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2001年5月8日火曜日

「映画音楽のよう」という比喩

ときどきクラシック音楽の評を読んでいて「映画音楽のよう」という言葉を目にする。例えば、ある人はR・シュトラウスの交響詩を称して、あるいは、ある人はマーラーのアダージョ楽章を称して、そのように言う。 

「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。 

実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。 

しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
 
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。

もっとも、「楽しければ何でもアリ」みたいな風潮も、行き過ぎるといかがなものかとも思うのだが・・・・

芸術という言葉自体が、現代においては死後と化してしまったことに、この種の議論の行き詰まりも感じるのだが、これはまた別問題だろう。

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