていると、まずは重要な人物だけ押えれば良いと気づく。基本は以下の人物ではなかろうか。

- ヴォータン:欲深い神
- フリッカ:その嫉妬深き妻
- ローゲ:火の神、ブリュンヒルデを封印したりする
- エルダ:ヴォータンの不倫(?)相手の女神
- ブリュンヒルデ:ヴォータンとエルダの娘、後にジークフリートとの悲しい愛が芽生える
- ジークムント、ジークリンデ:ヴォータンが人間の女性に産ませた(!)双子の兄妹
- ジークフリート:ジークムントとジークリンデの近親相姦の愛から生まれた(!!)子供
書いているだけでムチャクチャ・・・という気がしてくる。ちなみにブリュンヒルデはワルキューレの一員、ワルキューレとは空を駆ける戦場からの死体搬送業者のことである。その他に押えておくべき人物は(異論もあろうが)以下であろうか。

- アルベリヒとミーメ:小人族、醜さ故に愛を捨てラインの黄金を盗んだ
- ファルゾートとファフナー:巨人族、強欲でアタマの悪そうな建設請負業社(?)
- グートルーネ:ジークフリートと結婚させられる女性、ブリュンヒルデの引立て役(「ニーベルンゲンの歌」のクリームヒルト)

まだまだ居るのだが、重要なのは何と言ってもジークフリートとブリュンヒルデだ。この二人の物語を作るために延々としたドラマが繰り広げられていると言っても過言ではないのだから。ただ第1日目の《ワルキューレ》においてさえジークフリートはまだジークリンデの胎内に宿るのみなのだ。

この数人が、15時間の中で入り乱れ、愛し合い、生まれ、そして企み合い、憎み合い、殺し合う。それ故に《指環》のテーマは非常に多岐に渡っている。権力と富、策略、禁じられた愛と愛憎、女性の自己犠牲による贖罪など、いかにもワーグナー的なテーマと言えようか。

特に女性(今回はブリュンヒルデ)による罪の浄化というのはワーグナーお好みのテーマなのだろか。《タンホイザー》でのエリーザベトも同じような役廻りを演じている。あるいは愛のために愛の力で自ら死すイゾルデの姿ともだぶるものがあると感じる。ワーグナーの理想の女性像の反映だろうか。

対するジークフリートは英雄という設定なのだろうが、ワーグナーの描く男性(英雄)は、女性と比べるとどことなく子供じみていると感じられてしまう。トリスタンしかり、タンホイザーしかりである。《指輪》のヴォータンもとても神とは思えないところが笑える。(このヴォータン、巨人族に自分たちの城=ヴァルハラ城 を造ってもらっておきながら、踏み倒そうとしていたフシがある>そんな神なんて聞いたことねー。)

ワーグナーは神話的世界を舞台に《指環》を始めたが、それはキリスト教倫理観に基づいた神話世界ではないことは、上のような事柄から分かると思う。神々とは言っても至極人間的な愛憎や欲求の強い神々であるのだ。

で、ストーリーはと言えば、『ラインの黄金が小人族のアルベリヒに盗まれてから再び(幾多の物語を作りながら)ラインの川底に戻るまでのお話し(まさにリング!)』とも言えるし、『ワーグナーがわざわざ蘇らせた神々を再び没落させた物語』でもある。あるいは『ジークフリートの誕生と愛と死の物語』(これぢゃあ《トリスタン》だ)でもある。

え? こんな解説では全然分からない? と言う人は、素直に書店とCD店に行きましょう。


2003年1月28日火曜日

【風見鶏】最近のニュースから

正確な日付とタイトル失念

筑紫哲也のニュース21で「日本を考える」というような特集をやっていた。そのなかで番組のキャスターたちが「情報の非対称性」てなことを述べていた。愕然とした。「情報の非対称性」とは確か経済用語である。このアナロジーをマスコミ自らが恥かしげもなく使うとは! 開いた口がふさがらなかった。こういうボンクラ達が展開する議論は、したがって、どこか的外れなものであった。筑紫さんにしてかと思った次第。

ニュースステーションでアメリカの学校が、実社会での金融システムなどを模した演習を始めているという紹介番組。高学年になると株取引や税に関する知識も学ぶのだそうだ。久米宏が「日本は大人になっても税金のこと何も知りませんよね、誰も教えてくれない」と嘆く。対し、経済アナリストの森本卓郎氏は「それでいいんですよ、官は民を愚に保つ政策を展開しているんですから(愚民化政策)。下手に賢くなってたてつかれても困るんです。」 ばかな人ほど損をするってわけ? 自分で賢くならなくてはだめだと?

たけしのTVタックルで食品問題についての討論(?)の中で「結局、金持ちが安全な食物を食べられて、貧乏人は農薬やクスリ付けの食物を食えということなのだな」 教育ばかりではなく食についても二極化すると。まあ、そんなこと当たり前か・・・?

さて何が透けて見えますか? こういう仕組みを作っているのは誰でしょう。誰が得をして誰が損をするんでしょう。自ら吐いた唾が自分に戻ってこなければ良いのですが。



HIYORIみどり 「最近農業やってる人と話したのよね。野菜って(失敗もしたけど)農薬使わなくても、それなりに育つんだって。農薬は高くて使えないって」

KAZAみどり 「農協が一番キライなことは”こだわり”なんですってね。均一に一律によ」

《指環》の成立年代について

ワーグナーの壮大なる四部作《ニーベルングの指環》の成立年代について知っておいて損はない。調べてみると以下のようになった。年表によると1948年、35歳のときに「ジークフリートの死」として着想したテーマが、最終的に結実し全曲が演奏されるまで実に26年以上の歳月を要していることが分かる。

ワーグナーにとってエポックメイキング的な《トリスタンとイゾルデ》が完成したのが1859年のこと。《指環》の作曲は《トリスタン》の前後に渡っているが、《トリスタン》以前に作曲されたものが《ラインの黄金》と《ワルキューレ》、以降に作曲されたものが《ジークフリート》と《神々の黄昏》ということになっている。

それにしても、ワーグナーが書きたかったのは事象としての「ジークフリートの死」(《神々の黄昏》とそれにまつわるドラマであったらしい。それを物語として肉付けするに当たり、ジークフリートの人間としての成長を描いた《ジークフリート》が成立し、更にジークフリートの誕生に至る物語《ワルキューレ》を生み(ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の物語)、そして更にはジークムントとジークリンデを生み出すことになった前史としての《ラインの黄金》(ラインに眠る黄金の物語)が着想らしい。作曲は年代を追っているが、着想は劇順と逆になされたわけである。何ともはやワーグナーの誇大妄想的なイマジネーションの膨らみには恐れ入るばかりである。














































































































































年代ニーベルングの指環その他の作品と主な出来事
1842(29歳)《さまよえるオランダ人》完成
1843(30歳)《さまよえるオランダ人》ドレスデンで初演
1845(32歳)《タンホイザー》総譜完成、ドレスデンで初演
1848(35歳)《ジークフリートの死》(《神々の黄昏》の原型)の劇詩完成《ローエングリン》完成
フランスで2月革命
1849(36歳)ドレスデン蜂起に参加、「未来の芸術作品」脱稿
1850(37歳)《ローエングリン》ワイマールで初演
1851(40歳)《若きジークフリート》(《ジークフリート》の原型)の劇詩成立

《ラインの黄金》《ヴァルキューレ》の劇詩のための最初の散文スケッチ完成
論稿「歌劇と戯曲」を完成
1852(39歳)《ヴァルキューレ》の第2の散文稿および劇詩完成

《ラインの黄金》の劇詩完成
1853(40歳)《ラインの黄金》の管弦楽前奏曲を構想
1854(41歳)《ラインの黄金》総譜完成

《ヴァルキューレ》の作曲開始
1856(43歳)《ワルキューレ》総譜完成
《ジークフリート》作曲開始
1857(44歳)第2幕の終わりで《ジークフリート》作曲中断《トリスタンとイゾルデ》の筋をスケッチ、劇詩執筆、作曲開始
1859(46歳)《トリスタンとイゾルデ》総譜完成
1860(47歳)《タンホイザー》パリ版完成
1861(48歳)パリ オペラ座で《タンホイザー》上演
《マイスタージンガー》の第2散文稿完成
1862(49歳)《マイスタージンガー》の劇詩執筆、作曲開始
1865(52歳)《トリスタンとイゾルデ》ミュヘンで初演
《パルジファル》台本の最初の散文稿完成
1867(54歳)《マイスタージンガー》総譜完成
1868(55歳)《マイスタージンガー》ミュンヘンで初演
1869(56歳)《ジークフリート》の作曲再開
《ラインの黄金》ミュヘンで単独初演

《ジークフリート》総譜完成
《神々の黄昏》作曲開始
1870(57歳)《ワルキューレ》ミュヘンで単独初演
1871(58歳)《ジークフリート》完成
1873(60歳)バイロイト祝祭歌劇場完成
1874(61歳)《神々の黄昏》総譜完成
1876(63歳)《指環》全曲がリヒターの指揮でバイロイトにて初演
1882(69歳)《パルジファル》総譜完成、バイロイトにて初演
1883(70歳)ヴェニスのヴェンドラミン館にて死去


2003年1月20日月曜日

《指環》抜粋を聴く

ワーグナー楽劇の集大成といえば「ニーベルングの指輪」四部作につきるのだろう。「指輪」を聴かずしてワーグナーは語れないとワグネリアンなら言うだろうか。 



ショルティの偉大なる業績は昨年来から入手済みであったのだが、何しろ解説が英語とドイツ語とフランス語である。物語の概要も全く知らないのに8ポイントくらいの小さな文字の解説など読む気にならない。気軽に聴こうと思ってもボックスが4セットである。正常な神経の持ち主ならうんざりするのが当然だろう。封も切らずに棚に置かれたままになっていた。


オペラの抜粋ものというのは、どうしても触指が伸びないのだが、ものの試にと Teldec Classics から発売されてる「New1枚でオペラ」シリーズから「ラインの黄金」と「ワルキューレ」をゲットしてみた。どちらも指揮はダニエル・バレンボイム、演奏はバイロイト祝祭歌劇場管弦楽団、前者は1991年の後者は1992年のバイロイトからのライブ録音である。 
さて、今でも「指輪」のストーリーはほとんど分かっていないのだが、ジークムント、ジークリンデ、ジークフリートなどの名前くらいは聞いたことがある。配役の名前を読んでいるだけで、なんだかワクワクしてくる。松本零士のマンガも思い出す。

本来なら「ラインの黄金」から聴くべきなのだが、そこはそれ「ワルキューレ」第3幕、かの「地獄の黙示録」で有名な「ワルキューレの騎行」だけ、まず聴いてみた。「地獄の黙示録」のワルキューレは、どうやらショルティの演奏であるらしい。しかし映画では音をかなりいじって重ねたりしているので、本来の演奏からはかけ離れたものになっているとのこと。
さてさて、バレンボイム版とショルティ版を聴き比べてみたが、どちらの演奏もワルキューレたちの「Hojotoho! Hojotoho! Heiaha! Heiaha! 」という奇声に乗って奏でられる曲は壮絶である。まったく延髄蹴りをくらったかのような眩暈を感じてしまう。
続いて「ラインの黄金」の抜粋を聴いてみた。「ラインの黄金」なんてなじみがないだろうなあと思っていたら、あにはからんや、第4場のラスト「雷鳴の動機」に始まり「ヴァルハル城の動機」へと移る<ヴァルハル城への神々の入場>は聴いたことがあるではないか、それもすっごくユーメーなフレーズ! ウゲゲと再びワーグナー的な壮大な感動に包まれてしまう。
ジークムントとジークリンデの近親相姦による禁じられた愛の行方は、そして権力と富の象徴の指輪の行方はどうなるのか。うーん、壮大なドラマが込められているのだなあと思うと同時に、マジメにこんなものに取り組んでいたらいくいら時間があっても足りやしない。もう一度ラインの川底にでもCDを沈めてしまうかあ、と思うのであった。ということで、『「指輪」を聴く』という企画はスタートしないのであった。「ホー・ホ・ホ・ホ・ホ・ホ・・・」
とは言いながらも、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社)をしっかりネットショッピングで注文してしまったよ。

2003年1月18日土曜日

田部京子のメンデルスゾーンとシフのバッハ

以前紹介したDENONのCREST1000シリーズの中からピアノ曲集を二つほどゲットした。とにかく1000円なのだから買って損はないと思う。(現在はシリーズ第二段が発売中)
田部京子/メンデルスゾーン「無言歌集」 (COCO-10450)

こういう曲を聴いていると音楽を聴く至福を感じることができると同時に、とやかくレビュを書くことの空しささえ感じてしまう。

「メンデルスゾーンのもつドイツロマンの抒情性」「静謐さ」「珠玉の名品」「ナイーブな音楽世界」「癒し系」 なるほどとは思うが、どれもが陳腐な言葉だ。

ぐたぐた言わずに静かに耳を傾けるがよい。ただゆったりと受け入れるのみ。そうすると、がさがさになった精神が、やさしく瑞々しいもので満たされてゆくのを感じることができる。非常に得をしたと感じるお薦めの1枚である。





アンドラーシュ・シフ/バッハ「インヴェンションとシンフォニアBWV772a-801」(COCO-70448)

私はシフの弾くバッハが好きだ。飾ったりひけらかすことのない、どちらかというと生真面目にも聴こえる音楽かもしれない。だからだろうか、深いところに静かにか語りかけてくれる。

バッハのインヴェンションはピアノを少しでもかじったことのある人ならば弾いたことがあるだろう。あるいは自分が弾かなくても隣に住む中学生や高校生が弾いているのを聴いたこともあるかもしれない。そんな曲だが、インヴェンションはまさにバッハを聴く喜びを感じさせてくれる曲だ。

彼はよく「グールド以来のバッハ弾き」と評される。私にはバッハを評することも、グールドとシフを比較することも適わないのだが、シフの演奏を聴くとグールドの演奏はやはり刺激的過ぎると感じてしまうのも事実である。

2003年1月17日金曜日

ゲルギエフのインタビュー

amazon.co.jpのサイトを見ていたらゲルギエフのインタビュー記事を見つけた。(2002年11月22日、ロシア大使館で行われた記者会見)

彼が作曲家としてプロコフィエフが好きなことは知っていたが、彼の好きな指揮者がフルトヴェングラーであるとは今まで気づかなかった。二人はレパートリーも芸風も違うのだから少し意外な思いにとらわれた。

ゲルギエフは今年6月の来日公演ではプロコフィエフの「戦争と平和」、チャイコフスキーの「エフゲーネ・オネーギン」、そしてムソルグスキーの「ポリス・コドゥノフ」という歌劇を演じる。ゲルギエフはオケ指揮者というよりはオペラ指揮者として西欧で受け入られてきた経緯があるだけに、興味深い演目ではあるのだが、どれもこれも少しマイナーなプログラムだなあと感じてしまう。

もっともゲルギエフは「クラシックのレコード業界の何が問題かというと、この30年か40年の間に、録る必要のなかったものまでたくさん録ってしまったことでしょう。」とインタビューで述べている。確かにそうかもしれないなあと思うのであった。

そんなゲルギエフも2003年6月下旬からワーグナーの「指輪」4部作に取り組むことになっている。これも楽しみであると思う。というか、その前にはじめて聴くワーグナーシリーズでワーグナーを制覇しておかなくては・・・・

ついでだが、2月にはゲルギエフの新録音も発売される。プロコフィエフのカンタータ《アレクサンドル・ネフスキー》とショスタコーヴィチ:交響曲第7番《レニングラード》だ。タコ7は昨年の来日公演でもキーロフとN響の合同演奏で凄まじい演奏を展開したらしい。今回はキーロフとロッテルダム・フィルによる合同演奏。これも楽しみである。

2003年1月14日火曜日

小泉首相の靖国神社参拝

あれれ、というカンジだ。小泉首相の靖国神社の参拝である。大手新聞5詩の翌日の社説は、そろって靖国問題を取り上げている。

各誌は読む前からご想像の通り、朝日、毎日、日経は反対、産経は賛同という論調である。

朝日は「よりによってこの時期の参拝とは、耳を疑う」、毎日は「極めて思慮に欠ける行動」、日経は「A級戦犯を合祀(ごうし)している靖国神社に国を代表する立場の首相が参拝するのは基本的に好ましくない」と主張している。一方、産経は「この時期を選んだことについて分かりにくい面もあるが、首相として国民を代表し、戦死者の霊に重ねて哀悼の意を表しようという姿勢は評価」としているわけだ。読売は賛成も反対もしていない。「靖国問題をどう考えているのか。首相はもっと明確に語る必要がある。」と言うのみだ。

それにしても靖国である。靖国の実態については私はあまりにも無知だ。その思いをこめて昨年7月18日の意見箱に書いた。私は新聞各誌の「主張」を読み比べ、なにか核心をつかない、あるいは靴の底からかゆいところを掻いているようなもどかしさを感じる。靖国問題は歴史認識(戦争の意義と東京裁判)と憲法議論にまで直結している。直結する管の途中にいろいろな障害やら破れがあって、出るべきところから水が流れてこない。

徹底的に議論しようとせず、マスコミ事態もあきらめの気持と共に、おざなりな(各社横並びの、ほとんど主張を感じない)社説を読んでいると、彼らはこの問題に正面から向き合う気がないのだと感じさせられる。

首相と遺族会との公約ということもあるのだろうが、首相の行動は国の意思の反映であるべきはずだ。特定の団体や感情論で行動することは許されない。

靖国参拝についてのアジア諸国の反感は、決して「内政干渉」ではないと思う。日本政府の歴史認識を問いただしているのだ。占領米国主導の日本の歴史が誤りだとする論調も分からないでもない。しかし、どこかで日本政府としての統一的な見解が必要で、それを諸外国に示す必要があるのではないか。

ドイツのヒットラーを清算しているドイツ、未だにスターリンを総括できないロシア。日本にどのような路が赦されているのか。小泉首相も、隠居爺かボケ老人のようなのんきなことを言っている場合ではない。>「お正月ですし、新たな気持ちで平和のありがたさをかみしめて」

私は、原則として靖国神社参拝には反対です。靖国に参拝することが平和希求の気持であるとは受け取りま せん。現行憲法は素晴らしい憲法であり、決して米国の押し付けではない世界に誇れる憲法であると、私は信じている(そう信じるように教育されてきた)

絶対的平和主義、あらゆる武力放棄も理念としては素晴らしい。素晴らしいだけに困難さと不断の努力と勇気を伴う、非常につらい選択だ。武力装備は結果として楽な選択でしかも極めて不幸な選択だ。それにも相応の覚悟が必要だ。他人事ではないのだ。

日本には(もちろん私にも)そのどちらの覚悟もない。

靖国には行った事がないのだが、東京に行ったら今度訪れてみようと考えている。

2003年1月7日火曜日

アムランによるゴドフスキーのアルバムを聴いて


アムランのピアニズムには接するたびにたまげてしまう。今聴いているのはゴドフスキー (LEOPOLD GODOWSKY 1870-1938) のグラン・ドソナタとパッサカリアだ。(HYPERION CDA67300)

私はピアノについての知識がほとんどないので、ゴドフスキー作曲のソナタと、パッサカリア(シューベルトの未完成交響曲のテーマを用いた44の変奏曲)がどのくらい難しいのかを真に理解することは出来ない。しかしネットでゴドフスキーあるいはアムランを調べるたびに、いかに恐るべき曲であることを知るのだ。



もっとも人は音楽を聴いてそれが難曲であり技巧的に難しいから感動するのではない。曲芸のような演奏からは、人をたまげさせることは出来ても感銘を与えることはできない。果たせるかな、アムランは単なる曲芸師でもキワモノなどでも決してない。


アムランはどちらかというと、かなりマイナーな作曲家をマイナーなレーベル(英hyperion)と録音しているが、彼の弾く馴染みのない曲からは、名状しがたい新鮮な感動をいつも感じることができる。

曲が素晴らしいのか、あるいはアムランの技量が卓越しているのか私には判断できない。彼が好んで弾く曲集が、アムランの技量をして初めて真価の発揮できるたぐいの曲であるのかもしれない。

こんなことを書くと、ろくにショパンも知らず、ホロヴィッツもリヒテルもコルトーも満足に聴いたことがない人間が何を戯言を言うかと思う人も多いと思う。私も大きな声では言えないが、そういう考えを否定しきることができない。このような感覚がクラシック音楽を狭い範囲に限定するものだとアタマでは理解していても、ジッサイのところアムランてどうなんだ?と思ってしまう。どなたか聴かれた方いらっしゃいますか?

2003年1月5日日曜日

ヒラリー・ハーン/メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64

 
演奏:Oslo Philharmonic Orcestra 指揮:Hugh Wolff 録音:April 17 & 19-20, 2002 

さても今更ながらにメンコン(メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲)かと思う。

この超通俗名曲、幾多の演奏を耳にしただろうと思い浮かべ、ふと我がCD棚を探してみると驚くべきことに、メンコンは1枚も所有していないことに気付いた。いったいどこで耳タコ状態となるほどに聴いたと言うのか、誰の演奏に親しんだというのか。そういう記憶一切が、メンコン=通俗名曲という固定概念によって形成されたものなのかしらと訝ってしまう。 

そこでヒラリーのメンコンである。先にも書いたように誰のメンコンの演奏が記憶に刷り込まれているのかは定かではないが、ここで演奏されているのは、いままでのようなメンコンではないことに気付かされる。
もともとヴァイオリンのヴィルトオーゾ性を際立たせるような曲であるが、ヒラリーの技は冴えに冴えわたっている。彼女がメンデルスゾーンのコンチェルトを学んだのが11歳のとき、そして翌年にはそれを演奏しているという。24歳の彼女にしてすでに12年の付き合いの曲であるわけだ。 

彼女の演奏は、ショスタコーヴィチでもそうだったように情に傾かない。洒落ではないが、まさにヒラリヒラリと華麗に、しかも物凄いスピードで駆け抜けている。これだけのスピードでありながら(比較はできないが)演奏からは余裕のような雰囲気が漂ってくるところがタダモノではない。 

スピードとともに音色の艶やかさにも感歎する。ショスタコのときのような、若干鋭利な音作りとは印象を変えているのだろうか、ここでは女性的にしてでふくよかで温かみのある音に仕上げているように聴こえる。それでいて、ともするといやらしさを伴うような音ではなく、あくまでもヒラリーらしい怜悧さを残している。 

こういうメンコンを好まない人もいるかもしれない。しかし私には、むしろ抒情を敢えて殺ぎ落としたかのような華麗にしてスポーティーな(しかし体育会系では決してない)メンコンも好ましいと思える。

もっともメンコンを何度もレビュのために聴き直したり聴き比べたいとも思わない。雑な感想だがこれまでにしておこう。

2003年1月3日金曜日

櫻井よしこ:日本の危機


櫻井よしこさんは尊敬すべきジャーナリストであると私は信じている。昨年だと、彼女がかねてから反対している個人情報保護法案について、総務大臣とTV討論などを通してやりあっている姿が印象に残っている(確かサンデープロジェクトだったか)。彼女の静かでな語り口で事実を重ね相手を正す姿勢に対し、片山総務大臣は「(システムは)やれば便利なのが分かる、あんたもネットやITのプロでないくせに、ぐちゃぐちゃいうんでない」というような議論にもなっていないような回答しか出来ていなかったように覚えている。

この本を読むと、彼女が本当に怒っていること、そして「日本の危機」に対して大きな憂いを持っていることがひしひしと伝わってくる。頁を繰りながら、彼女の告発する事態のあまりの酷さに、それが事実であるならばと、わなわなと震えてしまうことを押さえることができない。

ひとえに言ってしまえば、日本の官僚中心の社会がかくも堕落し、全ての状況に閉塞感をもたらしている元凶なのかと、深い絶望に陥ってしまうのだ。官僚批判は何も櫻井さんの専売特許ではない。かつては、カレル・ヴァン・ウォルフレンも名著「日本/構造権力の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで、官僚の弊害を端的に指摘していた。あれからいったい何年が経ったろうか。今でも書店に行けば官僚批判本は山と詰まれている。

彼女の本は、本の紹介でも引用したように確実な取材に基づいてなされている。理念だけを語っているわけではないため説得力は強い。取材対象にアンフェアな状況や不正や疑惑が見つかろうものならば、彼女は容赦なく批判している。その批判があまりにも的確なためか、あるいは鋭すぎるためか、「週刊新潮」に連載中に何度も関係者から内容証明郵便で記事内容に対する疑義や訂正を求められている。その経緯も彼女は丁寧に説明している。彼女の説明が真実であるとするならば、何と日本の政治家は姑息でしかないことか。

批判の対象は99年後半から2000年にかけての出来事だが、そのときと日本の状況は全くといっていいほど変わってないこと、いやむしろ(やはりというべきか)悪くなってさえいることに気付かされる。不良債権問題についても、北朝鮮問題にしても、教育問題にしてもしかりだ。2冊まとめて読むと、過去を振り返り現在を再認識できるとともに、やり場のない怒りと徒労感に蝕まれる。このままではやはり日本は国力を衰退させるしか道がないのかと。

しかし彼女は絶望はしていない。あとがきにもあるようにこの本は「解決への助走」と副題がつけられている。変革させてゆきたいというエネルギーが必要なのだと説く、前に踏み出す勇気が必要なのだと説く。先に述べたカレル・ヴァン・ウォルフレンも「行動的市民」になることを強く主張していた。しかし残念ながら、どちらのアジテーションも今のところは効を奏しているとは思えない。

この本の前に紹介した辺見庸さんにしても、精神的なカウンターバランスとして個人に機能するだけで、一種のガス抜きにしかなっていないという現実もあるかもしれない。しかし、しかしなのだ。もっと私たちは、自分達の身の回りのことに目を向け、アンフェアな状況、どう考えてもおかしいという状況に気付き、怒ることから始めたっていいのではなかろうか。貴方と私の意見がそこで食い違っても構わない。そのときはそこで避けることなく建設的な議論を戦わすべきなのではなかろうか。

櫻井さんの個々の考え方に対する賛同、反対を抜きにして、今一度、今の日本を考える上でのきっかけとなるべき本であると思う。

ヒラリー・ハーン/ショタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 作品77



演奏:Oslo Philharmonic Orcestra
指揮:Marke Janowski
録音:February 20 & 22-23, 2002

ヒラリー・ハーンの新譜が発売された。メンデルスゾーンのコンチェルトとの同時カップリングがショスタコーヴィチのコンチェルト1番である。こういう組み合わせは、ベートーベンとバーンスタイン、あるいはブラームスとストラヴィンスキーといった具合にハーン(またはSONY)のいつものやり口だ。

メンデルスゾーンのコンチェルトはさておくにしても、まずはショスタコ-ヴィチである。この演奏は、ハーンの熱烈なファンであるジュネスさんによるベルリンフィルとの来日公演の丁寧なレビュを思い出す、彼女の得意な曲なのかもしれない。彼女がはじめてこの曲を演奏したのは17歳のときであるとのこと。

ヒラリーを評するとき、人は彼女の完璧なまでなテクニックと、その上に構築される音楽性を賞賛し、これが今年で24歳の若者の音楽であるかと感歎してやまない。MOSTLY CLASSICの音盤紹介でも黒田恭一氏が手放しで褒め称えている。

ショスタコのヴァイオリン協奏曲1番というのは、内容からして何ともひねりが加えられた皮肉な音楽だ。作曲されたのは1947~48年、当初オイストラフに捧げられたものであったが、当局の監視や弾圧が高まる中、初演はスターリンの死後まで待たなくてはならなかったというものだ。

第一楽章のノクターンは時代を象徴するような暗さから始まり、一方でスケルッツオやブルレスカにはショスタコーヴィチお得意のメロディの中に、諧謔性やアイロニーそしてい歪みなどを込めている音楽だ。非常に複雑な感情が吐露されており、まさにショスタコーヴィチの内面を表した音楽と言える。

おそるべき曲ではあるが、私はヴェンゲーロフとロストロポーヴィチ、ロンドン響による1枚しか所有していない(左)。この盤は、1994年の英グラモフォン誌においてレコード・オブ・ザ・イヤーを受賞した名盤である。当時ヴェンゲーロフは何と若干20歳である。

このCDを聴いて私は、その高まる感情に度肝を抜かれた覚えがある。こんなに凄まじき音楽を、いくらロストロポーヴィチが指揮しているとはいえ若干20歳そこそこの若者が演奏可能なのだろうかとたまげた。今回改めてこの盤を聴いてみたが相変わらずヴェンゲーロフの弦は、うなりをあげて聴くものに迫ってくる。音楽が躍動しいびつな感情に揺れ動く。

さて、そこでヒラリーである。彼女の演奏はBBSなどを読んでいると「氷上の音楽」と評する人がいる。どのような意図から「氷」という言葉を用いているのかはわからない。しかし、SONYのCDジャケットは、前回のブラームスもそうであったが、ダークブルーの背景に蝋人形のような硬質なヒラリー像を配している。チョン・キョンファであったら決してこのようなデザインにはならないだろうと思う。

実際に音楽を聴いてみると、CDジャケットの印象がかなり音楽の性格を表しているのかもしれないと思う。もしかしたらSONYの固定観念に騙されているだけなのかもしれないが。

従ってというべきか先のヴェンゲーロフの盤と比べた場合、音響的な深や厚みのようなものはハーンの盤から感じることが少ない。誤解されては困るのだが、ハーンの音に厚みや深みがないといっているのではない。これは、オケを含めた全体としての表現力の違いだと理解してもらいたい。ロストロポーヴィチ率いるロンドン響のサウンドはやはり、オスロフィルとは一味もふた味もちがう。そこに油の乗ったヴェンゲーロフだ、重量感のあるなショスタコがこれでもかとばかりに展開されている。

一方でハーンの音楽だ。そういう盤と比較してしまうとオスロフィルには物足りなさを感じないわけではない。しかし、その上前を刎ねてしまうほどに彼女のヴァイオリンは冴えている。まさに彼女の独断場にしてしまったのがこのショスタコなような気がする。

ハーンは決して過度の感情を表出しはしないが、縦横にあるいは重層的に積み重ねる音は、重ねるたびに逆に一点のにごりもなく響き渡る。絵の具を混ぜてゆくと灰色に濁ってゆくのに対し、光の色を重ねてゆくと限りなく白色になってゆく。まさに、ヒラリーの音は後者のような印象なのだ。それを現代的な表現ということもできるかもしれない。今まで聴いたこともないような音が聴こえてくる。彼女のそういう音から奏でられるショスタコからは、人間的な感情を越えた高みに上ってゆくかのような飛翔する感覚さえ感じてしまう。

この曲では第三楽章の後に、ほとんど独立したカデンツァが挿入されるが、ここでの彼女の音楽の深さはどうだろう。音色のせいばかりではない、ショスタコーヴィチがどんな感情を込めたのかは不勉強にして理解していない。それでもここからは音楽家の不安や嘆き憂い、そして時代に対する絶望ではなく、どこかへと馳せる思いを感じる。そして更には、ある種の静かな祈りさえ聴こえてくるようだ。

最終楽章のブルレスカ(乱痴気騒ぎ)にしても、ハーンのヴァイオリンの狂騒には乱れが全くない。波風一つ立たない水面の下で激しき水流が渦巻くがごときだ。畳み掛ける音色はただならぬ緊張感をはらんで疾走し駆け上がる。まさに氷上を滑るがごとく、あるいは磨き上げられた氷の表面と、その下の激しい水流の迸りを感じる。この楽章だけでも聴く価値があると言えるかもしれない。

こういうショスタコーヴィチを聴いてしまうと、噴出するがごとき激し表現は、わざとらしさとあざとささえ感じてしまうというのは皮肉なことかもしれない。新しい感覚のショスタコであると感じる。もしかしたら、ショスタコーヴィチのはぐらかすような心境には、こういう表現の方が近いかもしれない。そういう意味から、従来型のショスタコをお好みの方には今ひとつという印象かもしれない。もっとも、わたしとてそんなにショスタコに通じているわけではない、このへんでいい加減なことを書くのはやめようと思う。

同時収録のメンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲はこちら。


2003年1月2日木曜日

【風見鶏】「主張 大いなる選択の年に思う」

年が改まったので各社とも今年の日本に期待するもの、というような社説を掲載している。その中で産経新聞の社説だ。戦後の天下泰平のために江戸時代の鎖国政策の時の日本のように「非行動主義」が日本に無力感をもたらしていると説く。

「いま必要なのは国家の戦略的なありようを徹底的に磨き上げる」ことであるため、産経はふたつの課題を挙げている。ひとつは「日本国あるいは日本国民たりえようとする精神の欠落を克服するためにどういう日本でありたいのか自己目的を明確化させる」ことと、「日本国あるいは日本国民が当事者意識を取り戻す」ことと唱える。

言っている本論には同意する。しかし、その先が産経と私では若干の食い違いがある。総論賛成各論反対というやつか。しかし、そのずれが何であるかを明確には示せない。産経の石原東京都知事擁護論は今に始まったことではないのでご愛嬌(では本来は済まされないのだが)だとしてもだ。

いずれにしても岐路となる年かもしれない。



HIYORIみどり 「産経の記事を引用したりするのって、まずくない?」

KAZAみどり 「産経新聞は記事の著作権に対してひどく敏感よね。でもネットの常識から考えて無理があると思うのよ。社説も取っておかないと探せなくなってしまうしね。」