2001年5月31日木曜日

小泉内閣支持率

小泉内閣の支持率が85%近くになったそうですね。驚異的な支持率といえましょう。

朝日新聞によると、支持はしているものの、実力より人気先行型であると考える人の割合も多く、アンケート自体、自己矛盾を露呈したような結果になっていて、無気味です。

「小泉さんは、なんだか今までと違うし、何か変えてくれそうだから支持する。でも政策とか細かいことはよく分からないや」ということでしょうか。

「細かいことを分かりやすく」伝えるのが、やっぱりマスコミの使命なんじゃないかと、このごろ思うのですよ。

専門家は小泉政権を今でも「あだ花」とか「いずれ崩壊する」とか否定的な見方をしています。国会じゃあもどかしいので、そういう専門の方々との公開討論とかが企画されても面白いとは思うのですがね。

小泉内閣も、そういう意見を撥ね付けるような理論武装が、そろそろ欲しいですね。

2001年5月30日水曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第2番




指揮:バルビローリ 演奏:ハレ管弦楽団 録音:Dec 1952 The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)
バルビローリ協会によるCDで、これは1952年の録音である。バルビローリのシベリウス・ディスコ・グラフィーが解説の後ろにあるのだが、これによると彼は交響曲第2番を四度ほど録音している(1940、52、62、66)。最後が全集として発売されているものだと思われるが、このディスコ・グラフィーを見る限りにおいては、他の交響曲で四度も録音したものはない。3、4、6番などは一度しか録音していないようで、彼の「お気に入り」だったことが伺える。
バルビローリといえばシベリウス演奏では日本で 人気のある指揮者なんだと思う。そのルーツともなるような演奏といえるか。誰かもHPで述べていたが、この演奏を聴くと、「ハレ管の演奏は非常に腰の軽い演奏である」という感想に同意することができる。録音が古いせいか音質も少々 雑であるし粗さも目立つのだが、一般的にシベリウスの演奏というものをイメージしたときの冷ややかさや怜悧さ、あるいは激情の中 にも凛とした感じを味わうことができる。
「腰が軽い」とは言っても演奏自体が軽々しいというのではなく、フットワークの軽さと言った方が良いのかもしれない。 ゆえに独特の、時に荒々しいまでの推進力を感じる部分もあるのだが、感情にまみれきった演奏ではなく清々しさが漂うという印象だ。 老齢さとか晦渋さは全くなく、若々しい演奏というように言っても良いのかもしれない。若さゆえのほとばしりはあちらこちらで聴くこともできる。聴いていて、嫌味なところがなく非常にストレートに曲が伝わってくるように思える。
そもそも、この交響曲は人気の高い曲ではあるし、続く3番以降の交響曲とは一線を画した(まだ後期のシベリウスの世界の萌芽が見られる程度)と思われがちである。形式の点では第三楽章から第四楽章を連続して構築していることから、「有機性」の現れと見る解説も多いが、むしろ私は、2楽章のありように注目してしまう。
彼の書いたこの第2楽章は幻想曲風でありしかも、そのテーマからしてもある種の暗さと死の陰を投げ掛けている。だから、終楽章のフィナーレでの圧倒的な勝利もこの曲の魅力といえるが、バーンスタインの施した解釈のような演奏があっても良いと思えるのだ。バルビローリは、迫り来る死の陰、そして、ある種の葛藤を超えた先の喜びなどを、余計な心情を付与することなく、しかもエレガンスに我々の前に提示してくれているように思える。
演奏の感想というものは、こうして書いているとつくづくと語彙の貧弱さを呪い、伝えたいことの半分も表現できないもどかしさにかられる。
ひとことで言うならば、「結構イケてる演奏じゃん」ということなのだ。HMVの廉価版CDで、もののついでに買ってみた盤ではあるが、 2番を聴いた限りにおいては、そのイキのよさと「いかにもシベリウス的な音」という意味においても、一聴の価値のある演奏ではないかと思うのだ。もっとも、バルビローリの他の演奏との比較で聴いている訳ではないので、あくまでも今の時点での感想であることは断っておく。
(*) S.SudaさんのHP(Tapiola)によると、 「バルビローリ協会の CD は、第3楽章と第4楽章の変わり目を誤って」いるとのこと。楽章演奏時間は上に示したものが正しいそうです。

2001年5月27日日曜日

ハンセン病の控訴断念と・・・

ハンセン病の控訴断念、英断でしたね。原告の方々が喜ぶ姿を見て、これだけでも小泉政権の存在価値はあったと思うのでした。

でも、ハンセン病て言っても、ピンと来ませんよね。昔は「○○病」と言っていましたし。これは現代では差別用語なのでしょうね。

ハンセン病というと松本清張の「砂の器」を思い出します。野村芳太郎監督で映画化もされていましたよね。細かいことは全て忘れたけど、涙モノの映画でした。

それにしても、本当によかったです。

2001年5月26日土曜日

今、政治に望むこと・・・

小泉首相になって以来、政治に関する話題が身近になったと思うひとは多いと思う。マスコミがタレントのような扱いで書くから興味を持つ層が増えるのか、あるいは潜在的な政治に対する興味のある層を刺激したのかは分からない。実際、私だって、ある意味で政治には絶望しかしていなかった。

昨日のニュースで田中外相は、「夢を実現できるのが政治だ」と言うようなことを力説していた。思わず目をむいてしまった。なんと言う理想論を持った、そして、語れる政治家なんだろうと。

さて、そんな期待と落胆の背中合わせの現政権から、「教育問題」が出てこないのは何故なのだろう。国を作るのは次世代の子供たちだ。「新しい教科書」問題だけが教育の問題ではないと思う。

2001年5月25日金曜日

田口ランディのコラムマガジンと山尾三省

田口ランディのコラムマガジンの最新で山尾三省さんのことが紹介されていた。

山尾さんは屋久島に住む詩人らしいのだが、私は残念ながらこのコラムで彼の名前を初めて知った。山尾さんの書いた『アニミズムという希望』(野草社)という本のあとがきで、彼が書いている一文を引用しているのだけど、妙に気にかかかる言葉があった。

現代において宗教というものが無力になったことを前提とした上で、山尾さんは

「私達というヒト科の生物が、意識の究極を自覚したいと願う生物である特徴を喪失して、ただ享楽や情報を含む物質のみの獲得で満足できる種にこの百年かけて変質してしまったのではないという事実もよくよく見ておかなければならない」

と書いているらしい。(引用の引用なんで分かりにくいと思うのだけど)

「意識の究極を自覚したい」ということ、それは、内面的な世界と人間の到達可能な意識レベルのことを指すのだろうか。ある意味それは「悟り」という宗教的極致なのか。そういう要求を喪失しつつあるとすると、一体ヒトの未来にはどのような精神世界が待ち受けるのだろう。

世界のありようやヒトのありようを、すぐれた音楽は一面では見せてくれるのではあるが・・・・


田口ランディのコラムマガジンは以下で読めます。

��RL:http://www.melma.com/mag/26/m00001926/index_bn.html

2001年5月22日火曜日

「クラシック道場入門」(玉木正之)を読む



標記の本を読んだ。帯にあるように五木寛之氏は「戦後半世紀、音楽について正しいことを正直に語った日本人が三人いる。武満徹、五十嵐一、そうてもう一人がこの本を書いた玉木正之さんだ。」という褒め様である。

「ベートーベンなんてブッ飛ばせ」に始まり、「生涯青春を謳歌した超ゴーマン男=R・シュトラウス」、「イタリアが生み出した最高級の演歌師=ヴェルディ」など、「斬新」な切り口でクラシック音楽を紹介してくれている。クラシック音楽は権威に満ちて偉いものという偏見のあることを前提に、そんなことはないのだ、大人も子供も楽しめる音楽なのだよと啓蒙してくれる。

内容は分かりやすく面白い、それこそあっという間に読んでしまえる。五木さんの言うように「斬新」とも言えるし、作曲家に親しみを感じるように書かれている。その点は非常に良い本だと思う。

オペラはほとんど聴かないので、ワーグナーやプッチーニ、ヴェルディの章は「なるほど、そうなの、そういうもんなの」と納得しながら読んだし、今連載中のシベリウスの章などは、面白い考え方だと感心したものである。モーツアルトの「軽いとか深いのか分からない=そういうことを超越している」という主張も納得のゆくものだ。このように、言っていることは正く聞こえる、演歌もロックもクラシックもジャズも垣根なんてないという筆者の熱い主張もよく分かる。実際私もクラシックばかり聴いているわけではない。

しかし、気になる点もある。「私はすべてわかっちゃったんだもんね」というような上から目線が、クラシック音痴の読者に対して受け狙いでクラシックを説いていたり、偏狭なクラシックファンを揶揄するみたいな部分だ。自分の娘(10歳)が「モーツアルトはエロい」と言って、クラシック会場に訪れていた御夫人の目を白黒させる様を喜ぶというのも、悪趣味という気もする。筆者は「クラシックは偉い、権威主義だと世間で思われている」と繰り返すが本当にそうなのだろうか?クラシック好きは変人扱いされることは認めるにしても。

文中の引用なども出典を明らかにしながら書き進めているので、非常に神経を使って書いていると思うし、数多くの文献に接しているところは、さすがに文章を書くことを生業としている人は違うと思わせる。でも「音楽の本質がオレには分かっている」という態度はやはりいただけない。

別にクラシックが嫌いじゃない人や私のように了見の狭い人は、改めて読む本じゃなかも知れない。もっとも、私はオペラは全く聴かないので「オペラ道場入門」という続編は読もうと思っているのだが。

【シベリウスの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第2番

指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:Oct 1986 DG (国内版)
この演奏を聴くと、今まで聴いてきたシベリウスと同じ音楽なのだろかと思わず耳を疑ってしまう。晩年のバーンスタインは、以前に感想を書いたチャイコフスキーの「悲愴」でもそうであったようにテンポが極端に遅い演奏があるようだ。それがあらかじめ分かっていて聴いてもなお、バーンスタインの求めた音楽の独自性にはただ驚くばかりだ。
全曲を通した印象としては、フィンランドの独立とか国家的な高揚などという一地方の問題よりも、作曲家の持つ苦悩や不安、そして、それを克服してゆきひとつの境地に達するかのような人間的なドラマを感じる。しかし、それではベートーベンやチャイコフスキーあるいはマーラーの交響曲が表現したことのシベリウス的解釈というだけなのか?という疑念が湧いこないでもない。さらに加え得るにだ、音楽は重厚、豊穣にして多弁であり、ある意味「シベリウス的」とは遠い世界だと思わせるのだ。
例えば第一楽章、遅いテンポで悠々と歌われ、弦の音色は時に優しく甘美であり、それ自体が「死」を内包しているかのような音に聴こえてしまう。
第二楽章の遅さは更に顕著であり、「死の客」との対話というよりも内面の吐露か深い懐古に聴こえてくる。光は見えず諦念の声さえ聴こえる様は、あたかも「悲愴交響曲」を思い出させる。ため息をつくようなゲネラル・パウゼには万感の思いがこもる。立ち現れる第二主題は永遠に女性的なるものの姿なのか(ちょと偏見に満ちすぎている気もするが・・)、暖かな衣に包まれるような安らぎと安堵を覚える。この楽章からは人間の矮小さを感じ壮大なる宇宙の前にひれ伏してしまうかのようだ。
第四楽章も非常に感動的な楽章で、今までのモヤモヤや悩みを乗り越え、光と歓喜に満ち溢れた世界に至り、全身で至福を受けるかの様だ。最後のコーダなど、大伽藍の中に高らかに鐘の音までが聴こえてくるような気にまでなってしまう。圧倒的とも言って良い。
「シベリウス的」とはどういうことであろうか。シベリウスという作曲家は、多弁とは逆方向を指向してゆく音楽家というイメージがある。1907年秋にシベリウスはマーラーと会う機会があり、お互いの交響曲感について話した件は有名であろう。シベリウスは「形式的な厳密さ、全ての動機の間の内的な関連を作り出す深遠な論理を好む」と言い、マーラーは「交響曲は世界(宇宙的)でなくてはならない。あらゆる要素が包摂されていなければならない」と答えたという。
このようなシベリウスの見解は第二交響曲の時点においても、彼の特質として有しているものなのではないかと思うのだ。音楽的に表現した世界が同一であったとしても、マーラーとは正反対の音楽を目指したと思われるシベリウスに対し、この演奏は逆のベクトルを持った演奏であると感じるのである。
ただなのだ、そうであっても大いなる感動を覚えるのは禁じることができない。バーンスタインが思いのたけをぶち込んだ、全力投球の演奏だと思うのである。この演奏を好むかと問われれば、私は迷わずにYESと答えるだろう。それは、とりもなおさず、晩年のバーンスタインが好きか嫌いかという試金石とも言えるほどの演奏かもしれない。この際、シベリウスの本質などは関係ないのだ、唯一あるのは、他者では得られない音楽的な感動だけである。そういう感動を得たければ、マーラーを聴けばいいじゃないかなどと無粋なことを言ってはいけない。

2001年5月20日日曜日

報道の客観性

おとといのニュースステーションで、女性アナウンサーが「国会中継がおもしろいですね」と言ったら、久米宏はあろうことか「NHKの視聴率が上がるだけで、面白くないのですがね」と言った。

ニュース報道をする場の人間だって視聴率を気にしているのことは自明であったはずなのだが、改めて口にされると驚かざるを得ない。考えてみれば、NHKだって10時にニュースを移したのは視聴率のせいだったはずだ。企業活動である以上、当然の行為とは言える。(NHKが企業なのかという問題も残るが)

でも、視聴率という制約に縛られた報道、あるいは、雑誌の売り上げに縛られた報道。そこに純粋な客観性が求められるのだろうか。

民放や週刊誌類は「分かりやすければ、面白ければよい」みたいな視聴者や読者に媚びるような風潮はないだろうか。

報道の標的となったものは、自らを守るすべはもはや残されてはいない。政治生命、企業生命、社会的生命など一瞬にして葬り去ることの出来る報道の攻撃性。それを検証できるのは、報道を評価するという考え方や、報道に対する法的、科学的客観性の証明ということではないのだろうか。その手段は、広く私たちの手に利用されやすいようになっているのだろうか。

2001年5月19日土曜日

所沢のダイオキシン判決

ねぎ農家の話題を書いたが、家に帰って夕刊(朝日)を読むと所沢のダイオキシン報道に関する訴訟の結果が新聞に報じられていた。99年のニュースステーションの報道を機として所沢の野菜がダイオキシンに汚染されているかのような印象を与え、農家に被害を与えたとする件である。原告側の主張を棄却という結果だが、これはいかに考えるべきか。

消費者としては正確な情報が欲しいことは昨日書いた。それはやたら扇情的な記事や客観性を欠いた情報を欲しているのではない。ましてや、「視聴率」とか「売上」に縛られた期間による調査ではないのである。マスコミの報道というものを、どこまで信用してよいのか。または、マスコミから発せられる情報の責任ということまで考えなくてはならない。

今回の裁判所の判決は、報道側に事実誤認と考えられるものはなかった、とするものだ。一部、不適切な表現があったことは認めているがだ。

所沢の農民には気の毒というしかない判決だが、彼らは自分たちの野菜が安全だというお墨付きや確信が得られたのだろうか。そうでないとしたら、二重の悲劇である。

私には不安が残る、実際は、どうなのかと。所沢の野菜だけではなく、市場に出回っているほかの食材も安全なのかと。あるいは、それを食べつづけるとどういう確率で、どういう結果が引き起こされるのか。そもそも、調査機関の客観性は検証されているのか。

環境ホルモンの場合は、「分からないことが多すぎる→IFで話せば、種の存続に重大な影響を及ぼすらしい→よって、避けるに越したことはない」という論理である。乱暴な言い方だが、例えば40を過ぎてもう子孫を作らないと決めた大人には環境ホルモンをいくら摂取しても、実害はないとも言える。

何度も繰り返すが、欲しいのは、情報を受ける側が適切に判断することの可能な、客観的な事実(分かっていることと分からないことまで含めて)なのである。マスコミはそのようなことをきちんと報道する責があるのではないか。

【シベリウスの交響曲を聴く】 セル指揮 クリーブランド管による交響曲第2番


指揮:ジョージ・セル 演奏:クリーブランド管弦楽団 録音:May 1970 東京文化会館大ホール SONY SRCR 2539-40 (国内版)
ジョージ・セル&クリーブランド管の1970年5月、東京文化会館大ホールでのライブ盤である。この盤については、あちこちで賞賛の感想が書かれていので目にされた方も既に聴かれた方も多いだろう。加藤幸弘さんのHPや伊東さんのAn die Musikにおいても、緻密なる感想が述べられておりもはや私が付け加えることなど何もない。伊東さんに至っては、その時点で「このCDは、今年私が聴いたCDの中のベストである」とまで述べ絶賛している。
私も聴いた印象としては、非常なる熱演であると感じた。やはりライブならではの迫力と熱気がひしひしと伝わってくるすざまじき演奏である。乗ったときのセルの情熱というものを感じることの出来る演奏なのだと思う。
セル&クリーブランド管といえば、ちょっとクラシックを知っている人ならば、正確無比な演奏や統率力というキーワードでイメージされると思う。確かに第一楽章からして軽快な歯切れの良いリズムで開始され、弦の響きにも分厚いステンレススチールにも似た鈍い光沢と冷ややかさを感じる。これがクリーブランドの特質かと思わせるには十分な音色である。しかし、冷たさは音楽に微塵もない。音楽の作り方も恣意的ではなく、簡潔と清潔感に満ちており、また構成美を感じさせる。それは全楽章を通じて感じるもので、たとえば第2楽章の幻想曲風の楽章さえも、非常にきっちりと主題や副主題を感じ取ることができ、音楽を見通しよく聴くものに伝えているように思えるのだ。それはセルの指揮とともに、それに十全に答えることの出来るオケの技量の賜物なのだろうか。
叙情性とか情緒という面では、先に聴いてきたベルグルンドやデイヴィスよりも更にドライな印象を受ける。というか、この曲に求めがちなウェットさが排されているといっても良い。無駄な贅肉を感じさせない演奏で、あたかも端正にピンと張られたピアノ線のように筋が通っており、さらに演奏に緊張感をもたらせているようだ。
先にも書いたように、そして、加藤さんや伊東さんも指摘しているように決して冷たい演奏ではない。それに、クリーブランドの「透明にして冷ややかな音」とは言っても、シベリウス=フィンランドというキーワードでイメージするような冷ややかさとは違い、何かドイツ的な肉質感(あたかもブラームスやベートーベンを奏するような)を伴っているようにも聴こえるのだ。・・・ここらへん、ちょっと意味不明
それらが相まって、硬質な音の塊と金管群が咆哮するクライマックスに至るドラマは、並々ならぬエネルギーとなって聴くものを圧倒する。セルの曲に対する感情の移入度という点では、抑たもの感じるが、それは「浪花節」的な感情の抑えであり、彼が決して一本調子に演奏しているのではないことは、聴くほどに良く分かる。セルは、自在にオケをコントロールして曲を際立たせることにも成功しているのだ。それゆえにというのだろうか、変な先入観(歴史的背景や作曲時の背景)などを拭い去るような形で、音楽自体が目の前に、圧倒的な力感をもって立ち上がってくるというような演奏である。
この曲に込められたベートーベン的なもの、ベルリオーズ的なもの、チャイコフスキー的なもの、そしてブルックナー的なものまで引き出してしまった名演といえるのではなかろうか。

2001年5月18日金曜日

ねぎ農家のハナシ

ねぎ農家が中国とかの安い野菜に押されて参っているので、輸入品に関税をかけるとか数週間前に報道されていましたよね。
 
消費者が「安いねぎ」を買えなくなる=自分たちに不利益を被る ことを怒るのか、日本の農業を守ること=自国の生産性と一部の農民たちの生活の保護 を求めるのか、どちらの採択すべきなのだろう?

自国を保護するために関税をかけるのは当然とも思うのだけど、農業自体をどうしようというのか? 安全性を含めて、我々が何を食べて生きてゆくつもりなのか、そこが見えてこない。

環境ホルモンや発ガン性を含む化学物質などを含め、選択するのは消費者である。少ない確率にびくびくして高い食材を買うのも、関係ないとして安い食材を買うのも、それは消費者の判断に委ねられるべきだ。生産者や政府が選択すべき問題ではないし、ましてや、その選択の機会や選択に当たっての情報さえないというのは、議論以前の状態だと思う。

朝日新聞も「この葱が腐るだけ・・・」なんて報道してないで、もっと突っ込んで欲しい。
 
もっとも、選択の余地が増えるということは、おそらく「買える者と買えない者」という分化が進むことを前提としているような気もして、少々ひっかからないでもない。

2001年5月17日木曜日

クリエイティブ・ディストラクション

クリエイティブ・ディストラクションとは創造的破壊ということだ。小泉総理が今、自民党と日本に対して仕掛けようとしているのは、まさにこういうことなのだと、昨日の答弁で理解した。

このキーワードは、企業におけるリストラクチャリングにおいても使われる言葉であるらしい。「リストラ=人減らし」ではないものの、改革を行って一時的に「食っていけなくなる人」が出ることに変りはない。

企業であれば、それでも理屈は通るのかもしれない。しかし、日本においてはそうはいかないのである。既得権益に踏み込み、ある種の仕事を中止した場合、その人たちは何を主として生きてゆくのか?

2001年5月16日水曜日

国会中継や報道のバカさ加減

ここ数日、報道も野党も田中外相の「ドタキャン」や「具体策無き改革」を集中的に攻撃しているが、ちょっと待っていただきたいという気持ちがある。

我々は、田中外相がなにやら外交上の予定を取り止めたことは知っている。しかし、その交渉の内容や、予定していた出席者、実際に出席したメンバー、そして何よりもその外交予定が何を目的としており、結果どういうことを確認し合ったかについての具体的な内容について知ることが少ない。実際は報道されているのかもしれないが、「真紀子タタキ」に比べて比重が小さいのではないか?

あるいは、「具体策なき改革」というが、首相になってから具体策を検討する時間が今のような状況であるのだろうか。我々はむしろ、国会での無益な答弁よりも、1ヶ月程度で改革にいたるためのアクションプランと具体的な達成目標、またそれを実現するためのメンバーなどを提示してもらうことを期待したいのだ。

だって、会社経営にしても小グループの活動にしても、まずプランありきじゃないの?何ヵ年計画とかさあ、中長期の計画と短期計画が明確に示されるべきじゃないの? どこの公共事業をけずるとかは、具体的施策であってそれ以前の部分じゃないのかと思うのだよ。

その実現可能な計画の項目として、何を絞るのか(重点目標てやつだよね)という議論ならばすべきだと思うけど。具体的じゃないのは野党の民主党だってマスコミだって同様だよ。「経済対策」と「構造改革」て、じゃあ何をするの(してほしいの)?

マスコミからは、知りたい情報が全然伝わってこない、野党は追及して欲しいことを全然追及してくれていない。あんたら、バカじゃないの?といいたくなってくるのだが・・・

まあ、政治音痴にしてノンポリ、俄か政治談義を吹っかける輩に言う資格があるとも思えないのではありますがね・・・・


2001年5月15日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第2番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
オーケストラの音色はオーボエの音で決まるという人がいる。その人は、有名どころのオケであればオーボエの音だけでどこのオケであるのか言い当てられるという。さて、このヨーロッパ室内管の音も、出だしのオーボエの音が非常に特徴的といえるかもしれない。端的に言ってしまえば、ある種の明るさと軽妙さが感じられるのだ。また演奏の歯切れがよく、そして音がきらめいているようだ。全体にフットワークも軽く、さらさらと流れるように音楽が動いてゆくのを感じることができる。この演奏に初めて接したときハッとする何かを冒頭から感じさせてくれることは特筆に価すると思う。
軽妙と書いたが「軽い演奏」ではない。むしろ全く逆であり、終楽章を聴き終わったあとには、ため息しか漏らすことができなかった。音楽が心の深いところから満ちてきあふれてしまうのを留めることができないのである。いやはや凄い演奏だと全面的に降参である。
音のきらめきは第一楽章の出だしからして顕著である。第一主題が奏でられた後の弦セクションの透明にして艶やかな響きや、その裏での木管の複雑な伴奏など、陶然とさせられてしまう。それにピチカートの響きの繊細なこと。第一主題と第二主題が混じり合う部分においてさえ、見通しのよさがあり、それに引き続く複雑な音形からの盛り上がりも非常に正確に聴こえる。中間部、ファゴットにより第二主題が再現すると雰囲気が一変するが、あたかも回りの空気の色さえ変えてしまうかのようだ。
ここまで聴いてきて、流れるような演奏の中から、見事な音の牙城が築き上げられてゆく様を感じることができる。先のデイヴィス盤と比較してしまうと、むしろデイヴィスの方が情景描写的と思えてくる。この演奏からは、大いなる風景を前にしたような感動というよりも、内から満ち足りてきて大いなる情動と、その後に祝福と光を受けたかのような深い満足感を覚えるのである。
第二楽章のピチカートは一楽章とは雰囲気を一転させ、内面に深く降りてゆくステップのように思える。その深く降りていった先に(あるいは深い洞窟をもぐっていった先に)見えるのは、オーボエのほの暗いテーマである。それは光なのだろうかあるいは陰なのだろうか。見知らぬ場所で、ふと死の陰をまとった老人に出会ったかのようである。
この楽章は、聴けば聴くほどに幻想的であり、まるでひとつの交響詩のようにさえ感じられる。賢者のようなものから啓示を受けてひれ伏すような場面(トランペット)や、慰めのテーマなど(トランペットとフルート)。ラストの木管のトリルは確かに哄笑か悪魔的な響きにさえ聴こえるではないか。しかも、この楽章を聴くと、テーマの裏の伴奏て木管などが非常に複雑な動きをしていることにも気づかされる。オーケストレーションに独特の深みを与えているようだ。
第三楽章はさらにオーケストラは色彩豊かになってゆく。何度か挿入されるゲネラル・パウゼをはさんで、緊張と弛緩を繰り返しながら、わしづかみにされるようにしてひとつの頂点(第四楽章)に連れて行かれるさまは圧巻である。四楽章の第一主題は、山の頂から大地を望むような壮大さとも雄大さとも呼べるような感興を呼び起こす。何かひとつ抜け出たという印象を与えるところが、この交響曲の標題性を喚起させるのかもしれない。
第二主題が再現される後半で、三拍子の裏でティンパニが鳴らされる部分がある。哀愁を帯びたテーマが綿々と奏される部分だが、この部位、デイビスはティンパニを十分に響かせ効果的に感情を高めているのだが、ベルグルンドはむしろティンパニを目立たせない演奏をしている。感情を抑えた演奏のように感じたのだが、しかし、どうしたことなのだろう、コーダに至ったときに、いつの間にか臨界点に達していたかのように大いなる感動を覚え、打ちのめされてしまっている自分に気づくのだ。
ところでラストの圧倒的な高揚感は、いったい何に対する勝利だったのだろう。こうして聴いてみると、Johansenさんが自分のHPで述べられているように(曲の解説を参照)、民族的な勝利とは別の要素を感じずにはいられないのだ。1楽章の叙情性や明るい世界と、2楽章のひたすら内面世界に沈み込むような世界、このふたつの曲のありようを考えると、3楽章から4楽章への移行を単純に民族的高揚には結び付けにくいという印象を受ける。シベリウス自身の非常に内面的な葛藤と克服(Johansenさんは宗教的エネルギーとまで言う)という見方の方が、的を得ていると思うのである。我々はシベリウス鑑賞に当たって、あまりにも「フィンランディア」に拘泥されすぎてはいまいかと自省するのであった。
CD評とも曲の解説とも付かないような駄文を、またしても書いてしまったが、まあ、シベリウス的ということの解釈はさておき、つまりは最初に書いたように、もはやため息か涙しか漏らすことができない演奏であると言いたいだけなのである。どこがどうとか、うまく説明はできない、しかし、なんだか「格が違う」と思ってしまうのであった。え?これも「先入観」だって? そうかも知れないけれどね。ま、いいじゃない。

2001年5月14日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第2番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
��番の感想で、デイヴィス盤を冴えない印象を受けたように書いてしまったが、2番を聴いた今となっては、全くもって撤回せねばならないと思わせる演奏だ。先入観などを極力排してこの曲と演奏に耳を澄ませると、シベリウスの表現しようとしていた音楽世界が眼前に立ち上がってくるのを感じることができるのだ。弦セクションや打楽器セクション、そして金管群のバランスも音も良く、またダイナミックレンジも広いため、十分にこの曲を楽しむことのできる演奏であると思う。
シベリウスの2番というのは彼の作品の中でも、フィンランディアやヴァイオリン協奏曲などと並んで人気のある曲だろう。実際、親しみやすくなじみやすいという印象を受けるし、終楽章で大きな感興を得ることも出来る。
この曲が「極めてシベリウス的」であるかどうかは、よく考えなくてはならない。確かに、4楽章の音楽からフィンランドの愛国的心情を感じ取ることもできるし、暗い部分(抵抗)から勝利のフィナーレというテーマでも聴くこともできる。しかし、シベリウス自身が我々が期待するような政治的標題性を否定しているがゆえに、本来は純粋に音楽的に観賞すべきなのかもしれない。デイヴィス/ボストン響の演奏で、この曲の世界に入ってみよう。
第一楽は冒頭の序奏から意味ありげなのだが、弦のユニゾンに適度の重厚感があり曲に対する期待が高まる。さわやかにして輝くような一日の朝の始まりを感じるようで、この交響曲で非常に好きな部分である。ここだけ聴いてもシベリウス的と思うのだが、それは、弦楽器と木管楽器の合わさったメロディに特徴的なせいなのだろうか。木管で奏される第一主題は鳥のさえずりのようでもあるし、雄大な第二主題は広々とした景観を前にしたときのような思いさえ受け、頬に風の匂いさえ感じるようだ。聴きようによっては第一楽章は情景描写的であり、移ろいゆく時間と風景を楽しむことができる。この部分だけ聴いていても、デイヴィス/ボストン響の演奏は明確であり、音楽が伝える世界をストレートに聴くものに伝えてくれているように感じる。
第二楽章は、一転して暗いファゴットによる第一主題で始まる。このテーマは弦のピチカートに乗って、ホルンの音色に彩られながら進行してゆくが、迫りくる不安を象徴するかのようであり性急さとともに盛り上がる。峻厳なる渓谷かなにかに突き落とされたかのような印象を受け得るが、一転した第二主題には救われる思いがする。この主題には懐の深さや、深い慈悲のようなものを感じる。続いて奏でられるトランペットとフルートの掛け合いは聴き所である。あたかも、崇高なるものとの深き対話を聞くようで、自ずと頭が下がる。しかし、感想を書いていて思うのだが、激しさとともに彼の曲には「峻厳さ」とも言うべキーワードがあるように思える。ここが彼のオーケストレーションの特徴なのだろうか。蛇足だが、この楽章を聴くと、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を思い出すのは私だけか。
第三楽章はスケルツォである。非常に早い弦の動きが、聴くものをどこかに連れ去らずには行かないようなエネルギーを感じるが、一転してオーボエの牧歌的とも言えるテーマが始まると過ぎ去った昔を思い出すかのような気にさせてくれる。幸せな時代の、干草と陽だまりの匂いがするような、そんな懐かしさだが、シベリウスはこの感傷は長引かせない。繰り返しはあるものの、冒頭のスケルツォの速い動きによりかき消され、留まることを許してはくれない。
緊張は徐々に高まり、そしてなんとも表現のしようのないような移行により感動の第四楽章へと突入する。この部分は何度聴いても素晴らしい。つれてゆかれた先の世界が何と希望と光に満ち溢れた世界であることか。弦の第一主題は平和を獲得した喜びの声のようにも聴こえるし、トランペットの勇壮なる応答は、勝利の雄たけびのようにも聴こえる。
木管による第二主題はいろいろに変形されて繰り返し奏されるが、なんとも切ないメロディである。このメロディを聴くだけで泣けてくるのだが、それは、非常に多くの感情がこの旋律に込められているからなのかもしれない。世間的なシベリウスのイメージにらぶらせるならば、圧迫への抵抗や哀しみ、そして限りなき平和を願う声などと言うことも可能だろうが、若干の抵抗を感じずにはいられない。この曲が発表されたときに、指揮者カヤヌスなどが愛国的な心情の代弁と受け止めたのもむべなるかなとは思うのだが、デイヴィスの演奏では、それが普遍的な感情にまで高められているようにも思える。惜しいかなフィナーレでは金管群が少し崩壊している部分もあるが、これだけの高まりと感動を与えてくれる演奏である、大きな問題ではない。

2001年5月13日日曜日

なんだかこのごろ、全然練習していない

なんだかこのごろ、全然練習していない。ヘインズが泣いてしまうよと思いつつ、アンデルセンを取り出す。うー、指が動かない! 音の跳躍も喉が鳴るばかりで全然音にならない! もうっ、止めたくなる。て、練習していなければうまくなるはずもないんだよね。

気を取り直して、ヘンデルのソナタ1の5あたりを吹いてみる。これからレッスンで見てもらおうとしている曲だし。フンフン、ニ楽章はほとんどタファネル&ゴーベールの世界だな、とは思うものの、ああ、こんな簡単な音階もまともに吹けない(;_;)

どんどん、下手になる自分を呪い、暗澹たる気分で曲をさらうのって、趣味のフルートなのに全然楽しくないぞ! ああ・・・時間といつでも音を出しても文句のこない部屋が欲しいなあ・・・

ハナシは変るが、広島の知人から「春に新しく家を建てました。オープンバルコニーとオーディオルームのある部屋です。小さな夢を叶えました。」と葉書にある。「ああ、そうですか。オーディオルームですか、そりゃよござんしたね。これで心置きなく、マーラーでもショスタコでもかけられますな。趣味のコーラスも練習できて何よりですね!」と、なんだか八つ当たりに近い感情を覚えてしまう、心の狭いワタシなのでした・・・

鬱々としてしまうのは、今年のフルートフェスティバルも出られないせいもあるんだよね。ああ、1年に一度の市民会館・・・。フルートオケが好きかどうかはさておき、演奏する方は結構楽しいんだよな。

え? こんなもの書いていないで、練習しろって? そうですね。でも、こんなところ読んでいる人がいると思えないし、いいんじゃあない・・・


2001年5月12日土曜日

田中外相のドタキャン

田中外相のドタキャン続きの理由は何か。

政治家には、アカウンタビリティの責がある。ある行動が批判の対象となるならば、国民が納得する形で説明しなくてはならない。そういう立場にいると思う。その上で、行動や言動に対する批判が成立する。

政治というものを動的なものに変えるという流れの中で、今回の件は決して小さな問題ではないと思うのだが。

2001年5月11日金曜日

9日の衆議員代表質問

TVニュースで何気なく見ていましたが、代表質問の小泉首相の答弁は独特でしたね。ああいう場で、与党側の肉声に近い言葉を聞くのは新鮮なものです。
「改革という言葉は41回も使っているが、何ら具体的な内容が示されなかった」と鳩山民主党代表は批判しているが、まだ内閣始まったばかり、もう少し様子を見たい。
ただ、与野党の対立構図や政策論争まで考えると、従来の政党や派閥の枠組みがゆるやかに溶け出しているのを感じずにはいられない。自民党や連立内部が一枚板ではないのは自明だが、民主党も鳩山氏と菅氏の間の溝が浮き彫りにされてくるかも知れない。
政治に疎い私でさえ、なんとなく感じるのだから、もっと政治にセンシティブな層はどのように今の動きを捉えているのだろう。
「期待先行内閣」とは言われる。しかしだ、政治家たちを含め、我々は何を今期待しているのだろうかと疑問になる。「ただ変ればよい」というものでもない。既得権益に踏み込むことは「天に向かって唾を吐く」のと同義であるかもしれない。だって、私だってあなただって、既得権益の恩恵のどこかには関わっているのではないだろうか。
目指すべき政治・経済そして社会の姿はどこにあるのか、改革の結果の着地点はどこなのか? 例えば全てがうまくいったときの理想の社会とはどんな社会なのか。私には見えないなあ・・

2001年5月8日火曜日

「映画音楽のよう」という比喩

ときどきクラシック音楽の評を読んでいて「映画音楽のよう」という言葉を目にする。例えば、ある人はR・シュトラウスの交響詩を称して、あるいは、ある人はマーラーのアダージョ楽章を称して、そのように言う。 

「映画音楽的」というのはどういうことだろうか。情景描写的ということなのか、ロマンチックや抒情に傾きすぎたということなのか。こういう言葉を使う時は暗に「きれいだが内容が空疎」という意味をこめていることもあると思う。そういう意味からは一段見下した、揶揄的に使われる言葉であると思う。 

実際わたしも、デイヴィス指揮 ボストン響のシベリウス第一番交響曲の4楽章第二主題を聴いて、そのような感想をもらしてしまった。もっとも、彼の演奏を空疎だなどと言うつもりは毛頭ない。あたかも「映画音楽を聴いているかのように美しい」というほどの意味合いで使ったが、誤解の多い表現であるかもしれない。 

しかし、ここではたと疑問を感じてしまうのだ。音楽の「内容」とか「精神性」とかいうことは良く論じられるが、一体それは何なのかと。「深み」と表現する人もいるかもしれない。いわく、「バッハやベートーベンの曲には、深みと確たる精神性に裏付けられた高い芸術性がある。反して・・・」
 
上記の論述には正しさとともにある種の欺瞞性やスノビズムを感じてしまう。考えてみれば「映画音楽のよう」だっていいじゃないかと思う。そんな偏狭な見解を何時までも振りかざしているからクラシック音楽は皆から見放されるのじゃないか、とも思うのだ。

もっとも、「楽しければ何でもアリ」みたいな風潮も、行き過ぎるといかがなものかとも思うのだが・・・・

芸術という言葉自体が、現代においては死後と化してしまったことに、この種の議論の行き詰まりも感じるのだが、これはまた別問題だろう。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ヨーロッパ室内管による交響曲第1番



指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 録音:Oct 1997 FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。

2001年5月7日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第1番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版) 
コリン・デイヴィス&ボストン響のシベリウスといえば、それなりの名盤なのではないかと思う。名曲名盤300選とかでも上位に挙げられる演奏であろう。今回の特集を行うに当たり、当初はデイヴィス盤をベースにしようとも思っていたのだが、やはり「正統派」のベルグルンドとの比較がなくてはと思い、まずは、彼の旧盤を聴きそして、デイヴィスを聴いてみたのだが、何たる違いか!と驚いてしまった。同じ曲を演奏しているとは到底思えないほどの差異があるのだ。
デイヴィス盤とて、先に書いたように名盤である。しかし聴く前に先入観や偏見が入ってしまうのだろうか? ベルグルンドから聴こえた涼しげにして冷ややかな空気は、デイヴィス盤からは感じないのだ。また、ベルグルンド&ボーンマス響盤よりも、ロマンティシズムに傾いていた演奏のように感じられる。
例えば、アッチェレランドの掛け方や、逆に旋律を劇的に盛り上げるためのリタルダンドのかけかた、はたまた強弱の付け方も大きく、それ故オーケストラは壮大にして華麗になっている。美しい旋律はあくまでも美しく、甘い旋律はひたすら甘い。ソロの部分は協奏曲のように処理されているように感じるし、オーケストラの個々の音も非常に明確である。そういう意味からは、非常に説得力をもった演奏と言えるのかもしれない。
しかしなのだ、全体を通してシベリウス的な匂いがないのだ。ベルグルンドが表現していたフィンランドの息吹、息遣いが聴こえない。例えば第1楽章にしても、ベルグルンドではものの数分も経たぬうちに、これがシベリウスの記念碑的な第一交響曲であることを否がおうにも感じさせてくれた。あまりにもシベリウス的な匂いと賛歌に充満しているのだが、デイヴィスはそのように処理していない。あれほどの感動を与えた第一楽章が、核を失ってバラバラな音楽に聴こえてしまう。
あるいは、第2楽章の弦のテーマの裏にフルートが繊細な伴奏をつけている部分。ベルグルンドが表現した風のような、そして思わずゾクリとするような感触が、この演奏からは聴こえないどころか、非常に野暮ったい処理にさえ感じる。
第4楽章の中間部のメロディなどは、ゆっくりと悠々とオケを歌わせているのだが、ふと気付くと「映画音楽のよう」に聴こえてしまうではないか! これは一体どうしたことなのか。
デイヴィスはロンドン響を従えた演奏をサントリーで聴いたことがある。そのときは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番であった。非常に満足を覚えてホールを後にしたことを覚えているが、この盤の演奏からはシベリウスのエキスが抜けてしまっているように思えてならない。特集を続けてゆくことで、二人のシベリウスへのアプローチの違いが如実に見えてくるのだろうか?ベルグルンドにあって、デイヴィスにないものは、もしかしたら「情念」なのかもしれない。
最後に、付け加えておくが、決してこの演奏が「ダメ」とか言っているのではない。何を表現しようとしているかの違いなのではないか、と思うのだ。デイヴィスの「何か」は、今はまだ見えない。

2001年5月6日日曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ベルグルンド指揮 ボーンマス響による交響曲第1番


指揮:パーヴォ・ベルグルンド 演奏:ボーンマス交響楽団 録音:Sep 1974 EMI TOCE-19004 (国内版)
曲について
シベリウスのこの第1番交響曲は1899年、彼が34歳のときの作品である。
この曲を聴くと分かるが、既にシベリウス独特のサウンドが充満しており、非常に立派な交響曲に仕上がっていることに改めて気付きそして驚かされた。
彼のオーケストレーションは、激しく燃え上がる部分であっても、どこか冷ややかであり、青白き炎がたぎるという印象を受ける。彼のこの1番交響曲は、その成立過程からしても、解説にもあるように「フィンランド的情緒」とか「民族としての共感を代弁する」などの要素を汲み取ることはできるかもしれない。しかし、そのような歴史的な背景を考えずにこの曲に接したとしても、内から鼓舞されるかのような印象を受け、力が漲ってくるのを禁じることができない。
そういう意味からすると、第一楽章が一番力強く、そしてエネルギーに満ち、そしてなおかつシベリウスらしいと言える。曲の構成と分かりやすさと共感のしやすさという点でも、第一楽章が一番かもしれない。メロディラインも美しくそして、ハープが独特の色彩を与えている。力強さだけではなく、何か物悲しさと不安感の間を揺れ動くような微妙な感情も聴くことができる。しかし、総体的に支配しているのは、やはり誇りともいうべき堂々とした雰囲気であろうか。
第二楽章は緩徐楽章であるが、冒頭の弦と木管のメロディはゆったりとして、ロマンチックな気分にさせてくれる。途中に入るトライアングルやフルートのトリルも美しく効果的である。しかし、この甘さをシベリウスは余り引きずることをしない。不安げな木管のメロディに乗って到達するのは、やはり揺れ動く感情であるようだ。4分半から始まるチェロのテーマとその裏で奏でる風のようなフルートの伴奏の部分は、ものすごくシベリウス独特の色彩であり、ここを聴くだけで背筋に電流が走るような感情を覚える。そして、この楽章のラストは高揚感のある力強き感情の高まりである。激しいテーマの奏し方やその後の静かな歌い方は、チャイコフスキーの影響を感じる部分である。
スケルツォの第三楽章は、この盤の解説によると「トリオはフィンランド的田園の調べ」とある。確かに田園風景を感じさせる部位もないわけではないが、楽章の印象は性急にして非常にゴツゴツとしたものであり経過句的な印象を与える。
第四楽章は「Quasi una fantasia = 幻想曲のように」と記されているように、自由な形式をとっている。第一楽章のクラリネットの暗い主題がここでは弦で再現されるが、前楽章の性急さは受け継がれある方向性を持って動いてゆくように感じる。3分半ころから始まる、弦による第二主題は何かの唄だろうか、ハープの響きも加えられ、この曲の聴き所の一つと言えるかもしれない。この旋律にかぶさるように始まるトランペットの響きの扱いなど、本当にシベリウス独自の世界だと思う。激しさと性急さと、そしてメランコリックな雰囲気をごちゃ混ぜにしたような印象で、「幻想曲のよう」と言われれば納得はするのだが、気まぐれな印象を受けないわけではない。最後に向けてひとつのところに求心してゆくようなエネルギーには少し欠けているようにも思える。もっとも、9分に再現される第二主題は、以前よりも確信を持っており決然とした感情さえ漂わせている。二つの感情の間を揺れ動いていたシベリウス自身が、ある結論をみたようであり、ラストは今までにないほどの明確な意思をもって曲を終えるのかと思いきや(!)、弦のピチカートによるで(第一楽章と同じように)締めくくられる。私はここに、不安を残したまま煮え切らない印象を受けて少々当惑する。
このような感情の揺らぎや自身と不安の表出は、シベリウス自身の境遇や、当時のフィンランドの情勢を映しているものであることは予想がつくのだが、いまの段階ではあまり詳しく調べていないのでここに書ける事はない。また、シベリウスの交響曲はチャイコフスキーの影響を色濃く受けていると良く評されるようだが、私が聴く限りにおいては、二つの交響曲は目指すテーマにおいても別物であると感じざるを得ない。
確かに形式だけ考えれば、第一楽章冒頭のクラリネットのテーマが第四楽章において弦楽器で復活するなどの手法も、チャイコフスキー的と言われれば、なるほどとは思う。また、民族的なものを鼓舞するような部分も見られはするが、一番の違いは、チャイコフスキーのような「激情の赴くままの吐露」というものは、彼の曲からは感じない。むしろ不安さとナイーブさの点ではシューマンに近い感情を感じるのだ。
この演奏について
シベリウスといえばベルグルンドというくらいに有名なのだが、この盤は彼の3つの全集のうち、一番古い録音で、ボーンマス響とのものである。
弦の音色の重心が低く、そして打楽器も決然として力強い。そのため、ちょっと粗削りな印象は受けるものの、シベリウス独特の冷ややかさと劇的さがうまく表現されているのではなかろうか。緩徐楽章なども甘くメランコリックになりすぎず、節度をもった奏し方であると思う。
この段階では、ベルグルンドの最新盤を聴いていないので、彼の解釈がどこを指向しているのかを明確に言うことはできないのだが・・・・

2001年5月5日土曜日

【シベリウスを聴く】

(2001年HP開設時に企画した音盤視聴記)

シベリウスの交響曲といえば2番が有名である。しかし、傑作の誉れが高いのは4番、7番あたりではなかろうか。彼の交響曲には独特の雰囲気と色彩があると思う。順番に聴いてゆくことで見えてくる世界があるだろうか。また我々がイメージする「シベリウス的」というのはどういう演奏なのだろうか。

全集はベルグルンド&ヨーロッパ室内管弦楽団と、コリン・デイヴィス&ボストン交響楽団のものを用意。それ以外にも聴き比べの盤を数枚足しながら、連載を始めてみたい。



(以下リンク切れ。本ブログ内検索結果はこちら



交響曲

交響曲第1番

交響曲第2番

交響曲第3番

交響曲第4番

交響曲第5番

交響曲第6番

交響曲第7番

生演奏と再生された演奏

生演奏と再生装置を通した演奏の決定的な違いについて考える。このふたつの違いは、音楽を聴くときの環境もさることながら、音楽に向かう集中度が圧倒的に違うのではないかと思う(この場合、オペラなどの視覚的要素が重要なファクターを締めるものは対象としていない)。

自宅の再生装置の前で音楽を聴くには、あまりにも眼や肌を通して伝わる雑音が多すぎるのだ。再生装置の前で音楽を聴く時、リスナーはライナーを読んだり解説書や楽譜を追ったり、はたまた見るとはなしに外の景色やら室内のものをぼんやり見ていることが多いと思う。音楽とは無関係な情報が否が応でも流入してきて集中力を阻害してしまう。

眼をつぶればよいという気もするが、人は音楽を聴くときであっても何らかの情報を眼から得ているという気がしてならない。音楽は聴覚、視覚、触覚(皮膚感覚)を通して伝わる情報なのだと思う。 名演も映像が伴うと、格段に感動が増してくることは、DVDなどを持たない方でも、NHKの過去の名演フィルムを見て感じることではないだろうか。

演奏会場は、ともすると眠くなってしまうことも否めないが、音楽に集中するには格好の場であると思う。自らの体調と音楽への集中度が高まったとき、それは演奏家の熱気などとは無関係に音楽は人の心に深く染み渡るのではないかと思う。


2001年5月3日木曜日

小泉総裁の理想と青臭さ

ついでにだが、小泉総裁の言はどことなく「青臭さ」が漂っていると指摘されることがある。それは永田町に似合わない風貌ばかりではなく、どこか豹然とした雰囲気を感じるのだ。

かつての細川元総理の「麻呂然」とした雰囲気とは異なると思う。

さて、「青臭さ」というが、理念とか理想は青臭さから始めないと駄目なのだと思う。その青さを「地に根付いた緑」にするための理論武装と実行計画が重要なのは当たり前だが、理念、理想がなくて、何のプランだろうか。

憲法と武装

今日は憲法記念日。ふと思ったが、憲法改正論が白熱しないのも、ゆるやかな国粋主義者の発言がいまだにあるのも、いわゆる島国の「平和ボケ」日本を象徴していることなのかもしれない。

昨日「戦場には行きたく、行かせたくない」と書いたが、「民族解放のための闘争と、血と犠牲を乗り越えて勝ち得た権利と憲法」という歴史を持った国においては、どのような「憲法」が制定されているのだろうか、とふと考えを及ばさざるを得ない。

朝日新聞17面「私の視点」での土井香苗(弁護士)の視点と、「憲法9条の役割は国際的にも終えてはいない」という論点に、私は賛同の意を覚えるのである。

鈴木光司:シーズ・ザ デイ



かの「らせん」や「ループ」で有名な鈴木光司の新作である。3年ぶりの長編らしい。  
題名のシーズ・ザ デイ(Seize The Day) のSeizeとは「つかむ、把握する」などの意味である。「綱をくくりつける」といった意味もあるらしい。名前からして意味深だが、ここでは、ヨットと海を舞台にした運命のいたずらともいえるべき、感動のドラマが展開されている。

小説としては非常に面白く、独特の力強さに満ちている。最初の数ページを読むだけで、「これは、なみなみならぬ覚悟で書かれた小説なのだろう。鈴木光司は、おそらく大きな感動を与える場として海を舞台にした小説を書いたのだろう」と予感させるものであった。

しかし、どうも私は彼の想定したプロットに乗り切ることが出来なかった。海洋を舞台にした小説を読むのが初めてで、例えばではあるが、山岳を舞台とした小説よりも臨場感を得る準備が自分にできていなかったということも理由にはあるかもしれない。山岳にしても海洋にしても、自分の実体験としてあるわけではないのだが、考えてみれば海洋を舞台にした小説というのを余り読んだことがないのだ。

いやいや、そんなことは、あくまでも背景の問題であり、乗り切れなさは他にある。主人公の船越を始め、彼をとりまく岡崎や裕子、昔の恋人の月子やその娘の陽子など、十分に魅力的な人物が登場するのだが、彼らに感情移入が出来ない点が一番の問題だ。なぜか?

船越というのは、小説では妻子に逃げられ、家も売り払い、ヨットで生活を始めるという、一般的な価値判断からはアウトローと思われるような主人公として登場する。生まれた時に既に父親が蒸発するような形で姿を消しているなど、幸せな人物とは書かれていない。しかも、16年前に太平洋をヨットで横断中に遭難事故を起こしてしまい、その挫折感からいまだに立ち直れないでいる人物である。

この小説のテーマを非常に乱暴な言い方をしまえば、ダメ人間としての岡崎が、過去の挫折の日や自分の過去に遡る行為を通して、「運命」的な意味を発見し、かつ新たな生きる価値とエネルギーを得るという、「謎解き」と「再生」の物語である(て400頁を超える小説を言い切るなよて思うが)。

でも、なんだか全てが、ご都合主義的に見えてきてしまうのだ。人物の登場の仕方も、「運命的」とも「因縁的」ともl「因果応酬」とでも言うべきものも含めて。「何だよこれは、まるでループか」と毒づいてしまう。ラストに何が待ち受けているものも、本の半ばでわかってしまう。だって、そういう風に書かれているんだから。

それに、何と言っても、主人公の船越が、既に十分にうらやましい存在なのだ。定職とはいえなくても自分の好きな道(海に関係する仕事)につき、いざとなれば会社を辞めてでもどこかに旅立てるという自由さを獲得している。妻子や社会的しがらみみたいな束縛からは既に解放された存在だ。だからといって孤独ではなく、彼を理解する知人に恵まれている。

残念ながら、彼が大いなる挫折の人生を歩んでいたとしても、心の狭い私には、彼に共感することが出来ないのだ。翻って考えてみると、かくも自分が心の奥底では「束縛されている」と感じていることなのかと、複雑な思いさえ抱いてしまうのだ。

彼と自分の一番の違いは、「自由」への可能性なのだと思う。または、彼が最後に掴み取った、ひとりで人生を力強く生き抜いてゆくことのできるエネルギーなのかもしれない。小説の中で彼の理解者である岡崎が「人生こんなもんだ、なんて思わないほうがいい」と言う場面がある。人生の可能性を狭めているのは他ならぬ自分なのかもしれないのだが。
もっとも、小説を読んで感じることは人それぞれである。物語としては非常に良く出来ているし、小説を読む面白さは満ちているし、ある種のエネルギーを得ることもできる。そういう意味からは読んで損はないと思う。でも、読んだら分かる。人生のエネルギーを得るには、本なんか読んでいるだけじゃあだめだと。「バタン!」と大きな音を立てて、自らメインセールを張り、進み始めなくては駄目なのだと。だから、心にしこりが残るのだ。

(追記)
5月15日の朝日新聞に、鈴木光司が「シーズ・ザ デイ」について語っていた。この物語は「父性」の物語なのだという。「父が子供に何を伝えてゆくのか」といったことがテーマなのだと。

え?「父と子」だって? あまりにも意表をつかれたテーマじゃないかと思った。 

だって、突然振って沸いたような「娘」を戸惑いの中で受け入れ、航海を通しお互いの過去を話してゆくことで理解しあうようになることはあっても、親の子に対する愛情みたいなものとか、理解しあうところなんて全然感じなかったのだ。それが、鈴木の言う、従来の父性とは違うということなのか。

主人公 船越は娘 陽子にヨットに関する技術を短期間で教え込み、厳しい状況にも敢えて立ち向かわせ、人生を航海してゆくエネルギーを与えている。娘は期待を見事に答え、帆を張って自ら進み始めるのだが、でも、それが「父と子」の新たな関係性なの?それがこの小説の隠れたテーマの「父性のありかた」なの?

そういう風には「全く」読めなかったのである。最後まで私には船越と陽子が父子であるという実感を得ることができなかったし、それに陽子という主体が訴えかけてこなかった。更に、どうしてそんな簡単に航海技術を習得してしまうのか?彼女は天才なの、船越はヨット教授の天才なの、それともヨットてそんなに簡単なの?て、だからご都合主義て書いてしまったのだ。 

陽子は船越なんて現れなくても強く生きていったと思うのだよ。腑抜けで生きていたのは船越おまえじゃないか。それが「父が子に何を伝えるか」だって! 冗談じゃあない。(あ、思わず怒ってしまった)

やっぱり乗れないなあ、この小説には・・・・・。あ、繰り返すけれど、面白い海洋冒険小説ではあるんだよ。決してつまらない本じゃないのです。

もっとも、だから小学生のときから国語は嫌いなんだよ。「この小説のテーマは何でしょう」「作者の本当に言いたかったことは何でしょう」ていう設問は、大抵はずしていたもんな。

ディーリアスの「春はじめてのかっこうを聴いて」


北海道もいよいよ春らしくなってきて、一気に草花が芽吹きはじめ、鳥たちの鳴き声も大きくなってきたかのように感じられる。
先月のようにまだ、寒さの残るうちは「ハルサイ」などの爆演を聴いて心を奮い立たせるのも良いが、暖かさとうららかさを増してきたならば、ディーリアスを聴きたい気分になってくる。
この曲からは、ほんとうにカッコウの鳴く、のどかな春をイメージすることができ、なおかつ、あたかもイギリスの風景画家ターナーの描く水彩画のような夢幻の雰囲気を漂わせており、安らぎの境地へといざなってくれる。7分ちょっとの曲だが、目を閉じて曲に聴き入るとイギリスの田園美の中に入り込んだかのようである。
上に示した盤はトマス・ビーチャム指揮の演奏だが、もう一つ家にあるバルビローリ/ハレ管のものよりも情感豊かに感じる。

2001年5月2日水曜日

小泉政権と憲法改正

明日は憲法記念日である。小泉新総裁になってから、政局の話題に事欠かないが、彼が「タカ派」であるというのは、いかがなのかと思っている。石原慎太郎が「タカ派」と言うのは分かるが、小泉総裁の自衛隊と憲法改正に関する考えは根深いものとは思えない。

 憲法改正と自衛隊の位置付けというのは、非常に深いテーマで私など手に余るのだが、ひとつだけいえることはある。

 「徴兵されて兵役義務を負うのはイヤであるし、次の世代にもさせたくない」ということだ。

 ある年齢になると兵役義務がある国や、貧困層を士官学校などに組み入れている国もないわけではなかろう。

 自衛のための軍隊というのも分からないではない。しかし、結局、軍隊というのは相手を殺傷することを前提としている。理屈などとこにあろうか。国際社会の役割だの周辺事態への対応なども、理屈はわかるが、あなたは自分が戦場に行くことを良しとするか?と問いたい。

 我々や次の世代が目指べきは、甘いと言われても別の理想形なのだと思う。

武満 徹の音楽て…?

マーラーに限らず、演奏会場で聴くのとCDなどで聴くのとでは、受ける感動とか印象が全然違う曲というものがある。オペラだってそうなんだろうが、現代音楽というものも、演奏会場で聴かない限り真価が分からないのではないかと思うことがある。

例えば、先月に書いた武満 徹である。彼の音楽は、静謐さとか沈黙とか、音楽とは相反する要素を含んだ深淵なる曲が多いような気がする。自宅で聴くには、氷のような透明な音楽が、猥雑さに溶け出し、現代音楽という部分のいやらしさしか残らなくなってしまう気がするのだ。

武満の音楽を、家人の寝静まった夜にヘッドフォンを通して聴いてみると、真暗な中から、豊穣なる世界が静かに立ち上がってくるのを味わうことができる。日常性の中に彼の音楽を投げ出し聴くことができないと思うのである。しかし、こういう鋭敏なる音楽というのは「癒し」という側面よりも、極度の緊張をリスナーに要求するものだと感じるのだ。