2006年1月26日木曜日

歌舞伎座:伽羅先代萩


伽羅先代萩」ですが、これはまず子役が良くないと面白くなかろうと思っていましたが、千松を演じる虎之介は見事に初舞台の重役をこなしていました。「常々教へておいた事、幼な心に聞き分けて、よくぞ覚えたり、出かしやった/\、天晴ぢゃ」という程の出来。人形のように華奢な体から発せられる高く通る声は、それゆえに健気さと哀れさをさそいます。


イロイロ予習して望んだのですが、政岡については先に紹介した「祝福に対する予見性」というような屈折した感情を藤十郎の芝居からは感じませんでした。また、政岡は床本を読む限り気丈夫な女という印象でしたが、藤十郎の正岡はもっと柔らかく情が強い。理よりも情が勝った政岡像という具合に感じました。


ここのところを「一閑堂」のぽん太さんは「生理に根ざした政岡」と書いておられます。それと似たような印象を覚えたのは「飯(まま)炊き」での演技です。


風炉にかけたる茶飯釜湯の試みを千松に飲ます茶碗も楽ならで


「飯炊き」は芸談を読むといろいろな型があるようですが、藤十郎は茶の手前に時間をかけることなく手早く済ませているようです。むしろ湯を飲ませた後の千松を眺めやる、眼差しと手つきに緊張感を強調したのかなと。米を研ぐ場面では茶筅を用いず手で研ぐことにより「飯炊き」に生々しさとリアルさが入ったように感じられます。そして、藤十郎は米を研ぎながら、三味線に乗ってこうツイと左肩を落とすきまりを何度か繰り返します。若干のおかしみを伴う仕草で、観客からは笑いも生じるのですが、私はここに政岡の口には出せぬ悲しみの表現を感じました。


「一閑堂」のポン太さんがここは本質的にギャグであり、役者の工夫をみせる見世場に違いないと指摘しますが首肯すべき指摘かもしれません。おそらくここは作者の観客へのサービスなのでありましょう。鶴千代や千松の戯れとともに、ほのぼのとした温かみを感じさせる場面です。陰謀渦巻くお屋敷の中で、このつかの間の平和があるからこそ、後の悲劇も大きくなります。しかし、ここが喜劇であることに同意するとしても、藤十郎は喜劇の底に潜む母の悲しみと、将来的な悲劇の断章を垣間見せてくれたように思えます。


さて、その酷いまでの悲劇の場面。


となぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆる辛さ無念さを、じつとこらゆる辛抱は、ただ若君が大事ぞと涙一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鑑、いまにその名は芳しき。


鶴千代の安全はは守りながらも、駆け出しそうに、あるいは崩れ落ちそうになる体を柱で支えつつ、子の最期をひっしと見守る。その辛さ悲しさ狂おしさ。それは芝居を見ていてもヒシヒシと伝わってくきます。決して文字面から見えてくる「烈女」はそこには居ません。


「飯炊き」での肩を何度かツイと落とすきまりは、千松の死骸に向かって袱紗を口に含んでの場面でも見ることができました。そこには政岡が最愛の我が子を亡くした悲しみが凝縮されているように感じました。


千松を殺した八汐は、どうしてあそこまで子供に対して無残になれたのでしょう。


ムヽスリヤこれでも此方は何ともないかや、これでもかこれでもか


と言いながら千松に何度も刃を突き刺す八汐の心は、お家騒動そのものよりも、政岡その人にあったのかもしれないと考えたりしました。「御殿の段」の前は「竹の間の段」で、鶴千代を亡き者にしよとする政岡と八汐の駆け引きが書かれています。この段では八汐が分が悪くなり引き下がっていますから、続く「御殿の段」では、どうしても政岡をやり込めたかったという、女の私讐心が八汐にはなかったか。


政岡は千松の遺骸を抱いて泣き叫ぶ場面。鶴澤八介氏のネットで読める床本では、


君の御為かねてより覚悟は極めていながらも、せめて人らしい者の手にかゝつても死す事か、素性賎しい銀兵衛が女房づれの刃にかゝり


とあります。藤十郎は「素性卑しき八汐づれのの刃にかかり・・・」と言っていたように聴こえましたが、いずれにしても、政岡のそういう感情を知っての八汐の私怨もあるのかなと。その復讐心の激しさ故に、千松を殺した後に引き下がるときの八汐の見得は、悪女の勝ち誇りそのもの。悪役ながら観る者をその場でグッと惹き付けます。そういう悪女の憎らしさと誇らしさを梅玉の演技から感じました。


政岡が八汐を返り討つ場面は(観客にとっても)「憎たらしい」八汐を仕留めたことにより溜飲を下げ、同時に歌舞伎の持つ型の美しさが充分に発揮された場面でありますから、これぞ歌舞伎を観る快楽と言わずに何といいましょうか、ということになるわけです。


「床下の段」はオマケみたいなものですが、さにあらず。吉右衛門の荒獅子男之助、幸四郎の仁木弾正と全く贅沢な組み合わせ。吉之助は何と初役とのことですが、吉右衛門らしい力強さ、爽快さ、明るさがいい、彼の芸を観るだけで心が晴れます。対する幸四郎の仁木弾正は、もう笑いたくなるくらいにハマっていて、どうしたらそこまで不気味な仁木弾正になりきれるのか、肩をたたいて問いかけたくなるほど。政岡の悲しみも、千松の哀れも、全てこの二人の荒事で厄落とし、爽快に幕となります。まさに「一粒で二度おいしい」演目です。


もっとも新藤十郎に全く問題なかったかというと、そうでもありません。歌舞伎初級者以下の私が書くのも憚られますが、声が少し枯れており、連日の襲名披露公演のお疲れか?と少々心配したことも確か。あれが藤十郎の「芸」なのでしょうか・・・


ちなみに、この演目は気になりましたので二度ほど観ての感想です。やはり二度目の方が面白く、感慨も深いものがありました。とは申しましても、かなりいい加減な感想ですので歌舞伎ファンの方は、テキトーに読み流してください m(_ _)m