私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
2006年6月11日日曜日
パンドラの箱
syuzoさんのコメントにレスしていたら長くなってしまったので、エントリとします。(>読み返したら、ちっとも「レス」になっていませんでしたが・・・)
梅田氏の本を読みながら、ふとe-mailを仕事で普通に使うようになったのはいつだったかと、振り返ってみた。今でこそ社内、社外を問わずe-mailの存在なしには業務は出来ないほどになったが、私にとってのe-mail使用歴は、たかだか10年も経っていない。
今から10年前といえば1996年。我が社は阪神大震災(1995年1月)を契機に、社内ネットワークの重要性にやっと気付いた時期である。そういう本社から支店に戻ったばかりの私は、部内や部外にネットワークのメリットを啓蒙者のように説き、実践し結果を示さなくては、その本質を誰も理解してくれなかった。NEC N5200シリーズのLAN-FILEで構築されたていたデータベースをWindows95で動くACCESSに変換し、当時流行しはじめたISOに対応した部内RDBシステムを独自で構築し、誰でもが自分のPCから使えるようにした。Niftyはまだ隆盛を誇っていた。FCLAやFCなどの存在は懐かしい。パソコン通信は日常生活の一部であった。
15年前といえば1991年頃。携帯電話はまだ一般的ではなく、肩から箱のようなものを提げなくては使えなかった。PCのOSはMS-DOS3.*で、私のパソコンに対する関心は、テキストファイルをいかに効率的に扱うかであった。sedやawkなどのunixから転用されたスクリプト言語を四苦八苦しながら使っていた。テキスト入力はお決まりのVZ Editor。C言語やC++を趣味と見栄で覚え、TurboC++を使って愚にもつかないプログラムをいくつか作った。パソコン通信にどっぷり浸かり、見ず知らずの人と繋がる快感を覚えていた。
20年前といえば1986年。パソコンは職場には存在しなかった。ワープロを使う人は先端的と思われた。今ではパソコンで動くような技術計算プログラムを、支店から本社にあるホストコンピュータをタイムシェアリングで夜中に動かしていた。新しもの好きな上司が使うワープロを見せてもらったら、ほとんどラインエディタであった。1988年頃から社内では電話回線を使ったワープロ通信が情報交換ツールとして実験的に使用されはじめた。東芝RUPOを自分で買い、社内ワープロ通信やチャットにのめりこんだことで、ブラインドタッチを覚えた。社内ネットワークを拡充したり、Niftyのフォーラムに入り浸ったりしていた。
それ以前、学生だった私は、卒業論文は手書きであり、梗概は事務の女性が活字を組んでガシャガシャやっていた(なんていうんだっけ、あれ?)
私の本来業務は情報システム関連であったことは一度もない。開いた「パンドラの箱」はITだけの世界ではない。従来「固定」「不動」と思われたものが「流動化」したことによって世界は激変した。
ではこれから、5年、あるいは10年先の「仕事の仕方」を想像できるだろうか?何は変わって、何は変わらないのだろうか。企業の本業とは何だろうか。日本の強みとは、そのとき、どこにあるのだろうか。
ちなみに、独学で苦労して覚えたAccessやらC言語は、自分で使わなくなったら綺麗さっぱりに忘れてしまった。あたかも一夜漬けの勉強のようなありようである。