最初の「梟」は、森に行って梟に憑かれた弟を山伏の加持で治療するのですが・・・というお話。
ふたつめの「蝉」は、山鴉や山蜘蛛にに殺さ喰われた蝉の霊が出てきて、恨み悔しさ苦しさを信濃国善光寺詣でにきた僧に訴え、最後は・・・というお話。
どちらも、終わりかたが唐突で、ちょっと身も蓋もないといいますか、落ちがないといいますか、凄すぎるオチといいますか、ブラックでシュールで、現代風な予想と解決が得られない筋立てで、大変に楽しめました。
「梟」の解説に
現代的に見れば、この梟はなにか強い伝染病でしょうか
とあるのも、今時期ブラックすぎる解釈です。蝙蝠でないだけマシでしょうか。梟に憑かれた様の演技にも抱腹絶倒です。
「蝉」は、能の形式に準拠した「能狂言」といわれるもので、笛、太鼓に囃子方なども参加します。演目解説に
終曲の詞章からは、殺生の罪ゆえに地獄に堕ちた「善知鳥」や「阿漕」を思わせる印象を持ちます。しかし、能が悲劇的な切実さを持つのに対し、本作品では蝉の死を大げさに扱うことによって深刻さを軽妙な笑に置き換えてしまいます。
とあります。
能のパロディであるとの評もTwitterで見ました。あまり能狂言に親しみのない私には、これでも十分に悲劇的なものであり、軽妙に扱うがゆえに、逆に蝉にまで霊の存在を感じ取り、諸行無常を思わせる日本的感性に凄みを感じました。まあしかし、最後の解決は、たしかに笑うしかないです、そう来るかよと。
演目としては、笑いを取る「梟」と、日本人の死生観や生の憐れみを、能仕立てで楽しませ、最後に落とす「蝉」の対比で前半を終えます。
後半の「鮎」は、野村萬斎さんの演出、出演(小吉)によるものです。都で出世することに憧れる小吉に対し、田舎で貧しいながらも豊かな生活を送る才助が嗜めるものの・・・というお話。
新作狂言だけあって、動きも大きく台詞も展開も分かりやすい。そして何よりも面白かったですね。この演目は2017年12月に国立能楽堂で初演されたもの。萬斎さんは当時のインタビューで以下のように語っています。
狂言を人間賛歌の劇として面白おかしく見せることも重要ですが、父からは“まず美しい狂言であれ”と言われました。そこは肝に命じていますね。人がわざわざ足を運んで見るものは、美しい芸術でなければいけません。面白いものをやるけれど、そこに美しさを出すことで作品に嫌みや臭みがなくなる。それが、江戸前なんだと思います。
新作狂言「鮎」の魅力を知る。野村萬斎さんスペシャルインタビュー!
現代風の味付けが付いているとはいえ、そこは狂言です。新作歌舞伎なども思わせるような逸脱をギリギリのところで踏みとどまりながら、狂言という枠組みで楽しませてくれる演目でした。
これのラストも円満な解決というよりは、結論を見る人に放り投げるようなところがあり、これも狂言の味なのでしょうかね。
さて、コロナ禍、緊急事態宣言も再び延長されるかもという中での公演。関係者の方々のご苦労に感謝いたします。
ちなみに今日はスーパームーンの皆既月食だったのですが、雲が厚く見ることは叶いませんでした。
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