- 武満 徹:組曲「波の盆」(フルオーケストラ版)
- 武満 徹:「乱」
- 細川 俊夫:「記憶の海へ-」ヒロシマ・シンフォニー」
- 指揮:尾高 忠明 札幌交響楽団 Bryan Ashley(org)
- Sapporo Concert Hall 'Kitara' 8-11 May2000 CHANDOS
札幌交響楽団というと、どういうイメージを抱かれるだろうか。札幌という北国の凛々とした音、岩城に思い出される現代音楽をよくする地方のオケ・・・・。
「北国だがらシベリウスが得意」みたいなメージを持つ人もいるかもしれない。それが当たっているかどうかは、札響をほんの5年まえ位から聴き始めた私には判断がつかない。
私の数少ない札響コンサート体験によると、非常に弦セクションが美しいオケであるという印象が強い。
さて、ここに収められた曲は、日本の作曲家による現代音楽である。現代音楽というと敬遠しがちであるが、そう思ってこのCDを買うのをやめたあなたは非常に損をしたことになる。
まずは騙されたと思って、武満を聴いてみると良い。それほどに、武満の「波の盆」はすばらしい。たかが18分半の曲だが、至宝ともいうべき音楽だ。
解説によるとテレビドラマのために書かれたらしいが、この曲の美しさを表現する言葉を私は持たない。夢見るようで、それでいて体の奥底から、なにか熱く懐かしいものが湧き上がってくるような、非常にせつない音楽である。武満が超一級のメロディーメーカーであったことが、この1曲だけで分かる。
6楽章からなる曲だが、4楽章で行進曲風の喧騒が混じるがそれも一瞬で記憶の彼方へ消えてゆく。ほとんど全章アダージョ楽章のような構成のエモーティブな音楽を、尾高と札響は、あくまでも透み切った音で聴かせてくれる。
解説に指揮者の尾高は書いている。「レコーディングの最中、私は涙を禁じえなかった、そしてファーストバイオリニストの眼にも涙が浮かんでいることに気づいた・・・」と。実際、私はこの曲を何度も聴いた。ひとり静かに聴き入っているときに、知らず涙がこぼれていた、そんな曲だ。演歌調の「泣き」の世界とは対極にありながら、きわめて「日本的」とも感じられるこのメロディー。とにかく聴いてみれば分かる。
「乱」は言わずと知れた、黒沢明の映画の曲。武満はこの曲の演奏を武満の友人である岩城の率いていた札響に依頼した。「札響の音は自分の音楽に最適だ」と武満はよく言っていたらしい。冒頭に疑問符を付けたような、シベリウスのイメージに代表されるような、凛とした音が札響にあるのだろう。「乱」は1985年の作品、現在の札響は武満を満足させただろうか。
断っておくと、私は他の武満の作品はいくつかしか知らない。彼の代表作たる60年から70年の曲もほとんど聴いたことがない。武満ファンの方から見たら、笑止な感想かもしれないので、蛇足とは思ったが付け加えておく。
ディスクの1曲目に収められている「オルガンと管弦楽のためのファンタジー」は、尾高の兄の作曲によるもの。彼がパリで音楽を学んでいるときに、教会の近くを散策しているとき聴こえてきたオルガンの音から得たイメージ(言葉にできないような感情の昂ぶりを覚えたとか)を曲にしたらしい。
オルガンとオーケストラの精緻なアンサンブル、フォルテッシモでの圧倒的な音の塊りが凄い。本当にこれが、あのKITARA大ホールのオルガンと札響なのか・・・と驚く(驚くとは失礼なと言う人もいるでしょうが・・・・)
4曲目の「記憶の海へ」もそうだが、現代音楽は実にいろいろな音が聞こえてくる。潮騒のようなざわめきやら日本的な音、顔をしかめたくなるような不協和、海かはたまた、心の深淵に沈み込むような響き。例えばベートーベンを聞くように、心の焦点をなかなか絞ることができない。しかし、気づくと、心の奥底で何かと対話している自分に気づかされる。
「ヒロシマ・シンフォニー」という副題なので「原爆かなにかの反戦か鎮魂の曲か?」と思った。だって、武満ていえば大江だし、大江ていえば「ヒロシマ・ノート」だ。同じカップリングであれば、誰だってつなげたくなる。(かなり偏見の強い強引な解釈だが)
英語の解説を読んだら、そうじゃないらしい。細川の生まれ育った広島の、自然の持つ圧倒的な美しさや再生の力を賛歌として表現したとのこと(当たっているかな?)。そう思い、再度聴いてみるが神秘的で大きなパワーを秘めた曲であることが感じ取れる。
いずれの曲も、尾高が非常に愛してやまない作曲家や曲たちらしく、それを精緻な表現力で演奏している札響に、改めて驚きとうれしさを覚える。
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