「ハンニバル」はサイコ・スリラーの草分けたる名作「羊たちの沈黙」の続編、人喰いレクターを主人公とした物語、というだけで話題性十分の作品であろう。4月7日からは映画も公開され、その筋(^^)では話題沸騰なのではないだろうか。したがって、この感想ではストーリー展開やラストについて詳しく言及はしないつもりだ。とは言っても、この小説をこれから読もうと思われている方は、私のくだらない感想など読まないで、さっさと文庫本の頁を繰るか映画館に足を運ぶことを勧めたい。
トマス・ハリスが本書の主人公たるハンニバル・レクターに与えたキャラクターは驚きに値する。連続殺人犯にてカニバリスト、精神医学者にしてルネサンスの高名な学者にも比肩する教養、自らもチェンバロを奏するほど音楽教育の高さ、文系の高い素養ばかりではなく、高等物理学の「ひも理論」を数式展開できる知性、そして本格的な貴族趣味ともいえるスタイルなどなど…。まさに比類なき天才と呼んでも良いかもしれない。
レクターのキャラクターは「レッド・ドラゴン」で登場し、「羊たちの沈黙」で展開されたものだ。私にとってレクターは、「羊たちの沈黙」で強烈な印象を与えたことは確かだ。高い知能を有した精神科医かつ殺人者という役割は理解しても、彼がクラリスや殺人犯のプロファイルを行うという設定に乗ることができなかった。
殺人の後「ゴールドベルク変奏曲」を聴く、などのエピソードも「異常者による快楽殺人」という世間が飛びついてしまったテーマ以上の要素を感じなかったことも確かだ。もっとも映画の印象が強すぎて、小説の印象など今となっては吹き飛んでしまっているのだが。
今回の小説は、ハンニバル・レクターという人物そのもを書いたものと言えるものである。クラリス・スターリングさえここにおいては、ひとつのトリガーでしかない。「羊たちの沈黙」では、クラリスの過去が非常に重要な要素として書かれていたが、「ハンニバル」では、彼の嗜好や知性、生い立までもが細かく描写されている。その筋道における猟奇性に関する印象は薄い。
読み方によっては、「レクターとクラリスの幼児期からのトラウマと葛藤と解決の物語」とも読めるし、または「レクターとクラリスの異常なる愛の物語」という読み方も出来るかもしれない。私には、このような定型的にして陳腐なテーマよりも、ハンニバル・レクターというキャラクターと、この小説を操るトマス・ハリスの視点そのものが一番興味深かった。ラストのありようでさえ、(かなり、びっくりはしたが)それほど衝撃的な結末ではない。
緻密にそして詳細にハンニバルその人が書かれることで、あるテーマが浮かび上がってくるように思える。それは、「聖」と「俗」、あるいは「正」と「悪」、はたまた「神」と「悪魔」など、混沌として雑多な刺激に満ちた現代においては、境界があいまいになってしまった二律背反する概念である。トマス・ハリスはその概念を、一昔前ならば「勧善懲悪」的に処理したのだろうが、混沌とした概念として提示している。
人間の考えうる最大の悪といえば、殺人であろう。しかし、歴史が証明するまでもなく、殺人さえ戦場や凶悪犯罪現場においては絶対悪ではない。現に、FBI特別捜査官のクラリスは冒頭から5人の凶悪犯を射殺し、世間の注目を一身に浴びている存在だ。もっとも、それは賛辞を浴びる形ではなく、悲劇的なゴシップを好む大衆や、彼女を貶めようとするFBIの上官などの私利を絡めた、陰湿なる悪と対比されながら書かれるのだが。
このように、「悪」の境界がぼやけている現代において、醜悪にして生理的な不快感さえも与える「絶対悪の典型」として、タブーとされるカニバリズムが提示されているのではないか。しかも、生存するための人喰いではなく「快楽としての人喰い」という、最も恐ろしい形で。
一方で、人間の考えうる最も偉大なる知性のひとつである、音楽芸術や文学、高等物理学などが登場する。それが同一人物に存在するという矛盾を敢えて提示しているのだ。そう、全て併せ持つのが、主人公ハンニバル・レクターだ。小説中でも書かれているように、もはや「人間」ではなく「怪物」といっても良いかもしれない。
もっとも、最初からこれらのことが全て明確に分かっているのではない。玉葱の皮を一枚一枚剥くように、小説を通して、次第に彼の実像が明らかになってゆく。それは読んでいて畏敬の念とともに静かな恐怖さえ覚える。
彼のほかにも色々な悪が登場する。イタリアの身の毛もよだつような誘拐魔やスナフムービーを撮る映画監督などは(悪がストレートなだけ)かわいい(?)方で、自分の保身のためには手段を選ばない警察やFBIの高官たち、復讐に燃える異形の金満家などには全く同情の余地がないような描写のされ方をしている。そういう「悪」の中で、ハンニバルの冒す悪の意味は何なのだろうかと考えさせられてしまう。
俯瞰して眺めると、いろいろな人間の愚かなる行為を通して、そこに歴史観をまで含めた人間界の愚かな様が見て取れる。まるでヒエロニスム・ボスの絵を見るかのごとくだ。そこに「神」の視座はない、「神」は何もなさないのだ。
クラリス・スターリングがハンニバルの救済(それは死かもしれないのだが)に大きな影響を思すであろうことは予想していたことだ。しかし、作者の提示した結末はあまりにも意外であった。そこに言及するのは止めるが、私自身ここまで読んできて納得のいかない思いでページを閉じた。
トマス・ハリスが憎み、殺し去ったのは誰で誰が生き残ったのか、それを考えると彼の視線がおぼろげながら見えてくる気もするが、今は断定することができない。
トマス・ハリスのこの小説は、ハリス自身の視点が随所に挿入されている。これをうざったいと思う読者もいるかも知れないが、私はには非常に面白かった。示唆に富む批判は、鋭利な刃物で読むものをを貫くかのようだ。印象的なものとして、フィレンツェの「残忍な拷問器具」を見る観客の姿を描写した部分がある。私はこの部分を読んだとき、人間の業の深さを思い知るとともに、逆にこの小説を読みつづけようとしている読者そのものを、紙面の裏側から赤く光る目で眺めている、トマス・ハリス自身の目を感じたものである。
あるいは、「世俗的な名誉など屑も同然と悟ったとき、人はいかに振舞えばいいのか?」
ということが示す問いは重い。また、最後の晩餐の前にハンニバルの言う言葉、「晩餐は概して味覚と嗅覚に訴えるものだが、この二つは人間にとって最も古く、精神の中核にも近い感覚だ。この味覚と嗅覚は、精神の中でも<憐憫>の上位に立つ場所におさまっている…」
。この部分が他の何よりも私には恐ろしかった。その後に展開する惨劇を予測したためではなく、その事実自体に戦慄したのだ。
単なる「サイコ・スリラー」というものの枠をはみ出す、非常に示唆にとんだ小説であると思う所以である。
(追記)
以上は、結構真面目な読み方をした感想である。しかし、より直感的に考えるならば、この小説では「甘美とも言える恐怖」「人間のエゴとしての恐怖」など、色々な形での恐怖のありようが書かれており、また、「恐怖」が「快楽」と「エロス」にさえなってしまうような、危険な匂いに満ち溢れ
ている。我々はこの小説を、トマス・ハリスがどんな「残酷な」ことを書くのかを頬を紅潮させながら読み進めることとなるのだ。
背中から肺臓を剥き出しにされ、さながら天使を模して殺されたという描写にしても、それが実際に過去にあったということに、小説以上の事実に慄然としながらも、頭の中ではその死体の様子を思い浮かべ、脊髄に静かな痙攣を覚えるのを楽しんでまう自分に気付かされるのだ。
最後の章の「長いスプーン」という題からして意味深であり、読む前から大きな期待と不安にかられながらそのシーンにたどり着くのだ。高貴な残忍さというものを許容するのか嫌悪するのか。