2003年10月20日月曜日

Durufleのレクイエム


Maurice Durufle (1902-1986)
 Requiem Op.9 (1947)
 Quatre Motets Op.10 (1960)
 Missa 'Cum jubilo' Op.11 (1966)

St.Jacob's Chamber Choir ( S:t Jacobs Kammarkor )
organ: Mattias Wager  baritone: Peter Mattei
mezzo-soprano: Paula Hoffman  cello: Elemer Lavotha
1992&1993, BIS Records AB

フォーレの「レクイエム」に並ぶヒーリング系レクイエムというHMVのキャッチに惹かれて購入してみた。聴いてみれば、確かに心の奥底に染み渡るような美しい音楽が展開されている。さて作曲者はとみれば、Durfule とは何と20世紀の作曲家ではないか。しかも「レクイエム」の作曲は1947年とある。

私は常々、どうして現代の作曲家が、いわゆる「クラシック音楽」を作曲しないのか不思議でならなかった。時代背景や嗜好というものもあろうが、新たな視点から古典音楽やロマン派的な音楽が作曲されたっていいではないかと思うのである。(もちろん現代音楽を作曲してくれてもよいが)

とにかく聴いてみていただければ分かる。「レクイエム」はフォーレのそれのように「怒りの日」を入れていないため、安心して聴くことができるし、オルガンとコーラスのハーモニーがうっとりするほどに絶妙である。続く二曲もコーラス付きの曲だが、まるでグレゴリオ聖歌のような曲だ。

解説によれば Durfule は、音楽のキャリアをルーアン大聖堂から始めたらしく、そこでオルガンを学んでいるらしい。しかし、たた古典的な様式を模倣しただけでの音楽ではなく、聖歌のような清らかなコーラスと輝かしい音響がマッチし類い稀なる音楽を生み出している。

「癒し系」とか「ヒーリング」という言葉やムードは好きではないのだが、心も体もズタズタで脳も充血しているのにアドレナリンだけが噴出し体温が1.5度くらい上昇しているような夜(どんな夜ぢゃ!)に聴くと、細胞の隅々にまで冷気が行き渡る心持だよ、はあ~。

李小牧:歌舞伎町案内人


何とも痛快な本だ。帯びにもあるようにマスコミ各氏や新聞でも話題になった本だから、題名を聞けば「あの本か」と思う人も多いだろう。

1988年に中国から日本に憧れてやってきた若者が、新宿歌舞伎町にどっぷりとはまり込み、ラブホテルの清掃から「お見合いパブ」のティッシュ配りなどを経て、歌舞伎町の「案内人」(彼は「キャッチ」とは違うと主張する)として成功するまでの、波瀾万丈の人生と歌舞伎町の裏社会を、生き生きと活写して見せた本である。ヤクザの「ケツ持ち」の話しや、中国マフィアや福建人の話など、実話だけあって迫力もすごい。

この本で感心するのは、李氏の類稀なバイタリティと行動力、そして犯罪には絶対に関らないという信念であろうか。それがあるから、彼の明るさと身軽さと、そして不思議な健康さが本書にノリと勢を与えている。馳星周の小説は読んだことがないが、ふと高村薫の「李歐」の背景などを思い出したものだ。

それにしても密入国者や外国人による犯罪が増加していることを考えると、不況とはいえ、今でも日本はアジアのなかで、自己防衛にマヌケでかつ金のなる国であると思われていることに改めて気づかされた。

2003年10月19日日曜日

東京交響楽団第507回定期演奏会


日時:2003年10月18日 18:00~
場所:サントリーホール
指揮:井上 道義





ソプラノ:佐藤 しのぶ   メゾ・ソプラノ:エルザ・モールス
合唱:東響コーラス   合唱指揮:郡司 博
演奏:東京交響楽団

マーラー:交響曲 第2番 ハ短調 復活

またしても東京交響楽団の演奏会を聴きに行った。東響のファンであるというわけではないのだが、たまたまタイミングが合っているというところか。しかも演目が井上道義氏による「復活」、ソプラノが佐藤しのぶさんとあってはいやでも期待してしまう。

「復活」は、私の中で迷うことなくベスト5に入るほどの好きな曲である。前日にテンシュテット/LOPのCDを聴いて予習するというほどの気の入れようだ。さて井上氏の率いる東響はどう聴かせてくれたか。

最初に結論から書いてしまうと、とてつもなく素晴らしい演奏であったということに尽きる。私は最終楽章の当たりから横隔膜が上がりっぱなしで、いつのまにか流れてしまう涙を抑えることができず何度も目尻を拭わなくてはならなかったし、最後のコーラ―スが始まる当たりでは体がどうしようもなく震えてしまうほどの興奮と歓喜にのまれてしまった。音楽を聴いていたというよりも壮大なる賛歌と歓喜の光の中に放り込まれたような強烈な音楽的経験であった。

ゲルギエフ/キーロフ(99年 東京芸術劇場)で聴いた復活も脳天が炸裂するような演奏であったことを思い出すが、今回の演奏はそういうものとは質が違った演奏であったように思える。何か物凄く大きなものを演奏からもらうことができた。

とはいうものの、最初から最後まで演奏に満足していたというわけでもない。第一楽章冒頭、ヴァイオリンのトレモロに乗って低弦の強奏から始まる不安な旋律を聴いた時、東響独特の弦の繊細さと美しさを感じながらも、高音の海の中に低弦が浮遊するような、不思議な分離感をまず味わっていた。

第一楽章は葬送行進曲であるが、激しさと劇的さの間をつなぐ線がどこか頼りなげで、ひとつのストーリーとして胸に迫らない。もともとマーラーの曲は分裂気味ではあるのだが、何かマーラーらしい暗さが不足していると感じたりしていた。音量的にも、中音域が不足するような感じで、第一楽章は最後まで満足のゆくものではなかった。第二楽章のアンダンテも、マーラー的な官美さには少し遠く、今日の演奏は期待したほどではなかったかと軽い失望を覚えたほどではあった。

しかし第三楽章のあたりから少しずつ気分が変化し始め、第四楽章でメゾ・ソプラノの " Roshcen rot!(おお、小さな赤バラよ) という歌が挿入された当たりから、それは健著になった。何といってもモールスさんの歌声が素晴らしく心底聴き惚れてしまった。声量といい声色といい、なんと美しく芳醇な歌であることか。まさに祈りの歌がそこにあった。

バックで支える東響も美しい。第三楽章から楽章間がほとんどなく連続して演奏されることも、次第に緊張を高めてるのに一役買っていた。

第五楽章に至って、マーラーの複雑にして多彩な音響にほとんど翻弄されるがごとき。曲がどう進んでいくのか分かっているというのに、合唱が " Aufersteha, ja aufestehn wirst du (よみがえらん、まこと汝はよみがえらん) と唄いはじめた時には二の腕にざわざわと鳥肌が立つ思い。中間部は木管も金管も素晴らしい音楽を聴かせてくれていた。そしてソプラノとアルトの二重唱 " Shcmerz, du Alldurchdringer ! (おお苦しみよ、汝いっさいを刺しつらぬくものよ!)が美しいこと。

合唱団が立ち上がって唄い出す(お決まりの?)あたりから、ラストに向っての盛りあがりは凄まじいもので、第一楽章で物足りなく感じた音量はなんだったのかと思う。打楽器と管と弦が渾然とフォルテッシモを奏でるとホールの底が沸騰するかのよう。一気呵成に音楽は進行し、冒頭に書いたように私は完膚なきまでに叩きのめされてしまったのである。

終演後のブラボーも凄まじかったが、演奏会にこれ以上何を望むことができようか。今年聴いた東響の中どころか、今まで聴いた演奏会の中でもベストに数えられるようなものであったと思う。

2003年10月17日金曜日

高村薫:レディ・ジョーカー



読み終わった後に静かに、そして深く震撼してしまった。この小説は高村作品の中でも、また日本の現代小説の中でも最高傑作のひとつなのではないかと思った。彼女は自分の作品について、ミステリーを書いているつもりはないと言っている。読んでみれば確かに小説の中で書かれるビール会社を相手にした企業テロは、江崎グリコ事件を題材にしてはいるが、ミステリーはひとつの素材でしかない。

最初に読み始めたときは、初期作品に認められた高村らしさが薄く、大衆性を得て変化したかと感じさせたものだ。ふと横井秀夫氏や貫井徳朗氏の小説のような雰囲気さえ感じた。

しかし読み進むにつれ、個人というものを阻害してできている組織社会、日本社会に縦横に張り巡らされた裏社会、どうにも変え様のない現実をしょった個々の人生などが、どこに焦点を当てるというわけでもなく、全てに無影燈のように等価に光を当て、しつこいほどの描写で綴られてゆくことに引き込まれてしまった。

何がテーマかということを考えるのをためらうほどに、込められた思いは複雑だ。ただひとつ言えるのは、この物語は、すべて日本と組織で働く、あるいは日本と組織から阻害された男たちの、自己清算あるいは自己解放の物語であるといえる。(女性はほとんど脇役以下なのも相変わらず高村小説である)

合田刑事が、半田との最終決着をつける前の場面、

合田はもう何年も味わうことのなかった深い解放感に満たされた。(中略)己の人生を、こうして全て放り出そうとしている解放感といっても、実態は身の丈相応の、その程度のものだった。(下巻 421頁)

毎日ビール副社長の倉田が社長の城山に、内部告発とその後の刑事被告の件を告げた場面で城山がひとりごちる、

時分と同じサラリーマン人生を歩んでいた男が、ここまで完璧に己の三十数年を捨てて新たな世界へ飛び出していけるものなのか。(中略)城山はその場は結局、まったく自分の頭を整理することができずに終わった。(下巻 323頁)

その城山が最終的に辿りついた境地は、

志半ばの無念や失意よりも、間もなく訪れる自由への手放しの渇望の方が、自分の中で確実に大きくなっていることに、城山は驚いていた。会社と決別してまったく新しい何者かになることが、長年背負い続けてきた肩書きや懸案をすべて下ろして裸に戻ることが、これほど心を躍らせ、沸かせるとは。まさに、この自由の悦びを味わうために、長年の会社生活があったのかと思うほどだった。(下巻 411頁)

自己清算あるいは自己解放ということは、己の中で燻るもうひとつの自分の解放でもあり、あるいはそれが「悪鬼」であったりもする。東北戸村出身の老人である物井の場合、自分の兄 清二が亡くなったときに感じたことは、

<人間なんてこの程度のものだ><これが明日のお前だ>といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやがて形もなくなると、代わりに降りてきた放心の隣で、物井は今度は<清二さん、仇を討ってやるぞ>という別の声を聞いた。(上巻 162頁)

生きることや働くことの意味、日々の仕事の中で忙殺され、つかの間の充足感を味わいながらも、一方でさらさらと広がる巨大な虚無と空洞を鋭く抉りながら、男たちのつまらなくも重い人生を書ききっている。そして、凡百の男たちには、いくらあがいても変えようのない巨大なシステムと不公正の存在。そんな憤りと燻りの中から、生と破壊への暴発を始める男たち。自己発見をできたり何者かに変わることができた者は幸せで、結局何を起こしても身の丈程度とうそぶくか、あるいは完全に自己を破滅させてしまうか、その差は何であったか。

そうだ、書きながら気づいた。『レディ・ジョーカー』も、高村小説が一貫して追及してきた「いまのどこにもない、もうひとつの自分」への物語なのだ。その意味では集大成とも言える小説に仕上がっている。

企業テロの詳細や、表社会と裏社会と政治の結びつきなど、ここでも背景となる組立ては緻密で高村の取材力には改めて関心するのだが、この点は割愛する。

物凄い小説ではあるが、一点だけ言えることはある。細部と人物の緻密な描写によって書かれた驚くべき現実感を有した小説であるが、これは高村理想郷に住むの男たちの物語ということだ。往年の少女マンガが絶対にありえないプロットで成立していたように、高村の小説もそれに似たところがある。

というのは、彼女の小説の男たちは、あまりにナイーブで誠実で潔癖で禁欲的すぎるのだ。倉田や城山のみならず、自らの命を絶った杉原や三好の自己清算の方法もそうだが、どこの世界に盗み取った20億もの金に執着しない男たちがいるというのか。どこに、激務に近い仕事の後にヴァイオリンを弾き、寝る前は台秤で150グラムと計ったウィスキーを飲み、グレン・グールド著作集第1巻『フーガの技法』か『商行為法講義』あるいは、『日経サイエンス』を読みながら寝るクリスチャンの刑事がいるというのか。どこにシモーヌ・ヴェーユを<無人島に持っていく十冊>にしたいと考えている新聞記者がいるというのか。いや、私の廻りには皆無なだけだけで、そういう人は、きっと沢山いるんだろう・・・な・・・・チェッ

2003年10月8日水曜日

平野啓一郎:一月物語


何とも美しい小説ではある。平野氏の小説は「日蝕」でも感じたが細部の描写が見事だ。特に今回は森の中の描写が生きていて、燐粉を放つ鴉揚葉や夕影鳥(ほととぎす)の鳴き声など幻想的な雰囲気を小説に与えている。例えばこんな具合だ。


庭は、背後の森に守られて、降り濺ぐ煙雨のような月光を恣にしている。色鮮やかな蘭や文目は、裂けんばかりに花弁を広げ、磨かれて将に現れようとするする刹那、螺鈿の飾りのように、暗がりに浮かび上がっている。躑躅の緑条は、その旺んな枝振りを注意深く潜めながら、咲き乱れた花の色に裏切られることを嬉しんでいるかのようである。(P.92)


物語りは明治の頃を題材としているが、取り立てて新規性のあるものでははなく、むしろ陳腐と言ってよいような怪奇譚を、彼独特の世界観で包み込み、怪しいまでの美しさで展開してくれたというところか。ここでも文体と独特の漢字使いについて言及しなくてはならない。擬古典的な文体と現在では使わない漢字使いと小説独特の世界のマッチングしている。「日蝕」では『何かを隠蔽している』のではないかと思わせたが本作ではそういう感想は湧かない。擬古典的な文体とは言っても読みにくいのは漢字だけであって、内容については晦渋なところはどこにもなく(むしろ平易)、これも質の良いファンタジーとして楽しむことができる。

もうひとつ気付いたことがある。平野氏は何者かとの一体感や成就感(今回は報われることのない愛だが)、そして一瞬ではあるが永遠の幸福感に憧れていると思わせることだ。「日蝕」では『究極の至福と統一感』について感情移入できなかったと書いたが、実はこれこそ彼の根底に流れる情念であり、小説を書かせる源泉のひとつなのかもしれない。それを表立って表出することを憚るがために、回りくどい表現になっているのだろうか。

それにしても、ラストの男女の森の中での掛け合いはいただけない。お互いを求め合うその愛の詞が、宝塚かオペラの一幕を見ているようで、今までの世界観と齟齬を来たしているように思えたのだが、いかがであったろうか。

2003年10月1日水曜日

平野啓一郎:日蝕


(素人のネガティブな感想なので、読まれる方はご注意ください)

小説を読む愉しみという点で考えるならば、平野氏の「日蝕」は私に何を提示してくれたか。史上最年少での芥川賞受賞、三島由紀夫の再来というキャッチ、それなりに期待して読んだのだが私には芥川賞を取るほどの力がどこに隠されているのか、ついぞ分らなかった。

物語は15世紀フランス、一人称形式の追憶のかたちで書かれる若きドミニコ派修道士の不思議な体験が骨子。主人公は、基督教と異端哲学を融合させたいという野望を持って旅を始めるが、師の勧めもあり錬金術師と出会う。更には両性具有者までもが登場し、両性具有者は当時流行した厄疫の汚名のもと異端審問の果てに焚刑に処せられる。そのときに霊的な奇跡(?)が生じ主人公にとって究極の至福と統一感をもたらす体験となるというもの。

しかしながら、四方田犬彦氏が文庫本解説で「通過儀礼」と称する程には個人としての軋みが感じられず、傍観的で受動的な印象しか受けないところは大いに不満。平野氏は1頁以上の空白頁を挿入することで、体験の全きさを表現したかったのかもしれないが、私には主人公への感情移入もできなかったため、頁のごとく白々しい気持ちが残るのみ。

「日蝕」というタイトル、基督教と異端哲学の融合、錬金術、両性具有者という素材からは、陽と陰の融合あるいは統合という、主人公が求めたテーマが見え隠れするのだが、当の平野氏は陽と陰の融合を希求しているわけでは全くなく、従ってそれを感覚的にのみ表現しようとしているところに弱さを感じる。

そもそも三島との共通点が一体どこにあるというのか。耽美というにはどこか即物的であり、身を恥じ入るような背徳も読み取れない(三島を耽美と背徳という言葉に単純化することに意義はあろうが)。平野氏に特徴的な古典的な文体(鴎外の文体を模したらしいが)は確かにひとつの世界を作ってはいるものの、物語内容や描写、詳細に読めば文体さえ、(当たり前のことではあろうが)若く現代日本的的な感性の横溢を感じる。それ故、古典的な文体はわざとらしく、逆に何かを隠蔽しているのではないかとさえ思えてしまう。

中世の基督教の神学論争などを舞台としている点は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を彷彿とさせるが、内容世界において比肩するべきものはない。洞窟の場面と焚刑の場面などは、話題性の点からも読み応えはあるかも知れないが、私には村や洞窟に至る森の描写の方が見事に感じる。

畢竟彼の小説は細部と描写美によって成立しているだけのようにも思え、一読した限りにおいては芥川賞受賞という作品価値を見出すことが私にはできなかった。

ただ、難解といわれる文体が読みにくかったかといえば全くそういうことはなく、始めの数頁で彼の漢字使いに慣れてしまえば、薄い本でもあるしファンタジー小説を読むのと何の変わりもない。

・・・・・ううむ、ケチョンケチョンだな・・・・・平野さん、ごめんなさい。この小説を高く評価する方、すみません、自分にはこの作品は合いませんでした。

2003年9月21日日曜日

東京交響楽団第506回定期演奏会

日時:2003年9月20日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ヘンリク・シェーファー
ピアノ:梯 剛之   ソプラノ:天羽 明惠
演奏:東京交響楽団

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
マーラー:交響曲 第4番 ト長調



本日東響を指揮するのはヘンリク・シェーファーという68年ドイツ生まれの若き指揮者である。2000年にはアバドの指名でベルリン・フィルのアシスタント・コンダクターに選ばれている実力の持ち主らしい。演奏会パンフレットには「未来のマエストロの呼び声高き、注目の指揮者」と紹介されている。ピアノの梯氏については説明はもはや不要だろう。今日の演奏会は、彼のピアノを聴くことが先ず目的ではあった。

梯氏が演奏するのはモーツアルト絶頂期のピアノ協奏曲21番である。明るくモーツァルト的天真欄間さのなかに見え隠れするちょっとしたアンニュイや寂しさが表現された、親しみやすい名曲である。ややもすると、あまりに耳障りが良すぎて逆に災いするところがあるのだが、梯氏のピアノは評判のとおり非常にピュアな音を奏でてくれ、清朗にして明瞭、モーツァルトの美しさを十全に表現しつくしているように思えた。

��階20列であったので遠くてよく見えなかったが、梯氏の打鍵はあまり強く、あるいは深くないようで、そこに彼の感性がかぶさることで、梯氏の独特の繊細な音楽が生み出されているように感じられた。(ピアノにも詳しくないので、頓珍漢かもしれないが)

シェーファーの氏振る都響も、適度に贅肉を落としたフットワークの良さを聴かせてくれ、梯氏のピアノとのアンサンブルは絶妙であった。プロのオケを相手にして言うのも何だが、確かに都響の弦はクリアで独特の艶やかさがあるように思える。

梯氏のアンコールはモーツァルトのニ短調幻想曲であった。モーツァルトの短調というのは、どうしてこんなにも哀しく美しいのだろう。この一曲を聴くだけでも雨の中サントリーに行った甲斐があったというものだ。

マーラーの交響曲第4番は、マーラー作品の中では短いため "親しみやすい" ということになっており、しかも演奏回数が1番や5番と比肩しているのではないかと思う。私も拙い演奏会経験の中で、この曲には何度か接している。

しかし私にはこの曲は結構難物で、特に第3楽章とソプラノ独奏の入る第4楽章がうまくつながらず、交響曲としてまとまった完成度という点では疑問を感じていた。「マラ4は第3楽章で聴くのを止める」という人もいたくらいだ。

私が今日の曲を聴いて驚いたのは、その第3楽章のまさにクライマックスとなる盛りあがりの中で、ソプラノが左手から静々と登場したことだ。こういう演出(?)は普通なのかしら。勝利を告げるかのようなファンファーレ(トランペットとティンパニが強打されるところ)とともに表れたソプラノの天羽明惠さんは、あたかも天国からの使者のように見えた。なるほど、こういうつながりもあったのかと関心してしまった。

指揮者のシェーファー氏がどういう芸風なのかは知らないが、彼のマーラーは全く感情に溺れず、淡々と音楽を提示してくれているように感じた。マーラーの曲はどれもバラバラな断片が組み合わされているが、彼の指揮はモザイクのひとつひとつにピントをくっきりと合わせているようで、そのため独特のパースペクティブを感じることができた。第3楽章のマーラー的なアダージョにおいても、音楽が陶酔してしまうことはなく、そのようなアプローチから現代的なマーラー像が浮かび上がっていたようにも思える演奏であった。

2003年9月14日日曜日

アムランのアルカンほか


Adolf von Henselt (1814-1889)
 Piano Concerto Op.16
 Variations de Consert Op.11 (Frist Recording)
Charles-Valentin Alkan (1813-1888)
 Concerto da Camera Op.11/1
 Concerto da Camera Op.10/2 (First Recording)

Piano:Marc-Andre Hemlein
Conductor:Martyn Brabbins
BBS Scottish Symphony Orchestra
Recording in Govan Town Hall, Glasgow, on 2 3 December 1993

ここに納められている Henselt と Alkan は、リストやショパンと同時代の作曲家であるらしい。Alkan は名前くらいは聴いたことがあるが、Henselt は読み方さえ分からない。この盤のふたつの曲がともに世界初録音とは驚く。

数多くの作曲家の中で現代でも聴き続けられているのには理由があるのだろうが、歴史の中に埋もれてしまっている作曲家も、私が知らない以上に多いのかもしれない。アムランが発掘したこの二人の作品も、これが何故に今まで誰も演奏しなかったのか不思議でならない、あまりに不当な扱いではないか。

どちらの曲もピアノの技巧をこらした、壮大なる曲である。音楽的な起伏も大きく、しかも深刻になりすぎず良い意味で刺激的でかつ健康的な美しい曲であると思う。特に凄まじい速さで速さで上下する旋律はロマン的な華やかさに満ちていて、アムランの精巧なテクニックで聴かされると、ふつふつと快感のようなものまで感じる。

しかし、何度もこの曲を聴いていると、「彼は、素晴らしくて、とてもいい人なんだけど~」的なつまらなさを感じることがなきにしもあらず。これらの曲が埋もれてしまった理由は、そんなところにもあるのかもしれない。もっともアムランのような者が弾けば、作品は生き生きとして蘇るのではあったが。

2003年9月9日火曜日

アファナシエフのベートーベン ピアノ協奏曲


ベートーベン  
 ピアノ協奏曲第3番
 ピアノ協奏曲第5番『皇帝』

指揮:Hubert Soudant
ピアノ:Valery Afanassiev
演奏:Mozarteum Orchester Salzburg
Recording:December 12&13,2001(No.3)/June 10&11,2002(No.5)


アファナシエフとしては初のピアノ協奏曲録音は、モーツアルテウム管弦楽団と、東京交響楽団の首席客演指揮者もつとめるユーベル・スダーン氏との共演。2001年の同楽団定期公演のベートーベン協奏曲チクルスの一貫の中で録音されたものらしい。アファナシエフと聞けば、つい遅い極端な演奏を想像してしまう。ここに納められたベートーベンの協奏曲も例外ではなく、非常にゆったりとしたテンポで鳴らされている。ピアノに造詣の深い方の中には、どこが遅いとか、あの演奏と比べてどうだとか評することができることだろう。

聴いてみれば、確かに第3番 第2楽章など遅い! 私は今手元に比較できる盤がないので、感覚的なことしか書けないが、それでも中間部など眠ってしまうかのようなテンポである。第5番「皇帝」も例外ではない。

しかし全体を通して聴いてみるならばテンポの遅さを、それほど意外にも奇異にも感じなくなってくるから不思議だ。アファナシエフの演奏は、のべつくまなく遅いわけではなく、細かなパッセージの部分など軽やかに疾走する部分も聴かれる、むしろ緩急の綾が自在というべきなのだろうか。「皇帝」の第3楽章も、最初の出だしはつんのめりそうなテンポとして感じたが、慣れるにつれて曲が染み入るように体に馴染んでくるのだ。ヴィルトオーゾをひけらかして弾ききった演奏では、なかなかそうは感じない。

協奏曲第3番は、まだモーツアルト風の古典的な響きを残した曲に、ベートーベンらしさが萌芽しつつある曲だが、彼の演奏からは何かを予感させるような響きが説得力をもって迫ってくるように思える。第5番「皇帝」にしても、やたらと力瘤を固めたベートーベンとしてではなく、曲本来の優美さや構成力をしっかり伝えてくれているように思えるのであった。

この話題のアファナシエフであるが、今年の秋に来日してベートーベンなどを聴かせてくれることになっている。



2003年9月7日日曜日

ホロヴィッツ・カーネギーライブ


Horowitz Carnegie Hall Recital
  1. シューマン:花の曲集Op19、
  2. ピアノ・ソナタ:第3番Op14
  3. ラフマニノフ:前奏曲 Op32-5、
  4. 絵画的練習曲 Op39-5  
  5. リスト:忘れられたワルツ第1番、泉のほとりで
  6. ショパン:ワルツ Op34-2、スケルツォ第1番 Op20
  7. ドビュッシー:人形のセレナード、シューマン:トロメライ
  8. モシュコウスキ:花火、絵画的練習曲 Op39-9
  • Recording:カーネギーホール 1975

ホロヴィッツの1975年カーネギーホールのライブ録音をアンコールまで全て収録した2枚組のCDである。ホロヴィッツは超絶的名技巧と少しアクの強い演奏で、好みが分かれる演奏家だと思のだが、ここで聴くシューマンの2曲は限りなく美しく、シューマンがこんなにも素晴らしいものであったかと再認識させてくれた。

二枚目の小品集は、非常に多彩で次から次へと形の変わる万華鏡を見ているようだ。アンコールにはホロヴィッツお得意のモシュコウスキなども納められているが、ラストの音が鳴り響く前に聴衆の叫び声と拍手がかぶってきており、ライブの興奮が伝わってくるようだ。軽妙な曲も素晴らしいが、ラフマニノフの絵画的練習曲やショパンのようなパッショネートな曲での打鍵はやはり凄まじく、緩急や濃淡の表現と対比など、まさにピアノの技芸とホロヴィッツ節を堪能できた。



2003年9月4日木曜日

ケーゲル/ショスタコーヴィチ交響曲第7番















ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード

指揮:Herbert Kegel
演奏:Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig (MDR Sinfonieorchester)
録音:1972年 Kongreβhalle Leipzig Konzertmistschnitt

許光俊という評論家の影響か、ケーゲルという一般的には(そして独逸的にも世界的にも)あまり知名度の高くない指揮者が、日本の一部のファンの間では脚光を浴びている。

許氏曰く、
ついに、待望久しい超弩級の名演奏が日の目を見た。これほどまでに感情豊かに演奏された「レニングラード」は他にないだろう。(中略)こんなに身近で、人間的で、表情豊かで、楽しくて、悲しい、ロマンティックでセンチメンタルな音楽だったのだ
と。

そして、クラシックのイロハも分からないような私のような輩も、許氏とHMVに乗せられて盤を求めてしまっているというのが現実だろうか。私は定番さえ聴いたことがないというのに、ケーゲル盤について語ろうとしている。

さて、ゲルギエフ/ロッテルダム盤を聴いた後にケーゲル盤を聴くと、演奏の違いに若干驚かされる。ケーゲル盤は何と言っても、冒頭からして推進するエネルギーに満ち、それでいて軽やかで美しい。非常に素直な曲を聴いているようで、心洗われるような印象を受ける。この印象は、最後まで変わることがない。静かで強い推進力により曲はあっという間に進行するという印象だ。タコ7がちっとも長いと感じない。

全曲を通して表現の巾が広く、そして感情的だ。決してエモーショナル過ぎなエグイ演奏というわけではない。演奏解釈上は非常に正当なのではないだろうか。爆発する部分の表現も凄まじいが、弦や木管を中心とした旋律の部分の歌い方も、ときに哀しいほど明るく、そして、ずしりと重い。そこかしこに、ケーゲルの繊細さと誠実さが聴こえる音楽に仕上がっているように思える。

それは第一楽章のティンパニが鳴り始める「戦争の主題」に至る部分もそうだ。しかし、これが真の明るさなのか、表面的なものなのか。『酔っぱらいの千鳥足踊り』という許氏の表現は的確かもしれない。滑稽にして明るいだけに、カタストロフへ向うスピードと得体の知れない恐怖は、あたかも明るいお化け屋敷のようだ。許氏も指摘する13分以降のカタストロフには慄然とする。なんだろう、この凄さは。ゲルギエフ盤ではただ音量が大きいことで押しまくっていだけなのではなかろうかとさえ思える。ここにはただならぬものがある。何かが完全に崩れてしまった絶望と恐ろしいほどの悲しみがある。これは爆演という種類のものとは明かに異なった表現だ。演奏が凄いことも確かなのだが・・・。21分を過ぎるあたりからの弦による旋律も深く流れるようで心を打つ。そこかしこに、戦場に咲く花のような哀しい美しさや、瓦礫の中で聴こえる故郷のラジオのような懐かしさを覚える。なんとセンチメンタルな音楽であることか!

劇的な第一楽章と第四楽章にはさまれた、第ニ、三の両楽章も彫りの深い音楽になっている。特に第三楽章は、アダージョ楽章であるが、感情的にも複雑なものが込められているように感じる。特に私の好きなフルートソロの部分の静寂さと美しさは、どこか違う世界を夢見るかごときだ。感想が抽象的にして感傷的になるので、ここらあたりで留めるが、ケーゲルの音楽からは様々な風景や感情が沸き起こってくる。特に第三楽章のラスト2分の表現と懐の深さには目を見張る思いだ。よく聴くとケーゲルの唸り声が聞える。

第三楽章から最終楽章に向けては一気加勢だ。ゲルギエフ盤と比べるとこの楽章も4分も速い、スピード感を感じるのはそういうわけか。圧倒的なカタストロフと歓喜に向けての推進は、白馬に乗った騎士が髪をなびかせ駆け抜けるかのような颯爽ささえ感じる(<もう少しまともな表現ないのかね)。

クサイ比喩が出てしまうほどに、許氏も指摘するようにケーゲルの音楽は表情豊かだ。『ショスタコを一部のマニア向け作曲家』『やたらと暗い内向性の音楽』『石像かロボットかと思っていた音楽』というのも許氏がケーゲル盤以外に抱いている、ショスタコーヴィチの一般像であるらしいが、ケーゲル盤からは確かに違ったものを感じる。

当然、ここまで感極まった音楽のラストは素直に私は歓喜として捕らえる。そう、勝利の歓喜である。

2003年9月3日水曜日

ふたつのショスタコーヴィチ交響曲第7番

Gergiev
Rotterdam Philharmonic Orchestra

Kegel
Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig

HMV池袋店に行くと魅力的なタコ7が並んでいた。怪物的な爆演らしいスヴェトラーノフ盤や、最近出されたビシュコフ盤、そして、最近話題になったゲルギエフ盤、そして許光俊氏も絶賛するケーゲル盤などである。ここではゲルギエフとケーゲル盤を買って聴き比べてみた。

ショスタコはそれほど親しんでいる作曲家ではないのだが、両者とも凄い演奏であった。大音量で聴いていたら耳がガンガン、聴き終わってもティンパニの刻みが耳から離れず、まさに"耳にタコ"なのであった。

ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第7番


ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管&ロッテルダム・フィル 録音:2003年 Live Recording ロッテルダムのデ・ドゥーレン
ショスタコーヴィチの交響曲第7番について、どのような背景の音楽として考えるかは大きな問題かもしれない。戦争を扱った表題音楽としての見方や、スターリン、ヒットラーなどから完全に自由になって解釈することの是非もあるとは思う。しかし、音楽をいつも成立背景と結びつけて聴くことについての疑問がないわけでもない。ゲルギエフの満を持して録音した演奏が、どのようなスタンスに立つ音楽であったか。
この演奏は、ロッテルダム・フィルとキーロフの合同演奏という形で、彼の最近の公演のパターンを踏襲した演奏になっている。合同演奏から醸し出される音響は圧倒的であり、私の現在の拙い音響装置を通してもその迫力がビシビシと伝わってくる。
第一楽章の冒頭の弦ユニゾンからして力強い。明るく重層的な深い響きに、しっかりした打楽器が打ち鳴らされ音響的にも盛りあがりを見せる。最初からこれはただ事ではない演奏であると期待は高まる。
中間部から始まる「戦争の主題」、スネアドラムに導かれボレロ風に始まるところが第一の聴きどころのひとつだ。徐々に緊張が高まって行くが、長調であるために雰囲気はグロテスクに明るい。次第に音量が大きくなって、刻みも力強くなるが、レニングラード包囲をやはり表わしているのだろうか。近づく軍隊を象徴しているのだとすると、こんなに諧謔的な音楽もないものだ。最初はオモチャの兵隊と思えたものが、いつのまにか鋼鉄の大編隊に変わっている。トロンボーンが奏でる当たりになると、繰り返されるテーマは変わっていないのだが不気味さが増してくる。それにしても、この劇的な破壊性はどうだ、裏で奏でる旋律が歪みまくり悪魔的な響きを醸し出している。どこまで音量が増大するのか計り知れない。切迫感と緊張をはらみ圧倒的な迫力で押し寄せるさまは凄まじいの一語に尽きる。
大音量は第一と第四の両楽章で極端で、第四楽章の次第に高まるテンションと壮大なラストは、まさに歓喜へ向けての爆発とも言える音楽になっている。どこかマーラー的な歓喜の片鱗を感じないでもない。
大音量で奏でるだけではなく、例えば第二楽章の叙情的にして寂しげなメロディなどは、実に丁寧にかつ美しいし、第三楽章のフルートソロも哀愁に彩られた美しい旋律を聴かせてくれる。少し力を入れて吹き過ぎているようにも感じるが、逆にそこに喪われつつあるものへのパッションが感じられる。
まさにブラボー連発の演奏と言えるが、では私はこの演奏で心底感服したかというと、今ひとつの印象も拭えない。彼のまさに得意とする分野の音楽において、更に音量的には全く申し分のない演奏ではありながら、どこか鬼気迫る切実なものが感じられない。それが何なのかは分からないが、もしも作品にロシア人の持つ、悲しみや絶望や希望が込められているのだとしたら、それが少し大味になって表現されてしまったという気がしないでもない。彼特有の、獣じみた、あるいはロシアの黒く冷たい大地をイメージするような生々しさが、少し薄いように感じるということだ。ロッテルダム・フィルとの混声だからというわけではないのだろうが。
決して演奏の質は低くないと思う、ゲルギエフの力量とオケの緊張は最高レベルかもしれない。別な日に聴くとまた違った感想を持つことだろう。
石原 俊は「クラシック・ジャーナル 002」において、『私の聴くかぎり、ゲルギエフの演奏に標題音楽的なわざとらしさは微塵もない(中略)ゲルギエフは七番を、普遍的な「交響曲」として描きたかったのではなかろうか』と書いている。演奏を聴いた後に彼の解釈を読んだので、先入観があったわけではないし、逆にこの曲を聴いた後でも、彼の考えに同調できるほどに、私はこの曲に親しんではいない。よってこれ以上コメントすることもできない。

2003年8月25日月曜日

【風見鶏】柳井一隆 写真展 ~ Metal road

アサヒカメラでも紹介されていた柳井一隆氏の写真展(KODAK PHOTO SALON Gallery1)を観てきた。この写真展は高速道路の夜景を撮ったもの。


ポストカードの写真を見ても分かるように、普段見慣れていて、むしろ酷い景観の代名詞とも言える高速道路が、妖しく光彩を放ちながらも圧倒的な重量感を有して細部まで曝け出している。

夜の高速道路(深夜ではなく、まだ人が生活を営んでいる時間帯)を、長時間露光によって浮かび上がらせているが、出来あがっている写真は驚くほど美しい。これが、渋滞と排気ガスで充満している高速道路であるとは到底思えず、擬似都市の写真を見ているような気にさせられる。

細部までにピントの合った写真は、見ていて快感を呼び起こす。高速道路や橋脚、光る螺旋階段などが、かくも美しいものであったかと認識を新たにする。

しかしながら現実世界においては、このような色彩は決して現出するわけもなく、柳井氏の美意識によって構築された "Metal road" と現実のギャップに、心がざわめくような異質な軋みを感じる。美の感覚は、ものごとをちょっとした角度から眺めることで再発見できるものであるし、また柳井氏が "高速道路" という素材に拘った理由も、ある意味で同時代的であると感じ、共感を覚える。

HIYORIみどり 「柳井氏によると、この写真はネガフィルムなんですって。焼き上がりをイメージできるのなら、ポジよりもネガの方が格段に扱いやすいんですって」
KAZAみどり 「写真技術のことはよく分からないけど、思ったとおり若手の写真家だったわね」

2003年8月23日土曜日

スヴェトラーノフのシェヘラザードと法悦の詩



Nikolai Rimsky-Korsakov
 Mlada:Procession of the Nobles
 Scheherazade, Op.35
 London Symphony Orchestra
Alexander Scriabin
 Le Poeme de l'extase, Op.54
 USSR State Symphony Orchestra

Evgeny Svetlanov
Recording:
Royal Festival Hall,London, 21 February 1978
Royal Albert Hall,London, 22 August 1968


今年の夏は記録的な冷夏だとかで、夏休みも気温が上がらずに全く冴えなかった。北海道から来た身には涼しいに越したことはないのだが、都会のうだるような酷暑を心の底で期待していた私には、肩透かしな思いであったことも否定はできない。気温が上がって欲しいときに思ったような結果が得られないと、気分まで萎えてしまい、日の当たらないモヤシのような気分になっていた。

しかし、今週半ばから、思い出したかのように暑さがもどってきた。休日の今日などは軽く30度を越える暑さで息をするのも苦しいほどであった。こうなると気分は単純に盛りあがり、「ガーッ!!」とした音楽を能天気に聴いてみたくなるものである。

そういう訳で登場するのが、スヴェトラーノフの「シェヘラザード」と「法悦の詩」である。スヴェトラーノフの演奏であるから、ここは細かいことを考えないで音響の洪水に浸りたい。

「シェヘラザード」の爆演としてはゲルギエフ版が記憶に新しいが、こちらも負けずとエネルギー全開の演奏になっている。弦はうなる、シンバルははじける、打楽器は轟然とロールする、ハープは手から血が出るのではと思うような音を奏でる。それでいて音楽には破綻を来さない。もっとも少し力任せのように聴こえる部分もある。例えば、第三楽章の"The Young Prince and the Young Princess"でバイオリンが甘いメロディを奏でる部分などは、もう少し絡みつくような熱情やロマンが欲しいと感じる部分がなきにしもあらずではある。にしても演奏はLSOであり決して性能は悪くない。特に第四楽章のスネアドラムの硬質な刻みと弦の凄まじいばかりの強奏、麻薬でもやっているのではと思うようなクラリネットの節回し、血管がブチ切れそうなトランペットのタンギングなど軽い眩暈さえ覚える。クライマックスの大音量はもはや底を抜けている。冷静に聴けば結構粗いところも気付くのだろうが、全てはラストの静けさに入る前の一撃で吹っ飛んでしまう。

「法悦の詩」もゲルギエフ版があるが、私はこの曲になかなか馴染めないでいる。男女の営みを音楽的に表現したものだと言われるが、経験が浅いせいか(^^;;どうもその気になれない。スヴェトラーノフ版を聴いてみたが、もしこれが「男女の営み」だとするならばあんまりであるとは思った。音楽は相変わらずストレートに押し寄せる音の洪水を聴かせてくれているし、スヴェトラーノフファンならば垂涎の演奏とはなっていると思う。それに、クライマックスのモノ凄さときたら、もはやバーバリアンなエクスタシーに満ち溢れ、更には超新星爆発を起こし宇宙と一体になったかのような感覚さえ覚える。要するにブッ飛び演奏ということだ。たぶんこれが「行為」だとしたら全てのエネルギーを発散し尽くして死んでるな。そうは思ってみても「法悦~」に、乗りきれない自分を感じる。演奏そのものよりも、演奏終了後の聴衆の気が狂ったような絶叫と拍手に驚いてしまう。紳士然としたロンドンの人の秘めたる情熱か?

それでも、狂おしいほどの暑き夏の夜には、これ以上ない濃い音楽ではあった、嗚呼汗だくだよ。