許光俊氏の「世界最高のクラシック」を読んで、彼が最高と評する音楽のいくつかに接したいと思うようになった。そこで、とりあえずフルトヴェングラー(1947)、ケーゲル(1989)、チェリビダッケ(199)による三種類の「運命」を聴いてみることとした。どの盤もライブ録音である。フルトヴェングラーの演奏は、ベルリン復帰の歴史的名演の初日のものである。
それぞれの演奏時間は下記の通り。
| フルトヴェングラー | ケーゲル | チェリビダッケ |
第一楽章 | 7’53” | 8’13” | 7’08” |
第ニ楽章 | 10’29” | 12’29” | 11’42” |
第三楽章 | 5”40” | 6’01” | 6’17” |
第四楽章 | 7”45” | 9’48” | 10’41” |
TOTAL | 31”47” | 36’31” | 35’48” |
チェリビダッケは晩年、テンポが遅くなったことで有名だ。単に演奏時間だけを取りだして云々することには意味があるとは思えないのだが、それでも、三つの演奏を比較してみた場合、意外にもケーゲルの演奏が一番演奏時間が長いことに気づく。
それぞれの楽章の長短をケーゲルとチェリビダッケで比べてみると面白い。レビュに書いたが、ケーゲルの演奏を聴いて、この曲の2楽章の姿を改めて知る気がした。また、チェリビダッケの演奏を聴き、この交響曲が極めて構築的な音楽であることに気づいたのである。どれも必然のテンポといえるのかもしれない。
フルトヴェングラーの演奏は明らかに速い、比べて聴かなくてもその速さには気づく。でもその速さから伝わるものがあることも認めざるを得ない。
ここに示した三種類の「運命」は、ぶっ続けで聴いたのだが(フルヴェンとチェリは時間を改めて再度聴いたが)、どれも特異な演奏であり、また驚くべきほどの集中力を見せた瞠目に値する音楽となっていることを認めざるを得ない。
フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィル
1947年5月25日 ベルリン
TAHRA-FURT 1063-1066 (Made in France)
言わずと知れたフルトヴェングラーの名演である。かつて音楽雑記帳(2001年8月)において、私はベルリン復帰の3日目の演奏の感想を(そのときも同じように三種類の「運命」聴き比べで)述べた。始めて聴いた時のような震えるような感動は、今回は得ることができなかったが、凄まじい演奏であることに変わりはないようだ。
��日目のものは札幌に置いてきているので、この初日の演奏と3日目の演奏を比べることはしていないのだが、何かをはらすような叩きつけるような表現、ラストに向ってオケを追い立てるさまは、ドグマの噴出のような思いさえし、異様なまでの迫力だ。
迫力が音質のせいもあってか粗さや雑さに聴こえる部分もないわけではない。しかし、ラストに向い何かに憑かれたようにオケを引連れて突進する様は、鬼人と言えるかもしれない。
いずれにしても「超」が付くほどの因縁めいたベルリンライブ。その筋の人たちにとっては既に語り尽くされた感がある演奏だ。もはや「評することを拒絶している」演奏だと言えるかもしれない。音質は他のフルベンの録音と比べるとどうなのか、詳しいことは私には判断できないが、演奏の質を判断できるほどの録音ではある。
とにかく、まずはフルトヴェングラーを聴いてから以下の2枚を聴いたということだ。
ヘルベルト・ケーゲル指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1989年10月18日 サントリーホール(東京)
Altus ALT056(国内版)
驚いた、心底驚いた。許氏が『これは日本ライヴであり、生演奏やFM放送を聴いたひとたちの間では半ば伝説として語られていた超強力な演奏』(「世界最高のクラシック」P.204)と書くだけのことは、確かにあった。
CDの解説も許氏だ。『その頃の日本は、バブル経済によって贅沢を貪り尽くし、あらゆる楽天主義が蔓延していた時代であった。こともあろうにそんな東京のまんあかで、絶望と希望のギリギリの対決のような音楽が行われていたのだ。何と言う悲惨でグロテスクな風景だったろう。』と許氏は書いている。
1989年、東ドイツ崩壊の前後、ケーゲルは間違いなく社会主義者であったという。そして、この演奏の翌年、ケーゲルは自らの命を絶つ。許氏も言うように、こんな音楽を奏でてしまったことは、果して演奏する側にとっても聴く側にとっても幸せなことなのだろうか。
ケーゲルというとシベリウスの4番のように、ちょっとキワモノ扱いのように感じていたのだが、全く考えが改まった。レビュは別頁に記した。
セルジュ・チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1992年5月28、31日 ミュンヘン
EMI TOCE-11603
これまた、驚くべき演奏であった。フルトヴェングラー、ケーゲルト聴いてきて、このチェリビダッケの演奏を聴いたときに、その特異性が際だって浮き上がってきた。
私は恐れ多くて、チェリビダッケの音楽について語る素養は持ち合わせてはいない。とりあえずレビュを書いたが、いったいチェリビダッケの何について語ったことになろうか。
こうして、「運命」をぶっ続けで聴いて分かったことがある。これほど消費し尽くされていると思っていたこの曲に、まだまだ多くの発見や喜びを見出すことができるということだ。三種類の演奏を聴いて、なお飽きるということがない。恐るべしベートーベン、といったところだろうか。(>恐るべしクラシックヲタクと言うべきだよ、ヤレヤレ。)
蛇足になるが、これらの演奏は、許光俊氏が推薦する演奏であったわけだ。いったい評論家に指南されなければ、これらの演奏の凄さに気づかなかったのだろうか、あるいは、ケーゲルの感想でも書いたように、評論家の意見の刷り込みの呪縛から自由な状態で演奏に接しているのだろうか、そこに疑問を感じないわけではない。特にフルトヴェングラーのような音質の良くない演奏をありがたがるという態度については、やはり一般受けはしないだろうなあと思うのであった。