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2001年6月12日火曜日

大阪の小学校 殺傷事件で思う

大阪の小学校襲撃事件のような事件が起こるたびに「精神鑑定」とか「心神喪失」「刑事責任能力」などの問題が持ち上がってくる。心情的には、「人を殺傷せしめた者に人権などあるか、殺された者の人権をないがしろにするような犯人の人権やら責任能力を議論するのは片腹痛い」という極論に傾く気持がないわけではない。(一時的に)判断能力が欠如していたとしても、何の罪も無い8人の子供を殺した犯人に弁護士が付き、税金を使って事件の真相を何ヶ月以上もかけて追究する必要があるのか、彼を更生させることが社会的に意味あることなのかと疑問を感じないわけではない。

しかしだ、ちょっと冷静にならなくてはならない。こういう考え方は危険な極論なのだと思う。もしそのような社会であったとしたら、つまり、情状酌量の余地のない犯罪を犯したら、即刻極刑に処せられる社会だとしたら、我々は恐ろしくて生きてはいけないのではなかろうか。そもそも、前提条件の「情状酌量の余地のない犯罪」というのは誰が客観的に証明するのか。はたまた、冤罪である可能性はないのかなど。

それだけに、重大事件が起きたときの対応については、深い議論が必要だろう。個人の命ばかりか、その周りの人たちの生活や夢を全てこなごなに砕いた責任をどう負わせ償わせるのか。犯人の死だけが償いになるとは思えない。

今回の事件は、① 精神鑑定の結果、心身喪失状態で責任を問えないとされた犯人の処遇 ② 措置入院させた場合の患者のフォロー体制 という点を考えさせるきっかけになるのかもしれない。学校の安全確保ということや、宅間容疑者のような人間を生み出さない社会の実現(鳩山代表)ということも議論されねばならないだろう。後者の議論は、倫理面と制度面の両者で考える必要があろう。倫理面での追求をするためには、犯人を詳しく調べる必要が、あると思う。

また、責任を問えないとした刑法(第39条)に問題があると思うのだが、そもそも精神鑑定の客観性などにも問題があるのかもしれない。

ただ、これらの議論が「犯罪を起こすおそれのある者を隔離する」という制度に行き着くことには、不安と恐怖を覚えないわけでもない。それを誰がどうやって判断するのか、中世の「魔女狩り」を彷彿とさせる情景がよぎるのは考えすぎかもしれないが。

少年犯罪と少年法の問題も含め、日本の社会はかつてなかったような、凶悪犯罪の増加を経験しつつある。大昔に作られた法律では現在の犯罪状況に対応できにくくなってきていることだけは確実なようだ。この問題になると、私はどちらの立場を取ってよいのか分からず混乱するばかりだ。

それにしても、何度もニュースに接するたびに、やりきれなさと凶悪犯罪に対する無力感に言葉を失ってしまう。

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