2007年4月17日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌


以下は、高村薫の「晴子情歌」(→感想はこちら)に興味のある人にしか面白くないと思います。




本小説は晴子という女性に軸を置いた「情歌」であるということを忘れてはならない。彼女の何と言うこともない、時代の中ではありふれた人生を、晴子の書く手紙という形で作者は丹念に救い上げている。その「書く」「掬い取る」という作業そのものに本小説の意味がある。掬い取る人生に対する慈しみといとおしみ。そして取るに足らない人生の何たる重さか。そして、そこに生きるということの本質がある。多様な読み取りと、汲んでも尽きぬ深みがある。


「書く」ということによって晴子は、自分の人生を刻み続ける。三十年以上に渡る夫婦の帰着が、夫に描かせた油絵、「青い庭」の中のたった3センチの自身の姿であったとしても。それは彼女自身の譲れない矜持であり、自己発見、自己確認、自己定着という痛ましいほどに些細ではあるが確かな作業であった。彼女は絵の中で福澤家に住み続け永遠の位置を得る。それが彼女の勝ち取ったもの。


彼女が手紙を通して刻み続けたのは「情歌」。すなわち、彼女の堰き止められた思い、彼女の「情」の歌、あるいは彼女の恋心でもある。彼女の抱いたささやかで実現されなかった、そして自分でさえ意識していたのかさえ知れない多くの思い。それらを彼女は息子に書き送った。「情」という火とともに。その息子こそ、この世で彼女の唯一の分身ではなかったか。


その息子は、これまた福澤家の男の特徴である「放浪する半身」を有した男、自分自身を特定、固定できない。女と平気で酷薄に別れ、そしてそれをまた客観視する半身。何をも信じられず、それでいて何かを信じたく、いつも皮膚をチリチリさせている。彼の苛立ち、所在の無さの原因は何か。彼の背負っているもの全てに対する苛立ちか、あるいは怨み? 高村小説共通の主人公キャラだ。


彼は母の手紙を読みなが母を捜し、自分を確認する。大学を出ながらにして漁業の道に進み、自分自身を捨てながら、実は母なる海に身を委ねて放浪している。彼が大学で専攻した烏賊の生態、生物学的特質を思い出そう。では彼は何者であったのか。


彼の最終的な結論がラストの数ページに凝縮される。確かに母の思いは生の歓喜と孤独の中で確かに伝わったか。


俺はひとりだ。母もひとりだ。------お母さん。


この膨大なる小説の中で、ただ一行。他の全ての箇所から、温度差を持って浮き上がる、このラストの一行。そこから彰之の第二章が始まるのか。