砧公園内にある世田谷美術館で宮本隆司氏の初期から最新作まで集めた包括的写真展が開催されていると知り、早速行って来ました。
宮本氏は1986年、まさにバブルが始まろうとする頃に<建築の黙示録>という、近代建築の解体現場の写真を世に問い、強烈なインパクトを与えてくれました。チケットの写真は、その写真集の中の余りにも有名な《ベルリン大劇場》です。
宮本氏の写真は、ちょうど私がカメラや写真に興味を持っていた頃とラップしており、また私の生業が建築に携わるものであるため、当時から注目していた写真家です。最近の廃墟ブームなどとの関連において、宮本氏の写真についても考えが及ぶこともあり、そういうもろもろの意味から展覧会には期待を抱いておりました。
宮本氏の写真を語る上で避けて通れないのが<建築の黙示録>で示された廃墟的イメージにあることは論を待たないのですが、それに続く<九龍城砦>や<アンコール>などの写真群を眺めていると、いわゆる皮相的な廃墟美に留まらないメッセージ性を強く感じることができました。
確かに宮本氏の細部にまでピントの合った廃墟写真は、光と影のコントラスト、作品全体を支配する静謐性とともに独特の美意識に貫かれているため、廃墟写真家の先駆者としてもてはやされたり、あるいは<九龍城砦>に示されるアジア的都市像が、映像作家などに与えたであろう影響についても想像はできるのですが、それだけを宮本写真の真髄と考えることはできないようであることを、おぼろげに感知できました。
解体中の建築物という無機的なものを扱っていながら、彼の写真が極めて有機的に見えるのは不思議なことです。それは本来晒すべきではなかった内実が、解体現場において白日の下に露呈し、声無き軋み声を上げているのを写真を通して聞くからでありましょうか、あるいは<アンコール>に見られるように、無機的な遺跡の表面を滴り這い回る植物の逞しき生命力に慄くからでしょうか。
彼の写真に貫かれているテーマについて私が感じたキーワードは「表と裏」「光と陰」「解体と再生」「無機と有機」「実像と陰画」「喧騒と静寂」、ひいては「死と生命力」という相反するイメージです。これらのキーワードから宮本氏の写真史を読み解くならば、彼が写真媒体というものを自覚的に選択し、カメラのもつメタファー的イメージをも写真のテーマにしていること、さらには彼のコンセプトそのものを具現化した昨今のピンホールカメラに至った経緯や、ヴェネツィアの街を上下反転させた定点カメラで撮影した実験的ビデオ作品の意味も分かってくるように思えるのです。
写真展のパンフレットにある「壊れゆくもの・生まれいずるもの」という副題は、さすがに彼の写真を語る上で適切であると思うのですが、では彼が期待した「生まれいずるもの」が何であったのか、「壊れゆくもの」に彼はノスタルジーと哀愁を感じているのか、という点は私の中で未だ疑問として残っています。
<ダンボールの家>というホームレスの住宅を撮影した一連の写真も象徴的です。宮本氏はもともと建築写真家として出発したのですが、その彼が解体写真を経て、世の中で最底辺と言ってもいいようなダンボールハウスを撮影しているのはどういうことなのでしょうか。写真から私が感じるのは、建築としての意味とか形態といものよりも、都市のどこにでも「生えてくる」植物のような逞しき生命力です。
ただしここでも彼の写真は錯視を及ぼすほどに、これらホームレスの家が、本来は喧騒の都市の中にあり、周囲には悪臭を放っているであろうに、写真世界は極めて静謐であり無臭であり、そしてそれ故に現実から隔離されているように見えることには注意しなくてはならないかもしれません。そして、彼が解体現場で何かの喪失を暗示した末が、現代の東京に出現しているモダニズムの極地のような建築群にはなく、ダンボールハウスに向かったことは興味深いことであると思います。
最後に展示されていたピンホールカメラに至っては私は仰天の域に達しました。上下反転した巨大な青色の世界は到底この世の世界であるとは思えず、世界の裏側からこの世を見たような凄みに満ちています。ピンホールカメラとは、すなわち大きな箱を作ってその中で直接印画紙に焼き付けるという、写真の原点に戻ったような所作をして出来上がったものですが、行為そのものが作品として現れていることには驚かざるを得ません。
彼の写真世界を支配している静謐性は宗教的な意味合いさえ帯びてきて、ありふれた景色が、あたかもこの世を反転した蜃気楼のように思えてくるのでした。
そうして思いを巡らすと、成る程と思うのは、写真展のはじめに展示してあった<神戸 1995>の地震によって倒壊した巨大な写真です。これはほぼ実物大の大きさの写真を、短冊状に切り裂き展示しているのですが、作為的な展示の仕方によって、写真はバーチャルなリアリティを喪失させられ、写真と私の居るところの間には決然とした境界が設けられているのです。まさに写真を知り尽くした写真家の成せる技といえるかも知れません。