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2001年5月3日木曜日

鈴木光司:シーズ・ザ デイ



かの「らせん」や「ループ」で有名な鈴木光司の新作である。3年ぶりの長編らしい。  
題名のシーズ・ザ デイ(Seize The Day) のSeizeとは「つかむ、把握する」などの意味である。「綱をくくりつける」といった意味もあるらしい。名前からして意味深だが、ここでは、ヨットと海を舞台にした運命のいたずらともいえるべき、感動のドラマが展開されている。

小説としては非常に面白く、独特の力強さに満ちている。最初の数ページを読むだけで、「これは、なみなみならぬ覚悟で書かれた小説なのだろう。鈴木光司は、おそらく大きな感動を与える場として海を舞台にした小説を書いたのだろう」と予感させるものであった。

しかし、どうも私は彼の想定したプロットに乗り切ることが出来なかった。海洋を舞台にした小説を読むのが初めてで、例えばではあるが、山岳を舞台とした小説よりも臨場感を得る準備が自分にできていなかったということも理由にはあるかもしれない。山岳にしても海洋にしても、自分の実体験としてあるわけではないのだが、考えてみれば海洋を舞台にした小説というのを余り読んだことがないのだ。

いやいや、そんなことは、あくまでも背景の問題であり、乗り切れなさは他にある。主人公の船越を始め、彼をとりまく岡崎や裕子、昔の恋人の月子やその娘の陽子など、十分に魅力的な人物が登場するのだが、彼らに感情移入が出来ない点が一番の問題だ。なぜか?

船越というのは、小説では妻子に逃げられ、家も売り払い、ヨットで生活を始めるという、一般的な価値判断からはアウトローと思われるような主人公として登場する。生まれた時に既に父親が蒸発するような形で姿を消しているなど、幸せな人物とは書かれていない。しかも、16年前に太平洋をヨットで横断中に遭難事故を起こしてしまい、その挫折感からいまだに立ち直れないでいる人物である。

この小説のテーマを非常に乱暴な言い方をしまえば、ダメ人間としての岡崎が、過去の挫折の日や自分の過去に遡る行為を通して、「運命」的な意味を発見し、かつ新たな生きる価値とエネルギーを得るという、「謎解き」と「再生」の物語である(て400頁を超える小説を言い切るなよて思うが)。

でも、なんだか全てが、ご都合主義的に見えてきてしまうのだ。人物の登場の仕方も、「運命的」とも「因縁的」ともl「因果応酬」とでも言うべきものも含めて。「何だよこれは、まるでループか」と毒づいてしまう。ラストに何が待ち受けているものも、本の半ばでわかってしまう。だって、そういう風に書かれているんだから。

それに、何と言っても、主人公の船越が、既に十分にうらやましい存在なのだ。定職とはいえなくても自分の好きな道(海に関係する仕事)につき、いざとなれば会社を辞めてでもどこかに旅立てるという自由さを獲得している。妻子や社会的しがらみみたいな束縛からは既に解放された存在だ。だからといって孤独ではなく、彼を理解する知人に恵まれている。

残念ながら、彼が大いなる挫折の人生を歩んでいたとしても、心の狭い私には、彼に共感することが出来ないのだ。翻って考えてみると、かくも自分が心の奥底では「束縛されている」と感じていることなのかと、複雑な思いさえ抱いてしまうのだ。

彼と自分の一番の違いは、「自由」への可能性なのだと思う。または、彼が最後に掴み取った、ひとりで人生を力強く生き抜いてゆくことのできるエネルギーなのかもしれない。小説の中で彼の理解者である岡崎が「人生こんなもんだ、なんて思わないほうがいい」と言う場面がある。人生の可能性を狭めているのは他ならぬ自分なのかもしれないのだが。
もっとも、小説を読んで感じることは人それぞれである。物語としては非常に良く出来ているし、小説を読む面白さは満ちているし、ある種のエネルギーを得ることもできる。そういう意味からは読んで損はないと思う。でも、読んだら分かる。人生のエネルギーを得るには、本なんか読んでいるだけじゃあだめだと。「バタン!」と大きな音を立てて、自らメインセールを張り、進み始めなくては駄目なのだと。だから、心にしこりが残るのだ。

(追記)
5月15日の朝日新聞に、鈴木光司が「シーズ・ザ デイ」について語っていた。この物語は「父性」の物語なのだという。「父が子供に何を伝えてゆくのか」といったことがテーマなのだと。

え?「父と子」だって? あまりにも意表をつかれたテーマじゃないかと思った。 

だって、突然振って沸いたような「娘」を戸惑いの中で受け入れ、航海を通しお互いの過去を話してゆくことで理解しあうようになることはあっても、親の子に対する愛情みたいなものとか、理解しあうところなんて全然感じなかったのだ。それが、鈴木の言う、従来の父性とは違うということなのか。

主人公 船越は娘 陽子にヨットに関する技術を短期間で教え込み、厳しい状況にも敢えて立ち向かわせ、人生を航海してゆくエネルギーを与えている。娘は期待を見事に答え、帆を張って自ら進み始めるのだが、でも、それが「父と子」の新たな関係性なの?それがこの小説の隠れたテーマの「父性のありかた」なの?

そういう風には「全く」読めなかったのである。最後まで私には船越と陽子が父子であるという実感を得ることができなかったし、それに陽子という主体が訴えかけてこなかった。更に、どうしてそんな簡単に航海技術を習得してしまうのか?彼女は天才なの、船越はヨット教授の天才なの、それともヨットてそんなに簡単なの?て、だからご都合主義て書いてしまったのだ。 

陽子は船越なんて現れなくても強く生きていったと思うのだよ。腑抜けで生きていたのは船越おまえじゃないか。それが「父が子に何を伝えるか」だって! 冗談じゃあない。(あ、思わず怒ってしまった)

やっぱり乗れないなあ、この小説には・・・・・。あ、繰り返すけれど、面白い海洋冒険小説ではあるんだよ。決してつまらない本じゃないのです。

もっとも、だから小学生のときから国語は嫌いなんだよ。「この小説のテーマは何でしょう」「作者の本当に言いたかったことは何でしょう」ていう設問は、大抵はずしていたもんな。

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