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2001年4月2日月曜日

トマス・ハリス:レッド・ドラゴン

ハンニバル・レクターという類まれなるキャラクターが初めて登場した小説である。おなじみのクロフォードやグレアムといったFBIの捜査官が主人公である。

小説ではすでにレクターは人喰いの連続殺人犯として重度の警備体制が敷かれた牢獄に捕らえられているものの、精神学界などに貴重な論文などを提示しつづける高い知性の持ち主という設定が与えられている。また、グレアムが捜査上のアドバイスをレクター博士にもらい、レクターが何度か意味深いレターをしたためるというのも、この頃から彼に与えられた性格であったようだ。レターは藤色の便箋に書かれ、趣味のよさの片鱗も表している。


とは言ってもこの小説はレクターの小説ではない。ダラハイドという人喰い連続殺人犯とそれを捕まえよとするグレアムの壮絶なる物語である。レクターが果たす役割は、さかれたページにしてもごくごくわずかである。また、この小説では「ハンニバル」のように作者がページの中から顔を出すこともない。従って「ハンニバル」の小説の雰囲気や、レクターのルーツを求めてこの小説を読むならば、期待はずれを感じることだろう。


「レッド・ドラゴン」というタイトルが示す、自らを「赤き竜」と名乗る殺人犯ダラハイドの描写は非常に不気味である。しかし、幼児期の悲惨な過去がトラウマとなり分裂気味の性格が連続殺人を犯したとするような、まあ今となっては定型的(といってしまうと語弊があるが)な犯人像が、読者に安心感を与えていることも否めない。つまり荒唐無稽なメチャメチャなキャラクターではないわけだ。ここらあたりは、ベストセラーとなった「FBI心理分析官(1994)」などが世に出され(それとて「羊たちの沈黙」のメーキングを示す形で出版されたと記憶しているが)、「快楽殺人犯」の過去を暗黙のうちに了解しているからかもしれないのだが。

この小説が書かれたのは1981年、サイコ・ホラーなどという言葉はまだない時代だったかもしれない。そういう状況にあっては、この小説の不気味さや異彩は格別であったろうと思う。

ラストに向けては、作者の中で悪の中に救いを求めようとする姿があるような気持ちも汲み取ることができる。悪を救うのが、どういう形であれ「愛」であるという結論を持ってくるところは(ハッピーエンドは決して得られていないが)、このような怪物を生む原因も「愛」の欠如であるという点から導いていることからも、妥当であると思う。考えてみれば、「ハンニバル」でレクター博士を救ったのもやはり「愛」だ。

もっとも、このような「絶対的な悪」「悪魔的」な人物像と言うものを憎む気持ちよりも、冷徹に「善」と「悪」をどこか違う境地からトマス・ハリスは眺めているような気がしてならない。また、「悪」は必ず「愛」の前では無力であるみたいな、楽観的な見方についても疑問符を投げかけているようにも思える。


最後にふと思うのだが、はからずも「ハンニバル」での一説が脳裏に蘇るのだ。



「猥褻で俗悪なものに絶えずさらされた結果、大方の人間の神経が鈍麻してしまった現在、われわれの目にいまなお邪悪に写るものを確認しておくのは、無益なことではない。われわれの柔弱な意識のじめついた贅肉を激しく打って、いまも強い関心を書きたてえるものは何か?」 



そう、われわれは既に「レッド・ドラゴン」の凄惨さには慣れてしまっているのだ!!

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