ムラヴィンスキー/交響曲第6番『田園』、ワーグナー:『ワルキューレの騎行、ほか
- ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調『田園』
- ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』より 前奏曲と愛の死
- ワーグナー:楽劇『ジークフリート』より 森のささやき
- ワーグナー:楽劇『ワルキューレ』より ワルキューレの騎行
- 1979年5月21日東京文化会館
- ムラヴィンスキー(指)レニングラードpo.
- ALT063
これは芸術を愛し、芸術に耽溺する人間なら、拝跪するしかないような、最高の芸術である。こんあ芸術は人間から平和を奪う。社会性を奪う。常識を奪う。それどころか、人間を狂わせる。(許光俊著「オレのクラシック」 P.126)
おなじみの許氏による評であります。彼特有の眉唾かハッタリを覚悟しながら聴いてみたのですが、《田園》には全く恐れ入ってしまいました。《田園》を聴いてこんなに感銘を受けるとは、思ってもみませんでした。といいますか、こんなにも素晴らしい曲であったのかと再認識した次第です。
西岡昌紀氏や音楽評論家の平林直哉氏が1979年当日の演奏会終了後の様子を含めて解説を書かれていますが、言語を絶する演奏であったことはCDを通しても伺い知ることができます。演奏会に接した人にとっては、生涯忘れることのできない経験になったようです。
音質はムラヴィンスキーにしては良いとのことですが、強音部は割れていますし客席のノイズも大きく録音状態は決してよくはありません。再生装置にもよるでしょうが、私の安価なCDコンポでは随分と硬質な音に聴こえてしまいます。「繊細さ」とか「柔らか」さとは無縁な無骨な演奏に聴こえる怖れもあります。
そういう録音でありながらも「しかし」なんですね。ムラヴィンスキーの《田園》から聴こえてくる音楽を一体なんと表現して良いのか。いや言葉で表現するということを超えている音楽世界です。実のところ私は何と、第一楽章から終楽章までずっと打ちのめされ放しで、涙腺のタガ外れてしまったのではないかと自ら訝しんだほどです。
演奏は決して煽るようなことはしてはいません。淡々と進むのですが、そこには《田園》というのどかなイメージとは違った確固としたベートーベン的世界が屹立しているのです。《田園》という標題や田舎風景の奥に隠されたベートーベンの苦悩と悟りと希望、しかしそれを表立ってあからさまに表現することはせず、演奏を通して分かる人に語りかけるといったような、そんな演奏なんです。
西岡氏はムラヴィンスキーの音楽を特徴付けるものが「孤独」であるとして、
この《田園》には、ムラヴィンスキーの孤独な感情とその孤独を乗り超えようとする強い意志のようなものが感じられる。孤独は彼の音楽の最も重要な感情要素
と解説に書かれています。孤独はムラヴィンスキーの音楽を彼の音楽にたらしめて来た彼の芸術の秘密である
と西岡氏は指摘します。彼の指摘に全面的に首肯できるほど、ムラヴィンスキーの演奏に接してはいないですし、この盤に納められたのがベートーベンの音楽なのかムラヴィンスキーの音楽なのかという議論もありましょうが、《田園》がかくも「名曲」であることを示し、さらにムラヴィンスキーの音楽の峻厳さ、それとは逆の優美さを聴かせるたという点において類稀な名盤であると思います。
誰もが絶賛している「ワルキューレの騎行」は、ライブを聴いていたならば、あたかも超新星爆発を目の当たりにしたかのようであり、演奏会の後はブラックホールが生じたかのような虚脱状態になっていただろうと想像いたすほどです。