『週刊!木村剛』の今週のコラムは『「広告の奴隷」から「広告の主人」へ』というものでありました。
木村氏は、今までは受動的であった広告の受け手が、『消費者は [...] 各種の情報で武装しつつあり
』、『発信者が特定されるブログ
』が『そのサイトの信用力が他のメディアと同格
』になった場合、『消費者は既存の広告以外に有力な情報源を持つ
』として、従来型の広告媒体からインターネットを通じた主体的な広告選択の可能性が拡がると書いています。
少し疑問もあるので書いてみます。現在でもインターネットでは見たくもないバナーと広告の洪水です。むしろサイトの方が巧妙な広告技術が駆使されているように思えます。ログ履歴を通して、一体どのような情報を企業が享受しているのか知るよしもありません。
またブログが広告情報主体の担い手になるという考え方も、ではそのブログの主体である個人が、どのような選択眼に基づいて広告情報を提供しているか分らなければ、ニュートラルな広告情報源とは捉えることができなくなります。
逆にブログなどが提供する広告情報においてニュートラルなものはないという論点に立つならば、誰々が推薦している広告情報であるから信用できる、あるいは、しないという選択はできるかもしれません。ブログ流行以前から、カスタマーズ・レビュを掲載しているサイトは多いですし、購買者の評価点を表示する広告も何かで見たことがあります。
そうした広告情報であっても、更にそれが作為的に操作されたものでないかを広告情報の受け手は考慮する必要があります。購買者は商品が少なく一方的に広告を受けていた頃よりも、広告を評価する情報を更に吟味することになり、広告呪縛は続いてゆくようにも思えます。
だからこそ木村氏は『サイトの信用力が他のメディアと同格になってきたならば
』という条件付きでこの仮定を提示していますが、『他のメディアと同格
』というのがまた、クセモノかなと思えます。
なぜ木村氏のエントリーに反応したかといえば、「商品広告」という経済的なものではなく、広く「マスコミが流布している情報」ということにまで敷衍して考えるならば、両情報に明確な区別はないかもしれず、求められるものは情報の受けての判断力と取捨選択力、そして主体的な情報への接し方とそれを可能にするある種の知恵が必要になってくると考えているからです。
そもそも広告評論家の天野氏にいわせれば、表現の全てが「広告」であるという極論にまで達してしまいそうです。「政治的プロパガンダ」こそ言葉の通り「広告」ですからね。
(エントリー当初より少し改稿)
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