2003年7月24日木曜日

横山秀夫:陰の季節


解説曰く

横山秀夫『陰の季節』が決定的に新しかったのは、警察小説でありながら捜査畑の人を登場させなかったことだ。(中略)横山秀夫の警察小説は、捜査小説というよりも、「管理部門小説」といっていい

(中略)読み終えても残り続けるのは、管理部門で働く人間の悲哀をも描いているからである。その切なさが、我々と同じような些細な悩みをかかえる日々の営みが、鋭く活写されているからこそ、読み終えるとふと隣の人に話しかけたくなるのである。(北上次郎)

これは褒めているのだろうな、と思う。帯も「驚愕の警察小説」だ。私はこういう小説に少しばかり馴染めない。「中間管理職の悲哀」というステロタイプのテーマだけでゲンナリだ。スポーツ新聞や夕刊フジ、整髪料と育毛剤の匂い、肩から下がる型の崩れた黒い鞄。会社では人事と自分の保身に全神経を集中させ、陰では罵倒しながらも表では上司を媚び、組織を維持することを是とし、小さなムラの中で階級がひとつ上がること人生の目的とする。

毎日そんなものを、嫌でも見せられて、そして自らもその一部をしっかり演じていて、いまさらミステリ小説で、その姿を活写されたところで、もう結構だよという気になる。小説の中での彼らの奮闘振りに共感を覚えるより、私達は何と下らなく、ばかみたいな問題に汲々として、何かを捨てて残り少ない人生を走っているものかと改めて思ってしまう。

もっとも、殺人や猟奇ばかりで救いのない小説などよりは、かなり良質な作品であることは認める。また作者の人間に対する暖かい視線が滲み出ており、単なる警察小説の枠を越えた味わいがあるとも思う。ただ、何と言うか浪花節というか演歌的というか・・・そういう点が、私が好きになれない点なのだろうと思う。

動機」も合わせて買ってしまったので、こちらも読んではみるが。

2003年7月17日木曜日

貫井徳朗:慟哭


本作は93年に発表され世間を驚かせた作品である。作品の内容や質、仕掛けられたトリック、そしてこれが貫井氏のデビュー作であり、かつ彼はまだ24歳程度であったということにミステリファンは驚いた。文庫本の高村氏の帯びが振るっている(上)。たった3行のキャッチに惹かれて私は本書を手に取った。私にとっての貫井作品を読むのははこれが始めて。

物語は、心に大きな傷と空洞をかかえ職も放棄してさ迷う松本という男と、警察内ではエリートコースを走る佐伯警視(キャリアで刑事部の捜査一課長)の二本立てで進んで行く。佐伯は妻の父親が警視庁長官というであるため、さまざまな妬みや中傷を浴びながらも、孤独に峻烈なまでな厳しさで自己と他者を律して行動する男として書かれている。私生活においては、家庭とは全く疎遠になり、妻とは別居状態、娘からは憎まれてさえいて、愛人宅から通うという生活だ。一方の松本は、絶えられない心の傷を癒すため、新興宗教に救いを求めて行く。そして両者の物語は連続幼女誘拐殺人という今時の事件を鍵として収斂して行く。

読みながら、ラストに佐伯の警察人生を変えるほどの「悲劇的」物語が仕組まれているのだろう、おそらくは佐伯の娘が誘拐され、そこに「慟哭」ともいうべきものが生じるのだろうとは想像できた。ラストまでグイグイと読ませる。文庫本解説でも、ネット上の多くのレビュでも、トリックの奇抜さ、殺人に至るまでの心理、まさに慟哭というべき悲しみ、ミステリを越えたテーマ性、そして独特の文体について絶賛している。私も最後のトリックにまでは思い至らなかったため、作者の陥穽にまんまとはまってしまったと言えなくもない。

でもなのである。ミステリの上手さは認めるものの、私はこの小説に心酔も承服もできない。読後の救いのなさと、希望のかけらもない虚無さに私は耐えられない。

一旦、小説の構築に合い入れないとなると、否定的な面ばかりが目に付く。例えば黒魔術だ。作者は小説を書くに当たって新興宗教をボーリングしたふしはあるものの、宗教に対する偏見を感じるし黒魔術が登場した時点でリアリティが飛んでしまった。娘を失うという深い喪失感のため宗教に救いを求めるということまでは是認したとしても、その後に、黒魔術を駆使して娘を蘇らせるなどという行為に走ることをどうして承服できよう。亡くした子供を蘇らせるという物語だと、ホラー小説だがS・キングの「ペット・セマタリー」を思い出すが、こちらもこれも全く救いのない小説で読後感はサイアクだった。

自分の子供を誘拐殺害された父親が、別の目的で連続誘拐殺人を行う、このことも認めがたい。子供をなくした親が、連続誘拐殺人犯ではありえないと言ったのは、はからずも佐伯の恋人であったはずだ。

妻とも不仲になり、愛人からも見放され、職場でも自らの厳しさゆえに孤立し、自分を唯一支えていると考えた娘(それは彼の一方的で勝手な思い入れなのだろうが)さえも、自ら陣頭指揮をしていた事件に巻き込まれ死なせてしまう。しかも、妻から娘が誘拐されたかもしれないというメッセージを無視し、捜査一課長としての体面を取り繕うために初動が遅れたという落ち度を犯すというオマケまで付けてだ。この時点で、彼は最後の砦である職場での立場さえ失い、まさに自分を支えるもの一切を喪失することになる。ここまでの悲劇に見まわれたならば、私ならばとてもではないが耐えられないだろう、もはや正気でいられるとは思えない。

よほど気がふれてしまった方が楽であったろうにと思う。彼の脳は現実から逃避するという方向には向わない。ただ救済されたいがために宗教へと、そして娘を蘇らせる目的での魔術と殺人に走る。悲しみの深さには同情できても、そこから筋に乗ることができない。自分も同じ立場になるとオカルトにでもすがるのであろうか。

もうひとつ、気になるのことがある。そこまで佐伯が娘を愛していたのならば、普段の家庭を無視した行動は何だったのかということだ。仕事に没頭し、夫であることと父親であることを放棄し、疲れた自分を癒すのは家庭でなく不倫相手。そういう彼が、実は子供だけは心から愛していると言うのは、彼にとっては本心なのではあろうが、娘や妻にとっては自己中心的な愛でしかなく不実以外の何物でもないように思えてしまうのだ。彼は事件の後、妻との関係を修復する方向にも、犯人をとことん追い尽くすという方向にもパワーを向けることができず、深い喪失感ゆえ捩れた考えを持つようになってしまう。あくまでも自分中心の考えのように思えてしまうのは、私だけだろうか。

これらの仕組みは、トリックがすべて明かされた読了後に始めて分かる事柄だ。従って、ミステリとして読むならば極めて秀逸であると思う。ただやはり、救いのなさにおいて読後感はサイアクで、私はこういう小説を好きになれない。

2003年7月13日日曜日

東京交響楽団第505回定期演奏会

日時:2003年7月12日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ユベール・スダーン   ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
演奏:東京交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92




ピアノのオピッツ氏といえば、1994年のNHKテレビ「ベートーベンを弾く」という番組で出演されていたので知っている方も多いと思う。彼は「ドイツ・ピアノの正統派」としてその筋では有名である。そういう彼がブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するというので期待してでかけた。
ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、1番と違って明るく美しい曲であるが、「ドイツ正統派」がどういうことなのか全く理解していない私は、ガッチリと構成的で硬い演奏を思い浮かべていたのである。しかしオピッツ氏の奏でる音楽は、そんなイメージのものでは全くなかった。

この曲は冒頭で薄靄の中から立ちあがるホルンの響きと、それに導かれて登場するピアノのカデンツァが印象的だが、今日この部分を聴いた時、大げさではなく私はこのまま死んでもいいと思ってしまった。それほどの至福の音色が聴こえてきたのだ。オピッツ氏のピアノは風貌とも風評から抱いたイメージとも全く異なり、そっと撫でるような、あるいは天使がもらす溜息のような(ゲロゲロ!恥かしい表現!)柔らかなタッチで、全く私を別次元の世界へと誘ってしまったのであった。自我や自己を主張しすぎず、バックのオーケストラに柔らかく溶け込むかのような音色は、夢見るごときであった。

決してもって弱々しく女性的という演奏なのではない。締めるところは締め、そして感情の高まるところでは激しくあるのだが、全体的な印象としてはブラームスのアンニュイな感じや、優雅さ、そしてどこか懐かしんだり物思うような雰囲気が非常によく表現されているようで、そういう語りの部分がとにかくCDなどを聴いていては決して感じることができないような雰囲気として伝わってくるのだ。

そうなんだよなと思う。ブラームスは押し付けがましくないのだ。技巧をバリバリとひけらかしたり、力瘤をためて挑みかかるようなことはしないのだ。嗚呼、今までブラームスをベートーベンのように聴いてはいなかったか、と彼のピアノを聴いていて思った。

だからというわけではないが、3楽章はチェロの主旋律が美しいくチェロ協奏曲とでも言いたくなるような部分なのだが、オピッツ氏のピアニズムとは少し異なった表現に聴こてしまったのが惜しい。チェロの音色はふくよかで、それだけを取り出して聴くと全くもって実に素晴らしい演奏なのだが、オピッツ氏のピアノと対話する部分になると、違った話しをしているように聴こえてしまったというのは、私だけの感想だろうか。

満足いかなかったのはそこだけで、全体にピアノを中心とした懐古や対話、そして訥訥とした語りなどを、明るい光の注ぐ部屋で、香り高い紅茶でも飲みながら聞いているような、あるいは寄せては返す波を見ているような、激しすぎずに流れる奔流か、色々なイメージや光を見せてくれる演奏であった。激しい感動ではないが、深い心地よさにブラボー!

さて、お次はベートーベンの第7シンフォニーだ。第一楽章を聴いていて私は思わず笑ってしまった。演奏にではない、こんなに単純にしてくどいフレーズの繰り返しなのに、期待して高ぶってしまう自分がおかしく、そして何とブラームスとは異なるのだろうと改めて思ったのだ。

スダーン氏の指揮に注目すると、彼の指揮は非常に分かりやすいように思えた。キビキビと弾ける様に奏でて欲しい時には、あたかもバスケットボールのショートパスのような振りで指示を投げかける。第2楽章では、主旋律が重々しいテーマを奏でるとき、ビオラなどが裏旋律を奏でるのだが、スダーン氏は主旋律の方は見向きもせず、ビオラにガシと正面から対峙し音を引き出してくる。そういう指揮振りから音楽が多重的かつ立体的に浮き上がってくる。

まあそれ以外にもイロイロあるのだが、ベト7には細かいことはいらない(^^;; 小気味良く歯切れの良い音楽がビュンビュン進んで行くことを楽しめればよいとも思う。スダーン氏の指揮においても、この軽快さは第3楽章からラストまで延々と続く。あたかもはずみ車が、慣性によって一度廻り始めたらもはや止まらないとでもいうかのようだ。非常に健康的な感情の発露を全身で表現しているかのようで、例えばかりで恐縮だが(悪文の典型ってやつだな)陸上の400m走のように、ひと時も力を抜かずに走り抜けたかのような感じを受けた。

実際、弦セクションは猛働きであったようで、演奏が終了し拍手喝采を浴びているときに、コンマスの大谷さんは汗を拭うような仕草をしていたし、大谷さんの隣の奏者は「手がしびれちゃいましたよ」みたいな仕草で大谷さんに笑いかけていた。

東京交響楽団を聴くのは今日が二度目なのだが、ヴァイオリンセクションの上手さには改めて感嘆した。少しハイキーで透明な感じの音色を特色とし、特に弱音での美しさが際立つ。ブラームスで聴かれた、ピアノをバックに静かに裏で支えている部分など、涙ものの美しさだった。ヴァイオリンだけではないが、フレーズの出だしのアンサンブルの合い方は、若々しさと小気味良ささえ感じる、実に丁寧だ。そして演奏からは音楽以上の、いや音楽というものの喜びそのものが伝わってくるような気がするのだ。それがコンマスの大谷さんのキャラクターによるものなのか、このオーケストラを育てた秋山和慶氏の影響なのか、それは分からない。

今日は定期演奏会ではあったが、明日は新潟公演になる。それだからだろうか、アンコールにはシューベルトの「ロザムンデ」から第3楽章が演奏された。アンコールについて語るのはもはや野暮というものであろう。

2003年7月12日土曜日

高村薫:わが手に拳銃を


これは「李歐」のもととなった小説である。「李歐」を先に読んだのだが、本作も興味深く読むことができた。登場する人物などはほとんど「李歐」と同じなのだが、やはり作品としては全く別物であった。登場人物の設定や末路が若干異なっているし、主人公の一彰やリ・オウに与えられた性格も微妙に異なっていることに気づく。こちらでの二人は、もっと直接的で外発的なように見える。

「李歐」のなかで一彰は、ひたすら李歐を焦がれて待ちつづける男として書かれていたが、ここでは、暴力団の原口にも惹かれながら、それでも心の底でリ・オウを渇望し、かつ、自分の中での狂気と戦っているかのような姿として書かれている。一方、そのリ・オウも天性の明るさと才能は十分に発揮しているが、妖しいまでの魅力にまでは昇華しておらず、どことなく汗臭くオレ様王国を夢見る若者という殻をひきずっているようにも思えた。

こんなことをいちいち比較していても、しかし意味のないことだ。作品はモロに高村ワールドであるし、文句なく面白い。

五十発の銃声がいつまでも耳から離れず、目を閉じると網膜に血の色の花が散る。それがまた、身の毛のよだつ美しさだった。
この美しさに札束の夢と蒼白の月。
このリ・オウの晴朗な狂気。男ひとり狂うのに、これ以上何が要るか、と一彰は思った。

という描写は本書のラストだが、こんなにも痛快な終わり方があるだろうか。さすればこれは、男と男が惚れ合い、惹かれ合った深い恩義と友情の話でもあるし、男と男の心からの約束の話しでもあるし、そして、男が組織や家族や国家などのしがらみを脱ぎ捨て「自由人」として翔び出す話でもある。

それ故にといおうか、あまり捩れたところや屈折したところはなく、感情も行動もストレートなため分かりやすい。「李歐」では何もかもがはっきりしなかった背景が、こちらでは詳細に解説されているので、「李歐」を先に読んだ私は、謎解きをされているような気分になったものだ。

どちらが作品としてお奨めできるかというモノでもなさそうだ。それぞれが別で、読後に感じる感慨も全く別のものだからだ。ただ、「李歐」の方が深く感動してしまったことは確かだ。作品としては実は「わが手に拳銃を」のタッチの方が私は好きなのだが。

「わが手に~」を上梓していながら高村氏が改めて「李歐」を書こうとした意図を考えると興味はつきない。やはり、彼女は李歐という存在そのものを書き尽くしたかったのだろうと思う。「李歐」が高村氏の小説にして始めて、女性による小説という雰囲気を醸し出しているわけも納得できるというものだ。

2003年7月10日木曜日

長崎の幼児投げ捨て事件などに思う

またしても信じ難いと世間を言わせるような事件が起きた。幼児を全裸にし悪戯をしようとし、騒いだのでとっさに駐車場から20m下に突き落としてしまった犯人が、12歳の中学1年生であったという事実。

この事件を聞いて、かつての神戸市での事件を思い出す人も多いだろう。少年法の改正を主張する人も出てくるかもしれない。しかし、そうではない、おかしくて、間違っているのは、自分たち大人の世界なのではないかと自問することはないのか。

少し前に起きた、早稲田大学でのレイプ事件もしかりだ。一部の大学生が学生であることを放棄して久しい。それをもはや誰も奇異なこととは感じない、そうして学生であることを放棄した者も、この不況下ではあるものの、ある時期になれば社会に旅立つ。

ことは12歳の少年や大学生の話ではない、欲望を制御できないままの子供のような大人たち、その大人たちを見て育つ子供たち。親が厳しく教育すればよいと言うものでもない。社会からの情報を遮断して、隠匿生活でもしていれば別だろうが、いやおうなく、様々な刺激情報が流れてくる。刺激を再生産し消費するように仕向けているのは、はからずも大人たちだ。

早稲田の事件や長崎の事件について糾弾したり背景を書く週刊誌が、その自らの頁で、ほとんどポルノまがいの記事も載せているという矛盾と破廉恥さ無節操さ。

自分で自分の脚を食う蛸のように、自らの方向性を食いつづけているツケが、ある時期に噴出してくる・・・そんなやりきれなさを味わう。12歳の少年にしても、学生たちにしても、どこで何が狂ってしまったのか、考え始めると事件の根は深いと思わざるを得ない。



2003年7月5日土曜日

ホロヴィッツの展覧会の絵など

Mussorgsky:Pictueres at an Exhibition
Scriabin:Etude Op.2 No.1、Prelude Op.11 No.5、Plelude Op.22 No.1
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever

BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。

ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。

音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。

他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。

「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。

ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。

いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。

広上淳一&東京都交響楽団

マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典

日時:2003年7月4日 17:00~
場所:東京オペラシティコンサートホール
指揮:広上淳一   ヴァイオリン:庄司紗矢香
演奏:東京都交響楽団


マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典
本日の演奏は本来、指揮者は大野和士氏であったのだが、頚椎捻挫のため広上氏が代役で振ったプログラムだった。大野氏の指揮を期待していた人は残念な思いをされた方も多かったのではなかったろうか。私はひとえに庄司さんのヴァイオリンを聴きたかっただけであったので、指揮者が変わったことに期待も不安もなかったと書いては失礼になるだろうか。

さて、その庄司さんの演奏するのが、日本初演になるというマックス・レーガ-のヴァイオリン協奏曲である。演奏時間が60分という大作だ。CDなどで予習もしていないので、ここで聴くのが始めての曲であった。

一度聴いただけでは、どこに感動を持って行けば良いのか分かりにくい曲であったというのが正直な感想なのだが、思い出すままに書いてみよう。

第一楽章だけで30分もあるのだが、聴いていて旋律線が良く分からない、盛りあがっているのか盛り下がっているのか、うれしいのか、哀しいのか、まるで混沌として夢見るようなフレーズが延々と続く。でも決して不快な音ではない。ゆるやかな波動やうねりのようなものを感じ、深層を漂うがごとき心境になる。はじまりも終わりもなく、精神の表層と奥を行き来するかのような趣さえする中に、ときどき突如とした閃きやパッションが迸る。自分自身、眠いのか覚醒しているのか分からないなかで、庄司さんのヴァオリンの音色だけが綿々と連なっている。

レーガ-はヴィルトオーゾ風の協奏曲を嫌ったらしく、確かに聴いていてヴァイオリン協奏曲というよりはヴァイオリンを伴った交響曲風なつくりではあるのだが、庄司さんの音色はひとときもオーケストラに埋没することなく、何かを唄い続けている。音色は多彩で複雑でそして確かにブラームスを思わせるようにロマン的だ。目をつぶって聴いていると、ほんとうにヴァイオリンを一人の奏者が弾いているのだろうか、という気にさせられる。決してバリバリ弾きまくっているのではないのに、オケをバックにしたこの存在感は何だろうと思わされる。それが曲の構成なのか、あるいは庄司さんの力量なのか。

解説はマックス・レーガ-研究所のスーザンネ・ポップ氏の寄稿によるものだが、「精巧に造られたからみあう蔦のような音形総体」との表現は、聴き終わってみてなるほどと妙な説得力をもちえているように思われた。60分が長いのか短いのか、それさえ分からない。1942年のアメリカの初演では「節度のない量のビールとソーセージ」と酷評されたらしい。

たった一度聴いただけでは、全貌を掴むことはできなかったものの、演奏が終わった後も庄司さんのヴァイオリンが頭の中で鳴りつづけていた。

余談だが、休憩時間中にホワイエで初老の女性が「1楽章のカデンツァは本当に素晴らしかったわね!」と興奮して話しているのが耳に入ってきた。私はそうだったかしらと思い返し、聴衆として未熟なのかと思ってしまった。そういう言い方をするならば、素晴らしかったのはカデンツァだけではなかったのだし。

そんな余韻に浸っていた中で始まったのが春の祭典だ。改めて都響の音色に耳を傾けるなら、響きの重心がかなり低めであることに気づかされる。深みとコクのある音色は独逸ものに強そうな印象を受けた。

さて広上氏の指揮するハルサイであるが、これはレーガ-の雰囲気をまったくかき消すような響きであり、その対比に最初は少なからず違和感と抵抗を覚えたことも否定できない。何と言ってもハルサイである、さもありなんと思い、はてさてこの20世紀の前衛ともいうべき古典を、どう料理してくれるかと期待したのだが、地を蠢き噴き上げる凶暴さを感じはしたものの、予定調和の出来レースのようも聴こえはじめ、妙にまとまった音楽に感じてしまった。そう思って広上氏の指揮を見ていると、前後左右上下に大きく動くその指揮振りも、ダンスを指導する振付師のように見えてきて、鼻白むところもなきにしもあらず。

そうは言っても都響の響きや音量は驚くほど大きく、迫力などの点では全く申し分ないことは認めざるを得ない。オペラシティホールも非常に音響的に優れたホールで、こういう環境で都響が奏でる独逸ものを聴けば、さぞかし壮大なる満足を得るのだろうなと思いながらも、今聴いているのはストラヴィンスキーで、ああ、そうだそうだ、こんな余計なことを考えていたら、あっという間に終わってしまうぞと自分に言い聞かせるのであった。

都響は聴けば聴くほど上手いオケだし、音量がクライマックスのときに、ほんの少し荒れた印象を受けることもあったが、それは曲調のなせるわざなのか。粗さを重心の低さでカバーしているようにも聴こえ、分厚い響きはさすが在京オケだと思うのだが、最後まで何かひとつ充たされずに終わってしまった。

それにつけても思い出すのは、いつ終わるとも知れなかった庄司さんのヴァイオリンなのである。夢の中の深層に(実際眠りそうにもなったし)、サブリミナル効果のように刷り込まれてしまったようだ。聴けるならもう一度聴いてみたいと思いながら。(明日サントリーでまた演奏するらしいが・・・)

2003年7月1日火曜日

高村薫:李歐


先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではないのでご注意願いたく。

高村薫氏の小説を読むことにそろそろ飽きてきたか?と自問するならば、まだまだ、とことん毒を食らわば皿までもという心境になってきた。

この作品は1992年の「わが手に拳銃を」を下書きに新たに描き直したものとのこと。「わが手に~」は(このレビュを書く段階では)まだ読んでいないが、高村氏はここにきて遂に"恋愛小説"に手を染めてしまったかと苦笑いを禁じ得ない。この物語は結局は李歐という男に惚れた男の話でしかないし、機械や拳銃に対する偏愛的な描写も不必要なほど克明だ。彼女が書きたいものを制約を取り払って書き尽くしたという潔ささえ感じる。

"恋愛"とは言っても、彼女が繰り返して書いてきたテーマは"男と男の深いつながり"のことだ。それは"友情"という青さを残したものではないし、男女とのつながりとも決定的に違う、抗うことの出来ない熱情を感じるつながりだ。今までの作品で、それが描かれてはいても、男同士の関係性を包み込むドラマやストーリーが壮大で、そちらの方に主眼が置かれてきた。本書では高村的国際裏舞台は完全に背景にまで後退し、変わりに臆面もなく、そして全面的に"恋愛"が登場したというわけだ。

主人公は吉田一彰。自分が何物かわからず、地につながれた風船のように希望もなく漂っていたのだが、全てにおいて圧倒的で妖しいほどの魅力をもった殺し屋の李歐に出会い、惚れてしまう。桜の季節をうまく組み合わせたところは、作品に儚くも脆い夢のような雰囲気を与えるのに成功している。李歐のもつ妖しげで危険な匂いとともに、まるで妖術に陥るかのように読むものも李歐に惹かれてしまう。

後半になって李歐が単なる殺し屋ではなく、表の金融世界で成功者となってゆく点には違和感を覚えないでもない。李歐の持つ圧倒的パワーは認めるものの、彼のキャラクターと表での成功というのがなかなか結びつかない。また、数奇な運命を辿り、成功者となった李歐が、十数年も前のひと時に出会った一彰という"行きずりの"男を焦がれる理由も判然としない。"一目惚れ"による"両想い"の"恋"なのだから、理由などいらないと言えばそれまでなのだが。一彰にしても、登場早々に勤務先の麻薬中毒の上司をスパナで殴り倒し警察に突き出すという凶暴性や自己破壊願望が、李歐と出会ってからはひたすら真面目で大人しくなってしまう様も納得しがたいところだ。

しかし、まあ良い、全ては"恋愛小説"だと思えば、常軌を逸した関係も設定のおかしさも許容できるというものだ。一彰が最後に自分を解放したように、高村氏も自分自身をこの作品で解放したような気がする。男と男の関係が理想的過に過ぎること、男同士の体臭が少し薄れていること、読んでいて気恥ずかしくなる描写なども、高村氏がただただ、李歐を書きたかったというふうに考えれば承服できるものだ。

だから「リヴィエラを撃て」や「神の火」のような重い読後感はない、人間をえぐるような深さも薄いという感想も成り立とう。それでも文庫本403頁で李歐の幽霊が現れたところからラストまで、ほとんど出来レースのようなストーリー展開だと分かってはいても、高村氏には嵌められてしまう。一気に読ませ、単純な私は深く感動してしまう。

それにしても高村氏の描く男性は、なぜに冷徹で残酷な殺し屋が、かくも美しく知的であるのか。彼女が描いたモモや良、モーガンなど、皆テロリストとしての哀しい末路を辿ったが、ここで高村氏は李歐を殺すことをためらった、李歐と一彰には連れ子まで用意して第二の人生を与えた。今まで散々スパイやテロリストを小説の上で葬ってきたことを贖うかのような、あっぱれな結末だ。やはり高村氏は李歐に"惚れた"か。それ故に生ぬるさも残るのではあるが、こういう救いのある小説も破壊と破滅と神の啓示しか残らないような暗い小説と比べて悪くはないと思いなおしたりする。

一彰が真面目に働き誠実に振舞えば振舞うほど、自分自身の本心を隠蔽し、そしてその行為自体が不実を働いているという矛盾した姿は印象的だ。これは多くの高村氏の主人公が有する捩れた二重性だ。不実であることはいつかは破綻を来すものなのか、あるいは自己破壊に向かうのか。最後まで騙しおおせないのは他者ではなく自分の内実であるということを今回も高村氏は教えてはいる。それが犯罪行為としての破壊衝動へと突き進むほどには一彰は若くも無謀でもないのだが、逆に不確かな男(李歐)との約束を信じ、妻子を捨てたという点においては、自己破壊を突き進む者よりも更にたちの悪い不実を働いたことになったような気がしないでもない。ある意味において、一彰の視点は高村氏の視点そのものであるのかもしれないと思うのであった。

2003年6月20日金曜日

高村薫とシューマンとブラームス

シューマン:
 歌曲集「リーダークライス」作品39
 歌曲集「女の愛と生涯」作品42
 
エリザベート・シュワルツコップ ソプラノ
ジョフリー・パーソンズ ピアノ
1974年4月 ベルリン
EMI TOCE-59088(国内版)


 

ブラームス:
 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
 4つのピアノ小品 作品119
 
アンネローゼ・シュミット ピアノ
ヘルベルト・ケーゲル 指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1979年9月10-13日 ドレスデン、ルカ教会(作品83)
1979年11月18-19日 日本コロムビア第1スタジオ(作品119)
DENON COCO-70536(CREST1000



小説家の高村氏はブラームスとシューマンがことのほか好きらしい。彼女が二人の作曲家に抱く思いについては「半眼訥訥」というエッセイ集の中で『ブラームス的造詣』『ブラームスとヴァイオリン』『シューマンという魔物』という形でまとめられている。これらの文章の初出はウィーン・フィルハーモニー日本公演のパンフレットである(それぞれ1995、1996、1997年)。

特にブラームスのくだりは、彼女の創作活動とブラームスのそれを重ね合わせて書いている点が興味深い。たとえばこうだ。

��ブラームスは)一つの音楽的直感を表現するときに、AとBのどちらが全体の構成の中で相応しいかを厳密に考えた人だったという気がする。ブラームスの作品を聴くとき、すべての部分と部分の間に強固な関係性が感じられるのはそのせいであろう(同書 230頁)
一方シューマンについては、シューマンの歌曲が幼い頃の心をとらえたとし、その音楽について

形式はあっても感性のたえまない奔流がそれを押し流していくような、(中略)さらに、叙情的に聞こえるものが実は、ほとんど魔物のような完成の確かな結実なのであって、そうした果実が次から次へと溢れ出してくるような、そういう空間(同書 242頁)
と書いている。

高村氏はシューマンの天才に憧れてはいるが、彼女の小説からシューマン的感性を感じ取ることは少ない。彼女の文章は、どちらかと言えばブラームス的であるかもしれない。

「リヴィエラを撃て」においては、シューマンの歌曲が効果的に使われている。高村氏は主人公のテロリストにリーダクライスの「異郷にて」を歌わせるのだが、それが小説の中で何とも物悲しいトーンを奏でている。小説での描写はこういう具合だ。

詩人が異郷の森に静めた諦観は、ジャックの語る階段の夢想に、どこか似てなくもなかった。《伝書鳩》は今やっと、ジャックがこの歌を歌い続ける理由を、自分なりに納得したように思った。(同書下巻142頁)
シューマンの歌曲には疎いので、早速右のシュワルツコップの盤で聴いてみた。異郷に住む孤独が哀しくも美し切々と唄われるのは何度聴いても胸に迫る。それにしてもシューマンの歌曲を口ずさむテロリストなど、いったい想像できるだろうか。


In der Fremde (異郷にて)

稲妻の赤くきらめく彼方、
故郷の方から、雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。

私もまたいこいに入る、その静かな時が
ああ、なんとまぢかに迫っていることだろう、
美しい、人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。

一方、同じ小説に登場するピアニストが、積年追ってきた人物の前で披露するのがブラームスのピアノ協奏曲第2番だ。この曲は1番とは違って明るさと光に満ちた力強い曲である。苦悩や深刻さを感じることは少ない曲だが、ブラームスらしい響きと陰影はやはり随所に聴くことができ、控えめながら内に秘められた激情を感じ取ることができる。小説においてピアニストがどのような思いでこの曲を弾いたのかを、作品を思い出しながら聴くのも一興ではある。

小説ではウィーン・フィルの演奏であったが右の盤は旧東独のアーティストからなる演奏である。

2003年6月19日木曜日

高村薫:リヴィエラを撃て(文庫版)




先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではなく、私の高村氏の小説に対する雑多で稚拙な考えをまとめたものである。


高村薫氏の小説を読むことは、私にとって大いなる愉悦と快楽を伴う作業になってしまった。そして「リヴィエラを撃て」という壮大なるドラマを読み終えて、私は満足感とともに焦燥感を覚えるようになってしまった。何故ならば、読むべき高村氏の小説がまたひとつ減ってしまったからなのだが。

この小説は彼女が生まれて始めて書いた小説「リヴィエラ」をベースに全く新たに書きなおされたものらしい。またしても高村氏の全面改稿を経た作品である。高見浩氏の文庫本解説によれば初期の「リヴィエラ」は『プロットの核心は本書とはちがって、アイルランド紛争そのものにあった』とある。「神の火」でもそうだったが、初めに世に問うた作品とは別物であるというわけだ。

旧作がどのような内容であったかについても興味はつきないのだが、彼女の小説の醍醐味はプロットの骨太さ、ディティ-ルへの徹底したこだわり、人物描写の的確さと深さ、それらを土台としたストーリーの荒唐無稽さと展開の面白さ、そして必ず通奏低音として一貫して流れているテーマにあると思う。

この小説に限ったことではないが、高村氏の小説には細部を語り始めればきりがないほどの要素がちりばめられていることに気づく。例えば音楽だ。高村氏は(自分の意思であるかは別として)ピアニストを目指した時期があったらしい。それゆえクラシック音楽にも造詣が深く、特にブラームスとシューマンに傾倒していることは「半眼訥訥」でも述べていたことだ。

この小説では、IRA(アイルランド共和国暫定派)のテロリストであるジャック・モーガンが歌うシューマンのリーダークライスの一曲「In der Fremde (異郷にて)」が実に効果的に用いられている。また世界的なピアニストという役回りのノーマン・シンクレアが、因縁の東京公演で演奏するのがブラームスのピアノ協奏曲第二番変ロ長調であったりする。彼がこの曲を演奏するのは、下巻231頁からだが、曲の解説と共にシンクレアがどのような演奏をしたかということが、実に4頁にも渡って描写されている。それは決して冗長なものではなく、ストーリの重み付けとしてなくてはならない描写になっている点で極めて印象的だ。

このような描写を嫌う読者もいるかもしれない。例えば「黄金を抱いて翔べ」では関西電力の変電所の様子が延々と続く部分がある。あるいは「神の火」の原子力発電所に関する描写もしかりだ。はたまたロンドンや北アイルランドの首都ベスファルトの描写なども、驚くべき筆力で語られる。これらは、おそらく多くの読者には全く馴染みのないものだろう。専門用語やローカルな地名が容赦なくちりばめられた文章は、読みにくく本筋には関係ない、偏執的なこだわりであるとする感想もあるかもしれない。しかし、このような描写に支えられて高村氏の小説の特質とリアリティが生まれていると私は感じている。

他の小説でもそうだが、高村氏の小説のストーリーを思い出してもらいたい。ひとことで言ってしまえば銀行強盗の話であったり、原発テロとスパイの末路の話しであったりと、ほとんど実生活からかけ離れた破天荒な話しの連続である。そこに質感やリアリティーを持たせているのは、作品世界を取り巻く背景の緻密な組立てであったり、徹底した細部描写であったりすると思う。

作品を取り巻く背景については後述するとして、もうひとつ彼女の小説で重要かつ魅力的なのが登場人物であることに異論はないと思う。「リヴィエラを撃て」では登場人物の全てが印象的かつ魅力的であり、かつ謎に富んでいる。もはや誰もが主人公足り得る存在となっているのだ。逆に言えば、最初から最後まで登場している主人公が不在である小説でもある。それほどにまで多くの時が流れ、多くの人物が登場しては死んでゆくからだ。(長い年月とはいってもたかだか二十数年の話しなのだが)

最初の頁から最後の頁まで登場する人物として、イギリス人とのハーフであり、東大卒のエリートである警視庁外事一課の手島修三警視がいる。彼は一連の事件において最後に非常に重要な役割を果し、また作品に通低するテーマに触れる点でも欠かすことはできないにしても、物語が重層的に折り重なる部分では端役でしかない。一番のキーパーパーソンであるIRAのテロリストのジャック・F・モーガンさえ、小説での登場は既に死体であったし、回想の形で書かれた本編においても下巻160頁以降は登場しなくなる(下巻は409頁ある)。このどちらも主人公ではなく、このどちらも主人公なのだろう。

小説全体では脇役であるにも関らず強烈な色彩を放つの人物も多い。一見か弱そうでいながら女性としての強さを持った、ジャックの恋人のリーアンは、その名前のもつ寂しげな響きと共に忘れられない存在だ。彼女を庇護したCIA職員のサラ・ウォーカーはアウディを駆ける颯爽としたイメージとともに、卓越した女性像として記憶に残る。サラの恋人で、テロリストのジャックと重要な一時期を共有したCIA職員の《伝書鳩》、クールさを捨てずに、それでも最後は決然とした決意をもって事に望んだMI5のM・G、そしてその部下であるキム・バーキン(彼のことを思い出すと目頭と胸が熱くなるほどだ)などなど。ああ、ピアニストのノーマン・シンクレアと刎頚の友であるダーラム公爵も忘れてはいけなかった。

これらの多彩な人物ではあるが、実はジャックの思いが《伝書鳩》に感染し、そしてキム・バーキンを介在してジャックの置き土産とともに最終的には手島に引き継がれたと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、書き始めるときりがない。つまりは、どの人物もおろそかではなく、感情移入できてしまうほどに魅力的なのだ。

そうは言うが高村氏の小説を読んでいると、人物がステロタイプではないのか、と思う方もいるかもしれない。「リヴィエラを撃て」「神の火」「黄金を抱いて翔べ」を比較して類似点を探すのは、そう難しい作業ではない。特に高村氏は、男女間の愛憎よりも男同士の友情を超えた愛憎によって結ばれた不可侵の関係というものに執着する傾向がある。そう書けばすぐに思い出すだろう、幸田とモモ、島田と良、島田と江口などなど。それでも私は何度読んでも飽きることがない。

何故高村氏が、男同士の関係に固執を示すのかは分からない。アブノーマルであるが故に、隠微さと深さを持っていることは確かだ。そして最初からそれは不幸と破局を内在した関係であるように思えるのだが、ここで高村氏のもうひとつ通低た点である、「心の中の空洞」とか「虚無」とか、あるいは「個人の中の矛盾」とか「ねじれた自己」ということを炙り出しているようにも思える。

そもそも高村氏は警察とともにスパイやテロリストが好きだ。この作品の背景においても、英米中日に渡る国際的な諜報活動と国家間の謀略というテーマは、小説の題材としては非常に卓越したものであるし、サスペンスを読むという楽しみを与えてくる。このテーマだけでも緻密な取材や積み重ねで得られたのだと想定され、彼女の小説をサスペンスとして分類するの至極妥当だとは思う。しかし彼女はサスペンスを書いているという意識よりも、最初にスパイやテロリストという存在そのものがテーマとしてあるのではないかと思うことがある。つまり、彼女の小説にはサスペンスの裏の流れがあるように思えるのだ。

そうすると、そもそもスパイとは何なのかと考えてしまう。ここで私は「マークスの山」を読んだときのことを思い出す。私にとってこれは高村氏を読む始めての作品であった。私はその中で、主人公の合田警部の中の自分を見る醒めた目の存在が気になっていた。そして、もうひとつ「マークス」と名乗る殺人者が、まさに自己の中にもうひとつの自己が存在する分裂気質の人物として書かれていたことも象徴的だ。あるいは「黄金を抱いて翔べ」の主人公の幸田は「ここではないどこか、人間のいない土地」を希求する虚無さを抱えた人物として書かれていたことも。

これは現在の自己を認めつつも、あるいは違った自分が存在するという自己の中での葛藤と矛盾を表明しているということだ。そういう意味において、スパイとは組織や体制を裏切ると同時に自己をも裏切っているという矛盾を内包した存在として意味があるように思える。自己の何を裏切っているのかはスパイによって異なるのではあるが。このような個人の中での矛盾やねじれた自己、そして抱え持つ心の中の空洞というものは、高村氏の小説の中で重要な役割を果す人物には必ず備えられた資質となっている。「リヴィエラを撃て」においては、テロリストのジャックしかり、ノーマンしかり、手島しかりである。あるいはその空洞に共鳴してしまった《伝書鳩》しかりと言うべきだろうか。更に自己の二重性を駄目押しするかのように、手島にはもうひとつ象徴的にハーフという生立ちが与えらるという念の入れようだ。他の作品では島田がハーフであったことを思い出しても良い。

自己の矛盾や空洞を埋めるために、何が起こったのか、それが事件を通して露になった男たちの情念であり、執拗なまでの死闘であったという気がする。そういう情念や死闘が悲壮感や暗さを持つのは当然のこととなる。そこに更に高村氏独特のキリスト教的宗教感(キリスト教を是認したものではないようだが)が薄いオブラートのようにかかるので、泥沼のような死闘がやがては純粋さを増して行くという、これまた大いなる矛盾をはらんだ結末へと向って行く。それだけに彼女の作品は、とてつもない重みを持って読者に襲いかかり、彼女の小説に独特の匂いを与えているように思えるのだ。

自己の矛盾を解決できた者は幸せだ。小説中では死をもってさえ救われなかった者も多い。MI5のキム・バーキンが死際に別れた妻の名を読んで息絶えるシーンは忘れることはできない。彼は殺される直前まで、彼が現在心から愛しいと思っている別の女性に電話をしていたのにも関らず、元の妻の名を読んでしまう。

「黄金を抱いて翔べ」の幸田はラストで死んでしまったのか、あるいは「神の火」の島田は最後にどこに流されたのか、そして「リヴィエラを撃て」においては、最後に手島が選択した半生は幸福なものとなるのか、それは読者の想像に委ねられているように思える。

本書においては、ほとんどの人間が無残にして無念の死を遂げているが、高村氏は最後には一点の希望を灯して本書を終えている。その希望とて北アイルランドのアルスターに降る雨のように決して暖かいものではないのだが、アイルランドの歴史が沁みこんだ大地のように、深い反逆の魂と純粋さを熱くともしているような気もする。

まだまだ書きたいこともあるが、だんだん何を書いているのか分からないような支離滅裂のレビュになってきたので、ここらへんでやめておこうと思う。さあ、シューマンとブラームスでも聴くかァ(笑)

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2003年6月16日月曜日

恐るべきアファナシエフの展覧会の絵


ムソルグスキー:
 組曲《展覧会の絵》
 ピアノ小品
     間奏曲、情熱的な即興曲、お針子、瞑想、夢
 
ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ
1991年6月3-6日 フランクフルト、ドイツ銀行ホール
DENON COCO-70530 CREST1000(国内版)

アファナシエフの演奏は「遅い」ことで有名である。CD解説にも『「現代」という時代に鋭い一撃を加える狂気の一枚』『徹底的に遅いテンポで作品に潜む狂気に光を当てた快演』とある。簡単に"狂気"などという言葉を使うものではないとは思うのだが、一聴してみて、いったい私は何を聴かされたのだろうかと呆然となってしまったことも否定できない。

《展覧会の絵》といえばオーケストラバージョンにしても、ピアノバージョンにしても、それほど深刻にならず、美術館を軽く散歩しながらワクワクし、ドキドキし、最後は心地くも壮大なるカタルシスを得ることを期待していたはずだ。

しかし、何かが違う。

《プロムナード》からして驚きだ、彫りの深い響きでのっけから圧倒する。《グノームス》も恐ろしく異様だ、いや異形と言って良い。反響が消えるまで引き伸ばされた、一瞬間違えたのではないかと思うほどの長い間、その後に重なる和音の鈍い色彩。まさにグロテスクを絵に描いたような小人の姿がそこにある。


異形なのは《グノームス》だけではない。《古城》はもはや枯淡の境地に逝ってしまっているし、明るいはずの《チュイルリー》は憂鬱を引きずり、ヒナたちは殻をつけたまま転げまわることはしない。音響の濃淡やダイナミックさは極端なまでに大きく、そこから何かがふつふつと湧き上がってくる。いや何かが姿を現してくる。

特に最後の《キエフの大門》に至っては、大門の建設に掛けた情熱とその虚構と幻影が、もはや現代音楽を聴いてるのではなかろうかというほどの歪な音塊とともに暴露されてゆく。こんな、痛々しいまでの《キエフの大門》は始めて聴いた、こんな《展覧会の絵》は一度も聴いたことがなかった。おそるべしアファナシエフ!

アファナシエフ自身、文学や演劇にも造詣が深く、もはや音楽家とは言えないほどの幅広い活動を展開していると聞く。写真は《展覧会の絵》のためにアファナシエフ自身が書いた台本をもとに上演された人形劇らしい。(全ての写真CDジャケットより)

演奏が遅ければ良いわけでも、「精神性」が深まるわけでもない。アファナシエフは中沢新一や浅田彰などの思想界のオピニオンリーダー達に絶賛されているという。彼らの思想を全く理解できない私には、彼らが絶賛する理由を一生理解することはないだろう。しかし、ほとんど異形というべき演奏が付き付けるものは、鉛のように重たくそれでいて確かに鋭いと思わざるを得ない。



2003年6月8日日曜日

ソロ奏者の音量について

N響アワーで、ミッシャー・マイスキー氏のチェロでドヴォルザークのチェロ協奏曲が流れていた。何気に見ていたのだが、演奏を眺めながら昨日の東響とディンド氏のチェロを思い出していた。ディンド氏の音色は非常に多彩ではあったが、音量面から言うと少し小さいかなという印象を、協奏曲の時は感じていたのだ。それでも、音が大きければ良いというわけでもないし、オーケストラとのバランスを考えても悪くはなかったから、そんなことはすぐに気にならなくなったのだが。
ところが、プロコフィエフが終わった後にディンド氏がバッハの無伴奏を演奏したときは、これがホール中に響き渡るかのような音量として聴こえたのだ。この違いはいったい何なんだろうと不思議に感じたものだ。

協奏曲のソロ奏者の音が、音量面で不満が残るということは、チェロに限らず、ヴァイオリン、フルートなどにおいても常々感じていたことだ。アンコール演奏などでのソロ演奏の響きを思い出すに、もしかするとソロ奏者の微妙な音色は、協奏曲になることでかき消されてしまっているのではないかと思い至った。

昨日のショスタコーヴィチでも、フルートやオーボエなどの木管楽器の音色はオーケストラの中で良く通って聴こえていたが、それらはまわりがピアニッシモで演奏しているときで、ほとんどソロパートとして演奏しているからこそ良く聴こえるわけだ。

このようにソロ奏者の微妙なニュアンスが協奏曲において伝わりきらないとしたならば、これは少し不幸なことなのではなかろうかと思うのだが、いかがなものなのだろうか。

東京交響楽団第504回定期演奏会

日時:2003年6月7日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:ジャナンドレア・ノセダ   
チェロ:エンリコ・ディンド
演奏:東京交響楽団


プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47

「社会主義リアリズムへの苦悩」という主題に選ばれた曲は、1952年に初演されたプロコフィエフの交響的協奏曲と1937年初演のショスタコーヴィチの交響曲第5番であった。

チェロ協奏曲の別名のあるプロコフィエフの曲は、3楽章形式で40分にもわたる大曲である。いったいクラシックサイトを運営していながら、どういうつもりなのかと思うかもしれないが、プロコのこの曲は始めて聴く。しかし聴き始めてすぐに曲の面白さに魅せられ、演奏時間の40分は、それこそあっという間に過ぎ去ってしまった。

解説によれば「皮肉なニュアンスをもった平明さと、抒情性やどぎついリズムなどによって、独特のコントラストが実現」とある、よくも端的にまとめてくれるものだ。聴いてまず驚いたのが、チェロという楽器の運動性能である。高音域から低音域までを余すことなく使って表現される独奏チェロは、この楽器のもつイメージを少し超えたものさえ感じた。チェロの音から他の楽器へとつながる音の連続性も面白い。

第2楽章アレグロ・ジュストにおいて叙情的な第二主題をチェロが奏るのだが、この優雅さは幻だろうかと薄氷を踏むような思いがよぎる。あるいは第3楽章の冒頭の主和音の強烈な響きは、一瞬何かのパロディであろうかと、思わず深読みしそうな意味を感じてしまう。音楽は多彩な変化を示し、ラストへ向けて強烈なリズムと弦の性急な刻みにのったチェロは、狂気と紙一重のような音楽を作り出している。

このように一瞬たりとも聴き逃すことができない、めまぐるしい音楽を聴かせてくれた。チェリストはそれこそ全身を使ってボウを弾きまわす。思い出してみると私の目と耳は、40分もの間チェリストに釘付けになっていたようだ。

プロコフィエフが終了した後、ディンド氏はバッハの無伴奏チェロ組曲第1番サラバンドを演奏した。このバッハがまた面白かった。一瞬巻き舌のような表現が、確かに聴こえた。パンフレットを見ると彼は生粋のイタリア人ではないか、イタリア語独特のニュアンスが音楽に聴こえるとは! それでいて、このバッハがとても素晴らしかった。抹香臭さや宗教臭さがなくバッハらしくないのだが、曲は透明な水のように美しい。どこまでも透明で含むとほんのりと甘い水、そんな甘美さだ。静謐さの中に宿る歌やロマン、さらには色気さえ感じ、改めて演奏者がイタリア人なのだなあと思うのであった。それにしても、ソロになったときにサントリーの隅々まで満たした音色は、確かに音楽の至福を語っていた。

ちなみにディンド氏は1998年までミラノ・スカラ座フィルの第一ソロ・チェロ奏者を11年務めたた後、ソロ活動を始めたとのこと。

さて、次ぎはお馴染みのショスタコーヴィチの交響曲第5番、通称タコ5である。指揮のノセダ氏はパンフレットによると、ミラノ生まれ。チョン・ミュンフン氏、ゲルギエフ氏らの指導を受けたらしい。2002年にBBCフィルの首席指揮者に就任、2003年からはイタリア放送交響楽団の首席客演指揮者に就任の予定とのこと。ミュンフン氏とゲルギエフ氏に指導を仰いだとなると、演奏の型は、ある方向に向くと想像されてしまう。果してどうであったか。

曲全体の印象で思い出すならば、クライマックスよりも水を打ったような弱音のときに、オケから背筋が寒くなるような表現を聴くことができた。弦がものすごい弱音でトレモロを奏でているところなど、凍え、抑えられ、あるいは体を縮め静かに震えながら機会を伺うようで、凄みさえ感じた。逆に終楽章のラストに向けての表現も、過度にはなりすぎに歓喜は歓喜として十分にカタルシスを得ることのできる演奏に仕上がっていたと思う。オケが粗くなってしまう一歩手前で押さえているかのような統率力も聴きのがせないところだ。

ここで「歓喜は歓喜として」と書いのは、この交響曲の示した「歓喜」が、ベートーベン的歓喜なのか、「証言」にあるような「強制された歓喜なのか」と考えるからである。今日の演奏を聴いていて、弦セクションの気がふれているのではないかと思われるようなボウイングを目の当たりに見、そこから聴こえる血管ブチ切れ状態のヒステリックな響きを聴くと、少なくとも「強制」による「歓喜」ではないと思わされた。

それでは、心の底からの歓喜を表現したのかと問えば、ベートーベン的な平和が支配するような終わり方でもなかったようにも思える。ピアニッシモにおける極端なまでの静寂と、圧縮された高音高圧のガスが一気に蓋を押し上げて爆発させたかのような4楽章最後のラストではあったが、いったいノセダ氏が噴出させた感情は何だったのか、それは分からない。考えても分からないので、ここは素直にショスタコ的なねじれた諧謔性よりも、「歓喜は歓喜として」聴いた方が良さそうだ、と今日のところは思った次第だ。

ノセダ氏の表現は決してあざとくない。テンポもそれほど早めることはなく、特に第4楽章などはじっくりという感じだ。ゲルギエフ氏やミュンフン氏に指導を受けたというだけあり、表現はダイナミックだ。しかし感情の奔流に流されるような表現はノセダ氏には感じない、それがかえって心地よい。

第1楽章のピアノが低い打鍵をグロテスクな表現の部分や、あるいは第3楽章のチェロを中心とした低弦がザクザク弾くところなど、表現としてはどぎつくはしない。一方で第2楽章の3/4拍子、これがひどくアイロニックなワルツであることを優雅に教えてくれる。

そう言う点からは、好みの問題ではあると思うが、表現に甘さを感じた部分もある。甘く感じる所以が、オケ奏者の表現や音色によるものなのか、ノセダ氏の解釈なのかは、未熟な私には分からない。また全体に弦セクションと管楽器セクションのバランスに、少しばかりの違和感を感じた部分がなきにしもあらずだ。というのは、極度の緊張感を持ったヴァイオリンを中心とした弦セクションに続いて木管や金管が表れると、緊張がお祭り騒ぎになってしまう、という感じを何度か受けた。逆にこれはショスタコーヴチが狙ったアンバランスさなのかもしれない。このような違和感は第3楽章から4楽章になるに連れ全く払拭され、個々の音色とオーケストレーションは見事に一体化したのだが。

細かく思い出せば不満のひとつやふたつはあるものの、最終的な感想としては聴きに行ってよかったという満足で満たされたわけであり、上記に書いたような問題は瑣末的な問題でしかないとは思う。偉そうなことを書いたところで、所詮はオケを半年振りに聴くアマチュアである。明日になれば考えも変わり、あるいは忘れてしまうような戯言である。

2003年6月7日土曜日

久しぶりにサントリーで生オケ

東京交響楽団第504回定期演奏会~社会主義レアリズムの苦悩

プロコフィエフ:交響的協奏曲 作品125(チェロ協奏曲 第2番 ホ短調)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第5番 作品47

ジャナンドレア・ノセダ 指揮
エンリコ・ディンド チェロ
2003年6月7日(土)18:00~
サントリーホール

生のオーケストラを聴いたのは久しぶりである。最後に聴いたのがいつだったのか思い出せないほどだ。予定のない休日であったので、思い立って当日券を電話予約しサントリーに向った。指揮者もチェリストも聞いたことはなかったし、ましてや東京交響楽団さえ聴くのが始めてであったので、失礼ながら期待半分、不安半分であった。

演奏終了した後の感想はいつものことながら、やっぱりオケは生に限るということに尽き、久々にリフレッシュさせていただいた。特にオケの全音量を体全体に浴びると、それだけで何かが浄い流されたような気がするものだ。

それにしても、東京交響楽団の定期演奏会である。いつものことなのかは分からないが、席はほぼ8割以上埋まっていたのではなかろうか。私は1階席後方であったのだが、少なくとも私の前後左右に並んだ空席などを見つけることはできなかった。なんとも幸せな定期ではないか。

コンマスの大谷さんは非常に艶やかな音色を奏でる方で、あのスレンダーな体型からかくもホールに響く音を紡ぎ出すとはと思ったものである。レビュはこちら。

2003年6月5日木曜日

アバド/ワーグナー・アルバム

1 歌劇《タンホイザー》:序曲
2 舞台神聖祭典劇《パルジファル》:第1幕への前奏曲
・舞台神聖祭典劇《パルジファル》:第3幕からの組曲
   3-4 聖金曜日の奇跡 5 鳴り響く鐘と騎士たちの入場
   6 パルジファルが聖槍を高く掲げる
7-8 楽劇《トリスタンとイゾルデ》:前奏曲と愛の死
9 楽劇《ワルキューレ》:ヴァルキューレの騎行(国内盤のみのボーナストラック)

クラウディオ・アバド 指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
スウェーデン放送合唱団
2000年11月、2003年3月
DG UCCG1149(国内盤)

2000年から2002年にかけてのアバドとベルリンフィルによるワーグナーの演奏である。2000年のベルリン来日の際に《トリスタンとイゾルデ》を演奏したので聴きに行かれた方も多いだろう。私はその頃ワーグナーなど聴かない人間だったので、あまり興味が沸かなかったのだが、考えてみれば惜しいことをしたものだ。(もっとも時間とお金ともなかったとは思うが・・・)

ここに収録されているのは《パルジファル》前奏曲と《トリスタンとイゾルデ》そしてヴァルキューレが2000年11月ベルリンの、残りが2003年3月のザルツブルク、祝祭大劇場で録音されたものらしい。

アバドのワーグナーが世間でどのような評価を得ているのかは不勉強にして知らないが、この盤を聴く限りにおいては、非情に高度なオーケストレーションの技術に裏打ちされた完成度の高い演奏のように思える。それに艶めかしさやワーグナー独特の濃さよりも、何か大切なものを削りながら音を構築しているような、ある種悲愴感が漂うようにも思える。それは選曲によるのか、それとも、この時期アバドが病苦と戦いながら演奏活動をしていたという事実が頭に刷り込まれているからだろうか。それゆえというべきか、旋律の甘美さや美しさは陶然とするがごときだ。

《トリスタンとイゾルデ》と、ヴァルキューレはオーケストラヴァージョンなのが残念である。イゾルデのラストの慄然とするような歌唱や、ヴァルキューレの螺旋のように渦巻く叫び声を聴けないのは、この曲を聴く楽しみを半減させてしまってはいる。頭の中で、誰かの歌唱を補完しながら聴いてしまうのだが、最初はわさびの入らない上等の鮨を食わされているような思いであった。合唱部分をヴァイオリンなどが代役を務めているのだが、ヴァルキューレなどは少し滑稽に聴こえなくもない。

《パルジファル》第3幕も、騎士たちの合唱は入っているのだが、これに続く死を願うアンフォルタスと、彼を聖槍で救うパルジファルの歌は、やはりオーケストラヴァージョンになってしまっている。

オーケストラヴァージョンとして何度か聴けば、これほど密度の高い演奏というのもそうあるものではないと思わせはする、音響的な分厚さはさすがというべきか。しかしながら、セレクト盤なのでワーグナーを聴き通したいう満足感と感動は得られず、返って鰻の匂いだけかがされてしまったような気持は残るのであるが。