本日のサンデープロジェクトでは自民党・安倍晋三幹事長代理と共産党・志位和夫委員長が「靖国問題」を議論しておりました。安倍さんと志位さんですから、どこまで行っても平行線であることは最初から見えていましたが、それにしてもここまで全くかみ合わない議論を聞かされると正直ちょっと辟易します。
志位氏が安倍氏に対し「A戦犯は戦勝国の一方的な裁判による、"ぬれぎぬ"に過ぎぬと考えているのか」「過去の戦争は侵略戦争ではなかったと考えているのか」と問うても「一政治家がそのような判断をすることは影響が大きすぎる」「判断は歴史が定める」との回答から外に出ることはありませんでした。
大東亜戦争が「正戦」であったのか「侵略」であったのかは議論が分かれているところですし、「過去の判断を現在の価値観から評価することはできない」とする安倍氏のスタンスも理解はできます。「正しいか悪か」という二元論で割り切ることの危険性も確かにあるでしょう。
それであっても、いやだからこそなのでしょうか「靖国問題」は極めて政治的な問題でありますし、過去の歴史認識と現在の国家をも炙り出す問題であると思うだけに、明確な意志を表明できない日本政府代表の一人にはある種の失望を感じます。結局過去を清算も総括もできていないのだと。
安倍氏が引用していた塩野さんの「ハンニバルは罰せられなかった」ということは、先日紹介した「文芸春秋 八月号」のコラムでも書かれていたエピソード。塩野さんは戦犯という言葉からして私には馴染まない
、敗戦イコール戦犯と見なされるようになったのは、第二次世界大戦からの現象にすぎない
との立場。
また塩野さんは靖国問題は、たいした問題ではないことをたいした問題にしてしまった、歴史上の好例
と書きますが、靖国のありようを考えるとそれを利用しようとする人たちが居る以上「捨てては置けない問題」であると私は感じるのです。特にこれを「日本文化」と結びつけて論ずることには全く同意できず、「文化論」が出てきた瞬間に、これは何かをカモフラージュするためのレトリックでしかないと思っています。