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2021年3月15日月曜日

ヒラリー ・ハーンの「パリ」を聴く

ヒラリー・ハーンが「パリ」というタイトルの新譜を出たので聴いてみました。

 


  1. ショーソン:詩曲 Op.25
  2. プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 Op.19
  3. ラウタヴァーラ:2つのセレナード(ヒラリー・ハーンのために)

  • ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
  • フランス放送フィルハーモニー管弦楽団
  • ミッコ・フランク(指揮)
  • 録音時期:2019年6月(1,2)、2019年2月(3)
  • 録音場所:パリ
  • 録音方式:ステレオ(デジタル)
  • 世界初録音(3)
  • https://music.apple.com/jp/album/paris/1547821040

2004年9月14日火曜日

ラウタヴァーラ:前奏曲集Op.7、パルティータOp.34

激しい「現代的」な音楽は刺激的ですが、何となくだるく、やる気のないときに聴くと、妙に癒されたりすることに気付きました。体の中の悪いものを浄化していくような・・・そうなんです、なんだかダルいんですよね。


ということで、しつこくもラウタヴァーラです。

前奏曲集 Op.7

7曲からなる前奏曲集で、ラウタヴァーラがタングルウッドでコープランドに学んでいたときに作曲されたものです。ライナーによるとラウタヴァーラはこの前奏曲集をコープランドに決して見せなかったそうですが、それについては彼自身以下のように書いています。

I never showed him the Preludes, which were a sort of protest or outbutst against the so-called neo-classical confines under which I had to labour while studying both in Helsinki and in the United State.
1956年の作ですから、彼が28歳の若さの時の作品となります。上記のように、かなり革新的といいますか、いわゆる「現代音楽」的な音楽を堪能することができます。響きは硬質で力強く、時に繊細であり、強烈な感情の奔流を感じます。しかしその奔流は実験風でもあり、またひどくぶっきらぼうでもあります。

特に《軽快で槌を打つように》と題された一曲目の迫力はすさまじく、たかだか32秒の間に強烈な石つぶての雨を降らされたような曲です。《フィナーレ風》も冒頭と同様に激しい曲で、その間に挟まれた5曲が夢幻的にして鉱物的な静けさを構築しています。「現代音楽」という程には前衛的とは言えないかもしれませんが、激しさと静けさを内包したラウタヴァーラ的な音響世界が広がっています。

neo-classical すなわち「新古典主義」の音楽を彼がどのように消化しようとしていたのかは、この曲だけからは分かりませんが、何か彼なりの模索を感じることのできる小品であると思えます。

パルティータ Op.34

最初のスケッチは1956年ニューヨークで描き、2年後にピアノ曲として作品にしたものです。当時一緒に仕事をしていたギタリストの影響を受けて作曲したとのことで、2曲目ではギター風の「ポロン、ポロン」とした伴奏の響きを聴くことができます。両端の激しい曲にはさまれた非常に静かなこの部分では、静寂さの中に幽玄とした翳が立ち上るかのようです

これも3分半と非常に短い曲で、ボーっと聴いているとあっという間に終わってしまいますが、よく聴くと3曲とも同じテーマの変奏になっており、緩急のヴァリエーションを楽しむことができます。

激しさと静けさの交替、そしてその落差の大きさというのは、ラウタヴァーラ的な音楽のありように思えますが、これはフィンランドという地方の気候風土の激しさから来るものなのでしょうか。激しさは時に無機的であり、人智の及ばない深遠さを感じさせますし、静けさは限りなき安らかさときらめきにも似た美しさを感じます。

そういう意味では、非常に興味の尽きない作曲家ですが、一方では、曲のテーマや副題ほどには精神の底に潜ってゆくような深さや晦渋さやはあまりなく、激しいけれどもどこか皮相的に感じる瞬間がないでもありません。「皮相的」とはネガティブな表現ですが、積極的に「皮相的」であってもよいのではないかと・・・いう気もします。

●前奏曲集 Op.7
軽快に槌で打つように
充分ゆっくりと
リズムを保ちながらも神経質に
コラールと変奏
フガート
震えて
フィナーレふうに

2004年9月4日土曜日

ラウタヴァーラ:練習曲集 Op.42

ロシアでは何だか大変な騒ぎが起きていますね、TVはその報道ばかりです。プーチンにしてもブッシュにしても「テロとの戦い」を全面に打ち出していますが、彼らが権力を握ってから、かえってテロが増えたような気がするのは、勘違いなのでしょうか。


さて、そういう深刻な事態はさておき、今日もラウタヴァーラの不協和音に親しんでおります。

1969年に書かれた練習曲は異なった音程からなる6つの曲から成っています。NAXOS盤の解説はラウタヴァーラ自らがしたためているのですが、この演奏会用エチュードに込めた思いについては、

I therefore wanted to reintroduce a sonorous, broad piano style using the entire compas of keyboard, presenting this wonderful in its full abundance.
と書いています。作者が意図したように、聴こえてくる音楽はピアノの低音から高音まで駆け巡るようなアルペジオであったり、得意の不協和音やクラスターであったりと、ピアノの能力を十分に発揮させた曲になっていて、技巧的かつ音響的な面白さも味わうことがでます。

それぞれの曲の特徴は「3度」brilliant、「7度」restless、「全三音」anguished、「4度」natural、「2度」expressive、そして「5度」airyとなっています。圧倒的な音塊が砕けるかと思えば、冷たい光が燦然と降り注ぐようなパッセージ、暗さと重さ、冷たい輝き、ラウタヴァーラ節が全開の曲といえましょうか。これが北欧的響きと考えるのは先入観が先立ちすぎているような気もしますが。

2004年9月3日金曜日

ラウタヴァーラ:ピアノ・ソナタ第2番「火の説法」

  1. 練習曲集Op.42
  2. 組曲「イコン」Op.6
  3. 前奏曲集Op.7
  4. パルティータOp.34
  5. ピアノ・ソナタ 第1番「キリストと漁夫」Op.50
  6. ピアノ・ソナタ 第2番「火の説法」Op.64
  • ピアノ:ラウラ・ミッコラ
  • 録音:1997年6月 バークシャー、イースト・ウッドヘイ、セント・マーティンズ教会
  • NAXOS 8.554292

9月になって学生たちの夏休みも終わりましたので、通勤列車がまた混雑しはじめました。私は朝7時代の地下鉄に乗るのですが、この時間は制服・制帽を身に着けた小さな小学生が乗ってくるのですよね。潰してしまわないかと、気が気ではないのですが、小学生は逞しく、頑張って通っています。

さて、音楽に話題を振りますと、ここ数日は、ラウタヴァーラのピアノ・ソナタをラウラ・ミッコラのピアノで聴いています。

ピアノ・ソナタ 第2番は「火の説法」という副題がついています。1970年の作品ですが、激しさと静寂さ、不協和音と、それと全く反する静寂にして美しい旋律が同居しているという点においては、ラウタヴァーラ的な音楽と言えます。特に第二楽章の出だしは何とも言えずに良いです、すぐにまた凄まじくなってしまうんですが。第三楽章なんて、もうこれでもかという激しさですよ、ちょっとしたカタルシスみたいなものさえ感じます。
All three movements observe the principle of continuous growth and the initial idea grows extent, density and strength until the texuer cracks (often into clusters), becomes dissonant, dissolves into fog of sound or, as in the concluding fugue, goes overboard from pathos to trivial irony for a fleeting instant.
このようにラウタヴァーラが書いているように、10分程度の時間の中に大きな変化と振幅を込めた曲です。他の曲と同様に、叩きつけるようなクラスターもあちこちに聴かれます。不協和音については、耳触りというわけではなく、聴き込むにつれて大きな流れなども感じることができ、爆発する音の割には内省的な音楽であるという気がします。

ところで、「火の説法」という題ですが、T.S.エリオットの「荒地」の中に同名の(仏陀による)「火の説法(The Fire Sermon)」という詩があるのだそうです。それとの意識的な関係はないとラウタヴァーラ自身はライナーに書いていますが、《T.S.エリオットによる2つのプレリュードOp12》などという作品も残していますから、何らかの影響は否定できないのだろうと思います。

もっとも、エリオットの「荒地」が、F・コッポラの「地獄の黙示録」に影響を与えたという以外の知識はまるでないので、ラウタヴァーラの作品解釈上、私には何の足しにもならないのですがね。

ちなみに火の説法は「見よ、すべては燃えている。眼は燃えている。目に映るものも燃えている。何で燃えているか。むさぼりの火、いかりの火、愚かさの火で燃えている。このように観察して執着を離れよ」というテキストなんだそうです。

2004年6月10日木曜日

ラウタヴァーラ:交響曲 第7番 「光の天使」、「天使と訪れ」

  • 指揮:ハンヌ・コイヴラ
  • 演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
  • 録音:2001年4月 スコットランド・グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール
  • NAXOS 8.555814

現代フィンランドを代表するラウタヴァーラの代表作とされる交響曲第7番(1994年)を聴いてみましたが、これも不思議な魅力に満ちた驚嘆すべき音楽でありました。

「光の天使」という副題が付けられていますが、ここで言う「天使」とは、キリスト教的、あるいは私たちが日本人がイメージする森永ミルクキャラメル的な天使ではなく、もっと霊的なインスピレーションを感じさせる存在のようです。

かといって標題音楽というほどにテーマ性があるわけでもないようです。それでも音が放射する光のようなもの、自然に対する畏怖のようなものを感じさせてくれ、聴き終えてみればまさに「光の天使」であるなと納得するのでした。

ラウタヴァーラ的音響は、私にとっては一度聴いたら忘れられなくなる類のもののようです。仕事中でも、ふと気付くと頭のなかでラウタヴァーラ旋律が鳴っていたりしてはっとします(笑)。例えば、協和音の陶酔的な美しさや、不協和音の激烈さ、駆け巡るアルペジオや半音階旋律などですが。

ラウタヴァーラの曲を聴いていますと、確かに「癒し」効果があることには気付くのですが、これはちょっと意外な思いがします。決して心地よいく静かで美しいだけの音楽ではないのですから。先にも書きましたが、霊的といいますか、どこか神秘的なものに触れたような思いをさせてくれる音楽であることは確かです。音楽のカタマリが燦然と鳴り響き、混沌と無秩序の中に大きな存在を感じさせてくれたり、ある断片ではゾクリとするほどの鋭さと美しさを聴かせてくれたりすることが、大自然から感じる畏敬や神々しさに繋がるからでしょうかね。

「天使と訪れ」(1978年)という曲も、「天使」がどこに居るのかと思うほどに強烈な音響を聴かせてくれますが、弱まった音響の中から現れるものの姿や、強烈なる音響の際に聳え立つ姿なども畏怖と感動を覚えてしまいます。つくづく北欧というのは不思議で魅力的な国であるなと思うのでありました。

2004年6月5日土曜日

ラウタヴァーラ:交響曲第3番

ラウタヴァーラ:
カントゥス・アークティクス
ピアノ協奏曲 第1番 Op.45
交響曲 第3番 Op.20
指揮:ハンヌ・リントゥ
演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
ピアノ:ラウラ・ミッコラ
録音:1997年8月 グラスゴー・ヘンリー・ウッド・ホール
NAXOS 8.554147

NAXOSのラウタヴァーラの盤を紹介していますが、この盤の最後は交響曲第3番です。

1959年から60年にかけて作曲された交響曲第3番は、1番のロマンティシズムと2番のモダニズムを統合したような曲であるとラウタヴァーラ自身は語っています。調整的な12音技法も使われているのですが、いわゆる現代音楽的な響きはそれほど多く聴かれるわけではなく、むしろ壮大なるロマン派の交響曲にシベリウス風のアレンジが組み合わさったような曲として感じられます。

1959年から60年にかけて作曲された交響曲第3番は、1番のロマンティシズムと2番のモダニズムを統合したような曲であるとラウタヴァーラ自身は語っています。調整的な12音技法も使われているのですが、いわゆる現代音楽的な響きはそれほど多く聴かれるわけではなく、むしろ壮大なるロマン派の交響曲にシベリウス風のアレンジが組み合わさったような曲として感じられます。

第4楽章はブルックナー的な音楽を聴くこともできまして、ラウタヴァーラは以下のように書いています。
The musical pulse of the fourth movement progresses in solemn, almost Brucnerian arcs, as if echoing the rhythm of the earth and sea.

ですから、はじめて聴くのにどこか懐かしく、そして圧倒的な音響の前に、大自然の中に放り込まれたような感動を覚えることができます。こういう傾向の曲がお好きな方には、非常に贅沢な音楽と言えるかもしれません。

曲は4楽章形式で構成されています。第一楽章は弦の弱音トレモロに乗ってフルートを初めとする木管が囀り、そこにあたかも夜明けを告げるかのようなホルンの響きがかぶさります。まことに絵に描いたような感動的な音楽であります。聴きようによっては「ジャングル大帝レオ」の冒頭のテーマのようにも聴こえてしまうのですが、それはそれで感動的であることに変わりはありません。

すぐにストラヴィンスキー然の混沌とした響きに変わりますが、それでも崩れまくることはせずに音楽は流れます。ラウタヴァーラは木管の使い方や、アルペジオの扱いが上手いですね。音楽に優雅さと儚さを与えてくれ陶然とさせてくれます。第一楽章のラストで、再びホルンのテーマに乗ってフルートがアルペジオを踊って終わりますが、何度聴いても良い部分です。

第二楽章も、ホルンの柔らかなテーマに木管が絡んで始まります。森の中を分け入って行くかのようです。中途の壮大な部分は、急に視界が開け荘厳な風景が現前に立ち現れたかのような趣さえあります。第三楽章はスケルツォで躍動感を楽しむことができます。ブルックナー的色彩を聴き取ることができるかもしれません。楽章ラストはトロンボーンも木管も暴れまくって幕を閉じます。

第四楽章はさらに猛然と始まります、ドライブ感が溜まりませんね。ここでも金管の咆哮するクライマックスが待っています。様々な音響が畳掛けるように鳴り響くうちに、シベリウスの交響曲第5番を彷彿とさせる大自然の呼吸が聴こえたり、あるいはブルックナー的大伽藍が見えたりと、なかなかに楽しませてくれます。ウルサウルサとシズカシズカの交替もブルックナー的といえば言えるかもしれません。

最後は意外なことに消え入るようにして終わるのですが、それもしみじみとした味わいがありまして、交響曲を聴いたという満足感に浸ることが(たぶん)できます。

2004年5月29日土曜日

ラウタヴァーラ:ピアノ協奏曲 第1番


ラウタヴァーラのピアノ協奏曲第1番(1972年)を聴いてみましたが、これも非常に面白い曲で結構気に入ってしまいました。

情念とロマンと現代性が渾然となったような味わいのある骨太の曲です。ただしご家庭で大音量で聴いていると慣れない方からは苦情が来るかもしれませんが(笑)

この協奏曲は作曲家自身の非常に個人的な作品であるらしく、初演も作曲家自身が行ったそうです。ラウタヴァーラ自身の解説によると作品には以下のような意図が込められているそうです。

I was diappointed at that time with the strict academic structuring of serialist music and the ascetic mainstream style of piano music, which I found anaemic. In the concerto, therefore, I returuned to the aesthetics of expressiveness and a sonorous, 'ground-style' keybord techique.

ラウタヴァーラの音楽に対する考え方が端的に表されていますし、1972年に作曲されていながら「ポストモダン的」と言われることにも、成る程と合点がいったりします。それにしても、このような音楽がフィンランドで生まれるとは、フィンランドの音楽的土壌の深さに驚いてしまいます。

曲はといえば、第一楽章冒頭の叩き付けるような破壊的にしてほとんど苦痛さえ伴うような音響と不協和音、それに被さるアルペジオにまず慄然し、一方で堂々たる音楽的骨格には畏敬の念を覚え、たった数秒間でラウタヴァーラの世界に引きずり込まれてしまいます。中間部のピアノソロは鉛色の美しさに鈍く輝いており、曲の持つ男性的かつ硬質な正確を際立たせています。

第二楽章ではゆったりとした音楽から寂寞とした叙情性溢れる音楽に心を休め、続く現代音楽的なカデンツァでは事の成り行きに唖然としながらも、神経を集中して聴き入り、休止なく突入する第3楽章ではちょっと俗っぽく性急なリズムと旋律ではないかとは思うものの、また臆面もないフィナーレには少々鼻白む思いもないわけではありませんが、体は勝手に拍子を打ち前のめりに走り出しています。

それにしても、この劇的なまでの荒々しい激流に身を委ねることの心地よさ、確実に癒しになっているから不思議です。

このような曲を演奏しているのが、ラウラ・ミッコラという女性ピアニストだというのですから、これまた驚いてしまいます。彼女は1974年フィンランド生まれのピアニストで、つい最近来日し東京で演奏会を開催したそうです。

●ピアノ協奏曲 第1番 Op.45
演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団、録音:1997年8月 グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール、NAXOS 8.554147

2004年5月16日日曜日

ラウタヴァーラ:Cantus Arcticus

ラウタヴァーラという名前は、音楽関係の知り合いから教えていただいきました。現代フィンランドを代表する作曲家で最近では人気も知名度も上がってきているそうです。ケイタイの着メロにラウタヴァーラの曲があることには驚きました。

NAXOSでいくつかの録音があるらしいので試しに買って聴いてみました。

最初の曲は「カントゥス・アークティクス(鳥とオーケストラのための協奏曲)Op.61」というものでしたが、のっけから私は音楽に打ちのめされてしまいました。「沼」「メランコリー」「白鳥の渡り」という三楽章形式の音楽で、題名の通りオウル地方で採取した鳥の声のテープ録音とオーケストラを重ね合わせたものです。

現代音楽に分類されてはいますが、いわゆる難解系の音楽ではなく、凄まじいまでの感性が充満しています。冒頭の二本のフルートに導かれて現れた鳥の鳴き声に、最初は「これはノイズか?」と一瞬戸惑いましたが、それが重要な音楽の一部であることをすぐに了承してしまいます。

一体これは何なのでしょう、鳥の鳴き声は単なる効果音ではなく、音楽の一部となって「オーケストラのうねるような極大スケール」の音響世界と信じられないほどの調和を聴かせてくれます。清冽にして雄大な自然の中に放り込まれたときのような自失してしまう類の美しさです。

「白鳥」は圧巻であり、俗世のうざったさを全て洗い流してゆくようで、ラストに至っては不覚にも落涙を禁じることができませんでした。

●カントゥス・アークティクス(鳥とオーケストラのための協奏曲)Op.61
演奏:ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団、録音:1997年8月 グラスゴー、ヘンリー・ウッド・ホール、NAXOS 8.554147