2006年8月31日木曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ21番「ワルトシュタイン」・17番「テンペスト」/ファジル・サイ

ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

それにしてもファジル・サイのベートーベンはモンク無しにカッコいい。走り抜ける軽快さ、抜群の運動性能と若き熱情、そして儚いまでの美しさと快活さ。生きていることの潔さも苦しさもひっくるめて、しかし深刻ぶらず深淵にはまらず表現しきる。激しい表現をしていながらも重くベタ付くことはない。スピードが哀しさを誘うというのは、ちょっとモーツァルト的。また彼のピアノを聴くことから、ある種スポーツに似たカタルシスを得ることができます。

《ワルトシュタイン》は第一楽章の刻むリズムがベートーベン的反復で印象的な曲。弾けた乱痴気騒ぎや悪戯、物思いや憂鬱など、光と影の対比を私は感じます。この曲は第二楽章から第三楽章に移る部分が私はとても好きです、何度聴いてもいいなあと。完全にひとつ上に突き抜けた感情が、控えめながらも高らかに、そして限りなく美しく表現されているかのよう。いつしかファジル・サイと一緒になって鼻唄さえ歌ってしまう、しかしそれでも、最後の雄たけびは、やっぱり余計か。

《テンペスト》は、シェイクスピアの戯曲など知らなくても名曲だと改めて思います。この頃のベートーベンは悪化する耳の病気と危機的な精神状態にあったのだとか。第一楽章は暗くも勢いのある曲想、悲劇へと向かう走駆を思わせますが、サイのピアノはどん底の悲劇を描きはしません。ピアニシモの表現にいとおしむかのような美しさを聴くことができます。有名な終楽章も悲劇性と軽やかさを両立させながら、哀しみを美しさにくるんで提示します。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、強奏部の激しさとともに、弱奏部の余韻も美しい。思った以上に繊細な表現が聴かれるだけに、何度も繰り返し聴くとサイの唸り声が耳障りになってきます。

2006年8月28日月曜日

坂東氏の件


昨日の坂東氏の真意について見解が深まったわけではありません。ただ、ネットを見ると予想以上の非難糾弾のアラシ。坂東氏の掲示板は完全に「荒らされた」後の残滓がブスブスしてる状態で、もとの議論は欠片も見当たりません。


もはやネットに議論はなく、感情的なパッシングのみが溢れかえる。坂東氏の猫殺しの論理については私もちょっと極端だなと疑問を感じはしますが、それでも、ネットに上の過激な意見ほどには吐き気を催しません(「坂東、死ね!」とか「生きる価値なし!」とか)。そこに隠れる真実と欺瞞の差はどこにあるのか。坂東氏は図らずも、自らの暗部を晒す以上に日本の暗部を抉り出してしまったのでしょうか。


ひとつだけ予想するとすると、タヒチにおいて子猫を捨てる(殺す)ことは、そんなに異常な行為ではないのかもしれません。近代以前の日本で農村の「間引き」が公然と行われていたこととと同様に。近代になることで人権、平等などの思想により常識は変わりましたが、それによって隠蔽されたものもあるのだということ。


生んでから殺すか、生む前に殺すか(いや、生ませないか)


どうも気にかかる話題。ちょっと調べると、あちこちで随分話題となり、小池環境相までがコメントしているらしいです。内容は18日の日経新聞(夕刊)の今はタヒチに住む坂東眞砂子氏のコラム。


坂東氏は日本の土着的なホラーを書かせたらピカイチでしたし、「道祖土家の猿嫁」においては民衆レベルでの近代日本のチカラみたいなものを書ききった傑作であると思っています。「山妣」においても、人間の業深さや、強烈なエロティシズムを発散しており、彼女の作品群からは前近代的な死と隣り合わせの生の享受みたいなものを感じ取ったものです。(どちらもBook Offにこの間売ってしまったので、正確なことは覚えていない)


そんな彼女がタヒチに住むと決断したのも、現代の日本が彼女には住みにくく、彼女なりの生き方が反映された結果であると理解していました。


で、猫殺しの話題です。すなわち「避妊手術を施すよりも成猫には妊娠出産という生の本能的な喜びを享受させてやりたい。生まれてきた子猫は育てられないから殺す」ということ。


全くもって今の日本の常識においては異質な考え方であり、批判することは簡単す。当然、多くの人たちが糾弾しています。私もあんまりであるとは思う反面、あれほどの作品を書く人が、批判されることも、自己矛盾の論理と言われることも踏まえて、あえてコラムを書いたその真意がどこにあるのか、考えざるを得ません。


今の私には安易に批判の矛先を彼女の論理に向けることができません。何かとてつもなく大きなテーマを提示しているような気がしています。未熟なため、その実態と本質が私にはまだ掴めません。


2006年8月7日月曜日

エスクァイア 9月号~発見、クラシック音楽


「エスクァイア 日本版 9月号」が「発見、クラシック音楽」と題して、かなり本格的な特集をしていることをいくつかのブログで知りました。書店で立ち読みしようと思ったのですが、これが本当に、かなり詳細にしてマニアックな記事であるため、思わず購入してしまいました。

雑誌の詳細な紹介は他のブログに譲るとして、私が本記事を読んで感じたこと。時代はおそらく新たなクラシック・ファンを求めているのではないか、ということ。


記事の特集が「ロシア・ピアニズム」「古楽」「「オペラ~グラインドボーン・オペラ・フェスティバル」という組み合わせ。今年流行の「モーツァルト」は敢えて言及を避け、夏オペラのワーグナーは一顧だにせずというスタンスはなかなか見事です。

オマケCDの最初の曲、《バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲からアレグロ》が流れた瞬間に、私は「やられた!」と思ったものです。だって、理屈ぬきにカッコいいんですもの。おそらくはクラシックに馴染みのない人も、スピーカーから音が出た瞬間にハッとし、思わず作曲家を確かめて、もういちど愕然とするに違いありません。この軽快な曲の後がシャルパンティエだなんて何て素敵な。

「エスクァイア」は男性雑誌のハズですが、これは極めて女性的な選曲と企画。というか、このごろは男性も随分と女性化しましたから、いわゆるジェンダー・フリーな感覚なんでしょう。

クラシックは快活にしてカッコよく、どこか教養的、貴方をワン・ランク上に仕立ててくれます。先鋭化された感覚の表現や究極のヒーリングを志向することもできますし、ロマンティシズムや貴族的豪華さや退廃さえも体現しています。オペラに限らずクラシックにエロティシズムを感じてしまったら、おそらくはどんな娯楽も適いますまい。眉間にシワを寄せて眼をつむり手を振りながら聴くなんて野暮ヤボ。

雑誌の編集後記に「えんぴつで奥の細道」というベストセラーを取り上げて、下記のような対話がありました。

●歳とってくると、古典とか読んでないとっていう焦りみたいなものがある。源氏物語ちょっとしか読んだことないな、とかね。暇ができればできるほどそう思う。これなら、読まなきゃいけないと思っていたものが読めて、字も上手になるし、人生も豊かになるし。

●それって結局、暇だってこと?

自分が歳を取るほどに暇になってきたという実感は全くありません。しかし日本人総体で考えると膨大な「消費しなくてはならない時間」だけは増大してきているのだろうなと。その隙間にクラシック音楽もある位置を与えられるのではなかろうかという予感だけが。

2006年8月6日日曜日

シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ラトル

  1. 第1楽章:アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ(16.48)
  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート(16.26)
  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.13)
  4. 第4楽章:フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.15)
  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
  • TOCE-55790

AmazonやHMVのカスタマーズ・レビュなどを読むと真っ二つに感想は割れています。かつての巨匠の名演を知っている人にとっては、冒涜に近い演奏と感じている人もいるようです。しかし私はこれはこれで面白く聴くことができました。

そもそも「グレイト」って、そんなに退屈な曲でしょうか。確かに執拗なまでのフレーズの反復、いつ終わるとも知れない音楽は冗長という印象を与えます。それゆえに、他の作曲家の交響曲などに比して深みにも欠けるという評価も受けているようです。何が「天国的な長さ」かはさておいても、そういう点を全てひっくるめてがこの曲の魅力だと思っています。

おそらく若い世代の感覚には、ラトルのようなアプローチの方がこの曲には好ましいのかもしれません。演奏スタイルを含めて退屈することなく、そしてクール(カッコイイ)と感じることでしょう。ラトルがこの曲に対して何を意図しようがベルリンpo.の演奏技術は圧巻ですし。

私のiPodにはジュリーニ指揮 バイエルン放送響の「グレイト」が入れてあって愛聴しています。ジュリーニの演奏と比べると、ラトルの演奏は全く別物ではありますが、これはこれでひとつの斬新な解釈だろうなと許容します。このような演奏も好ましいと思いますから、私も場合によってはラトルの演奏を聴きたくなります。それはビールを飲むときに、エビスやギネスもいいけれど、スーパー・ドライも飲みたいときがあるよね、といった感じでしょうか。

それであったとしても、例えばジュリーニの演奏を聴いた後に感じる、音楽を聴き通した後の至福と内側からこみ上げてくるような感情の波をラトルの演奏から感じることはありません。


ただ音楽にそれが必須な要素なのかと問われれば、私は敢えて否と答えます。いつもいつも大きな感動で襲って欲しくないという気持ちもあります。同じ曲を演奏しながらも(聴きながらも)、求めているものも、結果も全く違うのだと思うだけです。

2006年8月5日土曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/リヒテル

GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURY

SVIATOSLAV RICHTERⅡ
    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ 第12番 変イ長調 作品26
  2. ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31の2《テンペスト》
  3. ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57《熱情》
  4. アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO57
  5. ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 WoO 6
  6. ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
  7. ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
  8. ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
  • 456 949-2

ファジル・サイの《熱情》を聴いて、ふと他の演奏も聴きたくなって、手元にあったリヒテルの演奏を聴いてみました。

ここに納められている演奏は1960年11月、ニューヨークのスタジオ録音のものです。もはや評価の定まった演奏であろうとは思うものの、改めて聴いてみれば圧巻の一言。確信に満ちた響きと圧倒的な凄みには返す言葉がありません。

それにしてもリヒテルのピアノを響きの深さといったら! 余韻の持つ美しさ、決して粗野にならない強靭さ。音に込められた意味が、音楽でしか表現できない感情が、ここには詰まっています。

ファジル・サイの演奏では経過句に過ぎなかった第2楽章が、かくも優しく染み入るような深さで表現されてしまっては完敗です。中盤の早いパッセージ部では思い出と哀しみの華が散り乱れるかのようで痺れてしまいます。

第3楽章であっても、あくまでも微妙な起伏と激しさを高度にコントロールしながら、早い中にも響きを込めます。

圧倒的名演というものは、何度も聴いていられるものではありません。救いなく渦巻きながら疾駆する絶望と哀しみ、プレストでの自虐と諧謔の後の凄まじさ。嗚呼・・・もはや論評不能。

2006年8月4日金曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/ファジル・サイ




    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

ファジル・サイが「熱情」を弾くとどうなるか。いくつかのCDレビュ読み予想はしていたものの、この演奏はそれをはるかに上回る、凄い。いや正統なピアニストやベートーベン好きからは否定される演奏であるかも知れません。しかし、私は激烈にこの演奏を好み、何度も何度も繰り返し聴いています。

ファジル・サイはうなり声さえ上げながら、第1楽章から猛然としたスピードで突き進みます。第2楽章に入ってもテンションは少しも緩むことはありません。

そこかしこに聴こえるサイのうなり声。ピアニストのうなり声が録音されている演奏は少なくはありません。あのポリーニの「熱情」しかりです。しかしファジル・サイのそれはもはや猛獣の咆哮。内部のあふれるばかりの感情が抑えきれずに爆発し、溢れ、奔流する。勢いにまかせてはいますが、テクニックは抜群でピアノの粒も際立ち、ただでさえ起伏の大きい曲の振幅は激しく上下します。

恐ろしいまでの勢いで突入する第3楽章、その速いこと。もはやベートーベンの深みや狂おしいばかりの感情は、轟然とした疾走の中に置き去られます。「華麗なる絶望の曲」。ベートーベンは歓喜を込めたはずではないのに、あまりに壮烈。疾走する絶望。

速すぎて楽譜を逸脱しているとか、コーダで加速できていないという批判もありましょうが、リズムの変化は実際の加速以上に刺激的。鍵盤を駆け回り叩きつける指先の強烈さ。

かように極めて現代的な表現、今の世にして成立する演奏。スポーティーな感覚に身を委ね聴き終わった後には達成感とスッキリ感さえ覚えます。これもベートーベンか。