クラシック音楽界で今年に入ってから黒田恭一さんなど鬼籍に入られた方は多い。その中で、黒田氏の訃報には反応しない私ですが、『カラヤンがクラシックを殺した』宮下誠氏(國學院大學教授)の突然のそれには驚かされました。5月22日か23日に、出張先のホテルで心不全で亡くなったとのこと。春先に入退院されていましたから、そのことと関係があるのでしょうか。詳しい情報は分かりません。1961年生まれですから、私と同い年なんです。
氏のブログは死の直前、5月15日「不在の代償」が最後になってしまいました。リンクしたページもいずれネット上からは消えてしまうかもしれません。
氏の提示した考え方には、クラシックファン以外の方々も反論を申し立てました。かなり激しいやり取りがネット上でかわされたようです。特に2チャンネルのそれは、凄まじかったと氏はブログで書いていました。私はそのような「熱い」議論に興味はありません。それでも、氏が提示した「音楽とは何であるのか」というテーマが投げかける社会に対する問題提起は、私にとっては小さくはないものであっただけに、氏の訃報を残念に思います。
『カラヤンがクラシックを殺した』の激しいやり取りの後、氏が2月16日にブログで書いたコメントを引用しておきます。
(上記書に関しての2チャンネルでの論戦、そして筆者の不明による謝罪などを説明した後に)しかし、そのような措置には、膠着状態が長く続き、文化の貫流が淀み、腐臭さえをも発している今日を生きる筆者の、絶望に裏打ちされた怨嗟と、明日への希望に対する渇望があった。何よりも、「目に見えないもの」に対する敬意のあまりの軽視への灼熱する怒りがあった。これだけは誤読されてはならないと思う。傲慢だが、これについてだけは大多数の同著に否定的な読者は間違っていると思う。
今日の文化、芸術、社会状況を肯定的に是認しうるだろうか?
(中略)
衆愚は良質の文化を、己の間尺に合わせて切り刻み凡俗へと凋落させる、恐ろしい力だ。権力だ。
こういう認識を現代社会で持っている方は、生き難いと思います。氏の前提である現代社会の「悪意」「世界苦」そしてそれゆえの「絶望」が理解できないと、氏の主張は「ハア~?」てなもんでしょう。真摯に哲学的なんです。
氏が指摘したかったことの一部は、『アレグロ・オルディナリオ~マーラーを中心としたクラシック音楽のことなど』というブログの「『カラヤンがクラシックを殺した』を創造的に読むために。(前編)」が、サブカルチャーと自我という点にまで敷衍し、非常に端的にまとめてくださっています。
氏の『逸脱する絵画』『迷走する音楽』も買っておかないと、絶版になっちゃうかもだな・・・。