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2004年4月29日木曜日

「間違った歴史認識」

4月28日の産経新聞の主張(社説)です。


旧日本軍が中国に遺棄したとされる毒ガス兵器で死傷者が出たとして、中国人被害者らが日本政府に損害賠償を求めた訴訟の控訴審が東京高裁で始まった。

(本文すべて略)

その結果、賠償請求は棄却されても事実認定で原告側主張が認められ、史実の誤りが独り歩きするケースが少なくない。

(さらに略)

間違った歴史認識は教科書の記述を歪(ゆが)める。法務省はこれからも、法律論だけでなく、歴史事実の認定についても積極的な反論を試みてほしい。


産経新聞の持論の(飽きるほどの)積み重ねですね。私はそこまで勉強熱心ではありませんので、貴方が学んできた歴史認識が間違っていると言われましても、「はいそうですか」とはなかなか受け入れがたいのですが。


いずれにしても、産経の方々は、日本の誇りと強さを回復させることにご尽力されているわけでして、さらに国際社会の中で中国、北朝鮮に屈することなく確たる国家観を樹立させる強い意志をお持ちであることには深い敬意を覚えはいたします。

「反日」


人質事件――「反日」とは何ですか』と題する4月28日の朝日新聞の社説です。


「人質の中には、自衛隊イラク派遣に公然と反対していた人もいるらしい。そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは、強烈な違和感、不快感をもたざるを得ない」

 自民党の柏村武昭参院議員が参院決算委員会の質問の中で、そう述べた。
��中略)

自衛隊の派遣に異を唱える者はみんな反日だ。そんな連中はどんな目にあっても、放っておけばいい。柏村氏の発言はそんなふうに聞こえる。

 「反日」とは、なんだろうか。



柏村氏は人質になったことを「反国家的」「利敵行為」とも述べた。まるで戦時体制のような言い方だった。


つらつら考えるに、時代の空気なのでしょうか。「非国民」という言葉だって、普通に使われるようになるのではないでしょうか。やっぱりオカシイと思いませんか、私は思います。自らが自由を少しずつ狭めているのは、日本という国の閉塞感と見えない圧迫感から来るのでしょうか。

人質パッシングの海外の見方とか

4月23日のLetter from Yochomachiで紹介していたThe New York Timesのイラクの人質3人に対するパッシングについて書かれた記事は『反日日系人(?)による自作自演』であるとするブログを見つけました。


社怪人日記2004」と「リアルじゃ他人には話せないこともあるし。」というサイトですが、記事を書いたのが「NORIMITU OONISHI」という日系人東京支局長であるという点と、朝日とNTは記事提携をしている点のみから類推し『それだけでストーリーが見えてしまいます』と書いています。





築地周辺の情報だけニューヨークや世界に流さないでほしいなぁ。(社怪人日記2004)



朝日のマッチポンプにはいい加減うんざりです。(リアルじゃ他人には話せないこともあるし。)


Letter from Yochomachi氏のサイトは毎日チェックしているのですが、これも最近ですが仏ルモンド・ディプロマティックの記事を紹介したエントリーに対して、記事の執筆者が「進歩的左翼」の「東京特派員記者」である点を突き、ルモンドの記事は偏向していると指摘するコメントが付けられたこともありました。これらを読むに付け、どうしても自分の論理に優位なように難癖を付けたり裏を勘ぐっているような、つまり相手に全く敬意を抱かず不信感ばかりを表明することに何だかなあと思っていたら、また続きがありました。


Letter from Yoshimachiの4月27日のエントリーでは『保守派でタカ派のリチャード・コーヘン』氏によるWashington Postの記事を紹介しながら、小泉政権や一部の日本人が人質パッシングに走ったことに大きな違和感を感じているというものです。記事には疑問点もあるのですが、アメリカの保守系の方の日本に対する端的な見方が露呈されているようで、これはこれで衝撃的ではありましたが。


人質パッシングを積極的に行った方々や、ルモンドや朝日新聞を保守系の方は目の仇にします。中国の文化大革命や北朝鮮を擁護した朝日新聞を、毛嫌いすることは仕方ないのかもしれませんし、赤旗をはなから相手にしない気持ちもわからないでもありません。


しかし、軸足の定まらない私のような浮遊層にとっては、どの新聞や雑誌であっても思想的な色や、ゆるやかであっても一定の編集方針があることはおぼろに理解できますし、朝日も産経も読売も思想的プロパガンダを展開している点では(程度の差こそあれ)大差はないように思えているため、どうしてそんなに目くじらを立てて「自作自演」だとか「マッチポンプ」だとか言って感情論的な展開をするのかが理解できません。これこそ、文化の違いなんだろうかなどと同じ日本人でありながらも、彼らとの間に横たわる溝の深さに呆然としてしまうのですが、いかがでしょう。


浮遊するのはいだたけないのですが、色々な視点の中から日本をどう捉えるかということこういうことこそ問題であると思うので、日々のくだらない仕事に追われつつも、ふと立ち止まって考えてみたりするのですが。・・・と何だかまとまらないエントリーになってしまいました。仕事しながら缶水割り飲んでいたので脳が開いてしまいまひた。

2004年4月26日月曜日

札響の財務体質改善とかPMFのニュース

Yahoo! ミュージックを読んでいたら、札幌交響楽団の財務体質が改善され2003年決算は黒字の見通しであることを知りました。札響はかの屑同然となったアルゼンチン国債などの運用の失敗やら何やらで、数年前はゴタゴタしておりましたが喜ばしい限りです。

記事によると定期も2日制になるとのことで、北海道のクラシックファンの裾野が広がることに繋がると良いですね。

PMFに関する記事ものっていましたが、新しい野外音楽ステージもできたのですね。500席の椅子席に屋根がかかっているのだとか。(写真の手前は雪!か?)

私も何度か野外コンサートに行ったことがありますが、天気さえよければ芝生に寝転んで聴けるクラシックというのは結構贅沢でありした。赤ん坊は鳴いているし空ではカラスも鳴いていますが、それもよしです。

キャンプ用の椅子とテーブルを持っていってワインでも飲みながら聴くことが許されるなら、ちょっとしたお抱えオケ気分を味わえるかもしれません(>飲み食い禁止ではなかったと思いますが、演奏者に失礼か?)

ただ、野外音楽でマーラーの「夜の歌」とかR.シュトラウスとかは今ひとつでしたね。野外音楽の場合は、あまり難しい曲でなく気軽に楽しめる曲の方が良いとは思います。そういえば今年のPMFはゲルギエフが来るのですよね・・・ギャラがどうなっているのか少し心配・・・

2004年4月25日日曜日

産経の自己責任ということ2

4月25日 主張より。被害者の自己責任について『個人の自由を考える上で、避けて通れない問題』とし、

被害者がイラク入りした目的は問題ではない。どんな崇高な目的であれ、自分の判断でイラク入りを選択した以上、責任は自分にあるのだ。もちろん、そうであっても、国には邦人保護の義務がある。

と書く一方で、

家族は反省し、政府と国民に迷惑と心配をかけたことを謝っている。反省していないのは、家族の当初の発言を利用し、自衛隊撤退論に結びつけようとした一部マスコミである。

と批判の矛先をそぞろ朝日をはじめとするマスコミに向け始めています。産経の主張する「責任」とは何をすることなのかと考えてしまいます。

この自己責任という言葉は、最近は金融関係でよく聞かれるようになりました。例えば企業年金を止め確定拠出年金移行した企業は、社員に対して「掛け金の運用については自己責任が伴いますと」説明しておりました。損をしても会社はもう面倒みないよと。彼らや家族の負った責とは・・・既に十分という気もしないでもないのですが。

なぜもう下火になっているこの問題を引きずるのかというと、今回の一件で私の考える方向というものが、どうやら多数はではないこと、ネットでは暴言流言が横行し、私を含め感情論的にある方向へ意志が誘導されてしまう危険性を感じたこと、マスコミも一斉にある論調に傾いてしまうこと、政府の大本営的発表とは裏腹に実像が全く見えなかったことなどイロイロ知ったからであります。

マスコミといえば、特に朝日のスタンスは軸足がぶれがちであること、産経を筆頭に他のマスコミは朝日が大嫌いであること、赤旗は相変わらず相手にされないどころか嫌悪されている(文春)ことも改め分かったからでもあります。

無為な一日

久しぶりに仕事をしなくても良い土曜日、昨日友人と飲みすぎて何もやる気がしない。HMVのサイトをうろうろして以下の二つをネットショッピング。

  • レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団 プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》全曲
  • レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団 ワーグナー:楽劇《ラインの黄金》全曲

  


レヴァインのワーグナーは《ジークフリート》《ワルキューレ》は既に入手済なのだが、《神々の黄昏》だけが店頭にもネット上でも見つからなくなってしまった、店頭で見つけたときに買っておくべきであったと後悔。

暇なので電車に乗って池袋のHMVへ(笑)。廉価版でも物色しようと思ったが、封を切っていない盤がいくつかあることを思い出し買い留まる。クラCDに関しては「プチ中村うさぎ」状態になりつつあることに気付き愕然。

東武の旭屋書店に行って、CLASSICAの飯尾さんが勧めていた糸井重里の「オトナ語の謎」を立ち読み。嫌になるほど「オトナ語」に染まっていることを再認識。雑誌「サライ」で白洲次郎の特集を見付けたので、つらつら斜め読み、いやはやカッコいいね。あとフラフラと適当に立ち読み、結局何も買わない。


東武メンズフロアで春もののジャケットやパンツを物色、今月は歓送迎会が多く散財しているので見るだけ、着るだけで早々に切り上げ。江古田に行って散髪、自動洗髪機というのが非常に快適。皿洗い機に入れられた皿になった気分。

帰りがけに本屋(またかよ)で、ロジェストヴェンスキーとゲルギエフの名前が表紙にあったので「MOSTLY CLASSIC」を購入。いつの間にか1000円になっているしDVDが付いていることに驚く、かつては無料配布の新聞だったのにな。帰ってから付録のDVDを観る。カラヤン/バッハ名曲集でカールハインツ・ツェラー氏が奏でる華麗なフルート(管弦楽組曲第2番「パディネリ」)に感動したが、他はつまらなくて途中で止めてしまう。

ツェラー氏の「パディネリ」でも微動だにしないアンブシュアに驚嘆し、しばらく練習していなかったことを恥じながらフルートの運指とか曲集を少し当る。久しぶりだと指とか首とかすぐ痛くなるのでうんざり。

読みかけの「イラク 戦争と占領」(酒井啓子:岩波新書)を取り出して読むが、やる気のおきないときは数十頁で眠くなる。

買ってから封を切っていなかったシャイーのマラ3を聴く、第一楽章の素晴らしさに呆然。

しかし相変わらずとてつもなく長いので途中で寝そうになってしまう(というか寝た)。レビュを書こうと思ったがマーラーは下手のことを書けないし、だいいち今日は何もする気になれない日だ。それでも、あまりのマーラーだなと思い、テンシュテット/LOPのマーラーを取り出して触りを聴いたりして納得した気になる。

という具合に、とてつもなく無為な一日でありました。

2004年4月24日土曜日

読売の自己責任ということ

4月16日 編集手帳より

◆自分なりの目的があっての旅だと三人は言いたいだろう。正しいと信じる目的のためならば手段は常に正当化される――といった幼稚な理屈はテロリストと狂信者だけにとどめておきたいものである


なるほど、アメリカの中枢部(おそらく右派)は、イラク(中東問題)について正しいと思ったことを強引に進めているわけですから、ブッシュを含む一派は幼稚でテロリストで狂信者ということですか、読売もやっと分かったぢゃ無いですか。

産経の自己責任ということ

4月23日 産経抄より


人質の多くは反戦活動家といわれている人で、日ごろは国家や政府を否定し批判している。その人たちが、いざ困った時は国家が自分を助けろというのは少々虫が良過ぎはしまいか。


例えば人質になったのが、小泉政権方針に全面的に賛成し、自衛隊派遣を是認し、NGOとして自衛隊の人道支援を後方から直接的に支援したいという意志でイラク入りして拉致されていたとしたら、産経を初めパッシングする方々はどのように反応するのでしょうか。




産経の主張は、親の金で生活しながら、社会や親に反発するのは「自分で稼げるようになってからにしろ」と。会社の方針に合わなくて批判する者は、給料を貰いながら批判しているわけで「虫が良過ぎる」と。国家の保護を受けながら安全を保障されているくせに、その制度を批判するのは「勝手すぎる」といことですよね。

4月17日 産経抄より


それどころか三人は「これからもイラクで活動したい」とか「撮るのが仕事なんだよ、おれは」などと語っている。自分勝手もいい加減にしてもらいたい。これ以上わがままを通すなら「何があってもお国に助けを求めない」の一札を入れよ。


なるほど、一札入れれば何をしても構いませんか。逆に一札入れなくては政府方針に反することは一切まかりなりませんか、「いい加減にしろ」「勘当」なわけですね「はねっ返り息子や娘」は。


政府批判組だからやはり自己責任ですかね。

海外盤洋楽CD輸入禁止!? 2

すでにあちこちのサイトやブログ、MLで話題の件ですが、参議院を反対なしで通過してしまったそうです。本件については、詳しいことを私が言及するよりも、以下のサイトを紹介しておくだけで十分かと。

MEMORY LAB WEBSITE賛成191、反対0

ちょっと長いのですが引用させていただきます。


今回の著作権法改定は小泉政権の「知財立国宣言」のもとに押し進められている。政界で旗を振っているのは、自民党のコンテンツ産業振興議連会長である甘利明衆議院議員だ。彼のホームページにはこう書いてある。「特許や著作権を戦略的に駆使して産業の競争力をつける、たとえ高くても日本のモノを使うしか方法がない"オンリーワン政策"の構築です」。これが彼の考える「知的財産国家戦略」であるという。

ところが、「高くても日本のモノを使うしかない」というのは海外においての日本製品の競争力のことを指しているのではなかったわけだ。これから日本の洋楽ファンが「高くても国内盤を買うしか方法がない」ことになるのだから。そして、その中身は欧米からライセンスされたソフトであり(CCCDの場合はその特許もだ)、外資系レコード会社の場合は、原盤のライセンス料は日本の税収には繋がらない。




あと以下のブログにも関連リンクがあって、そこから辿っていけば便利です。


いかんともしがたい


本当にいかんともしがたいです。

ロジェストヴェンスキー/チャイコフスキー交響曲第4番

  • 指揮:ロジェストヴェンスキー
  • 演奏:レニングラード・フィル
  • 録音:1971年9月、Royal Albert Hall, Live

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

ほとんど「バカじゃないのか」と思うほどの演奏です、凄まじきは第四楽章。フィナーレの音が未だ鳴っているのに、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの観衆は歓喜と怒号を抑えることができないでいます。

もともとチャイ4の第4楽章は明るさとお祭り騒ぎの曲なのですが、ホールの底が抜けてしまうのではないかという強烈な音響から始まる演奏は、CDという固定された媒体を通しても「ブッ飛び」具合が伝わってきます。第四楽章中間部(5分40秒)で大打撃と休止が繰り返されるとこなどは、シンバルとティンパニとチェロの背板で脳天をぶん殴られたような迫力です。

金管も打楽器も弦楽器も、こんなに粗々しくも強烈な音を出せるものなのかという、一つの限界にまで達してしまっている演奏と言えるかもしれません。トロンボーンなど音が割れる寸前です(というか既に割れているかもしれない)。粗々しいだけならばそれほど感心しないのですが、憂愁を込めて歌うところも、重厚な音響に支えられていてなかなか聴かせてくれます。

落ち着いて聴き返してみれば、一楽章の悲愴さと暗さと重さも凄まじい、鬼気迫るものを感じます。もはや個人の苦悩などというものよりも、抗うことのできない狂暴性や残酷さまでも感じます。しかしここでも決して演奏が雑なわけではなく、木管が優しげにテーマを歌うところの裏の歌わせ方やピアニッシモの表現など、なかなかです。

��Dの解説では"The Times"に掲載されたAlan Blythのレビュを紹介していまして、最初の三つの楽章についてのレビュは以下のようなものでした。

Rozhdestvensky seemed determined to divest the work of its usually rhetorical and melodramatic connotations and give us the music for its own sake. The results were like the spring-cleaning of a picture:all the detail came up fresh and clear so that the preconceptions engendered by the venner of generations could be dismised from the mind."

それにしてもやっぱりこの演奏は第四楽章に尽きることは否定できず、録音の質がそれほどよくはありませんが、現代では決して望むことのできそうもない異常なハイテンション演奏(HMV評)を楽しみたいという方には(たぶん)お薦めできます。

同時収録は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番(60年)ですが、こちらは未聴ですのでレビュはいつかまた。

HMV レコメンド HMVの評価 9

ロジェストヴェンスキー&レニングラード/チャイコフスキー第4番 1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音。以前にBBC RADIO CLASSICSレーベルから発売、廃盤となって久しかった異常なハイテンション演奏が嬉しい復活。

 時、世界的にも最強の精鋭集団だった「鉄壁の」レニングラード・フィルが冷徹なボス、ムラヴィンスキーの手をはなれ、いつもの演奏会とはまったく異なるロジェヴェンの派手な芸風を得て、旅公演で燃えに燃えまくった貴重きわまりない記録です。

 第1楽章冒頭から濃厚ヴィブラートで咆えるブラスに仰天、広大に設定されたダイナミクスによって極限まで拡大された情感が、緩急自在に振幅するさまには絶句です。

 第4楽章はもう滅茶苦茶にモノ凄く、作曲者自身もこの楽章を「鳴り物入り」と評していたそうですが、そのことをここまであからさまに示した演奏もまたとないでしょう。

 この興奮に、聴衆も最後の和音が鳴っている間から雄叫びのような喝采をあげ始めるは、会場中に口笛は飛びかうは、もう大変な騒ぎです。

 併録のショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番は、以前同じレーベルから限定発売されていたものと同一で、こちらも嬉しい復活。1960年のモノラル・ライヴながら良好な音質で、ロストロポーヴィチ壮年期の凄演を味わうに何ら不足ありません。

2004年4月21日水曜日

イベール:フルート協奏曲











アラン・マリオンの「超絶技巧フルート協奏曲集」は、フルートをお好きな方ならお馴染みであるイベールの作品で最後を飾っています。


この有名な曲はマルセル・モイーズに献呈され、フィリップ・ゴーベール指揮・パリ音楽院管弦楽団の演奏で1934年に初演されたものです、びっくりするような組み合わせですよね。




��0世紀を代表するフルート協奏曲の呼び声が高いのですが、私はこの曲にいまだ馴染めないでいます。はじめてこの曲をCDで聴いたのは、ムラマツのCDによるモイーズの演奏(第一楽章のみ)だったのですが、録音が余り良くないせいでしょうか、あるいは未熟なリスナーだったからでしょうか、第一楽章の性急な音符の動きはちっともエレガントや粋には聴こえず、うるさいだけの奇妙な曲という印象でした。


それ以来この曲をなかなか楽しむことができない、というか聴く気にならないでいたのですが、今回改めてマリオンの演奏で聴いてみますと、そんなに悪い曲ではないなと思うのでした。


第一楽章の性急と激しさは、やはり私はついていけないものを感じるのですが、第二楽章は美しい旋律線を聴かせてくれますし、第三楽章の運動性と快活さ、敏捷性、そしてどことなく洒脱な感じは、何度か聴いてきると慌しく動き回るパリを連想したりします(と書きながらパリなど行ったことがありません=空想のパリということで)。中間部のフルートソロとなる部分から憂愁の表情に変わる部分も、今までの雰囲気と一転していてフルートの奏でる旋律を満喫することができます。


今でこそこの曲は「超絶技巧曲」でも「難曲」でもなく、音楽コンクールなどでもよく取り上げられる曲ですが、ひょっとすると見かけの技巧以上に曲として聴かせるのが至難の業の曲なのではないかと思ったりしました。


このCDは他ならぬマリオンの演奏ですから決して悪いはずなどないのですが、それでもビシッと琴線に触れてこないのですよね。この曲に対する愛着みたいなものは少しは沸いた気がしますが(笑) そのうち、もう少し別の演奏を物色してみたいと思います。


●アラン・マリオン(Fl)●マクシミアーノ・ヴァルデス指揮●ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月19日月曜日

展覧会:東京都美術館:栄光のオランダ・フランドル絵画展


大々的に宣伝していますのでGW中などは込むと思い、今日天気が良いことをきっかけに、9時の開館と同時に入館してきました。

天気が良いせいでしょうか、朝早いというのに結構な人出です。それでも絵画の出展数が少ないので比較的ゆっくり観ることができました。

お目当ては何と言っても私が最も敬愛する画家、フェルメールの「画家のアトリエ」です。最初は順番に観ていたのですが、途中からじれったくなり、一番最後に展示されているところまで、まずは行ってみることにしました。

さて、はじめてフェルメールに接した印象は、もはや言葉にすることができません。何と言う幸福でしょうかね、観ていてじんわりとしてきてしまいました。観ている他の人も絵の前から動こうとしません。もう画面に釘付けといったところです。

この絵は、フェルメールの絵の中では最大のものなのですが、フェルメールの絵の魅力が余すところ無く伝わってくる作品でもあります。手前の重い捲られたカーテンは、画家とモデルの秘事を覗き見しているような感じです。カーテンは吊るされて固定されているのではなく、今まさに「私が」捲っているように思えませんか?


そして見えてくるのは、洒落た衣装の画家と、その後ろに窓から差し込む優しい光に照らされた女性です。この女性の儚さと美しさと永遠性ときたら、ほとんど奇跡のようであるとしか思えません。眼を閉じて再び開いたら、そこに女性がいなくなっていないかと、心配になります。しかし、女性は一瞬の喪失感を感じさせつつも、永遠にそこに光とともに固定されているのです。また、壁にかかっている地図は実物の地図を模写したものですが、その皺を弄ぶようになでる光の美しいこと。

フェルメールは意識的に手前の画家や椅子などと比較して、女性を「ぼやかして」描いています。輪郭などもはっきりしないのです。これはフェルメールが当時のカメラ・オブスキュラを利用していたというのが定説ですが、それは絵画に奥行きや遠近感を与えるだけではなく、それ以上の驚くほどの効果を生じさせているように思えます。

これもよく指摘されるのですが、天井から下がったシャンデリアの表現も、光の反射の描き方など解像度の悪いカメラを通した画像と酷似しています。でも、フェルメールがカメラ・オブスキュラを使おうが使うまいが、どうでもよいことです。

そうしてキャンバスに定着された光は、移ろいやすさと永遠性という二つの相反するものが見事に合体し、観る者をどこか別の世界に連れ去ってしまうほどの魅力に満ちた作品に仕上げているからです。これを眼の恍惚といわずして何と言えましょうか。


先ほど、絵画は一期一会のものであると書きましたが、私がこの絵に再び会うことがあるとするならば、それまた奇跡のような僥倖であろうと思わずにはいられません。


とまあ、感情的な文章をしたためてしまいましたが、そのほかの絵も面白かったのですが、とにかくフェルメールの印象が強すぎてダメですね。



レンブラントの絵も2枚ほどあって、これはこれで大したものではありましたが、今日はレンブラントまで語る気にはなれませんな。

たった1枚の絵を観たさに1500円というのが高いか安いか、前評判の割には展示作品が少なすぎやしないか?(マルモッタンの時の半分だな)という疑問もありますが、まあ、それもよしといたしましょう。

展覧会:東京藝術大学美術館:再考 近代日本の絵画

この展覧会は東京藝術大学大学美術館、東京都現代美術館、セゾン現代美術館が共同して企画したもので、19世紀末から100年にわたる日本の近代・現代の絵画を通して展示することで、日本の近代化のプロセスを再考し再構築し、日本の未来にあらたなひとつの展望を開くことを期待して開催されているものです。

朝日新聞でも紹介されていましたので、知っている方も多いと思いますが、私のお目当ては一重に狩野芳崖(1828-88)の「悲母観音」を観る事でした。

この観音像は、芳崖が死の直前まで描き続けたもので、かのフェノロサも絶賛した作品として知られています。教科書で観た事のある人も多いと思います。

絵画も音楽もそうですが、複製と実物というのは似て非なるものであるのですが、この絵画もまさにそういうものでした。絵画というのも一期一会みたいなところがありますから、観られたことを素直に僥倖であると思わないわけにはいきません。

この絵は結構大きなサイズなのですが、その慈愛に満ちた光と輝きは、宗教心が無い者であっても捕らえて放さない魅力に満ちています。

観音様というのは、中性または男性として描かれますので、顔には聖徳太子のようなヒゲがあるのが、違和感を感じますが、悲母観音の足元から泡のように誕生した赤子の笑い顔が愛らしく独特の雰囲気を醸し出しています。慈悲に満ちた観音の表情と、非常に細やかな描写が見事です。色使いも下側の青色から上へ向かって金色色に変化してゆく様など(左の絵では到底伝わりきらないのですが)気高ささえ感じます。

芳崖も素晴らしかったのですが、展示室に入ったとたん圧倒するように聳え立っていた竹内久一(1857-1916)の「伎芸天」、これも凄かったですね。

この作品は、シカゴ・コロンブス世界博覧会(明治26年)で日本の伝統的木彫芸術を世界に見せるために作成されたものでしたが、損傷が激しかったため長く展示できず、最近修復されて、ようやく日の眼を見るようになった作品です。(すごく大きいです)

日本の伝統的な木彫の流麗さ、華麗さ、そして力強さ、いやどこを取っても、前から見ても、横から見ても、そして後ろから眺めても、すくと立ったその威容は感嘆するばかりで声を失ってしまいました。修復された色彩も実に落ち着いた派手さで惚れ惚れします。

これらの作品は、東京藝術大学が所有している作品で、まさに芸大は「お宝の山」なのでしょうね。
その他には、いくつかの日本画や、黒田清輝、岸田隆盛、和田三造、佐伯裕三などなど、中学時代の教科書で観たような「名画」、西洋絵画の亜流のような絵画などが多く展示されていました(図録を買っていないので詳述できず)。

こうして眺めさせてもらいますと、いかに近代日本が貪欲に西洋の文化や技巧を取り入れてきたがが如実に分かるような気がします。憧れと驚きに満ちながら、新たな世界を開拓してゆく様は、果敢にして勇敢であるといえますが、やはり一方で、その変化があまりに性急であり、消化しないまま表面的にだけ次々と西洋文化を吸収したフリをしていただけではなかったうかと、思わずにはいられませんでした。

奏楽堂の日曜コンサート

今日も東京は非常に良い天気でした。日曜日に限って7時過ぎにはしっかり眼が覚めてしまいます。そこで上野まで脚を伸ばし、東京都美術館の「栄光のオランダ・フランドル絵画展」と東京藝術大学美術館の「再考 近代日本の絵画」の展覧会ハシゴをした後に、旧東京音楽学校奏楽堂での日曜コンサートを聴いてきました。

この建物の2階には小さなホールがあり、日曜日ごとにチェンバロ(第1、第3日曜)とパイプオルガン(第2、第4日曜)そして室内楽(第5日曜)を開催しています。

今日はチェンバロを芸大在学中の脇田英里子さん、そしてソプラノを同大学博士課程の飯島香織さんがつとめ、イタリアのバロックものを中心に演奏が行われました。

曲目は、カッチーニ、スカルラッティ、フレスコバルディ、ヘンデルですが、大変得をした気分です。奏楽堂は予想以上に響くホールで、チェンバロの音が何とも言えずに心地よく空間に広がってゆきます。そして飯島さんのソプラノがまた素晴らしい。まだ学生とのことですが、歌唱力もさることながら曲間の語りや立ち居振る舞いなど、貫禄のようなものさえ漂わせているように思えました。そして歌うことがほんとうに素晴らしいものであることを、教えてくれるような演奏でしたね。

飯島さんはここ奏楽堂で何度もコンサートを開いている方のようですし、脇田さんもチェンバリストとして活躍されているようで、お二方とも平成13年度のアカンサス音楽賞を受賞されています。

ちなみに私はリハーサルも少し聴かせていただいていたのですが(立ち入り自由ですから)、そのときはトレーナにパンツルックというラフな若者風の飯島さんでしたが、本番の舞台では白とブルー系にスパンコールが光まくっている、それはそれは素敵なドレスを身にまとっていらっしゃいまして、これまた溜息さえ出そうなものでありました。

脇田さんはソロは1曲だけ、バッハのパルティータを演奏されましたが、ちょっとこれは物足りなく、やっぱりしっかりと聴かせてもらいたいものだと思ったりしたのでした、贅沢なことですが。

ちなみに奏楽堂は都美術館の裏にある小さな建物でして、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)の校舎として使われていた建物を保存修復したものです。昭和63年には国の重要文化財にも指定されている建物です。

��フレスコバルディのパイプオルガン集を聴きながら)

●G.カッチーニ:愛の神よ、何を待つのか?●G.カッチーニ:我が麗しのアマリッリ●スカルラッティ:菫●フレスコバルディ:こんなにも私を蔑み●バッハ:パルティータより●ヘンデル:私を泣かせてください●ヘンデル:樹木の蔭で●ジョルダーニ:カロ・ミオ・ベン

2004年4月18日日曜日

許光俊:「生きていくためのクラシック」

以前『世界最高のクラシック』という本を紹介しましたが、これはその続編です。タイトルも『世界最高のクラシック 第Ⅱ章』とされています。それにしても、『世界最高』だの『生きていくための』とは、何とも大げさです。

許氏は『最初に』で『なぜ、私は「世界最高」にこだわるのか』と自問し、それに対し以下のように自答しています。

私の生は、もう十分に退屈で、つまらないからである。平凡で、卑俗だからである。
生が何が何でも生きるに値するものとは、どうしても考えられないからである。

だから「世界最高」にこだわるのだと、『生きるための自己弁護』が必要で、生きるに足る人生であることを確信するために例えば最高の音楽が必要なんだと。

許氏は1965年生まれで私よりも年下ですが、なぜそのような諦念を持っているのか全く理解に苦しみますし、彼の諦観につきあうほど私は情緒的人間ではありません。それでも許氏独特の観点からセレクトされた演奏がどういうものであるかは、暇な休日や苦痛でしかない夜の通勤電車の中での慰みにはなります。

この本で紹介しているのは、あるテーマを定めて(例えば第4章「岩のブルックナーと絹のブルックナー」というように)いくつかの演奏を対比して解説しています。彼が「生きていくための」と自信を持って主張するだけあって、掲載されている演奏はベタ褒めです。文章を読んでいるだけでいたたまれなくなり、すぐにでもCD店で求めたくなってしまうような書きぶりでして、聴かずに死ねるかという気にさせてくれます。(ただ、それが延々と続くので閉口するのですが)

一方で以下のような辛らつな文章も彼ならではでしょうか。

(ベルティーニは何故)世界的に見れば幼児レベルでしかない日本のオーケストラを指揮しているのか。また、虚名ばかりのろくでもない指揮者たちがクズのようなCDを作り続けている一方、ベルティーニの録音が著しく少ないのはなぜなのか。

ごめんなさい、私は「幼児レベル」の日本のオケにも、「クズのような」商業主義の演奏にも感動してしまいます。許氏のような選別耳も知識もありません。

ということで、彼が「生きてゆくため」に必要とした指揮者は以下です。(『世界最高のクラシック』で紹介している識者は、ほぼ避けられています)

リヒター、パイヤール、クリスティ、ジュリーニ、コルボ、ショルティ、スヴェトラーノフ、マタチッチ、レーグナー、マルティノン、ベルティーニ、クーベリック、ムラヴィンスキー、アーノンクール、ケーゲル、ザンデルリンク、セル、パティス、パーンスタイン、ベーム。

モリック:フルート協奏曲

Whlhelm Bernhard Molique(1802-1869)という作曲家の名前は、はじめて聞きました。ドイツ・ロマン派に位置する作曲家ですが、現在ではほとんど忘れ去られている一人でしょう。ちなみにGoogleで「モリック フルート協奏曲」と検索しても、このCDの他は、ほとんど情報は得られませんでした。

CD解説によると、この曲はテオバルト・ベーム(現在の形式のフルート開発者)のために書かれたものとのこと、三楽章形式の華やかな曲です。

第一楽章は短調の力強い弦の響きの中から、決然とフルートソロが現れ浪々と歌を歌いはじめます。いかにもロマン派的なフレーズですが、正直なところ私はロマン派のフルート曲というのがどうも苦手です。19世紀ロマン派のフルートといえば、チマローザやトゥルー、ベームなどもそうなのでしょうか。吹いている人は気持ちが良いと思うのですが、モーツアルト以上に「みな同じ」に聴こえてしまうのは私だけでしょうか・・。

第二楽章のAndanteは、非常に優しげな旋律を持った楽章で、ここだけ単独で演奏されることもあるようです。 中間部分はそれなりに技巧的ですので最初のフレーズだけならば吹いてみたいと思わせてくれます。

第三楽章は一転して跳ねるような愛らしくコミカルなリズムが印象的で、ラストに向かっての技巧を凝らした輝かしさもそれなりに楽しませてくれます。


モリック:フルート協奏曲 ニ短調
  • アラン・マリオン(Fl)
  • マクシミアーノ・ヴァルデス指揮
  • ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月17日土曜日

ドヴィエンヌ:フルート協奏曲 第7番

今週はマリオンのフルート協奏曲を聴いています。DENONからの廉価版CREST1000シリーズの「超絶技巧フルート協奏曲集」という盤で、最初に納められているのはドヴィエンヌです。

ドヴィエンヌ(1759-1803)は「フランスのモーツアルト」とも呼ばれ13曲のフルート協奏曲のほか、協奏交響曲や室内楽など多くの作品を残しました。当初は20歳の時にパリ・オペラ座末席ファゴット奏者として入団しましたが、その後フルートを学び、1982年に自作のフルート協奏曲でフルート奏者としてデビューしています。1795年には新設された音楽院(後のパリ音楽院)の初代フルート科教授を務め著書「新フルート教則本」(鍵のフルートのための教本)も残していて、フルートの歴史に少なからぬ足跡を残しています。

フルート協奏曲は1787年頃の作品とされています。第一楽章冒頭からいかにもモーツアルト的な和音が鳴り響き一気に聴かせてくれます。ヴィルトオーゾ的な技巧が駆使された曲で楽しめます。第二楽章はカデンツァ風の優しい曲、第三楽章は再び快活なロンドです。

モーツアルトのフルートとハープのための協奏曲などと比較しても、テクニカルな面と曲の明るさが際立っているように思えます。第三楽章などでも、当時のフルートの演奏技術の粋をいっているのではないかという表現に出会います。

CD解説によると「当時フランスではやっていたギャラント様式の優美な表情」が特徴とされているようですが、そういう専門的なことはまるで分からないのですが、またいつまでたっても分かろうともしないのですが、素直にこの曲の運動性能に身を任せるだけで、日ごろの疲れと憂さが晴れてゆくようで、心地よい光を体の中に受けることができます。

モーツアルトのフルート曲には飽いたけど、あの雰囲気も捨てがたいというときや、颯爽、快活、それでいて芯の力強さが欲しい、だけど重い曲は嫌という時には最適かなと・・・。


  • ドヴィエンヌ:フルート協奏曲 第7番 ホ短調
  • アラン・マリオン(Fl)
  • マクシミアーノ・ヴァルデス指揮
  • ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月16日金曜日

イラクの人質3人は解放とネットの議論


イラクで拉致されていた3人が解放されたようです。まずはよかったと胸をなでおろしますが、ジャーナリストを含む2人が新たに再び拉致されたようです。イラク状況はまだまだ楽観できません。


ネット(たとえばここ)での自作自演説は解放された今でも根強く、また「ウヨ」だの「サヨ」だののムラ的な言葉で相手を罵倒し、近隣の国々を貶めるようなスレッドは絶えることがありません。




週刊誌では三人の家族や過去を暴く記事が紙面を飾り、記者会見での家族の態度や主張がおかしいと糾弾し、更にはどちらかといえば左翼系の思想の持ち主であることまでを強調する紙面もあります。人質の家族に対する反感や嫌悪は(たとえばここ)、ひとえにイデオロギー的に「左翼的」ということであり、ひいては政府に反対する意味での「プロ市民」「反戦」「平和主義者」「ボランティア」「NGO」に対する嫌悪のようです。そういう団体や活動を「偽善者」とまで言い切る人も少なくないことを知りました。


このような感情論に支配されたスレッドやある考えの方々というのは、いったい何なのだろうかと考え込んでしまいます。口汚いスレッドであってもよく読むと(よく読みたくなどありませんが)、彼らの少なからぬ者たちは教養も知識レベルも低くはない一般人であろうことが伺えます。それだけに、薄ら寒い思いがするのです・・・(江川紹子さんのサイト


このエントリーは、Letter from Yochomachiにトラックバックしていますが、私もイデオロギー論争に興味は全くありません。こうした文章を書くのも、自分のフラフラしているスタンスが現時点でどちらに偏っているのかを確認するためのものでしかありません。


ネット上のような考えが、私が考える以上に多いということであれば、やはり護るべきものはまだ守る必要があるのではという思いにも(今の段階では)なるのでした。

2004年4月15日木曜日

映画:真珠の耳飾りの少女


「完璧(Perfect)」 いささか大上段ではありますが、私が画家フェルメールに抱いている気持ちです。その天才画家と「真珠の耳飾りの少女」という絵のモデル(グリート)とのドラマを描いたのがこの映画です。10日が封切でしたので早速観てきましたが、この映画を観た印象も、まさに「完璧」というものでした。

映画が始まると同時に、映画を通して流れるテーマ音楽がフルートに導かれて奏でられます。それだけで、もはや私はこの映画から眼を離すことができなくなりました。

フェルメールの絵画の最大の魅力は、部屋(アトリエ)の左側から柔らかに入り込むデルフトの光にあります。この映画を作った人たちは、よほどフェルメールを研究し、そしてフェルメールの絵を愛しているのでしょう。冒頭に書いたように「完璧」と映画を見ながら感心し、幾度となく画集を食い入るように眺めたあの絵が、3Dさながらにサイドからパンをして見慣れた構図に納まるカメラワークに、よくぞここまでと唸ってしまいました。

とにかく画家のアトリエと17世紀のデルフトの街の描写などが驚くほどの美しさで表現されています。電気のない時代の夜の描写も見事です。

唯一気に入らなかったのは、グリートがフェルメールを想いながら眺める空の色くらいでしょうか。フェルメールが「雲は何色か」とグリートに問いかけ、自ら答えるうちにフェルメールを理解し、そしてフェルメールもグリートを理解したという重要なシーンのあとの場面です。フェルメールの有名な「デルフトの眺望」でもそうですが、フェルメール感じた空の色ではなかったような気がします。



ストーリーの詳細は割愛しますが、フェルメールの家にお手伝いとして雇われたグリート、じきにグリートとフェルメールは暗黙のうちに心を通わせるようになります。それを眺める娘のコルネーリアの子供らしい悪意に満ちた策謀、嫉妬に乱れる妻カタリーナなどが描かれます。

フェルメールがグリートをモデルとして絵を描き始めたときに、真珠のピアスが不可欠であるとして自ら針でグリート耳に穴を開けるシーンは極めて官能的です。しかもグリートが付けるのはフェルメールの妻のピアスなのです。

それを知った後の妻カタリーナの演技も見もので、化粧気のない愛憎入り乱れた表情は女性の哀しさを背負っているかのようですし、出て行けとグリート命ずるところは凄絶です。

二時間弱の映画ですが、そういうわけで私にはあっという間に過ぎ去ってしまいました。映画館を出た後、しばらく実世界に戻ることができず浮遊するような感覚さえ味わってしまいました。

グリートを演ずるヨハンソンは、パンフレットなどで見ると非常に肉感的な印象で、フェルメールの絵の雰囲気ではないと実は心配していたのですが、映画ではそんなことは全然ありませんでした。機会があればもう一度観たいと思っています。

  • 監督:ピーター・ウェーバー
  • 原作:トレイシー・シュヴァリエ
  • 音楽:アレクサンドル・デプラ
  • フェルメール:コリン・ファース
  • グリート:スカーレット・ヨハンソン

2004年4月11日日曜日

イラクの人質解放?!

朝7時のNHKを付けたら人質を24時間以内に解放するとのこと。その後昼前に解放するとの追加情報も放送局に届いたとのこと。

私は「???」という思い。テロリストは人質の親の懇願する姿を見て考えを変えたと、イラクの指導者から連絡があったと。その中で日本政府はどこまで役割を果たせたのでしょう、政府に直接連絡は全くなかったそうですし。

そういう意味では「ソフト戦略」「力による解決ではなく穏健派との共同関係」が紛争解決に奏効することを示したといえますが、どこか腑に落ちません。



声明文では人質を解放するというカードを放棄しながらも「自衛隊撤退」を求めています。そもそも、なぜ米軍ではなかったのでしょう。シーア派の逮捕された指導者を解放せよとか、諸悪の根源である「米軍のファルージャ包囲を止めろ」とかいう要求は全くしていませんしね。

イラクには日本に好意的な人もいるそうですし、また声明文でも「広島」や「長崎」に触れていますから、日本に対する知識もあるようです。それゆえに日本の対米追従と自衛隊派遣を「裏切りである」と捕らえたのでしょうか。

我々は外国の友好的な市民を殺すつもりはないと』と声明文にありますが、ということは最初から殺すつもりはなかったのですね。丸腰の若者たちですから、イラクに敵対しているとは普通思いません。しかし彼らや彼女がアラビア語を話せたとは思えず、英語を話すと「敵国言語」と思う民族です、若者であるだけに組しやすく利用価値ありと拉致拘束したのかも知れません。だから人質に利用価値なしと判断(自衛隊撤退は早期に否定されたため)し、今回の解放に至ったと思われますが、どうやらプロのテロリストではないようです。

いずれにしても武装集団の言動には不可解な点が多く、自作自演説に傾く声も一部では聞こえてきますが(こちらにも疑問)、まずは無事帰って来れることに、安堵いたします。

ジュリーニ/LOP:ブラームス交響曲第1番

  • 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
  • 演奏:ロサンゼルス・フィルハーモニー管
  • 録音:1981年11月

ジュリーニ/LOPによるブラームス交響曲第1番は名演であるとの評判が高く、今年1月に再発売された盤です。

ジュリーニの演奏ですからテンポはゆったりとしています、というかかなり遅いです。第一楽章が19分弱、第ニ楽章が10分半、第三楽章が5分、そして第四楽章は18分半です。しかしこの遅いテンポで丁寧に歌われるブラームスは格別な味わいで、堂々たる風格を有しています。最後まで聴いていると、何か人生の長い旅路を終えてきたような境地と至福感にまで達してしまいます。

ゆったりしたテンポではあるのですが、弛緩したり生ぬるい演奏では全くありません。第一楽章は冒頭から音響の迫力は物凄く、特にティンパニの強いアクセントをもった強打が印象的です。しかしこれとて、ただ強いだけではなく微妙なニュアンスの違いを叩き分けています。打楽器と重厚なオケが一楽章の持つ暗さや悲愴感を際立たせています。

翻って第二楽章のAndante sostenutoは暗さと明るさを兼ね備えた美しい楽章です。この「田園風」楽章でのジュリーニのオケの唄わせ方には陶然としてしまいます。第二楽章の7分頃に現れるソロ・ヴァイオリンの部分など、ヴァイオリン・コンチェルトを聴いているような気にさえさせられます。続いてのヴァイオリンと木管が寄り添うように唄うところは特に格別で、こうなるとコンチェルトではなくオペラの一幕と言ってもいいかもしれません、ここだけ何度も聴きたくなってしまうほどです。

第三楽章は更に「幸せ感」が高まっていきます。しかし、あざとい表現とか煽るような表現は聴こえません。第一楽章のティンパニの強打も昔のことのように思えます。第三楽章は短い間奏曲のようで、再び壮大な悲痛を予告する第四楽章に受け継がれますが、この楽章はとりわけ見事です。

ブラームスが描いた音楽も素晴らしいのでしょうが、ジュリーニの演奏は実に説得力があります。ティンパニの強打の意味もはっきりと分かり、かの有名なホルンとフルートが奏でる旋律が現れる頃(3分半)には体がブラームスで満たされてしまっています。主部のベートーベン第9の歓喜の主題に似た第一主題を聴くいていると、まさにこれは形を変えた、ベートーベンよりも穏やかで静かな、しかし内に秘めた熱情では負けない歓喜であることが、しみじみと分かります。いやはや本当に美しい旋律です、完全にブラームスが効いてしまっています。ジュリーニのテンポで聴きますと、ブラームスが非常に大人びて聴こえます。感情をむき出しにする直情型の演奏とは異質のもので、それでいて激しいという恐るべき音楽です。

中間部のたたみかけるかのような音響は、ブラームスの複雑な感情(喜び、怒り、嫉妬、絶望、そして達観)が全て詰まっているかのようです。故にラストに向けての感情の解放は静かにそして熱く、一人静かに固い拳を握り締めるがごときです。ブラボー!

(CDと同時進行的にレビュを書くと、こういう直情型支離滅裂文章になってしまいますね・・・)

四谷の桜

四谷は上智大学の横の土手沿いの桜を撮ってきました。満開のピークは過ぎましたが、新緑と桜の色合いが美しく、かえって桜一色の頃よりも味わいを増しています。


イラク拘束事件の責任所在

被害者の家族がTVで政府に訴状やら苦情を呈していますが、ネット上の意見ではネガティブな反応が多いようです。危険地帯に自ら行った彼女と彼らと、未成年までもイラクに行かせた家族に対する非難です。

イラク撤退に反対という世論も7割近いらしく、私は少々驚いてしまいました。




私はすぐに自衛隊撤退すべきという意見にも(そもそも派遣がどうだということもあり)同調しかねるのですが、政府も世論もひとつの選択肢を即座に放棄したということに疑問を感じています。


それにしても「自己責任」と言う方々は厳しいですね。危険なイラクに飛び込んだ彼らと彼女の行動には、私も幼さと甘さを感じますが、「自己責任」を問う方々は、彼らと彼女の日本における行動にさえ批判と嫌悪を感じているように思われます。さらにそこに、家族の反応が「自己責任主張派」の感情に油を注いでいるようです。政府方針や自衛隊に反対するような輩が、どうしてその政府や自衛隊に助けられなくてはならないのだと。


当然、日本政府はイラクへの渡航に関し警告を発してしていましたが、結果的には彼らと彼女のイラク入りを許可したわけです。責任の所在という点では何処に帰結するのでしょうかね。本人と家族の自己責任もありますが政府の責任も否定できず、全力を挙げて救出することも当然であると思えます。


今回の事件に対する反応は、政府にも何か重い決断を迫られていますが、個人にも踏絵のような意味合いも持ってしまったように思えます。自衛隊派遣どころか、日米安保を含め大きな課題を投げかけている事件です。それにしても、時間がない・・・

2004年4月10日土曜日

福岡の靖国違憲判決に対する産経抄

「クラシック音楽」のサイトを放棄して「プチサヨク」のサイトへと変化したと思われそうですが、それでも記録しておきたい記事が9日の産経新聞『産経抄』にありました(このごろすぐ忘れてしまいますので)。福岡地裁の首相靖国参拝の違憲判決についてです。

裁判官に対する不信を強く感じた [...] 死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑った』と書き出し、以下のように展開します。





  • 国のために死んだ人びとは英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる

  • (靖国を)おまいりすることはいわゆる宗教的活動ではない

  • (靖国参拝は)先祖をうやまう人間的で自然な儀礼

  • 判決自体が、裁判官の主義主張に基づく“政治的性格”

  • なぜなら判決がでるやいなや、中国と韓国は「大いに評価する」とコメントしてきた(から)




大変勉強になりました。私も国のために死んだら「英霊」となって「靖国」に名前を連ねて「神」(『欧米でいう“ゴッド”とは違う』)になれるのですね。イラクの自衛隊員は靖国の神にはなれませんから、これから国のために死んでくれる若者のために、しっかり下地を作ってあげようと、ありがたい処置ですね。これは、日本古来の自然観や習俗とか国家神道に基づくものであって宗教ではないのですし、日本人なら誰もが持つ自然な美しい心から発露したものですから、いやおうなく「愛国心」は醸成されますね。「靖国」「日の丸」「君が代」三点セットに「教育勅語」を付けますか。

死者の慰霊と鎮魂と、神話の神々を祭った神社と天皇と、一体いつどう結びつきましたか。それは靖国の歴史でしょうが。しかも官軍だけを祭った。それが日本の伝統文化ですか。守ろうとする「国体」って何でしょうかね。私は産経の主張する「国家」に命を捧げる気には、今のところなかなかなれません。(とこう書きますと、「国家に所属していながら自己矛盾」だとか「日本にいる価値なし」とか、感情的に激昂する人が多いんですよね)

イラクでの日本人拘束事件

イラクにおける日本人三人の拘束事件は各方面への波紋を広げています。

日本政府は早々に「自衛隊は撤退しない」という強い意思表明を行っており、アメリカからも評価されています。一方で拘束された家族は「選択肢を奪われた、なす術が無い」と呆然状態です(「筑紫哲也のニュース23」)。



ネット(例えばYahoo掲示板)を徘徊していると、今回の三人の被害者に対して否定的な意見が目に付きます。彼らに対し「サヨク」というレッテルを張りたがる方々や、自ら危険なイラクに何の手立ても無く飛び込んだのだから「拘束死志願」であるので「自業自得」、「助ける必要はない」、更には「殺されても仕方ない」「焼き殺してくれ」という意見まで散見されます。そういう方々は、好きで冬山登山やシケの日の釣りに興じる「バカども」は救助する価値なしと言っているわけでして、眩暈がしてきて読むのを止めました。

また、今回の拘束事件は「自作自演」であるという説まで登場しています。確かにテロ組織からの具体的要求が「自衛隊の撤兵」という一点であるため、何か腑に落ちない気持ちはあります。日本で放映されていない映像 も あります 。マスコミは自粛したか報道規制でしょうか。


��日の大手新聞は毎日を除いて皆この問題に触れていますが、いまさら引用せずとも内容は推察の通りです。ただその中で読売新聞は『昨年のイラク戦争の直前から、外務省は渡航情報の中で危険度の最も高い「退避勧告」を出していた。三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なものではなかったか。』と被害者の自己責任を問う意見を表明しています。そして大手のどの新聞も、人質の人命救助を強く訴える論調が薄いものであることが印象的でした。


福田官房長官は記者会見にて、ダッカ人質事件の際、当時の福田首相が「人命は何よりも尊い」としてテロリストに屈したことに触れられたのに対し、「当時とは時代が違うし、意味合いも異なる」と答えたようです(前後の脈絡は分かりませんが)。

日本政府は「国際人道支援」を止めるつもりは無く、また人質奪還の可能性やストーリーを全く描けないのに、一つの選択肢を一番最初に切り捨てたわけです。政府が守るものは、海外で勝手にテロにあった同胞の命ではなく、西側諸国の中での日本の地位と立場であることをこれほど明確に示したことはないのではないでしょうか。


もし今回のテロが本物であれば、テロリストとの連絡手段がない以上、交渉の余地のない一方的でかつ卑劣な要求であることは論を待ちません。政府は後二日で何ができるのでしょう。情報収集と救助に全力を挙げると言っても、イラクに対する諜報活動や情報網が整備されているとは全く考えられません。


昨年11月、外務省は二人の外交官をイラクに派遣し死なせてしまいました。彼らはティクリットの会議に出席するためでしたが、ティクリットが当時最も危険な地域であることを外務省は掴んでいなかったということです。外交官二人は、アメリカの関係者なら必ず携行するはずの軍用地図を渡されていなかった可能性が指摘されています。


イラク派遣前のサマワの状況判断についても同様です。このような日本政府が、どうやって人質を救出するのでしょう。私はどう考えても(>というほどには考えていませんが ^^;;)先が読めません。陸上幕僚監部調査部などの情報部関係者などが積極的に情報収集ですか、それとも、アメリカ国防総省の下の諜報機関あるいはCIAからの情報提供と米軍による武装解除にでも頼るのですか?あるいは、ひたすら非道であることを訴え続けるだけでしょうか? (いや、実は、諜報網も解決ストーリーも描けていて、一気に救助可能なのかもしれません、私が知らないだけで)


翻って、自衛隊を撤兵させることはテロリストに屈したことになるのでしょうか。日本は「人質」さえ取れば組しやすしとテロリストの標的にされるということでしょうか。そうしたとき、テロリストは日本に対して今度は何を要求してくるのでしょう。人質を取っての身代金の要求ですか、あるいは国際テロリストの解放とか・・・。


今回の武装勢力がいかなる組織かは不明ですし、イラクの中には日本人に対して敵対意識を持つ人は少ないという報道もありますが、明らかにアメリカのイラク侵略と駐留、それに加担する国を「敵」とみなす勢力、あるいはそういう勢力を利用しようとする組織は存在するということです。


イラクではスンニ派のみならずシーア派まで両派共同でナショナリズムを展開し反米活動を始めつつあるという状況に変化してきています。フセインもNoであったが、アメリカもNoであると突きつけています。そういうアメリカに日本は加担していると見なされているわけです。アメリカや日本の立場に立てば、今回の武装集団はテロリストで犯罪者ですが、彼らから見れば侵略者以外の何者でもないような気がするのです。


「人道支援」とか「国益」とか「民主化」とか言いますが、結局は西側あるいは列強諸国の経済的「勝ち組」の理論でしかなく、アラブ諸国の立場からの、アラブ人に尊厳と敬意を払った上での活動では決してないはずです。アメリカの行動こそテロリストを増殖させているのではないのかという意見に私は少なくとも今のところ同調します。


今回の事件が茶番でなければですが、大事な一日が過ぎてしまったことは確かです。

2004年4月9日金曜日

小泉首相の靖国参拝に違憲判決


��日の新聞報道ほかによると福岡地裁(亀川清長裁判長)は、小泉首相の就任後初めての靖国神社参拝について違憲と判断したそうです。首相の靖国参拝は全国6地裁で起訴されており、今回は3番目の判決で始めての違憲判断になったものです。福岡地裁に訴えを起こしていたのは、九州や山口県などの宗教関係者、在日韓国・朝鮮人ら211人。

参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる』とした判決の骨子は以下。





  • (小泉首相は)参拝後、総理として参拝した旨を述べており、総理の職務執行と認められる

  • 宗教とかかわり合いを持つことは否定できない

  • 自民党や内閣からも強い反対意見があり、国民の間でも消極的意見が少なくなかった。一般人の意識では、参拝を単に戦没者の追悼行事と評価しているとはいえない

  • 戦没者追悼場所としては必ずしも適切でない靖国神社を4回も参拝したことに照らせば、憲法上の問題があることを承知しつつ、あえて政治的意図に基づいて参拝を行った

  • 参拝が神道の教義を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長する効果をもたらした

  • 社会通念に従って客観的に判断すると、憲法で禁止される宗教的活動にあたる

  • 靖国参拝は合憲性について十分な論議も経ないまま繰り返されており、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、同様の行為が繰り返されることになる



憲法20条3項の政教分離には違反しているとしましたが、原告への慰謝料請求については、『参拝で原告らの信教の自由を侵害したとはいえない』として棄却しています。


さて、これに対する大手新聞の8日の社説を引用しておきましょう。

朝日新聞 社説は『首相がこだわる靖国神社とはどんなところなのか』と靖国神社成立の歴史と『軍国主義の精神的な支柱という役割』に言及し、


  • 日本国憲法が国は宗教的活動をしてはならないと戒めているのは、そうした過去の反省に立っている

  • (伊勢神宮参拝は)違憲の疑いがあるが、靖国神社が背負う歴史を見れば同列には論じられない

  • 個人的心情だと開きなおる前に自分の立場を考えなければならない

  • 首相が参拝すれば、それは靖国神社を特別扱いし、援助していると見られても仕方がない


とした上で『憲法違反という司法の警鐘に素直に耳を傾けるべきだ』と結んでいます。

朝日として当然の論理でしょう。

一方、読売新聞は朝日の否定した歴代首相の靖国参拝に関する訴訟事例と伊勢神宮参拝などに簡単に触れながら、以下のような論旨を展開します。



  • 首相の靖国神社参拝は戦後も、伊勢神宮参拝などと同様、日本の伝統や慣習に基づいて歴代首相が行ってきた、ごく自然の儀礼的行事

  • なぜ靖国神社参拝に限って、近年になって違憲かどうかが問題にされるようになったのか

  • 小泉首相の靖国神社参拝を「政治的意図」とする今回の判決自体が、政治的性格を帯びた内容



と判決に真っ向から疑問を呈しています。

さて、最後は産経新聞です。まず『これまでの判例を著しく曲解した判』と冒頭から強い語調で地裁判決を非難し、



  • (首相の参拝によりその年の終戦記念日の参拝者が前年の2倍になったことに対し)参拝者が増えたのは結果的にそうなったのであり、首相が事前にそれを意図して参拝したわけではない

  • 重大な判例違反

  • 福岡地裁の違憲判断を推し進めていくと[...]恒例の伊勢神宮参拝も憲法違反に問われることになる

  • 福岡地裁の判決は、特定の主義主張に偏っている

  • 福岡靖国訴訟は、首相の靖国参拝に反対する僧侶や牧師、市民運動家、在日韓国・朝鮮人らが全国各地で起こしている靖国訴訟の一つ

  • 一連の訴訟は、裁判を利用した一種の政治運動



としており、読売と同様に特定の団体の意向に基づく政治的色合いの判決だと結論付けています。

読む前から結論の分ってしまう社説というのも、げんなりしてしまいます。

読売と産経は政治色が強いと批判しますが、靖国参拝自体が政治色の強いものです。外圧とかマイノリティとかを論じる気はしませんが、福岡地裁の亀川裁判長その人が、今後政治的どう影響されてゆくのか(あるいは司法の独立性を維持し続けられるのか)そこら当たりを報道は追求していてもらいたいものです。

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【過去の意見箱】

2001 08/14 小泉首相の靖国神社 電撃参拝

2001 08/14 歴史認識の違いと他国の干渉

2001 08/15 予想とおりの反日感情

2001 08/15 13日の参拝と小泉首相の公約

2001 08/16 靖国神社と東京裁判

2003 01/14 小泉首相の靖国神社参拝

2004年4月7日水曜日

海外盤洋楽CD輸入禁止!?

いったいこれは何ですか? レスするには余りに無知すぎ、しかも眠すぎます。
明日の昼以降に、落ち着いて下のサイトを読んでみます。

海外盤洋楽CD輸入禁止に反対する
Stop the Revision of the Copyright Law


田中宇:イラクとパレスチナ アメリカの戦略


以前、「アメリカ以降」(2004年2月20日 第1版)、「イラク」(2003年3月20日 第1版)と田中氏の本を紹介しました。いずれもアメリカのイラク侵攻以前に書かれた本でしたが、本書は2003年1月20日 第1版発行ですから、これらの本の中では一番古いものになります。

私がどうして中東問題とか、国際関係に少なからず興味があるのかといえば、アメリカに反旗を翻したいわけでも、イラク国民を憂えているわけでもありません。強いて言うならば、今まであまりにも国際関係の常識に無知であったこと、知り始めると非常にスリリングであること、ひいては、将来の日本の方向性についての知見を与えてくれることなどが理由でしょうか。

本書では、アメリカをはじめとしてイギリスなどの列強諸国が、中東に対してどのような世界戦略を描き統治してきたかの概略を説明してゆくことで、現代にまで続く中東問題の根本原因に言及しています。中東に少し詳しい方ならば、ほとんどが常識問題であるかもしれません。

田中氏は、イギリスやアメリカの中東戦略について「分割統治」と「均衡戦略」という観点から説明しています。これは、一国だけ(欧米に敵対するような)強大な国を作るのではなく、互いのパワーバランスにより消耗させあい、ひいいては西欧中心の世界を安定させようとさせる戦略のことです。

イスラエルの存在やサダム・フセイン政権を今回のイラク侵攻まで温存させたのも「均衡戦略」から説明しています。

西欧の為政者が本当にこのような壮大なる世界戦略を描いているのだとしたら、日本の外交などは子供だましもいいところですし、北朝鮮問題を初めとして、日本はあたかもアメリカの手の上で遊ぶ孫悟空のような存在だと比喩されても、否定することはできない気がします。

田中氏が中東問題に拘る理由については、エピローグに述べられいます。

私がアメリカの戦略の裏側を読み解こうとし続けるのは、アメリカが今後もずっと超大国であるかどうか、疑問があるからだ。

また、アメリカが911テロを利用して軍国主義に走った理由については、

アメリカがもはや経済的に世界を支配できず、経済が弱体化した結果、軍事で世界を支配しなければならなくなっているから

と説明しています。これは『アメリカ以降』で田中氏が展開することになる考えです。今後アメリカが衰退してゆくとしたら、日本の盲目的な対米追従は危険であり、それを回避させるためにも『アメリカに対する十分な分析が必要』であるとし、

アメリカの世界戦略の本質が最もよく分かるのは、中東情勢であると私には思われる

と書いています(P.260~261)。田中氏の書くことを100%鵜呑みにしたり、盲信するつもりはありませんが、田中氏の視点はかなりニュートラルであるため多くの本質を突いているのではないかと私には思えています。

2004年4月3日土曜日

ラター:レクイエム

今週聴いていたのはNAXOSの『ラター:レクイエム、宗教音楽集』です。

ラター:レクイエム、宗教音楽集
  1. 合唱とフルートのためのアンセム
  2. 合唱とオルガンのための降臨節アンセム
  3. 無伴奏二重唱のためのアンセム
  • NAXOS

レクイエムといえば、モーツアルト、フォーレやヴェルディのものが思い浮かびますし、少しマイナーですがデュリュフレのレクイエムというものもあります。ラターのレクイエムは、フォーレやデュリュフレと類似のコンセプトの曲でしょうか、また『深き淵より』という詩篇第130番や『主は我が羊飼い』(詩篇第23番)が挿入されているのが特徴的です。


ヴェルディのレクイエムのような劇的さは排除されていますので「ヒーリング」系レクイエムとして好まれているのかもしれません。あるいは他のラターの曲もそうですが、英語で歌われていますしメロディも比較的馴染みやすい曲が多いので、より好ましく思われるのかもしれません。

この曲はラターの父の死への追憶として作曲(1985年)されたものだそうです。確かに聴いてみますと、第2曲目の詩篇はチェロと合唱のアンサンブルはとても心地よいですし、『ピエ・イエズ』を歌うソプラノのエリン・マナハン・トーマスの声は繊細ですばらしい響きです。『サンクストゥス』は明るい曲調でグロッケンの響きが印象的、"Sanctus, Sanctus"と歌う合唱は喜びに満ちています。

『アニュス・デイ』は中間部で盛り上がりますが、後半の合唱とフルートの掛け合いが静謐さと祈りを表現しているようで限りなき安らぎに満ちてきます。その雰囲気のまま詩篇第23番のオーボエの響きに引き渡されるところは、この曲での絶品の部分といえましょうか。最後の『ルクス・エルテナ』のソプラノとフルートに導かれる歌は、まさに奇跡的なほどの崇高さに満ちてきます。ラストでは冒頭に歌われた"Requiem aesternam dona ,eis Domine"が繰り返されるのですが、気付くと思わず一緒に口ずさんでいます。

実は『レクイエム』の何たるかもあまり理解せずに書いているのですが、宗教やキリスト教に馴染みのない人でも楽しめる曲であると思います。私はこれを機会に、別の演奏のラターも聴いてみたくなりました。

●ラター:レクイエム、宗教音楽集(NAXOS 8.557130) より

木村氏のブログ:広告に関すること

『週刊!木村剛』の今週のコラムは『「広告の奴隷」から「広告の主人」へ』というものでありました。

木村氏は、今までは受動的であった広告の受け手が、『消費者は [...] 各種の情報で武装しつつあり』、『発信者が特定されるブログ』が『そのサイトの信用力が他のメディアと同格』になった場合、『消費者は既存の広告以外に有力な情報源を持つ』として、従来型の広告媒体からインターネットを通じた主体的な広告選択の可能性が拡がると書いています。




少し疑問もあるので書いてみます。現在でもインターネットでは見たくもないバナーと広告の洪水です。むしろサイトの方が巧妙な広告技術が駆使されているように思えます。ログ履歴を通して、一体どのような情報を企業が享受しているのか知るよしもありません。

またブログが広告情報主体の担い手になるという考え方も、ではそのブログの主体である個人が、どのような選択眼に基づいて広告情報を提供しているか分らなければ、ニュートラルな広告情報源とは捉えることができなくなります。


逆にブログなどが提供する広告情報においてニュートラルなものはないという論点に立つならば、誰々が推薦している広告情報であるから信用できる、あるいは、しないという選択はできるかもしれません。ブログ流行以前から、カスタマーズ・レビュを掲載しているサイトは多いですし、購買者の評価点を表示する広告も何かで見たことがあります。


そうした広告情報であっても、更にそれが作為的に操作されたものでないかを広告情報の受け手は考慮する必要があります。購買者は商品が少なく一方的に広告を受けていた頃よりも、広告を評価する情報を更に吟味することになり、広告呪縛は続いてゆくようにも思えます。

だからこそ木村氏は『サイトの信用力が他のメディアと同格になってきたならば』という条件付きでこの仮定を提示していますが、『他のメディアと同格』というのがまた、クセモノかなと思えます。


なぜ木村氏のエントリーに反応したかといえば、「商品広告」という経済的なものではなく、広く「マスコミが流布している情報」ということにまで敷衍して考えるならば、両情報に明確な区別はないかもしれず、求められるものは情報の受けての判断力と取捨選択力、そして主体的な情報への接し方とそれを可能にするある種の知恵が必要になってくると考えているからです。


そもそも広告評論家の天野氏にいわせれば、表現の全てが「広告」であるという極論にまで達してしまいそうです。「政治的プロパガンダ」こそ言葉の通り「広告」ですからね。

(エントリー当初より少し改稿)

2004年4月2日金曜日

国旗と国歌にまつわる話題3

大手新聞間で「社説」での意見交換が続いています。2日の朝日新聞社説によれば、朝日が3月8日と31日の2度に渡って国旗・国歌強制に対する反対を掲げたところ、産経新聞が4月1日の『産経抄』でそれを批判、また読売新聞も3月31日の社説で朝日を遠まわしに批判したというものです。(朝日の社説バックナンバーは読むことができません)




『産経抄』は数ヶ月前までは携帯で毎日読んでいたのですが、パッケット代を払ってまで読む内容でもないと思いその後チェックしていませんでした。読売の社説については私も31日のブログで紹介したばかりです。


産経や読売が右よりであることは今更論を待たないのですが、産経新聞は『都教委はあらかじめ[....]通達を出し、それに反した場合は懲戒処分の対象になることを伝えていた』ため処分された教師は『教師失格者であ』り、都教委の措置は『当然』と断じています。
いやはや。先ほど私が『産経抄』は読む内容ではないと書いたのは、あまりに産経の論調が一方的で同じ内容を毎日毎日繰り返しているだけのように思え辟易したためです(と書くと、産経読者から罵倒されそうですが)


朝日と産経の意見の隔たりは議論にさえなっていません。朝日や私が紹介した岩波の『世界』は、国旗・国歌強制そのものに対する異議であり、都教委の指導そのものが行き過ぎであるのではないかと疑問を呈しているのです。通達先にありきで、それを破ったので処分するのは当然ではお話しにも何もなりません。


朝日も2日の社説の反論では、


 さて、私たちの主張は何か。卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ。それがなぜ国旗・国歌を貶めることになるのだろうか。


と抗弁しています。


日本人は単一民族であると(一応は)されていますし、長く鎖国をしていた経緯や周りを海で囲まれていることなどから、民族意識、国歌意識が大陸諸国よりは薄いのかも知れません。あるいは、同じ島国であっても台湾や東南アジア諸国のように、植民地化の歴史がありませんから民族自立の意識も希薄なのかもしれません。アメリカのように巨大大陸でありながら建国の歴史が浅いことから、強力な国家意識が必要な国もあります。


私は朝日新聞を全面的に信用しているわけでは全くありません。そもそも、国旗や国歌がなぜ必要なのか考えてみる必要があるのではないでしょうか。日本は明治維新そして終戦と二度にわたって国民意識を根底から変革する事態に遭遇しました。過去の歴史と不連続であるわけです。「愛すべき日本」「護るべき日本」とはどのような「日本」なのか、考える必要があるのではないでしょうか。その先にこそ議論はあるわけで、表層的で不毛な国旗・国歌論争には飽き飽きです。


ただひとつ私の態度を明確にしておきますと、天皇の時代が永続的に続くことを歌った「君が代」を、私は国歌であると承服することは全くできません。それが歌詞抜きになったとしてもです。もしこれが日本の精神性を代表する唄であるとするなら、森元首相の暴言ではありませんが、日本はやはり美しい「神の国」という思想まで一直線でしょうに。

2004年4月1日木曜日

フェルメールの真作!?

朝一番から驚かされます。『拍手は指揮者が手を下ろしてから』というサイトで、贋作だと思われていた作品がフェルメールの真作と認められ、オークションにかけられるという内容です。ネタ元はBBC NEWSのようです。フェルメールは私が最も敬愛する画家ですので穏やかではいられません。



フェルメールは寡作で知られるオランダの画家ですが、贋作の多さでも有名です。今月15日からは東京でフェルメール展が、そしてフェルメールを素材とした映画も放映予定で、今か今かと待ちわびていたところにこの話題です。

4月1日だから・・・・なんてことは、ないでしょうね!>BBCと思いましたが、ニュースは3月30日のものですからほぼ確実のようですね。

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さて、落ち着いてよく調べてみますと、この作は以前から真作ではないかと疑われていたらしいですね。2001年のフェルメール展で展示されて話題になったようですが、そのときには図録にも加えられなかったとのこと。(情報元

実際にこの絵を見た方のコメントものっていまして、

この絵の寂しさに加えて、空間的な圧迫感があるフェルメールらしからぬ絵だった

というものだそうです。いずれにしても早く生フェルメールに出会わなくてはなりません。

ラター:無伴奏二重唱のためのアンセム

今週は寝る前に1曲、ラターの宗教曲です。この曲(Come down, O Love divine)は、ウェストミンスター修道院の混声合唱団のために1998年に作曲されたもので、昨日紹介した Arise shine とともにNAXOS盤が初録音とのこと。考えてみたら専属(みたいな)作曲家のいる修道院とか合唱団というのは、何と幸せな存在なのでしょうね。


非常に静かな曲で、深い祈りを感じることができます。女性ソプラノの声が天から降ってくるかのような印象です。ラストも消え入るかのように合唱が糸を引いて終わる、それはそれは奇跡のように美しい曲で、効果テキメンで眠くなってまいりました。



●ラター:レクイエム、宗教音楽集(NAXOS 8.557130) より


DAYS JAPAN 創刊


DAYS JAPAN という雑誌が創刊されていることを書店で見て知りました。『世界を視る、権力を監視する写真中心の月刊誌』というキャッチで『フォトジャーナリズムを中心にした雑誌』であることうたっています。

発刊の主旨は明確です、いつまでもネットで読めるとも限りませんので、引用しておきます。


今、情報はあふれているものの、どの情報を信頼していいのかわからない状況に私たちは置かれています。アフガン、パレスチナ、イラクと次々と戦争があるたびに既存の大手メディアへの信頼感は少しずつ薄れ、あらゆる情報にバイヤスがかかっていることを、みんな感じています。戦争前に戦争誘導型の記事が現われたり、その戦争の遂行に水を差す記事や写真は、編集部のデスクから上には上がらなかったり、「読者投書」欄の意見も注意深く選択されていることがわかります。


いまどき雑誌を創刊することのリスクについては、編集長の広河 隆一氏も紙面で語っています。それでも発刊せざるを得なかったところにギリギリの選択を感じます。 創刊号の執筆者にアジア経済研究所の酒井啓子さんなどです。

実は雑誌を買ってはいませんので手元にないのですが、ページを捲ると米軍のイラク爆撃で、クラスター爆弾によりぼろきれの様に体を引き裂かれた少女を抱きかかえるイラク人の写真が全紙大で掲載されていました。写真のテロップは「米軍支援をした以上、この写真から眼をそむけることはできない」というように書いていました。

一方で巻末では、十数年前にピューリッツアー賞を左の写真で受賞したカメラマンが1年後に自殺した件にも触れ(彼は写真を撮る暇があったら子供を助けられただろうという批判された。自殺はそれが原因ではないという人もいる)、ジャーナリストの使命などについても言及しています。紙面では、この写真を撮ったときは「助けるとか助けない」以前に、近くには子供の母親もいたし、子供を撮影していたのは賞を受賞したカメラマンだけではなかった事実も紹介してます。

生意気なようですが、ジャーナリズムの表も裏も知り尽くした人の編集している本のように感じました。

国旗と国歌にまつわる話題2


音楽のブログなのではありますが、やはり書いておかずにはいられません。31日付けの朝日新聞社説は『国旗国歌――起立せずで処分とは』として東京都教育委員会の国旗・国歌に関する通達に関し職務命令違反があったとして180人もの職員を処分した件に触れていました。


一方、読売新聞では『[国旗・国歌]甲子園では普通のことなのに』として、国旗・国歌に対する学校の混乱を『学校だけが社会の意識とかけ離れている』と断じています。




まず、朝日の論調を読んでみましょう。紙面は都教委の通達から今回の処分に至る一連流れを『いきすぎを通り越して、なんとも悲しい』という言葉でまとめています。『日の丸や君が代に抵抗感を持つ人』や『むりやり起立させられたり、歌わされたりするのはいただけないという人』もいるのだから『一人残らず国旗に向かって起立させ、国歌を歌わせようというのはむりがある』と書いています。


読売新聞は、都教委の通達を『式に国旗、国歌を正しく位置づけるため』のものであると是認し、『日本の国旗、国歌はもちろん、外国の国旗、国歌をも尊重することが国際的礼儀につながることを子供たちに理解させることは、学校教育の大きな目的』としています。サッカーのW杯などでの若者が国旗を振る姿にも触れ『国旗や国歌に対する自然な態度が育っている』とし、先の学校だけが異常との論理で締めくくっています。


教育現場で何が起きているのか、昨日紹介した『世界 4月号』の『「報国」の暴風が吹き荒れる』(斉藤貴男)から引用しておきましょう。


  • 教職員や来賓の席順表や式次第を、あらかじめ都教委に宛てて提出した学校がある。

  • (式)当日はどの学校にも指導主事ら都教委職員四~八人ほどが来賓として派遣され

  • 君が代斉唱に臨む教職員の態度を監視

  • 教頭が教職員席周辺を歩いて「指針」通りに振舞われているか否かを確認

  • その様子を都教委が壇上の来賓席から見張る

  • 反抗的とされた教職員は例外なく、式の終了後、校長室で指導主事らに取り囲まれ事情聴取を受け

  • 報告を受けて都教委人事部は改めて彼らを呼び出す

  • 都教委同席の予行演習で「国歌斉唱の声が小さい!」と生徒を怒鳴りつけた校長がいた

  • 君が代の伴奏をしたくないという音楽教師に「出て行け」と命じた

  • 式典の後の講演会で、日の丸と並べて星条旗が掲揚され、アメリカ合衆国国歌の演奏とともに生徒が起立を促された(大田区内のA高校)


これが、ほとんどの学校現場で起きているならば、明らかに異常だとは思わないでしょうか。

W杯アジア一次予選に沸くTVを付けながら・・・