2004年6月28日月曜日

ちょっと待てよ、人質関連の経費

イラク人質事件の日本政府負担についての記事。


●イラクの3邦人人質事件の政府負担は1815万円

 外務省は25日、4月にイラクで発生した邦人人質事件で政府が負担した経費は総額約1815万円だったと発表した。

 最も費用を要したのは、ヨルダンに派遣した逢沢一郎外務副大臣ら外務省職員の出張関連経費の約1370万円。

 このほか、<1>在ヨルダン日本大使館の現地対策本部運営費約97万円<2>解放された人質3人をバグダッドからドバイに移送したチャーター機の運航費約53万円<3>川口外相がテレビで人質解放を呼びかけたメッセージ作成費約16万円――などとなっている。

 3人は、チャーター機代の自己負担分計約12万円と、家族の出迎えの渡航費用の立て替え分など計約237万円を外務省側に払っている。



(2004/6/25/13:12 読売新聞 無断転載禁止)


1815万円のうち1370万円が出張費です。何人、誰が、いつからいつまで、何のために、どこに宿泊したのですか? 政府からの身代金はこの中には入っていないわけですね、情報収集費用もなかったと。よく解釈すれば公にできないということですか。


全然釈然としません。マスコミはもっと突っ込んでもらいたいものです。

記事は、暗いニュースリンクで知りました。本当に、寝る前に暗い気分になりましたよ。

佐々木幹郎:「やわらかく、壊れる」


宮本隆司氏の写真展と前後してこの本を手にとっていました。「やわらかく、壊れる~都市の滅び方について」というタイトルが非常に詩的であり、興味をそそられたのと、表紙や本文中に宮本隆司氏の写真が使われていたからであったのですが。

しかし読んでみれば、「やわらかく、壊れる」とはソフト的にして形而上的な話ではなく、神戸の地震を契機として被害を最小限に留めるための設計思想について述べたものであって、詩人にしては現実的な、と実は興覚めしたことも確かです。

「柔らかく壊れる」という思想は、最近の建築構造設計の思想の一つになっていますから当たらずとも遠からずではあるのですが。ではこの本がつまらないかというと、そうでもなく、佐々木幹郎という人、いまどき珍しい風来坊であるなあと思った次第です。

詩人なのですから日中からノラ猫相手に時間を潰していても構いませんし、『永代橋の上で何時間も風に吹かれ神輿が到着するのを待って』いても構いません。気の赴くままネパールに行ったり湾岸戦争で汚れた「アラビア湾」をキレイにするボランティアに参加したって問題ありません。文章が書かれたのはまさにバブルが弾けつつあった1990年頃から1995年の間のものが多く、読みながら無邪気なお江戸賛歌や東京賛歌のようなスタンスに違和感を感じないでもありません。詩人に対するやっかみでしょうかね。

不思議な人です。根っから風来坊なんでしょうか、はたまた彼が図らずも露呈する『日々是観光の地の日常』という気分なのでしょうか。批判も肯定もせず、フラットな視線でものごとを記述しています。この独特の穏やかさと、子供のような好奇心に満ちた視線。彼の文章の初出一覧や著作を眺めてみれば、彼が「紀行」の分野で活躍していることが分かり、そうするとなにやら合点した気分。何かに規定して枠に納めてでなくては考えられない私の悪い癖ではあります。

彼の生活圏が辺見庸氏と同じように「隅田川の左岸」、両国は回向院の近くというのも何だか妙なものだなあと思うのでありました。今度両国に行く機会があったら、回向院詣ででもしてみましょうか。

奏楽堂の日曜コンサート4

何度か足を運んでいる奏楽堂の日曜コンサートに行ってきました。今日は第四日曜日ですからオルガン演奏です。演奏は東京藝術大学オルガン科2年の大木真里さんでした。

奏楽堂のパイプオルガンは、旧東京音楽学校奏楽堂のHPによりますと、以下のように紹介されています。

正面のパイプオルガンは、大正9年に徳川頼貞侯がイギリスから購入し、昭和3年に東京音楽学校に寄贈したものです。アボット・スミス社製でパイプ総数1,379本。いまでは世界でも珍しい空気式アクション機構の、わが国最古の貴重なコンサート用オルガンでやわらかな音色が魅力です。

これだけ読んでも、奏楽堂のパイプオルガンが由緒正しく珍しいものであることは分るのですが、さては一体どういう音色なのかと気になっていました。もっともパイプオルガンといえば私は札幌KITARAのオルガンしか聴いた事がありませんので、比較などできないのですが。

今日のプログラムはJ.S.バッハのオルガン曲が6曲、最初のBWV659がペダルを用いた低音から始まったときは、失礼ながら、なんとも「腑抜けた」音であるなと、正直思ってしまいました。重低音として響いては来るのですが、もこもことしていて音程も合っているようなズレているような・・・これが「やわらかな音色」ということなのでしょうか。中音域は音量は大きいのですがちょっとバリバリした音。高音は流石に聴き慣れたパイプオルガン的な典雅な音色ではありました。

考えてみるとオルガン曲には(>「にも」だろう)ほとんど親しんでおりませんので、フーガ ト短調BWV578以外は初めて聴く曲ばかりで、演奏云々については感想を書くことが出来ません。そうは言っても、とても気持ちの良い30分間を過すことはできたのですが。貧弱なオーディオ装置を通して音楽に接するよりは、生の魅力に接した方が良いことだけは確かでしょうから。

それにしても30分間、終わるまで拍手もなく演奏し続けた大木さん、ご苦労様でした(^^) もっとオルガン曲勉強します。

●J.S.バッハ:来たれ 異邦人の救い主よBWV659●BWV660●BWV661●フーガ ト短調BWV578●前奏曲とフーガ ロ短調BWV544


2004年6月27日日曜日

韓国人人質の殺害事件

韓国人人質を殺害した一神教聖戦団が今度はトルコ人を拉致したそうです。暴力の連鎖に歯止めが利かなくなっているようです。そんな中で「テロとの戦い」を強調と協調をアメリカ系各国は主張するのでしょう。6月27日の読売新聞 編集手帳では以下のようにありました。


◆テロリストと取引をし、存在を許す国があるから、テロリストが我が物顔に振る舞うようになる。国家でも政治家でも、一般の人でも、どんな苦境に立たされても取引をしてはいけない場合がある◆自由を語るだけでなく自由を守るために犠牲を払う用意がある、その決意を示すことも必要だとサッチャー元首相は言う。イラク情勢を考えると余りに重い言葉だ。


言うことは分かりますが、前提が正しいのでしょうか。




つまりはイラクへの米国を中心とした戦略そのものが正しかったのか、今でも正しいのか。テロと戦うと言うが、誰の誰に対するテロと戦っているのか。イラクへ参戦するまでは、日本や韓国が矢面に立ってテロの標的とされる、具体的な理由が果たしてあったのかということです。


世界情勢は色々な関連の中で動いているので、日本だけが無関係というつもりはありませんが、『イラク情勢を考えると余りにも思い言葉』なのではなく、もっと突きつけている課題は大きく重いのだと思います。では、と次になかなか進めないのですが。

そんな中、ブッシュ米大統領は26日、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出席するたトルコ入りしています。

アムラン/ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番、第2番

アムラン/ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲集
  1. ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35
  2. ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102
  • アムラン(p)
  • リットン指揮 BBCスコティッシュSO
  • Hyperion CDA67125

ピアノ界の鬼才アムランのショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番と2番を聴いてみました。アムランはときどき紹介しているように、いつも抜群のテクニックに仰天してしまうのですが、この盤においても冴えまくった腕を聴かせてくれます。

テクニックさえあれば楽しめるというものではないのですが、彼の演奏スタイルからは、何か面倒くさい取り決めとか段取りを全て飛び越えてしまうような爽快さを感じるのです。それが私のどこかに触れるのかもしれません。

ピアノ協奏曲第1番(1933)はトランペット独奏者とともに演奏されるというちょっと風変わりな曲ですが、ショスタコ独特のメロディの美しさや、少しとぼけた雰囲気などが楽しめる曲です。ショスタコはあまり詳しくないのですが、作曲者は『英雄的な、はつらつとした、きわめて快活な』感じを意図していたようです。そういう雰囲気を曲から感じ取れるかは人によると思いますが。

第一楽章からピアノとトランペットはハイテンションで飛ばしまくります。こんな勢いで最後まで行くのかと思うほどですが全くそんな心配はおかまいなしというところでしょうか。ちょっと深刻な感じの第二楽章Lentoと、第三楽章Moderatoをはさんで終楽章に突入するところからピアノが再び物凄い疾走を始め、そこにオケとトランペットが被さります。ピアノは打鍵も強く天上から地下までこれでもかと打ち鳴らされるさまは、軽い躁鬱を繰り返した後に来る破れかぶれの明るさにのようなもの(何だそれ?)満ちています。中間部のトランペットソロは、ちょっとボケが過ぎないかと思わず笑ってしまうのですが、ラストに至ってはもはや破顔でブラボー!です。

続くピアノ協奏曲第2番(1957)も軽いノリで始まります。続いてすぐに粒の揃ったピアノがオケと対等に渡り合う様は胸のすく思い。一楽章からとにかく激しいのです、物凄いスペクタクルを観る思い、あいた口がふさがらない。ショスタコのピアニズムが凄いのか、あるいはアムランが凄いのか。音楽からここまでのエネルギーを引出す手技には脱帽。

第二楽章は一転して物静かな弦で始まりますが、こういうメロディの扱い方は何とも言えませんね、間違いなく泣けます。今でこそヒーリングミュージックとしてもてはやされるようになってきましたが、ここだけ取り出して聴くものではありません。それにしても甘美過ぎる!この曲は息子のマクシームのために作られたとされておりますが、第二楽章は父から息子への贈り物なのだそうです。

そして怒涛のような激しさの終楽章が、転がるようなコミカルなメロディから開始されます。終楽章に作曲当時、モスクワ音楽院に在学中の息子が練習していた曲であるハノンを引用していることも、この曲を特徴つけていますが、そういうことを知らずともアムランの冴えに冴えているピアノを聴いていると細かいことはどうでもよくなります。彼の演奏に切れ味とかそういうものばかりを求めてしまうのも何だかなあとは思うのですが、梅雨時の鬱陶しさを吹き飛ばすには格好の盤であると言えましょうか。

【サイト内の関連】
アムランのほかのCDレビュ

2004年6月26日土曜日

音盤の物色


休日に天気が良いと気もそぞろとなってしまい、じっとしていられない性分なのですが、今日は雨こそ降っていないものの曇り空なので、なにもしないことに決めました。嫌でも明日は休日出勤しなくてはいけませんし。ということでHMVのサイトでCDなどを物色、以下の4枚を購入予定といたしました。


  • DVD Wagner / Gotterdammerung: Levine / Met Opera, Behrens, Jerusalem, Salminen, Ludwig, Etc

  • DVD Verdi / Il Trovatore: Marton, Pvarotti, Zajick, Milnes, Levine / Met Opera

  • DVD Verdi / La Traviata: Gheorghiu, Lopardo, Solti / Royal Opera House Covent Garden.o

  • CD Kapustin , Nikolai (1937-) *cl* / Piano Works: Hamelin





ワーグナーの「指環」は、この「神々の黄昏」を購入することで、とりあえずレヴァインによる「指環全曲」を確保できました。実はまだ通して聴いていないのですがね。(そういえば「CDで聴くはじめてのワーグナー」というシリーズが「ラインの黄金 第1幕 第1場」で頓挫したままです。再開は期待できるのでしょうか>って誰も期待していませんね ^^;;)


ヴェルディの「トロヴァトーレ」はパヴァロッティなどを配したレヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場の演奏、「椿姫」はショルティ指揮、ソプラノにアンジェラ・ゲオルギューを配した1994年のライヴ録音です。正直に告白しますが、私は「トロヴァトーレ」も「椿姫」がどんなオペラなのか全く知りません。クラシックファンとは恥ずかしくて言えませんね。


あとアムランの新譜が7月に発売されるということで、カプースチンという作曲者は聴いたことがないのですが、迷わず購入。アムランのCDといえば昨年買ったショスタコーヴィチのピアノ協奏曲が封を切らずに眠ったままであることを思い出しました・・・そのうち聴いてみましょう(>て今日聞けよ)

寺神戸亮/コレッリ:ヴァイオリン・ソナタ集作品5より

コレッリ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集
  1. 第7番 ニ短調
  2. 第8番 ホ短調
  3. 第9番 イ長調
  4. 第10番 ヘ長調
  5. 第11番 ホ長調
  6. 第12番 ニ短調《ラ・フォリア》
  • 寺神戸亮(バロック・ヴァイオリン)、シーべ・ヘンストラ(チェンバロ/オルガン)、ルシア・スヴァルツ(バロック・チェロ)
  • 録音:1994年8月 オランダ、デン・ハーグ、旧カトリック教会

DENONのCREST1000シリーズから発売されている寺神戸亮氏によるコレッリのヴァイオリンソナタ集を聴いてみました。

コレッリ(1653-1703)はバロック・ヴァイオリンの象徴とも言うべき存在なんだそうです。 CD解説によるとコレッリは宗教作品や声楽曲(オペラを含む)を全く残さなかったそうで、しかも名声に比して残された作品数が僅少なのであるそうです。というのもコレッリの遺言で未出版の作品のほとんどを破棄させたからで、それだけに現存する作品は厳選されたものであるとのこと。

この盤ではコレッリのヴァイオリン・ソナタ集5番のうち後半の6曲が納めているのですが、果たして聴いてみますと、一聴するだけでコレッリの魅力に取り付かれてしまいます、いやコレッリの魅力なのか寺神戸氏のヴァイオリンの魅力なのか、実はそれは判然とはしないのですが。

短調の翳りと明るさとが微妙な具合にブレンドされた曲調、長調の軽ろやかで優雅な曲調など、どれも好ましいもので、様々な心象情景が浮かんでは消えていきます。技巧を凝らしたブイブイ言わせる曲ではないかもしれませんが、休日の午前などに珈琲でも飲みながら聴いていると、それだけで気分が癒されてきます。とは言いましても、ベタなヒーリング曲では全くなく緩急の楽章の繰り返しは変化に満ちていて刺激的でもあります。

しかし何と言ってもこの盤の中では《ラ・フォリア》が聴きどころでしょうか。フォリアとはスペインの古い舞曲を起源とする曲で、本来は狂気を意味する言葉あったようです。この曲もイベリア半島起源とされる古い舞曲の16小節の主題を元に、23の変奏が繰り広げられていくというものです。哀愁を帯びた旋律が、ヴァイオリンの技巧を駆使して変化してゆくさまは、単純であるが故に聴き進むにつれ得も言われぬ凄みを帯びてきます。この1曲を聴くだけでもこのCDの価値はあるかもしれません。

詳しい解説はネット上にあるので興味のある方は読んでください。ほとんどCDライナー引き写しの文章を読むことができますので便利です。

一息ついたか・・・?

暑さは相変わらず、今日は夕方から小雨が降り始め湿度も一気に上昇、北海道では感じたこともない「不快指数」という言葉を思い出す。


仕事の方は何とか山場を少しだけ越えつつある、というか来週が最大の勝負なのが、もはやラストチャンスということだ。イラストの彼女のように雨空にはなりたくないものである。



仕事をしていて思うのは、仕事における当事者意識とリーダーシップという問題である。あるプロジェクトをまとめようとすると、営業、技術系の人間を含め数十人の人間が関わることになる。半年前のプロジェクトでは関わった人の数は社内で100人を超えていたかもしれない。


そういうプロジェクトの推進役になると、日々「段取屋」とか「調整役」で終わってしまうのだが、それでも、ある強い意志をもって、スタッフを描くストーリーへ導くかなくてはならない。笛を吹けば皆が踊り出すほどオメデタイ人間は会社にいないため、いかに彼らに気持ちよく踊っていただくかが重要になってくる。


スタッフの中には他人まかせで当事者意識の薄い人、上からの指示をただこなすだけで、仕事のプライオリティーを全く理解しない人、逆方向に進む人、まあ色々いる。罵倒しても人間は気持ちよく動かない。相手にモチベーションを持たせながら望むべく結果を出させる、これが一番難しい。年齢的に上でも下でもだ。


熱意のない人にはついてきたくないものだが、熱意が空回りする人というのも困りものだ。ムカシは自分が頑張っているところを見せれば回りも動くと思っていたが、そんなものではない。白けるだけの人も少なくはない。要は人間関係であるので、相互に信頼を築けているかにプロジェクトの成否はかかっているのかもしれない。


様々な思惑や皮算用が入り乱れながらプロジェクトは進むが、結果や評価は外部が下す。望む結果が得られなければ全ては無意味、努力に比例して評価されるものでもない。努力も重要だが、それと同様に感性も重要になってくる。


そういうことを考えていると、オーケストラの指揮者というのは、げに凄まじき職業であるなあと思うのであった。


はてさて来週はどうなることやら、梅雨は明けるだろうか。

2004年6月25日金曜日

検証が可能であるということ

「CVID」「完全に、検証可能なやり方で、再生不能なかたちで破壊する(Complete, Verifiable, Irreversible Dismantlement)」とは北朝鮮の核開発プロジェクトに対するアメリカの主張です。これは北朝鮮に対するアメリカの強硬姿勢の現れとも取ることが出来るのですが、一方でイラクの大量破壊兵器に関してもそうであったように、北朝鮮やイラクが近隣諸国の武力が近隣諸国に対し脅威足りうるのかどうか、そこのところをアメリカ側の主張だけをもとにして信用してよいものか、疑問を感じもします。




政府の主張するイラク自衛隊派遣から多国籍軍への参加につながる判断についても、北朝鮮の脅威を前提とした上での国益を護るためと主張しているのですから、盲信・盲従でないことを願いたいところです。


日本国にはアメリカに匹敵する諜報機関も諜報能力も有していないのですから、アメリカの調査結果を正面切って否定することができないわけです。そういう意味からは、情報が著しく「非対称」であると言えます。検証などできないですし、アメリカの主張を疑問視する国との協調関係は全く築けていないように思えます。


相手に対し「完全に、検証可能なやり方で」と主張するからには、自身の調査結果についても本来はそうでなくてはならないわけですから、つまりは最近話題にした「外部監査」という機能が必要なのではないかと思うわけです。イラクの大量破壊兵器に対するパウエル国務長官の政略と詭弁に満ちた発現についても、世界各国は国益にかけてアメリカの妥当性を検証せねばならなかったはずです。


同じ話しは日本国内での年金問題や税金問題についても同様で、政府の示すバランスシートに対しての正当性を評価するようなことがあってこそ、新たな議論が始まるのではないかと、つらつら思うのでした。そういう意味では木村剛氏の活動に期待はしているのですが・・・ちょっと話しがバラバラでしたね。

2004年6月22日火曜日

ビジネスの朝型 社会の進歩かはいざ知らず

Letter from Yochomachiさんのサイトで、『日経「ビジネス 早朝化進む」……みんな早起きになったそうだが、結果として睡眠時間が短くなっている』というエントリーが目に付きました。ビジネス社会で『朝早くから飛ばす企業が多く』なっているとのとです。




私の会社では担当重役は朝7時から7時半には出社しており、重要な会議や確認は9時頃までに済ませるのが慣例となっています。重要かつ根回しが必要な案件であればあるほど、朝早くから濃い打ち合わせが待っています。重役は夜は夜で色々とご予定がありますので夕方は早々に退社しますが、ペーペーは重役説明のための資料を夜を徹して作り朝に望むわけです。「重役出勤」とは早朝出勤することを(当社では)意味することに変わってしまいました。「重役」になど(なれないけど)なるもんぢゃありませんな、ペーペーも辛いけど。


もっとも、ここら辺の事情は組織によってかなり違うと思います。朝型人間のことを確か英語で「Eearly Bird」と呼びますが、他の人が出社する前の打合せも電話もない落ち着いた時間に、その日のすべきことと予定を立ててしまうというスタイルは、「デキるビジネスマン」的な啓蒙書で時々目にするところです。みんなイロイロな事情から朝の時間を有効に使いつつあるということなんでしょうかねエ。


朝を有効に使うのは良いのですが、関係する皆がEearly Birdになってしまったら、単に勤務時間がシフトしたことにしかならないので、そこらあたりはサマータイム導入と廃止の経緯と同じように悩ましい問題をはらんでいそうです。


ヒラリー・ハーンの新譜

Classical CD Information & Reviewsや、wanderのエトセトラ日記Tower Recordsなどで紹介されていましたがヒラリー・ハーンのドイツ・グラモフォン移籍 第2段のCDが出るようですね、7月21日発売予定ですとか。

曲目はエルガー:ヴァイオリン協奏曲とV.ウィリアムズ:「あげひばり」、C.デイヴィス指揮する、ロンドンSOの演奏ですか。今までハーンの演奏はオケや伴奏者に問題があると指摘する人もいましたが、今回は期待できそうですね。



実は、先週はハーンのデビューCDである、バッハのパルティータを繰り返し聴いていました。このCDもネット上では賛否は分かれていたように記憶していますが、私としては何度聴いても飽きのこない演奏です。パルティータの収録は2番ニ短調と3番ホ長調だけですから、早く全曲を録音してもらいたいものです。

ヴァイオリンのことは(も)余りよく分らないのですが、とにかく7月に向けて期待大というところでしょうか。

・サイト内のヒラリー・ハーンのページ

2004年6月18日金曜日

アメリカの国旗が持つ意味

NHKスペシャルで「21世紀の潮流 アメリカとイスラム」という2回シリーズが放映されています。第1回はイラク人虐待のモデルともいわれるキューバのグアンタナモ収容所とイラクとアフガンに挟まれながら反米姿勢を崩さないイラン革命25年目の素顔に迫るものでした。

グアンタナモ空軍基地にある収容所は悪名高い収容所で、アメリカの国内法も国際法も及ばない場所です。ラムズフェルド国防長官も「彼らを法のもとに裁こうと思っていない、テロを未然に防ぐために疑わしき者を収容しているのだ」と言って憚りません。

番組では、ある日突然失踪した息子が、実はグアンタナモに収容されていることを知ったレバノン人の父親が取材されていました。父親が一枚の写真を取り出して語ります。写真はテロ被疑者がアメリカ軍に捉えられ、グアンタナモに輸送される飛行機内で撮られたものでした。被疑者数十名は覆面をされ、手足を縛られ、ロープのようなもので壁に固定された状態で、軍用機の冷たい鉄板の上に座らされていました。彼らの脇にはアメリカ人が立ち、背後には機内の天井から星条旗が垂れ下がっていました。

父親はその星条旗を指し「アメリカ国旗には私も誇りに感じたこともあった。アメリカ国旗は民主主義と自由の象徴であった。それが、こんな使われ方をするとは」と憤りにうち震え、そして息子の安否を気遣っていました。

E.W.サイードは「わたしたちの民主主義を返せ」という一文で、次のように語っています。

途方もなく犯罪的だと思われるのは、民主主義や自由といった重要な言葉がハイジャックされ、略奪行為や領土侵略や怨恨を晴らすための隠れ蓑に使われていることだ。 アラブ世界についての合衆国の計画はイスラエルのものと同じなってしまった。 シリアと並んで、イラクはかつてイスラエルにとって唯一の重大な軍事的脅威だった。だからこそ、壊滅させねばならなかったのだ。

サイードはアメリカの中東政策がイスラエルを擁護するシオニスト一派の戦略に支配されていることを前提にしていますし、それであっても、彼がアメリカに民主主義と自由の理想を重ねていたことが分ります。ここでアメリカの国旗や愛国心についてのサイードの見方にも触れておく必要があるかもしれません。「もうひとつのアメリカ」という「戦争とプロパガンダ4」にも納められている一文からの引用です。

国旗を振ることに、これほど重要な図象学的な役割を持たせている国は他に知らない。 タクシーにも、男物ジャケットのラベルにも、住宅の前窓や屋根の上にも、そこらじゅうに旗が翻っている。 それは国民イメージの具現化であり、英雄的な耐性と、価値なき敵との戦いに悩まされているという感覚を表している。

これは、アメリカという国に対する荒いスケッチの断片です。アメリカのアイデンティティの根源に国旗と、国旗が象徴する民主主義や自由という精神が込められていたとするならば(レバノン人の父親の言を思い出すまでもなく)現在のアメリカがその精神を冒涜し踏みにじったという主張は、単なる理想論的な悲憤という以上の意味を伴っているようにも思えます。

アメリカの民主主義が絶対であるという価値観に拘泥するものではありませんが、アメリカの世界における位置付けや意味付け、そしてウェイトが変化してしまったことを示唆しているのかもしれません。アメリカ政権内部でのシオニスト、ネオコンなどの保守派と中道派の局地的な主導権争いが繰り返されるなかで、アメリカ全体が大きく舵をとり始めているのではないかという認識ですが。

そういう認識からアメリカ対日本という関係を考える必要がやはりあるのであろうとは思うのです。

2004年6月17日木曜日

日本における議会制民主主義

年金改革法案が通ったことや、自衛隊イラク派兵問題から多国籍軍に至る政府のなし崩し的な決定を見ていると、日本における議会制民主主義がもはや機能していないことを痛感させられます。

サイードの書き込みそれに連なるエントリーについて、Flamandさんから過分なるレスをいただき、つらつら民主主義とかについて考えていたところ、とあるメールマガジンで以下のような書き込みを見つけて成る程と思ってしまいましたので紹介しておきましょう。



北野一  :三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト


 年金改革法案が徹夜国会の末に成立した翌日の日経新聞には、「(年金改革法案を)廃案に持ち込むには硬軟織り交ぜた戦略が必要だった」との反省が民主党内にあったと紹介されておりました。しかし、彼らが反省すべきは、この国会における(戦略というよりも)戦術の誤りではなく、昨年11月の選挙で、年金改革を前面に押し出して、政権を獲得できなかった戦略の誤りです。



 また、メディアにも言いたいことがあります。国会審議次第では民主党案が成立するかも知れないと国民が錯覚するような記事を何故書きつづけたのでしょうか? また、戦術次第では年金改革法案を廃案に出来たかも知れないという民主党の反省など、報道する必要もないのです。そうではなく、「総選挙が終わった時点で、今日の結果は見えていた。だから選挙が重要なのだ」とはっきり書くべきなのです。

北野氏の結論は、現在の結果を招いたのは国民のせいでもあると指摘しています。同じような論調がもうひとつありました。

津田栄  :エクゼトラスト投資顧問株式会社 顧問


 (年金改革法案がろくに審議もされず可決されたことに対し)自己責任という観点から、国民自身も、自民・公明連立政権を昨年11月に選挙で選択した点で、こういう結果を招いたということがいえましょう。ただ、企業経営でも、選ばれた経営陣が株主・従業員などの企業関係者に当初の経営方針・計画に説明を尽くし、疑義が出てくれば、再度見直しをし、間違いに気付けばその計画を変更して、その結果の責任を経営陣が最終的に負うように、企業関係者および消費者との信頼を基礎にした民主主義的経営が行われます。


 その点は、どこの民主主義国の政治でも、状況が時々刻々変化していくなかで、選ばれた政治家が国民の考えと乖離していれば大なり小なり修正を迫る国民の姿が見られることにも通じます。そこには、企業経営と同様、国民に対する説明責任(説明およびその結果に対する責任)、政策に対する結果責任を負っている政府および議員と国民との間の信頼関係という民主主義的基盤があります。しかし、この日本においては、国民の声は国会に届かず、説明責任も果たさないで、既存の制度を維持し、既得権益を手放したくないために官僚の作った法案がそのまま採用され、国民不在のどこかの国とそれほど変わらない、ダイナミックさを失った政治が行われています。

津田氏も議会制民主主義の前提に立っても、選挙が重要であると力説した上で、以下のように続けます。


 そのためには、国会議員は、主役が国民の負託を受けた自分たちであることを改めて認識し、その責務を自覚することを強く望みます。そして、国民である私たちは、この年金制度を改めて考え、議論し、他人任せにしないことであり、今後の政治における判断でも、自己責任から、選挙で自分の考えにあった議員を選ぶべきでしょう。


この文脈の中での「自己責任」という意味は重いと思います。そういう意味で、改めてFlamandさんの書き込みにあった


言い古された言葉ですが、民主主義体制では「国民のレベルを上回る政治(家)を手に入れることはできない」ということは当たっていると思います。政治家達の馬鹿さ加減を批判しそれを放置するということは、自らの愚かさを自嘲していることに他ならないことだと思います。

という言葉を考えています。ちなみに、ここでの「民主主義」とサイードの言うアメリカの踏みにじられた「民主主義」とは、意味するスコープがかなり異なっているようです、これについては、また時間があれば書きます。


・このエントリーは茜色のこころにトラックバックしました(2004.6.25)

2004年6月15日火曜日

六本木ピットイン閉店とは・・・

新・東越ケ谷通信をのぞいていたら、六本木ピットインが閉店するとのエントリーが目に付きました。更にそのエントリーの元は「こーたろー、の、領分」というサイトのようですが、なんとも淋しいですね。




と言いましても、ご両人と同じで、私もピットインにはもういつ行ったのかさえ覚えてはおりません。それでも、初めてライブを経験したのがここでしたし、しみじみとムカシを思い出してしまいました。


札幌に居たときは(おととしのことですが)HALF NOTEというジャズ・バーが私のお気に入りで、会社の同僚やら取引先やらを連れて行ったり、たまには一人で行ったりしていたものです。世の中、飲み会の二次会と言えばカラオケ付スナックあるいはボックスが主流でしたから、カラオケ嫌いの私が無理やり(?)連れて行っても、リピーターはほとんど生じませんでしたが。

マスターやピアニストには東京に行くのだから、色々聴かれて良いですねと言われたものの、こちらではジャズ関係には全く縁遠い生活をしております。ジャズとクラシックの二足を履くほどに余裕がないですからね。


それにしても、六本木ピットインがなくなったということは、随分前ですが、渋谷ジャンジャンがなくなったのと同様に、ひとつの時代が終わったような気になります。


2004年6月14日月曜日

アメリカの民主主義

6月5日に、元アメリカ大統領のレーガンがアルツハイマー病の合併症で亡くなりました、享年93歳の大往生でした。日本のマスコミ各社もレーガンの功績を高らかに称えていましたが、アメリカの論調も同じであったらしく、これは現職のブッシュのあまりのダメさ加減のため、あてつけのようにレーガン賛美をしていたのだそうです。




翌日の6月6日は「Dデー」すなわち、第2次世界大戦で連合国軍が攻勢に転じるきっかけとなったノルマンディー上陸作戦の記念日で今年は60周年でした。ブッシュ米大統領は、


この地で尊い目的のため戦ったすべての解放者を尊敬する。米国は友人のため再び同じことをする

という事を述べたようです。かのレーガンはDデー40周年の式典で、


この地に倒れた人々よ。民主主義はあなたがたの犠牲に耐えうるものなのか。答えはイエスだ。何故ならば、あなた方には信念があり、確信があり、愛があったから・・・

と高らかに演説したのだとか。

昨日、サイードの本を紹介いたしましたが、アメリカの「民主主義」は20年前は(今よりは)健在だったのでしょうか、あるいはレーガンが政治家として少しだけ優れていただけなのでしょうか。

「信念」と「確信」と「愛」というオブラートをまとってアメリカの国益に殉じた者たちや、剥き出しのエゴイズムとしての国益のために爆破され吹き飛ばされた人たちは、どう弔われるのでしょうかね・・・