2003年6月20日金曜日

高村薫とシューマンとブラームス

シューマン:
 歌曲集「リーダークライス」作品39
 歌曲集「女の愛と生涯」作品42
 
エリザベート・シュワルツコップ ソプラノ
ジョフリー・パーソンズ ピアノ
1974年4月 ベルリン
EMI TOCE-59088(国内版)


 

ブラームス:
 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
 4つのピアノ小品 作品119
 
アンネローゼ・シュミット ピアノ
ヘルベルト・ケーゲル 指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1979年9月10-13日 ドレスデン、ルカ教会(作品83)
1979年11月18-19日 日本コロムビア第1スタジオ(作品119)
DENON COCO-70536(CREST1000



小説家の高村氏はブラームスとシューマンがことのほか好きらしい。彼女が二人の作曲家に抱く思いについては「半眼訥訥」というエッセイ集の中で『ブラームス的造詣』『ブラームスとヴァイオリン』『シューマンという魔物』という形でまとめられている。これらの文章の初出はウィーン・フィルハーモニー日本公演のパンフレットである(それぞれ1995、1996、1997年)。

特にブラームスのくだりは、彼女の創作活動とブラームスのそれを重ね合わせて書いている点が興味深い。たとえばこうだ。

��ブラームスは)一つの音楽的直感を表現するときに、AとBのどちらが全体の構成の中で相応しいかを厳密に考えた人だったという気がする。ブラームスの作品を聴くとき、すべての部分と部分の間に強固な関係性が感じられるのはそのせいであろう(同書 230頁)
一方シューマンについては、シューマンの歌曲が幼い頃の心をとらえたとし、その音楽について

形式はあっても感性のたえまない奔流がそれを押し流していくような、(中略)さらに、叙情的に聞こえるものが実は、ほとんど魔物のような完成の確かな結実なのであって、そうした果実が次から次へと溢れ出してくるような、そういう空間(同書 242頁)
と書いている。

高村氏はシューマンの天才に憧れてはいるが、彼女の小説からシューマン的感性を感じ取ることは少ない。彼女の文章は、どちらかと言えばブラームス的であるかもしれない。

「リヴィエラを撃て」においては、シューマンの歌曲が効果的に使われている。高村氏は主人公のテロリストにリーダクライスの「異郷にて」を歌わせるのだが、それが小説の中で何とも物悲しいトーンを奏でている。小説での描写はこういう具合だ。

詩人が異郷の森に静めた諦観は、ジャックの語る階段の夢想に、どこか似てなくもなかった。《伝書鳩》は今やっと、ジャックがこの歌を歌い続ける理由を、自分なりに納得したように思った。(同書下巻142頁)
シューマンの歌曲には疎いので、早速右のシュワルツコップの盤で聴いてみた。異郷に住む孤独が哀しくも美し切々と唄われるのは何度聴いても胸に迫る。それにしてもシューマンの歌曲を口ずさむテロリストなど、いったい想像できるだろうか。


In der Fremde (異郷にて)

稲妻の赤くきらめく彼方、
故郷の方から、雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。

私もまたいこいに入る、その静かな時が
ああ、なんとまぢかに迫っていることだろう、
美しい、人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。

一方、同じ小説に登場するピアニストが、積年追ってきた人物の前で披露するのがブラームスのピアノ協奏曲第2番だ。この曲は1番とは違って明るさと光に満ちた力強い曲である。苦悩や深刻さを感じることは少ない曲だが、ブラームスらしい響きと陰影はやはり随所に聴くことができ、控えめながら内に秘められた激情を感じ取ることができる。小説においてピアニストがどのような思いでこの曲を弾いたのかを、作品を思い出しながら聴くのも一興ではある。

小説ではウィーン・フィルの演奏であったが右の盤は旧東独のアーティストからなる演奏である。

2003年6月19日木曜日

高村薫:リヴィエラを撃て(文庫版)




先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではなく、私の高村氏の小説に対する雑多で稚拙な考えをまとめたものである。


高村薫氏の小説を読むことは、私にとって大いなる愉悦と快楽を伴う作業になってしまった。そして「リヴィエラを撃て」という壮大なるドラマを読み終えて、私は満足感とともに焦燥感を覚えるようになってしまった。何故ならば、読むべき高村氏の小説がまたひとつ減ってしまったからなのだが。

この小説は彼女が生まれて始めて書いた小説「リヴィエラ」をベースに全く新たに書きなおされたものらしい。またしても高村氏の全面改稿を経た作品である。高見浩氏の文庫本解説によれば初期の「リヴィエラ」は『プロットの核心は本書とはちがって、アイルランド紛争そのものにあった』とある。「神の火」でもそうだったが、初めに世に問うた作品とは別物であるというわけだ。

旧作がどのような内容であったかについても興味はつきないのだが、彼女の小説の醍醐味はプロットの骨太さ、ディティ-ルへの徹底したこだわり、人物描写の的確さと深さ、それらを土台としたストーリーの荒唐無稽さと展開の面白さ、そして必ず通奏低音として一貫して流れているテーマにあると思う。

この小説に限ったことではないが、高村氏の小説には細部を語り始めればきりがないほどの要素がちりばめられていることに気づく。例えば音楽だ。高村氏は(自分の意思であるかは別として)ピアニストを目指した時期があったらしい。それゆえクラシック音楽にも造詣が深く、特にブラームスとシューマンに傾倒していることは「半眼訥訥」でも述べていたことだ。

この小説では、IRA(アイルランド共和国暫定派)のテロリストであるジャック・モーガンが歌うシューマンのリーダークライスの一曲「In der Fremde (異郷にて)」が実に効果的に用いられている。また世界的なピアニストという役回りのノーマン・シンクレアが、因縁の東京公演で演奏するのがブラームスのピアノ協奏曲第二番変ロ長調であったりする。彼がこの曲を演奏するのは、下巻231頁からだが、曲の解説と共にシンクレアがどのような演奏をしたかということが、実に4頁にも渡って描写されている。それは決して冗長なものではなく、ストーリの重み付けとしてなくてはならない描写になっている点で極めて印象的だ。

このような描写を嫌う読者もいるかもしれない。例えば「黄金を抱いて翔べ」では関西電力の変電所の様子が延々と続く部分がある。あるいは「神の火」の原子力発電所に関する描写もしかりだ。はたまたロンドンや北アイルランドの首都ベスファルトの描写なども、驚くべき筆力で語られる。これらは、おそらく多くの読者には全く馴染みのないものだろう。専門用語やローカルな地名が容赦なくちりばめられた文章は、読みにくく本筋には関係ない、偏執的なこだわりであるとする感想もあるかもしれない。しかし、このような描写に支えられて高村氏の小説の特質とリアリティが生まれていると私は感じている。

他の小説でもそうだが、高村氏の小説のストーリーを思い出してもらいたい。ひとことで言ってしまえば銀行強盗の話であったり、原発テロとスパイの末路の話しであったりと、ほとんど実生活からかけ離れた破天荒な話しの連続である。そこに質感やリアリティーを持たせているのは、作品世界を取り巻く背景の緻密な組立てであったり、徹底した細部描写であったりすると思う。

作品を取り巻く背景については後述するとして、もうひとつ彼女の小説で重要かつ魅力的なのが登場人物であることに異論はないと思う。「リヴィエラを撃て」では登場人物の全てが印象的かつ魅力的であり、かつ謎に富んでいる。もはや誰もが主人公足り得る存在となっているのだ。逆に言えば、最初から最後まで登場している主人公が不在である小説でもある。それほどにまで多くの時が流れ、多くの人物が登場しては死んでゆくからだ。(長い年月とはいってもたかだか二十数年の話しなのだが)

最初の頁から最後の頁まで登場する人物として、イギリス人とのハーフであり、東大卒のエリートである警視庁外事一課の手島修三警視がいる。彼は一連の事件において最後に非常に重要な役割を果し、また作品に通低するテーマに触れる点でも欠かすことはできないにしても、物語が重層的に折り重なる部分では端役でしかない。一番のキーパーパーソンであるIRAのテロリストのジャック・F・モーガンさえ、小説での登場は既に死体であったし、回想の形で書かれた本編においても下巻160頁以降は登場しなくなる(下巻は409頁ある)。このどちらも主人公ではなく、このどちらも主人公なのだろう。

小説全体では脇役であるにも関らず強烈な色彩を放つの人物も多い。一見か弱そうでいながら女性としての強さを持った、ジャックの恋人のリーアンは、その名前のもつ寂しげな響きと共に忘れられない存在だ。彼女を庇護したCIA職員のサラ・ウォーカーはアウディを駆ける颯爽としたイメージとともに、卓越した女性像として記憶に残る。サラの恋人で、テロリストのジャックと重要な一時期を共有したCIA職員の《伝書鳩》、クールさを捨てずに、それでも最後は決然とした決意をもって事に望んだMI5のM・G、そしてその部下であるキム・バーキン(彼のことを思い出すと目頭と胸が熱くなるほどだ)などなど。ああ、ピアニストのノーマン・シンクレアと刎頚の友であるダーラム公爵も忘れてはいけなかった。

これらの多彩な人物ではあるが、実はジャックの思いが《伝書鳩》に感染し、そしてキム・バーキンを介在してジャックの置き土産とともに最終的には手島に引き継がれたと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、書き始めるときりがない。つまりは、どの人物もおろそかではなく、感情移入できてしまうほどに魅力的なのだ。

そうは言うが高村氏の小説を読んでいると、人物がステロタイプではないのか、と思う方もいるかもしれない。「リヴィエラを撃て」「神の火」「黄金を抱いて翔べ」を比較して類似点を探すのは、そう難しい作業ではない。特に高村氏は、男女間の愛憎よりも男同士の友情を超えた愛憎によって結ばれた不可侵の関係というものに執着する傾向がある。そう書けばすぐに思い出すだろう、幸田とモモ、島田と良、島田と江口などなど。それでも私は何度読んでも飽きることがない。

何故高村氏が、男同士の関係に固執を示すのかは分からない。アブノーマルであるが故に、隠微さと深さを持っていることは確かだ。そして最初からそれは不幸と破局を内在した関係であるように思えるのだが、ここで高村氏のもうひとつ通低た点である、「心の中の空洞」とか「虚無」とか、あるいは「個人の中の矛盾」とか「ねじれた自己」ということを炙り出しているようにも思える。

そもそも高村氏は警察とともにスパイやテロリストが好きだ。この作品の背景においても、英米中日に渡る国際的な諜報活動と国家間の謀略というテーマは、小説の題材としては非常に卓越したものであるし、サスペンスを読むという楽しみを与えてくる。このテーマだけでも緻密な取材や積み重ねで得られたのだと想定され、彼女の小説をサスペンスとして分類するの至極妥当だとは思う。しかし彼女はサスペンスを書いているという意識よりも、最初にスパイやテロリストという存在そのものがテーマとしてあるのではないかと思うことがある。つまり、彼女の小説にはサスペンスの裏の流れがあるように思えるのだ。

そうすると、そもそもスパイとは何なのかと考えてしまう。ここで私は「マークスの山」を読んだときのことを思い出す。私にとってこれは高村氏を読む始めての作品であった。私はその中で、主人公の合田警部の中の自分を見る醒めた目の存在が気になっていた。そして、もうひとつ「マークス」と名乗る殺人者が、まさに自己の中にもうひとつの自己が存在する分裂気質の人物として書かれていたことも象徴的だ。あるいは「黄金を抱いて翔べ」の主人公の幸田は「ここではないどこか、人間のいない土地」を希求する虚無さを抱えた人物として書かれていたことも。

これは現在の自己を認めつつも、あるいは違った自分が存在するという自己の中での葛藤と矛盾を表明しているということだ。そういう意味において、スパイとは組織や体制を裏切ると同時に自己をも裏切っているという矛盾を内包した存在として意味があるように思える。自己の何を裏切っているのかはスパイによって異なるのではあるが。このような個人の中での矛盾やねじれた自己、そして抱え持つ心の中の空洞というものは、高村氏の小説の中で重要な役割を果す人物には必ず備えられた資質となっている。「リヴィエラを撃て」においては、テロリストのジャックしかり、ノーマンしかり、手島しかりである。あるいはその空洞に共鳴してしまった《伝書鳩》しかりと言うべきだろうか。更に自己の二重性を駄目押しするかのように、手島にはもうひとつ象徴的にハーフという生立ちが与えらるという念の入れようだ。他の作品では島田がハーフであったことを思い出しても良い。

自己の矛盾や空洞を埋めるために、何が起こったのか、それが事件を通して露になった男たちの情念であり、執拗なまでの死闘であったという気がする。そういう情念や死闘が悲壮感や暗さを持つのは当然のこととなる。そこに更に高村氏独特のキリスト教的宗教感(キリスト教を是認したものではないようだが)が薄いオブラートのようにかかるので、泥沼のような死闘がやがては純粋さを増して行くという、これまた大いなる矛盾をはらんだ結末へと向って行く。それだけに彼女の作品は、とてつもない重みを持って読者に襲いかかり、彼女の小説に独特の匂いを与えているように思えるのだ。

自己の矛盾を解決できた者は幸せだ。小説中では死をもってさえ救われなかった者も多い。MI5のキム・バーキンが死際に別れた妻の名を読んで息絶えるシーンは忘れることはできない。彼は殺される直前まで、彼が現在心から愛しいと思っている別の女性に電話をしていたのにも関らず、元の妻の名を読んでしまう。

「黄金を抱いて翔べ」の幸田はラストで死んでしまったのか、あるいは「神の火」の島田は最後にどこに流されたのか、そして「リヴィエラを撃て」においては、最後に手島が選択した半生は幸福なものとなるのか、それは読者の想像に委ねられているように思える。

本書においては、ほとんどの人間が無残にして無念の死を遂げているが、高村氏は最後には一点の希望を灯して本書を終えている。その希望とて北アイルランドのアルスターに降る雨のように決して暖かいものではないのだが、アイルランドの歴史が沁みこんだ大地のように、深い反逆の魂と純粋さを熱くともしているような気もする。

まだまだ書きたいこともあるが、だんだん何を書いているのか分からないような支離滅裂のレビュになってきたので、ここらへんでやめておこうと思う。さあ、シューマンとブラームスでも聴くかァ(笑)

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2003年6月16日月曜日

恐るべきアファナシエフの展覧会の絵


ムソルグスキー:
 組曲《展覧会の絵》
 ピアノ小品
     間奏曲、情熱的な即興曲、お針子、瞑想、夢
 
ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ
1991年6月3-6日 フランクフルト、ドイツ銀行ホール
DENON COCO-70530 CREST1000(国内版)

アファナシエフの演奏は「遅い」ことで有名である。CD解説にも『「現代」という時代に鋭い一撃を加える狂気の一枚』『徹底的に遅いテンポで作品に潜む狂気に光を当てた快演』とある。簡単に"狂気"などという言葉を使うものではないとは思うのだが、一聴してみて、いったい私は何を聴かされたのだろうかと呆然となってしまったことも否定できない。

《展覧会の絵》といえばオーケストラバージョンにしても、ピアノバージョンにしても、それほど深刻にならず、美術館を軽く散歩しながらワクワクし、ドキドキし、最後は心地くも壮大なるカタルシスを得ることを期待していたはずだ。

しかし、何かが違う。

《プロムナード》からして驚きだ、彫りの深い響きでのっけから圧倒する。《グノームス》も恐ろしく異様だ、いや異形と言って良い。反響が消えるまで引き伸ばされた、一瞬間違えたのではないかと思うほどの長い間、その後に重なる和音の鈍い色彩。まさにグロテスクを絵に描いたような小人の姿がそこにある。


異形なのは《グノームス》だけではない。《古城》はもはや枯淡の境地に逝ってしまっているし、明るいはずの《チュイルリー》は憂鬱を引きずり、ヒナたちは殻をつけたまま転げまわることはしない。音響の濃淡やダイナミックさは極端なまでに大きく、そこから何かがふつふつと湧き上がってくる。いや何かが姿を現してくる。

特に最後の《キエフの大門》に至っては、大門の建設に掛けた情熱とその虚構と幻影が、もはや現代音楽を聴いてるのではなかろうかというほどの歪な音塊とともに暴露されてゆく。こんな、痛々しいまでの《キエフの大門》は始めて聴いた、こんな《展覧会の絵》は一度も聴いたことがなかった。おそるべしアファナシエフ!

アファナシエフ自身、文学や演劇にも造詣が深く、もはや音楽家とは言えないほどの幅広い活動を展開していると聞く。写真は《展覧会の絵》のためにアファナシエフ自身が書いた台本をもとに上演された人形劇らしい。(全ての写真CDジャケットより)

演奏が遅ければ良いわけでも、「精神性」が深まるわけでもない。アファナシエフは中沢新一や浅田彰などの思想界のオピニオンリーダー達に絶賛されているという。彼らの思想を全く理解できない私には、彼らが絶賛する理由を一生理解することはないだろう。しかし、ほとんど異形というべき演奏が付き付けるものは、鉛のように重たくそれでいて確かに鋭いと思わざるを得ない。



2003年6月8日日曜日

ソロ奏者の音量について

N響アワーで、ミッシャー・マイスキー氏のチェロでドヴォルザークのチェロ協奏曲が流れていた。何気に見ていたのだが、演奏を眺めながら昨日の東響とディンド氏のチェロを思い出していた。ディンド氏の音色は非常に多彩ではあったが、音量面から言うと少し小さいかなという印象を、協奏曲の時は感じていたのだ。それでも、音が大きければ良いというわけでもないし、オーケストラとのバランスを考えても悪くはなかったから、そんなことはすぐに気にならなくなったのだが。
ところが、プロコフィエフが終わった後にディンド氏がバッハの無伴奏を演奏したときは、これがホール中に響き渡るかのような音量として聴こえたのだ。この違いはいったい何なんだろうと不思議に感じたものだ。

協奏曲のソロ奏者の音が、音量面で不満が残るということは、チェロに限らず、ヴァイオリン、フルートなどにおいても常々感じていたことだ。アンコール演奏などでのソロ演奏の響きを思い出すに、もしかするとソロ奏者の微妙な音色は、協奏曲になることでかき消されてしまっているのではないかと思い至った。

昨日のショスタコーヴィチでも、フルートやオーボエなどの木管楽器の音色はオーケストラの中で良く通って聴こえていたが、それらはまわりがピアニッシモで演奏しているときで、ほとんどソロパートとして演奏しているからこそ良く聴こえるわけだ。

このようにソロ奏者の微妙なニュアンスが協奏曲において伝わりきらないとしたならば、これは少し不幸なことなのではなかろうかと思うのだが、いかがなものなのだろうか。

東京交響楽団第504回定期演奏会

日時:2003年6月7日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:ジャナンドレア・ノセダ   
チェロ:エンリコ・ディンド
演奏:東京交響楽団


プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47

「社会主義リアリズムへの苦悩」という主題に選ばれた曲は、1952年に初演されたプロコフィエフの交響的協奏曲と1937年初演のショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。

チェロ協奏曲の別名のあるプロコフィエフの曲は、3楽章形式で40分にもわたる大曲である。いったいクラシックサイトを運営していながら、どういうつもりなのかと思うかもしれないが、プロコのこの曲は始めて聴く。しかし聴き始めてすぐに曲の面白さに魅せられ、演奏時間の40分は、それこそあっという間に過ぎ去ってしまった。

解説によれば「皮肉なニュアンスをもった平明さと、抒情性やどぎついリズムなどによって、独特のコントラストが実現」とある、よくも端的にまとめてくれるものだ。聴いてまず驚いたのが、チェロという楽器の運動性能である。高音域から低音域までを余すことなく使って表現される独奏チェロは、この楽器のもつイメージを少し超えたものさえ感じた。チェロの音から他の楽器へとつながる音の連続性も面白い。

第2楽章アレグロ・ジュストにおいて叙情的な第二主題をチェロが奏るのだが、この優雅さは幻だろうかと薄氷を踏むような思いがよぎる。あるいは第3楽章の冒頭の主和音の強烈な響きは、一瞬何かのパロディであろうかと、思わず深読みしそうな意味を感じてしまう。音楽は多彩な変化を示し、ラストへ向けて強烈なリズムと弦の性急な刻みにのったチェロは、狂気と紙一重のような音楽を作り出している。

このように一瞬たりとも聴き逃すことができない、めまぐるしい音楽を聴かせてくれた。チェリストはそれこそ全身を使ってボウを弾きまわす。思い出してみると私の目と耳は、40分もの間チェリストに釘付けになっていたようだ。

プロコフィエフが終了した後、ディンド氏はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番サラバンドを演奏した。このバッハがまた面白かった。一瞬巻き舌のような表現が、確かに聴こえた。パンフレットを見ると彼は生粋のイタリア人ではないか、イタリア語独特のニュアンスが音楽に聴こえるとは! それでいて、このバッハがとても素晴らしかった。抹香臭さや宗教臭さがなくバッハらしくないのだが、曲は透明な水のように美しい。どこまでも透明で含むとほんのりと甘い水、そんな甘美さだ。静謐さの中に宿る歌やロマン、さらには色気さえ感じ、改めて演奏者がイタリア人なのだなあと思うのであった。それにしても、ソロになったときにサントリーの隅々まで満たした音色は、確かに音楽の至福を語っていた。

ちなみにディンド氏は1998年までミラノ・スカラ座フィルの第一ソロ・チェロ奏者を11年務めたた後、ソロ活動を始めたとのこと。

さて、次ぎはお馴染みのショスタコーヴィチの交響曲第5番、通称タコ5である。指揮のノセダ氏はパンフレットによると、ミラノ生まれ。チョン・ミュンフン氏、ゲルギエフ氏らの指導を受けたらしい。2002年にBBCフィルの首席指揮者に就任、2003年からはイタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任の予定とのこと。ミュンフン氏とゲルギエフ氏に指導を仰いだとなると、演奏の型は、ある方向に向くと想像されてしまう。果してどうであったか。

曲全体の印象で思い出すならば、クライマックスよりも水を打ったような弱音のときに、オケから背筋が寒くなるような表現を聴くことができた。弦がものすごい弱音でトレモロを奏でているところなど、凍え、抑えられ、あるいは体を縮め静かに震えながら機会を伺うようで、凄みさえ感じた。逆に終楽章のラストに向けての表現も、過度にはなりすぎに歓喜は歓喜として十分にカタルシスを得ることのできる演奏に仕上がっていたと思う。オケが粗くなってしまう一歩手前で押さえているかのような統率力も聴きのがせないところだ。

ここで「歓喜は歓喜として」と書いのは、この交響曲の示した「歓喜」が、ベートーベン的歓喜なのか、「証言」にあるような「強制された歓喜なのか」と考えるからである。今日の演奏を聴いていて、弦セクションの気がふれているのではないかと思われるようなボウイングを目の当たりに見、そこから聴こえる血管ブチ切れ状態のヒステリックな響きを聴くと、少なくとも「強制」による「歓喜」ではないと思わされた。

それでは、心の底からの歓喜を表現したのかと問えば、ベートーベン的な平和が支配するような終わり方でもなかったようにも思える。ピアニッシモにおける極端なまでの静寂と、圧縮された高音高圧のガスが一気に蓋を押し上げて爆発させたかのような4楽章最後のラストではあったが、いったいノセダ氏が噴出させた感情は何だったのか、それは分からない。考えても分からないので、ここは素直にショスタコ的なねじれた諧謔性よりも、「歓喜は歓喜として」聴いた方が良さそうだ、と今日のところは思った次第だ。

ノセダ氏の表現は決してあざとくない。テンポもそれほど早めることはなく、特に第4楽章などはじっくりという感じだ。ゲルギエフ氏やミュンフン氏に指導を受けたというだけあり、表現はダイナミックだ。しかし感情の奔流に流されるような表現はノセダ氏には感じない、それがかえって心地よい。

第1楽章のピアノが低い打鍵をグロテスクな表現の部分や、あるいは第3楽章のチェロを中心とした低弦がザクザク弾くところなど、表現としてはどぎつくはしない。一方で第2楽章の3/4拍子、これがひどくアイロニックなワルツであることを優雅に教えてくれる。

そう言う点からは、好みの問題ではあると思うが、表現に甘さを感じた部分もある。甘く感じる所以が、オケ奏者の表現や音色によるものなのか、ノセダ氏の解釈なのかは、未熟な私には分からない。また全体に弦セクションと管楽器セクションのバランスに、少しばかりの違和感を感じた部分がなきにしもあらずだ。というのは、極度の緊張感を持ったヴァイオリンを中心とした弦セクションに続いて木管や金管が表れると、緊張がお祭り騒ぎになってしまう、という感じを何度か受けた。逆にこれはショスタコーヴチが狙ったアンバランスさなのかもしれない。このような違和感は第3楽章から4楽章になるに連れ全く払拭され、個々の音色とオーケストレーションは見事に一体化したのだが。

細かく思い出せば不満のひとつやふたつはあるものの、最終的な感想としては聴きに行ってよかったという満足で満たされたわけであり、上記に書いたような問題は瑣末的な問題でしかないとは思う。偉そうなことを書いたところで、所詮はオケを半年振りに聴くアマチュアである。明日になれば考えも変わり、あるいは忘れてしまうような戯言である。

2003年6月7日土曜日

久しぶりにサントリーで生オケ

東京交響楽団第504回定期演奏会~社会主義レアリズムの苦悩

プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47

ジャナンドレア・ノセダ 指揮
エンリコ・ディンド チェロ
2003年6月7日(土)18:00~
サントリーホール

生のオーケストラを聴いたのは久しぶりである。最後に聴いたのがいつだったのか思い出せないほどだ。予定のない休日であったので、思い立って当日券を電話予約しサントリーに向った。指揮者もチェリストも聞いたことはなかったし、ましてや東京交響楽団さえ聴くのが始めてであったので、失礼ながら期待半分、不安半分であった。

演奏終了した後の感想はいつものことながら、やっぱりオケは生に限るということに尽き、久々にリフレッシュさせていただいた。特にオケの全音量を体全体に浴びると、それだけで何かが浄い流されたような気がするものだ。

それにしても、東京交響楽団の定期演奏会である。いつものことなのかは分からないが、席はほぼ8割以上埋まっていたのではなかろうか。私は1階席後方であったのだが、少なくとも私の前後左右に並んだ空席などを見つけることはできなかった。なんとも幸せな定期ではないか。

コンマスの大谷さんは非常に艶やかな音色を奏でる方で、あのスレンダーな体型からかくもホールに響く音を紡ぎ出すとはと思ったものである。レビュはこちら。

2003年6月5日木曜日

アバド/ワーグナー・アルバム

1 歌劇《タンホイザー》:序曲
2 舞台神聖祭典劇《パルジファル》:第1幕への前奏曲
・舞台神聖祭典劇《パルジファル》:第3幕からの組曲
   3-4 聖金曜日の奇跡 5 鳴り響く鐘と騎士たちの入場
   6 パルジファルが聖槍を高く掲げる
7-8 楽劇《トリスタンとイゾルデ》:前奏曲と愛の死
9 楽劇《ワルキューレ》:ヴァルキューレの騎行(国内盤のみのボーナストラック)

クラウディオ・アバド 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
スウェーデン放送合唱団
2000年11月、2003年3月
DG UCCG1149(国内盤)

2000年から2002年にかけてのアバドとベルリンフィルによるワーグナーの演奏である。2000年のベルリン来日の際に《トリスタンとイゾルデ》を演奏したので聴きに行かれた方も多いだろう。私はその頃ワーグナーなど聴かない人間だったので、あまり興味が沸かなかったのだが、考えてみれば惜しいことをしたものだ。(もっとも時間とお金ともなかったとは思うが・・・)

ここに収録されているのは《パルジファル》前奏曲と《トリスタンとイゾルデ》そしてヴァルキューレが2000年11月ベルリンの、残りが2003年3月のザルツブルク、祝祭大劇場で録音されたものらしい。

アバドのワーグナーが世間でどのような評価を得ているのかは不勉強にして知らないが、この盤を聴く限りにおいては、非情に高度なオーケストレーションの技術に裏打ちされた完成度の高い演奏のように思える。それに艶めかしさやワーグナー独特の濃さよりも、何か大切なものを削りながら音を構築しているような、ある種悲愴感が漂うようにも思える。それは選曲によるのか、それとも、この時期アバドが病苦と戦いながら演奏活動をしていたという事実が頭に刷り込まれているからだろうか。それゆえというべきか、旋律の甘美さや美しさは陶然とするがごときだ。

《トリスタンとイゾルデ》と、ヴァルキューレはオーケストラヴァージョンなのが残念である。イゾルデのラストの慄然とするような歌唱や、ヴァルキューレの螺旋のように渦巻く叫び声を聴けないのは、この曲を聴く楽しみを半減させてしまってはいる。頭の中で、誰かの歌唱を補完しながら聴いてしまうのだが、最初はわさびの入らない上等の鮨を食わされているような思いであった。合唱部分をヴァイオリンなどが代役を務めているのだが、ヴァルキューレなどは少し滑稽に聴こえなくもない。

《パルジファル》第3幕も、騎士たちの合唱は入っているのだが、これに続く死を願うアンフォルタスと、彼を聖槍で救うパルジファルの歌は、やはりオーケストラヴァージョンになってしまっている。

オーケストラヴァージョンとして何度か聴けば、これほど密度の高い演奏というのもそうあるものではないと思わせはする、音響的な分厚さはさすがというべきか。しかしながら、セレクト盤なのでワーグナーを聴き通したいう満足感と感動は得られず、返って鰻の匂いだけかがされてしまったような気持は残るのであるが。



2003年6月4日水曜日

高村薫:半眼訥々


高村氏の雑文集である。テーマは時代性のことや自分の作品のこと、自分自身のこと、さらには音楽のこと(ブラームスとシューマン)などまさに「雑文集」であるのだが、高村氏を知る上では興味が尽きない。

この雑文集を読んでいると、彼女の書いてきた主人公は、ひょっとすると彼女自身の分身なのではないかと思えてくる。特に『神の火』の島田とか幸田など。俗世間にあまり染まっていない姿や、何か奥に秘めたところがある姿などに、高村氏自身の影を感じるのかもしれない。

「学校は地獄。勉強は不毛。ピアノは苦痛。友だちなし。希望なし。やりたいことなし。一人深い藪の中で紫のスミレを紫に見入って、何を考えていたのかは覚えていない」(「折々の花」P.267)

と小さい頃を回想する高村氏。スミレの向こう見据えていた物は確かに、水蒸気が雲を形成するように、もくもくと、捉えどころはないが小説という形にはなったのではなかろうかと思うのだが。

また高村氏の小説に対する想いも知ることが出来る。小説を書き始めたきっかけについては、彼女は会社勤めをしている間

「自宅のパソコンを使って時間潰しの文章を書き始めたのは、喉が渇いたから水を飲むような抑えられない欲求であった」

と書き、

「いったいわたくしが没頭したのは、書くという行為なのか、それともストーリーの中身なのか。やがて姿を現したのは、真摯な随筆でも私小説でもなく、荒唐無稽な拙いスパイ小説だった」(「折々の花」P.271)

と説明している。そのときに書いた小説はおそらく「リヴィエラを撃て」だと想うが、あのような小説が「時間潰し」で出来あがったとしたら、高村氏とはいったいどういう人物なのかと、謎は深まるのではあるが。

会社勤めのOLが得意先への道すがら、行きずりの某都市銀行本店の前を歩きながら、この銀行を襲って金を取ったらスカッとするだろうなと思い立った」(「情報化時代と小説」P.194)ことが処女作『黄金を抱いて翔べ』になったと説明するが、読めば分かるがこの小説とてそんなに単純なものではない。確かに銀行強盗を企てた北川は、「やったるぜい」という気概に溢れているが、主人公の幸田とモモの関係など、「スカッと」するような感覚というよりも、鉛のような重さと夜に迷い込んだ小路のような陰影を作品に投げかけている。

あるいは改稿について彼女が語ることは、驚きにさえ満ちている。

「拙作『神の火』の文庫本用ゲラを、わたくしは他人として読み始め、数十ページで投げ出してしまった。文章の稚拙、構成の不備、人物造形の浅はかさといった表面的な拙さは多目に見ても、この作者が何を書こうとしているのか、どうしてもピンとこなかった」(「改稿について」P.222)

それを彼女は「小説の主題と構造が根本的に合致していない」(同P.223)と自己分析し、主題を変えて構造を残すということを選択し改稿するわけである。こうなったら、おそらくは単行本版と文庫本版は異母兄弟のようなものだ。あるいは全く別物といっても良いのかもしれない。これは参った、何故ならもう単行本版は古本屋にしかないだろうし、高村ファンは、それこそ血眼になって古本屋を徘徊しているだろうからだ。

さらにだ、『マークスの山』の主人公、合田雄一郎は「大阪弁を話す男」(「小説の言葉」P.293)として小説に登場していたというではないか。文庫本版では標準語を話す男であり、何かの拍子に大阪弁が飛び出しはするが、義兄弟の加納に大阪弁を話す合田も悪くないと茶化されるくらいだ。

このように強烈な自己批判と「自意識の塊のような」(「折々の花」P.273)高村氏は、小説の快楽、小説の力、そして小説とは何かということを考えつつ、作品を生み出しているのだ。高村薫はミステリー界の女王と呼ばれているらしいが、この雑文集を読んで、彼女の存在そのものがミステリーであるという想いを深くした。(40%くらいが引用になってしまったな・・・)

2003年6月3日火曜日

サイトで書くということ あるいは呟き

高村薫氏の「半眼訥訥」という本を読んでいてはっとした。
 
自分の気分を言葉で表現することで、とりあえず意見らしい体裁が整うのだが、客観的な比較検討や分析を加えられていないその正体は、以前として気分であり、個人の呟きの披見に過ぎない。そのことを、彼らが当分意識することはないだろうと思うのは、この社会と時代が、彼らの呟きとまったく同じありようをしているからだ。 「呟きの時代」(P.115)

これは、最近の携帯メールや掲示板でのありようを指摘したものだ。
 
以前、作家の村上龍氏が、違う文脈においてマスコミや日本のサイトを「日本語というものに守られて、国際競争や批判にさらされることのない環境」と指摘していたことを、さらに思い出した。
 
私がこうして、音楽や本の感想を綴るということも、高村氏に言わせるならば「呟き」の範囲を越えるものではないと、今さらながらにして思う。感情の赴くままに、個人的な考えだからと無防備にして無邪気な文章をしたため続ける、その行為はいったい何なのかと自問するに、これは感想という体裁をとった長大なる日誌に過ぎないのだと気づく。
 
自分で自分を納得させるために書くのということか。HPをベースにして発展的な話題を求めているわけでもなく、あたかも食べたものを吐き出すかのごとく、個人にしか意味のない文章を綴り続けているだけだ。
 
私のサイトに限らないが、そういうサイトは多い。特に日記サイトは(それが日本だけのものなのかは分からないが)、信じられないほどの数だ。中には小さなコミュニティを形成している幸せなサイトもあるが、関係ないものから眺めると、原始的にして局地的な小集団にしか見えないし、多くはムーブメントをつくるまでには至らない。私もそうだが、大きな集団などは求めていないのだから余計なお世話と言えばそれまでである。
 
意見らしきものを書くサイトにおいてさえ、仲間内にしか通じない話題に特化した時点で、それは表現や意見や主張などではなく「呟き」以外の何物でもないと思い知らされる。「呟き」は個人を慰め、浄化しはするが「他人の分析や評価に耐えない、稚拙な呟き」(同書 P.116)にそれ以上の意味は、おそらくない。思うに電子空間とは畢竟、精神空間の巨大な掃き溜めのようなものか。

2003年6月2日月曜日

高村薫:地を這う虫

高村氏の小説には、女性が出てこない、いや出てきたとしても重要な役割は与えられない。同様に若者たちも出てこない、いや、こちらも出ては来るのだが、今時の茶髪にピアスの若者ではない。例えば「神の火」では、暗い目をしてハンス・カロッサとかチェーザレ・パヴェーゼなど読む言葉少なげな若者だったりする。

とどのつまり、高村氏の小説の主人公は、おおむね中年男性ということだ。この小説集の主人公は、警察を何らかの理由で辞めた者たちである。彼らが第二の人生で過ごしている姿が書かれている。中年男性とは言っても、夜の歓楽街で憂さを晴らしているような男たち、欲望を制御できないでいるようなナサケナイ大人たちを高村氏は書かない。この小説に限らないが、高村氏の小説の主人公たちは驚くほど冷静で、そしてどこか覚めており、かつ純粋で、そして不器用だ。

現実の自分をある程度客観視しながら、一方で今の自分を百パーセント充足したものとは認めることができず、それでも現実を生き続けることしか出来ない姿として書く。これを《矜持》と呼ぶのか。矜持とは誇りであると言っても良いかもしれない。「ただ自分自身の小さな思いを守るためだけに、一人で滑稽な立ち回りを演じてきた男」(「地を這う虫」P.225) そういう男たちだ。そうした主人公たちの姿に感情移入してしまう。このような設定は、高村氏のファンをある読者層に限ってしまうのではないかとは思うのだが。

政治と司直の両勢力が引き合っているうちが花で、一旦バランスが崩れたが最後、自分は両手をなくすことになる」(「父が来た道」P.144)と小さなスパイ行為を行う男は考える。自分が精一杯に生きているその場さえ、相対的で危ういもの、もしかすると明日になると霧のごとく消え去る立場かもしれないという認識。これは「神の火」の島田たちの認識にも共通している。二重スパイが存在意義をもつ世界と、存在意義を全く失う世界、あるいは自分がカードになる時間と、まったく意味を失う時間。それらは、個人の努力や意思を超えたところで動いているという非情さと悲哀、そういう立場に居ながらも、何かを必至に守るために筋を通して行く姿。

ある程度の年齢を過ぎた中年の男たちにの中には、彼らの少し屈折した二重の姿に、どこか自分を重ねてしまうものもいるかもしれない。こういう男たちを極限にまで書いたら「神の火」に行き付いてしまう。しかし、ここの短編集の男たちには、まだ救いが残されているようだ。

高村氏の小説には「自分とは何者なのか」という問いが常に投げかけられている点において、重く深い。

2003年6月1日日曜日

高村薫:神の火(文庫版)



いったい、彼らは、ドラマの終わりまでに何本のウォッカを空けたのだろう。ウォッカという酒は、どこか他を寄せ付けない厳しさと純粋さを持っている酒だと思う。辛口であり、かつ強いスピリッツだ。冷凍庫に入れてボトルに霜がつくほどに冷やしておくと、グラスに注いだときにトロリと粘度を帯び、一くち含むだけで、芳醇なる甘さと清涼感、そして妬けつくような香りを感じることができる。当然、水で割ったりしない。

しかし、何本ウォッカを空けたところで、小説の主人公たちの空虚さは満たされることはない。ウォッカなどで満たされるわけがないほどの空虚さとは、いったい何なのか。

物語は、島田というスパイを中心にした男たちの物語だ。彼らの抱えた過去について、あるいは、なぜ彼らがスパイあるいは二重スパイにならなくてはならなかったのか、そういうところは、全く描かれていない。最初から彼らはそういう存在として登場し過去を多く語らない。高村氏の小説のこういうところを、不満に想う読者もいるようだが、私は気にならない。過去を語れば現在が見えてくるほど単純なものではなかろうと想うからだ。

スパイを演じることの悲哀は、主人公島田の姿を追っていると、痛々しいまでに重くそしてつらい。

一部分だけの裏切りというのはあり得ないんだよ。妻を愛しているスパイ、親を慈しむスパイ、親友を持っているスパイ。そんなものは言葉の正しい意味で、あり得ないのだ

とは江口が島田に語った言葉だ。島田が最後に元同僚のベティさんと対峙するシーンは痛々しさを通り越している。

また、CIA、KGB、《北》、日本の政府・・・入り乱れての駆け引きからは、日本の政治の生々しい実像や、国家と言うものの危うさ露呈させれてくる。こんな着想を、高村氏はどこから得たというのだろうか。

あるいは、これは男たちの愛の物語でもある。いかにも高村氏のテーマだ。友情なのではない。例えば島田と良(パーヴェル)、島田と島田をスパイに仕立て上げた二重スパイの江口、島田と屈折した幼なじみの日野、島田と島田をスパイとして育てたヴォリス・・・。これらの島田を中心とした男たちは、巨大な虚構と虚無を抱えながら、何かを守るために策謀し、世間からはずれたギリギリのところで己を生きている。彼らの間にあるのは、狂おしいまでの男の愛憎の感情だ。なぜに、島田が良を、そこまで想うようになったのか、そのわけは一度読みとおしただけでは、見えてこなかった。おそらくは、彼の空虚さに嵌まり込んでしまったのだろうか。

この作品も文庫本化に当たり、大幅に改稿されてしまっている。単行本作品において、彼らの関係がどのように書かれていたのか、興味はつきない。というのも、男たちの愛憎というものが、原作ではもっと生々しく書かれていたのではなかろうか、と思ってしまうからなのだが。

あるいは、これは、男たちの、止むに止まれぬ精算の物語でもある。それが自分の不実の過去なのか、男としての頑固な思いこみなのか、埋めることのできない空洞の故なのか、単純な破壊衝動なのか、または社会の脆弱性に対する反抗なのか、愛への証なのか。そのどれと特定することはできない。しかし、もはや理由も問えず、しかも止めることもできない感情の奔流は、おそるべきカタストロフとしてのクライマックスと、救いのない破滅のラストに向って行く。

こういう小説を「エンターテイメント」とか「スパイ小説」と読んで良いのだろうか。果して、この作品は、先の「黄金を抱いて翔べ」との類似点が非常に多い。ほとんど設定は同じではないかと思う部分も多い。しかし、「黄金を抱いて跳べ」の方がまだ軽く、そして救いがあった。「神の火」を読み終わった後の感想は、虚しさとそして開放感による安堵が支配する、何もない世界だった。こんな哀しさはめったにあるものではない。

彼女の小説が、熱烈なる人気があるわけが、本小説を読んで分かった気がする。細部が凄い、全体のプロットが面白い、そして人間たちが魅力的だ。ひとりひとりの顔や姿が目に浮かぶようだ。マニアックにこの小説を語り始めれば、一行一行を追いながらウォッカの瓶を傾けなくてはならないだろう。物語の意味を問い始めれば、深夜からじっくりと読み据えなくてはならない。そういう意味からは、まさにエンターテイメントの極致である。

レビュを書いたが、語ろうとしても語りたいことの十分の一も語れなかった。何かの機会に反芻したい。