私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
丸の内パークビルのグランドオープンと同時に開館記念として『一丁倫敦と丸の内スタイル展』が開催されていますので、さっそく観て来ました。
多くのお客さんは、パークビルに入るテナント(ブランド)店に興味があるご様子で、幾つかの店には行列ができています。私はそれを横目に窓口で500円の入場料を払って1号館見学です。三菱地所の丸の内開発の歩みや、当時の日本の風俗資料などが展示されており、それなりに楽しめます。しかし圧巻は、本建物を復元させた、そのメイキングドラマにあります。
日本というのは、戦前戦後の名建築と呼ばれたものを、老朽化、陳腐化、土地の有効利用、耐震性向上など、さまざまな理由を付けて壊し、新しい(更に陳腐な)建築を作り続けてきました。最近では東京郵中央便局がマスコミの話題となりました。
歌舞伎ファンの間では東銀座の歌舞伎座建替計画も物議をかもしています。東京駅丸の内駅舎は創建当初の姿への復原工事が進行中です。三菱1号館はJ・コンドルの日本での代表作ともなる建物。明治初期の丸の内に赤レンガの英国風町並みが出現し、馬場先通りは「一丁倫敦」と称されました。
建設当時の図面や解体当時の写真などを参考に、三菱地所や学者、設計者、施工者など多くの方々が関わり、多大な情熱と労力をかけて復元したのが本建物です。できるだけ忠実に当時の技術を再現というコンセプトで、外壁のレンガも、手すりや避雷針の鋳鉄も、そして銅製の雨樋も、ドーマ飾りも、現代の職工の技術の粋を集めて作り上げています。
メイキングのビデオも流されていましたけど、それはそれは、気の遠くなるような熱意と執念です。鉄製避雷針は鍛造で、鉄製連続手すりは鋳造で再現されています。ドーマ飾は生の銅板金を叩き出し、経年変化で緑青が自然な色合いに変化することを期待するという拘り方。
明治の技術復元は当時の耐震技術にまで及んでいます。煉瓦の間に「帯鉄」と呼ばれる補強鉄板を挟み込んだ構造は、現在でも耐震効果が期待できるのですとか。煉瓦の製作は中国。当時の煉瓦の肌合いを再現するため、ほとんど手作業に近い工程で230万個もの煉瓦を製作しています。下のパンフレットの右写真が煉瓦工場で型に土を詰めている作業風景。本展を観に来ていた若い女性が「肌合いを再現するためですって!?」と、ほとんど煉瓦フェチとも言える様な執着に驚きを通り越した気持ち悪さを表明していたのは印象的でした(笑)。一個3kgの煉瓦を日本中から集めた煉瓦職人がひとつづつ積み上げた。屋根は本来は宮城県雄勝産のものであったのですが、量を確保できないためこちらはスペイン産の天然スレート。内部も、当時の空間を再現しており、木製の扉のや窓の金物ひとつとっても、いったい幾らかけたんだろうと余計なことを考えてしまいます。
展示室の最後には、本建物の復元に関わった職人の写真が、ドドーンと並べられており、これまた圧巻。いくらお金持ちやアタマのいい人たちの熱意と執念があっても、しょせん建築は泥臭い「ものづくり」の過程を避けることはできません。彼らが居てこその建物であることは確かに覚えておいて良いでしょう。
全てが特注品の建物。最近の建築物がのっぺりして、どれも金太郎飴のようでつまらないとお嘆きのあなた、歴史好き、建築フェチなあなた、きっと満足すると思いますよ。
感想というよりは、この長大なる小説を理解せんとして、読みながら書いた備忘録のようなもの。まとまった文章にはなっていませんので、ご容赦ください。最後は(自分で言うのもなんですが)支離滅裂になっています。
晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。
しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか? 私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。
彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。
最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。
本書は1980年の衆参同時選挙の頃を舞台としている。保守崩壊を予測したと帯にあるが、奇しくも2009年8月30日の衆議院総選挙では、保守逆転、初めて自民党が政権野党に転落するか否かが焦点となっている。
本小説では、政治とは政治家とはいかなるものか、ということが書かれているように思われる。政治とは我々の生活そのものであるという前提であれば、我々の代表としての政治という段階で、政治はある団体の利益代表であることを意味する。政党をpartyすなわちpartということからも、政治は誰かの代表であり、誰かの代表ではない。
高村氏が青森を舞台に政治を書くことを当初から意図して『晴子情歌』を書いたわけではないことは本人のインタビューにより明らかにされている。それでも戦後政治を書くにあたって、辺境の地と書くと地元の方には失礼を承知だが、まさに適切であったといわざるを得ない。
高村氏はクリスチャンであるのに、なぜ宗教の中で仏教をテーマとしたか。初期の作品から私は「解放と救済」のテーマを読み取った。ドン底からの救済であったとしても、最後に他律的な解放であったとしたら、余りに小説的ロマンでしかなく、現実味がない、あるいは最終的な救済に安易さを感じたことも確か。
それがキリスト教的な救済であるということではないにしても、解放の果実を得るにはもっと厳しい道程があるのではないかと。そういう観点から、修行を通じて悟りにいたるという仏教がテーマとなったか?
クリスチャンといえば高村氏もクリスチャン。それなのに曹洞宗の教義について、あそこまで深く掘り下げて挑んだということに興味が尽きない。禅宗的形而上世界での悟りと埴谷雄高の認識論的なものと対峙させようなどというテーマは、私にはちょっと壮大に過ぎ、これまた手に負えないという感じ。日経新聞で評判が悪かったのもむべなるかな、朝の通勤途中に読むには重過ぎる。(もっとも、渡辺淳一の小説も、朝から読む小説とは思えなかったが、こちらは人気を博したことは記憶に留めておいてよい)
小説の主人公になっている団塊の世代と私らの世代では思想的背景において新人類は大きな隔たりがある。たとえば丸山にしても吉本にしても、あるいは埴谷にしても、学生時代の読むべきときに読まなかったことを深く後悔するばかり。ドストエフスキーとかシェークスピアだって読んだと言えるか、だ。
父と子の微に入り、細にわたる応答は、政治と宗教の現実、理想化されていない意味において、身体的ともいえる実態を語ってはいる。その可能性と限界。
例えば政治は人間の生活そのものだとして、政治家は理念と理想を語るが、地元民、選挙民は具体的な見返り「銭コ」を求める。目先の地域振興と経済だ。かつての保守政治は、地元利益還元の代表として機能した。一方で宗教は、人の精神活動の一端といえるか。しかし菩提発心して悟りを求める修行を行っていたとて、禅的悟りにはいたることのできない中途半端な彰之がいる。あるいは酒呑みのナマクラ坊主としての内和田和尚だ。聖というには余りにも俗。それでも俗人の先頭に立つためには、聖であらねばならぬ。
いやいや、政治と宗教の対立は上巻には見られない。榮は雲水としての彰之の考え方こそ追求するが、それはわが妾腹の息子が何者であるのかを確かめたいがため。異物か自分の後継者かと。一方の彰之は「縁薄い」関係のため「生き直す」として送行し、冷静かつ無垢なる目で政治の現実を語る。
この両者が交わるところはあるのか。改めて両者を考える。全く父子という関係も感情も持たなかった二人が、一方は権力と地位を極めた自民党保守の代議士として、一方は仏家(雲水)として対峙する。
上巻に描かれるのは1987年の永田町、そして1980年福澤が絶頂期。しかし、その絶頂期のときに足元に忍び寄る影を、互いに二人は確認している。榮は衆参同時選挙の大勝利により、一時的にその影を短くしたとしても、息子優から感じる世代の違い、違和感と不信を拭うことはできない。
一方で彰之の心情も全く不明なまま。なぜ東大卒業の後、北転船に乗り込むというような進路を、そして上陸のたびには寺に通い、ついには出家してしまうのかという経緯については語られることはない。しかも初江との間にもうけた秋道の存在がどう展開するのか。一方で、榮がなぜ国会から脱走してきて青森にまで来たのか。さらに、滞在を秘書にさえ伝えず、彰之との対話が完結しないため滞在をずるずると延期するという異常さ。その理由も上巻では語られることはない。しかし、互いに失意と挫折の中で、互いの心情を次第に吐露し始めているということだ。
上巻を読んだ段階で、いくつかの読者評を拾い読みしてみる。どれも隔靴掻痒、咀嚼もできず感想にさえなっていない。しかしその中でひとつの指標もないわけではない。
彰之が仏門に入った理由。仏門の目指すところは菩提心、すなわち自分を超え一切の因縁から解脱し仏教的悟りの境地に至ることであるとする。彰之が捨てたかった因縁とは、すなわち福澤家という血統、血縁、まさに血族、自らの出生であったか。その自分を自分として成り立たせているものから解脱=解放を試みるということ。
一方で、福澤家の因縁全てを背負った父榮は、その縁を最大限に利用して成功し、またその縁により裏切られる。個人の生き方の両極端を象徴する父子が、政治と宗教という枠組みの二重構造の中で対峙する。やはりそこに和解と理解はあるのか、あるいは対立のみか。彰之は現世の縁を生き直すことで再度それを捨てるという解放を得ることができたのか。
「政治家と僧侶。二人の対照的な父子が交わす対話から、戦後日本の転換点が見えてくる。」そう、戦後政治の転換点ではない。戦後日本の転換点。秋道に対してこれが日本政治の結論かと嘆く榮。戦後日本が生み出したものが何であったかを問うているか。考えてみれば、団塊の世代の哲学論についても同様か。神なき後の理性による世界の認識とその敗北。確かに高村は「政治」というものを書いたが、政治の先にあるものは何か、それは日本のありようであり、すなわち日本人の生活と生き方そのものではないか。何を重視し、何を求めてきたかということ、それは極めて政治的な帰結であるといえる。簡単に「政治」というが、政治とは何かだ。
現代日本のありよう、精神的、政治的混沌と低迷は政治と宗教に因を求めるのか否か。
こうして上巻を読み終えて考えてみると、何も始まっていないし、何もまだ語られてはいない。そういう意味では、後半に「動」があるとするならば、まだその前哨でしかないのかもしれない。父子が一体どういう境遇にあって、いま二人は対峙するに至ったのかという。
進みが遅いといわれるかもしれないが、非常にスリリングな展開であるともいえる。上巻では二人の人物像が幾重にも語られてきた。今後、二人の言葉の中から、何が剥ぎ取られ、何が見えてくるのか。あるのは対立か理解か、あるいは絶対的な孤独か。
高村氏は何ゆえに仏教をテーマとしたか。阪神淡路震災のあと漠然と次は仏教だとは思っていましたが、とくに宗派は考えていませんでした
と本人は語っています。キリスト教にではなく仏教をテーマを求めたことの真意は私には分かりません。彰之が我執からの解脱=悟りを目指したということは、我執、すなわち自らの福澤的なるものからの解放ということになりましょうか。
一方で、その福澤的なるものの代表であり、更には日本の戦後保守政治を代表として登場する榮。その榮が対峙するものは我執を捨てんとする彰之と、自らの政治人生を否定するかのごとき優という二人の異母兄弟であるという、75歳にして到達したこの絶対的な孤独。榮は彰之が理解できずお前は一体何者なのだと問い続ける。ああ、いったいに高村氏は何を下巻に書こうとしたか。
高村氏いわく。
私の世代は、何かを語ることは~書くことも同じですが~、自分が人間として生きている証なのです。彰之もそういう世代です。だから、あれだけの言葉が出る。
言い換えれば、『新リア王』は80年代半ばだから成立する話です。2005年だったら成立しないですよ。父も語らないし、息子も語らないでしょう。
仏教論争の印象が強かった上巻だが、後半は保田英夫の死に向かって物語りは収束していきます。最後の終結の場面は、あたかも探偵小説の謎解きの場面を彷彿とさせます。しかしながら、小説形式が最後まで「対話」に終始することは変らず。ひたすらに「語る」ということが意味を持っていた世代や時代の物語を書ききったということなのでしょうか。
榮は息子優の造反を裏切りととり、小説最後で自ら福澤王国を解体してみせます。その後に残ったのは、もはや孤独でしかなく。そのときに初めてか、彰之の仏道に入りきれない緒縁と彼の孤独を理解し、もしかするとこの4日間において、一番理解しあったのはこの二人であったのかもしれません。
政治的風景は、単なる世代交代ではなく。戦後政治の代表たる榮、リベラリズムを目指す優、微妙に立場を変える官僚のなど、80年代から日本が徐々に舵を取ってきたありようが、彼らの対話の中に凝縮されています。民主党政権が圧倒的な勝利を収めた今回(2009年8月)の衆議院選挙を待つまでもなく、高村は保守の崩壊を予測しました。現実世界では、ニューリベラリズムの崩壊としてではあるが。
榮は利益再配分の戦後政治、田中型政治を体現してきた人物として描かれますが、2人の息子はその政治のあり方に造反する。3人が政治的対話を行っているシーンは、まるでドストエフスキーの小説のよう。微妙に立場の違う二人の息子を榮はついに理解できず。深い溝が残る。
戦いの結果は息子に軍配が上がるが、本当に勝利したのかはについては描かれない。息子の勝利により福澤王国どころか地方的な血族までもが崩壊するのは象徴的。日本の政治的風土が変革し、日本の戦後のいくつかあの神話が崩壊して行くのは本作品よりも後になる。
1980年代に宗教は明らかに死んでいたい。しかし別な形で宗教がまたは心の問題が取り上げられる時代を準備していたという点において、新リア王はまたしても次なる作品の序章でしかないことに気づかされる。新リア王は結論も解決も提示しない。一つの時代の崩壊を描ききったという点で、その小説の持つ内的世界は凄まじく大きく昏い。
全体として作品を眺めれば日本人としての方向性、それも戦後地方の貧しさから出発し、国民が同じ夢を見た時代から個人主義、ニヒリズム、ポストモダンと近代を否定し混迷の時代に突入するそのまさに転換期。 政治が変ったということは人間の心のありようも変ったということだ。
政治が人民を救済しえなくなったように、宗教も衆人どころか個人さえも救いはしない。 理念とか理想とかの共通認識が崩壊していいく。 本来的には共同や個をまとめるのが政治と宗教の役割であったとしたら、その双方が変質してしまった。
次なる時代に日本は阪神淡路のカタストロフを経験し、さらにオウムへとつながる。高村の関心は当然にそこに向かわざるを得ないだろう。
感想をまとめるに当たり参考にしたサイトを順不同で列記しておく。