2001年3月19日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ニーヨーク・フィルによる交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:Aug 1986
DG UCCG-9028(国内版)

このバーンスタイン86年の演奏は、とにかく遅いことで知られている。バーンスタインは通常45分程度のこの曲を約1時間かけて演奏している。特に第4楽章は17分と通常の倍近い遅さである。その点だけをとっても、好き嫌いの分かれる演奏だと思う。

��Dの解説によると、「レニーはチャイコフスキーの《悲愴》交響曲を指揮するとき、彼と一緒にオーケストラのメンバーの半数と、聴衆の半分が泣かなければ満足しませんでした」(ニューヨーク・フィル首席コントラバス奏者、ジョン・ディーク、バーンスタインの死後に行われたインタビューから)とある。バーンスタインがチャイコフスキーにこれ以上ないと思えるまでに感情移入し、交響曲もつ「情」の面を強調した演奏であり、曲への深い思い入れを十全に表現しきったという意味からは、比類のない名演であると言える。しかし、バーンスタインが表現した世界は、チャイコフスキーの提示した世界を凌駕しているとさえ言えるものであり、純粋にチャイコフスキー的なものを求めると、過剰表現と感じるかもしれない。

遅いことで有名な演奏ではあるものの、全体を通して良くこの演奏を聴いてみと不思議なことに数値ほどの遅さは感じないものだ。それは説得力をもったテンポであるために、聴くものを掴んで放さない力がある。もっとも、彼の描き出した世界を素直に受け入れれてしまうからそう感じるのであって、逆にいえば、この世界を受け付けなければ、「死ぬほどトロイ、ただ眠くなる」という感想も生じることも否めないだろう。

第一楽章はやはりこの交響曲の聴きどころのひとつだ。何度聴いても新たな発見に満ちている。第一主題は最初遅いテンポで奏されるが、次第に普通のテンポに近くなっている。第2主題も朗々と、(これでもかとばかりに)情感たっぷりに歌われている。この数分間で既にバーンスタインの魔力から離れることはできなくなってしまう。展開部の圧倒的な迫力は、何もかも押し潰すかのような重みを持って迫ってくる。あたかも煉獄の響きのようで、その向こうに神々しい存在まで感じてしまう。もはや畏敬の念に打ち震えてしまうようだ。再現部に入る前のティンパニの強打は運命の扉あるいは裁きの決心の槌音であろうか。再現部自体は、神の前の裁きに対するチャイコフスキー自らの弁明や告解にさえ聴こえてくる。最後のコーダでは不思議な光に包まれた至福の世界が、やはり見えてくる。

第二楽章のワルツも、遅いといえば遅いが気になるほどのものではない。非常に優しく歌っている。第二主題にしても、思ったほど情感たっぷりには歌っていない。 第三楽章は、この楽章のもつ躍動感やエネルギーは失ってはいないため、もどかしさは感じない。もともと、この楽章の存在意義がどの演奏を聴いても首を傾げざるを得ないのだが、ことさら戦闘的ではない演奏の方がしっくりするように思える。

第四楽章のテンポは、深い慟哭と魂への慰めが延々と奏されているように聴こえてくる。バーンスタインの演奏を聴いてしまうと、1~3楽章は終楽章のために存在していると思えてくる。1楽章はもちろん、2楽章の華やかなワルツや3楽章の勝利も、今までの人生の縮図を垣間見せているかのようで、4楽章で提示される深き悲しみの前では幻世のごとき儚さで回顧されるのだ。演奏が暗く遅ければ遅いほど魂は慰められ地上の煉獄から逃れることができるかのようである。最後に鳴らされるタムタム(銅鑼)は、この世との静かなる決別だろうか、何たるネガティブなアダージョであろう。

チャイコフスキーが最後に到達した世界がこの第四楽章であるとするならば、今まで誰も示さなかったような無情なるアダージョへの最大限の敬意がバーンスタインの演奏からは感じられる。

ここまで指揮者の主観や情感を打ち出した演奏を、名演と解釈してよいのかという問いも発せられるかもしれない。「バーンスタインが指揮すると、何でもマーラーのようになってしまう」との揶揄ともとれる評も目にしたことがある。でも、個人的にはそれ是とする立場である。