2002年12月30日月曜日

【風見鶏】「自衛隊の統制者は誰か」

12.30 朝日新聞社説

朝日新聞の社説で知ったのだが、「防衛庁の統合幕僚会議が自衛隊の縦割り運用の弊害をなくすことをめざした改革案をまとめた」らしい。3自衛隊をとりまとめる制服組の最高指揮官となる統合幕僚長(仮称)を設け防衛庁長官の命令を一元的に受けるのだとか。

これに対し朝日新聞は「憲法に沿って、自衛隊が役割を広げることを支持したい」という主張をしている。国会の役割や情報の公開を充分に行った上でと条件をつけてはいるが、昨今のテロや世界情勢を鑑みて、自衛隊を「使える自衛隊」とする措置が必要としているわけだ。

そうか「天下の朝日」も、結局はなし崩し的防衛力整備、有事関連法案に賛成しているというわけか。私だって北朝鮮の脅威などを見てしまうと、あるいは中国や韓国の動向を考えると、防衛力の曖昧な主権国家というものが成立するのかという疑問にぶち当たってしまう。

しかし、世の中の政治家には「拉致被害者は軍隊を派遣してでも取り戻す」と声高々に主張する輩もいらっしゃる。「(自衛隊や派遣問題につては)現在の憲法のもとでは、詭弁に詭弁を重ねてきているわけです」と大学で学生相手に講演なさる政府高官もいらっしゃる。そういう方々には賛同できないんですよ。

なし崩しは困ります。知らないうちに、マスコミをはじめ世論を防衛力強化に導くようなこともやめてもらいたい。幼稚な言葉遊びに近い議論ではなくて、あるいはアレルギー反応のような反戦、改憲反対論でもなく、主権国家としてのありかたを考える必要があるのぢゃないでしょうか。

それにしても「憲法に沿って~支持したい」ですか。もはや、憲法精神の砦が脆くも瓦解していることを改めて気付かされる年末でした。



HIYORIみどり 「でも、世界第三位の防衛予算を使っている自衛隊が、命令系統がはっきりしないばかりに役に立たないぢゃあ、目も当てられないわよね」

KAZAみどり 「なんともいびつな国よね。防衛論争をする以前に、主権国家としての意思、世界の中での日本の立場、昨今の世界的な覇権主義争いに対する日本の戦略や哲学、そういうものが欠けていると思うわ。やっぱりアメリカの子分
なわけかと・・・」

HIYORIみどり 「いくら大義を掲げても戦争では人が死んでゆくわ」

KAZAみどり 「イラクの飛行禁止区域では相変わらず米英が空爆を続けているようね。民間の人も巻き添えになっているわ。たまたま通りかかった人が、上空彼方からのミサイルで吹き飛ばされる・・・、何とも理不尽だわ。」
HIYORIみどり 「10月からはじめた新聞ウォッチだけど、明るい話題はほとんどなかったわね」


2002年を振り返る・・・か

年末であるので今年一年を振り返るという番組が、あいも変わらずTVや新聞で繰り返し報じられている。そういう番組に教えていただくまでもなく、今年は不本意にして激動の一年だったと言えるだろう。日本の悪さが一気に噴出してしまったという気さえする。

ムネオ疑惑や議員の秘書給与疑惑といった、どちらかというと小粒の瑣末的なスキャンダルに隠れて、日本はわたしたちが意図しない方向へと舵取りをしてしまっているような不安に襲われる。それは日本だけではなく世界も同じだ。911テロを経験した世界は、アメリカ帝国主義と各国の覇権主義が衝突をはじめたと言ってよいのかもしれない。ロシアの西側への転向、中国の台頭など世界地図を塗り替えるような兆しも見えてきている。

日本はあいも変わらず経済的な不況、あるいは政治的な膠着状態から脱皮することができないでいる。構造改革が必要なことは分かっていても、複雑にからみあった利権と保護規制の網から自由である者など少数でしかないという現実を考えると、構造改革を肯定することは自らを否定することに繋がるという矛盾を抱えてしまっている。抵抗勢力は誰彼ではなく自分自身なのである。

年末のTVの街頭インタヴューを聞いていると「来年こそ景気が良くなって欲しい」「なにか元気がでる話題が欲しい」「子供たちが幸せであれば良い」との答えが返ってくる。でも、ちょっと待って欲しい、景気さえ回復すれば皆元気になって幸せになるのだろうか。過去を考えるとYesと答えるだろうし、ちょっと思い馳せればNoとも答えるだろう。

景気が良くて給料(使える会社経費も含む)は高いけれど、仕事も忙しいため日々反吐が出るほどに仕事をし、たまの休日には皆が目の色を変えてモノや消費やサービスに走るという状況が幸福な風景とは思えない。職住近接とか、まことしやかなキャッチフレーズで都市が無秩序かつ野蛮に開発されてゆく状況も好ましいとは到底思えない。

極論かもしれないが、戦後の朝鮮戦争によって特需景気の恩恵を得たように、米英による中東戦争のため日本の景気が例えば一時的に良くなったとして、それをもって幸福だと感じることができるだろうか?

では、何が幸福かというビジョンもその実描けないでいる。今の大人たちが子供たちに希望を語ることができなくなってしまったのだ。政治にも希望を託せるような状況ではない。小泉なきあと石原東京都知事に期待する風潮まで醸成されつつあるというのだから、イハハヤ・・・・なんとも酷い世の中だ。

憂鬱になる材料は山のごとしだ。来年とて、これらに光明がさすとは全く考えられない。自分ではどうにもならないことを考えて鬱々とするよりは、いましばらくは音楽でも聴いて呆けていた方が、やはりマシというところか。

ゲルギエフ/ミヤスコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ニコライ・ミヤスコフスキー( 1881- 1950 )
ヴァイオリン協奏曲 二短調 作品44

ヴァイオリン:ワディム・レーピン
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)

ミヤスコフスキーという名前さえ初めて聞くのだが、CD解説によると「ソヴィエト連邦時代前半のロシアにおける、最も才能豊な作曲家のひとり」とのこと。生涯27もの交響曲をものにしながら無名であるとは、歴史に埋もれた作曲家ということだろうか。「作風はいずれか言えば保守的で、スラヴ的な後期ロマン派と呼ばれるべき位置にとどまった」作曲家、ということが20世紀前半の作曲家でありながら、音楽史的にも演奏的にも不遇な位置に留めている理由なのだろうか。

何度か聴いてみたが、音楽に深刻な響きは聴かれず躍動感と明るさに満ちている。作曲年代が1938年であることを考えると、少し楽天的過ぎないかという感じを持たないわけでもない。例えば一楽章のテーマの繰り返しにしても、少し聴いていると飽きてしまうような感じがなきにしもあらずだ。

とは言っても、音楽がいつも時代を背負っていなければならない理由などどこにもないし、逆にそのことが音楽を聴く上での重荷になってしまうことだってある。ここは素直にミヤスコフスキーの音楽に耳を傾ける方がよいのかもしれない。

先にも書いたように、暗さや激しさの少ない曲であるからゲルギエフのアクのようなものも、この演奏からはあまり聴こえてこない。(それでも充分にアグレッシブではあるが)

一方でレーピンのヴァイオリンは、あくまでも堂々とヴァイオリンとしてのメロディアスな雰囲気や技巧をいかんなく発揮しており、聴いた後にそれなりの満足感を得ることはできる仕上がりになっている。1楽章に挿入される技巧的なカデンツァも聴き所である。2楽章のメロディアスにして抒情的な音楽も非常に印象的だ。オケとヴァイオリンの掛け合いも、ゆったりとした気持ちにさせてくれる。

それでも、首を傾げてしまうところがないわけでもない。というのも、全体的にどこかしら中途半端な印象を受けてしまうのだ。和音やフレーズの展開にしても、どっぷりとロマン派しているようでいながら、ある瞬間に現代的な断片をふと聴かせたりする。そういうところが、何かとってつけたようでしっくりとこない。それが不安を象徴する手法では全くないというのだから、何か音楽に落ち着きがないように思えてしまうのだ。

最後のフィナーレにしても、いかにも的な終わり方であるところが、かえってわざとらしく感じられてしまう。というか、この時代作曲していて、この音楽?と やっぱり思ってしまうのであった。ロマン派の時代に作曲されていれば良かったか、という問題でもないとは思うのだが・・・、なかなか呪縛から逃れられないと改めて思うのであったよ。

演奏はよいと思うので、従来のヴァイオリン協奏曲に飽いてしまった方には、お薦めかもしれない。

2002年12月29日日曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ペーター・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35
ヴァイオリン:ワディム・レーピン 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。



レッスンメモ

フルートの演奏を聴きに行ったり、個人練習をしたり、あるいは知人とアンサンブルをしたりと、それなりにフルートに触れる生活はしているのだが、腕前の方はまったく進歩なしという感を受けるこのごろ。行き詰まりも感じているので、今日は久々にレッスンを受けてきた。

前回のレッスンからは5ヶ月もあいてしまったのだが、前回やったプラヴェは時期尚早であると自己判断し、指に問題のない曲を選んで見ていただくこととした。(個人練習でもムリ目の曲は、しばらくやらないことにした)

ドビュッシー「夢」

私はフランスものというか、とくにドビュッシーのような、どこかとっかかりのつかみにくい曲が苦手である。聴いている分には、なんて気持ちの良い曲だろうと思っていても、いざ吹いてみるとぎこちない表情にしかならずに、うんざりしてしまう。

この曲は、もちろんピアノソロによる曲で、題名のとおり夢見るような緩やかさに満ちた曲だ。以下はレッスンでの指摘から記憶する範囲で記しておく。

2小節ピアノ伴奏の後にフルートが入るが、8小節単位の大きなフレーズを考えながら、スラーを滑らかに吹くように心がけたい。体で拍子を取るようなことをせずに、ゆったりとした気持ちで。

11小節の memo P から mf に至るクレッシェンドは大切に。15小節目からの下降音形は大きくディミヌエンドをかけて。楽譜を良く見ると、同じようなフレーズが8小節カタマリで3度登場するが、最初はG(mf)、次にA(memo P)、最後がC(pp)となっている。三連譜も急がずにかつ、前の四分音符と八分音符のフレーズに変なアクセントも付かないように気をつけること。

22小節目からの四分音符二つのスラーのかたまりは、比較的はっきりとしゃべる、poco cres. piu cres. を意識して、26小節目から27小節目の高まりに向かってしっかりと盛り上げる。28小節目のピアノ を大事にクレッシェンドをかけて再びフォルテに。ここで Fis-Cisの音だけが大きくならないように気をつける。

30小節目の subito P とは「突然にピアノに」という意味、ここから40小節目まではピアノを維持する。40小節目からクレッシェンドをかけたら、逆にその後はフォルテの強さを維持、音の強さがコロコロ変わらないように注意したい。

59小節目から移調し、Un poco animato とあるように、少しテンポを速めて軽やかに吹く。59と63小節目に現れるE-Cのスラーを綺麗に。64小節目の終わりからは高音域で緊張を維持、68小節目のH2から移調した69小節の頭のG3は一番の聴かせところ。スラーでG3に至るが、先ほどと同じように subito P という感じで。

76小節目から再び最初のテーマにもどるが、87、89小節にあるクレッシェンドをしっかり表現すること。

最後の Piu lento は、スラーの中で柔らかなタンギングで音を表現する。しかし例えば94小節のように3、4拍の四分音符と三連譜はスラーであることに注意。最後は消え入るように。


フォーレ「子守唄 Op.16」

これもフランス系の曲で、原曲はピアノとバイオリンのものらしい。ランパルの名演でも有名だと思う。6/8拍子のこの曲も、リズム感のない私には、どうもぎこちないものになってしまう。さてこれもレッスンの指摘から。

四分音符と八分音符の音型の場合、八分音符が短くなりがち、みっつのきざみをしっかり押さえて。3小節目の頭の八分音符も短くなり過ぎないように。次のスラーのない部分は軽いタンギングで。この曲も4小節でひとつのカタマリであることを意識して、大きなフレーズを感じて吹く。

音はどちらかというと最初は明るめにとること。15小節目からはクレッシェンドしてmfの強さに至ったら、その強さをきちんと19小節目まで維持すること。

24小節目の低音によるfの表現はしっかりと暗めに、しっかりおなかで支えて、28小節目からのpppによる同音型は明るく。

49小節目のアウフタクトから始まるフレーズにおいて、50小節目と52小節目に表れるスラーの中のアクセントはドキッとするような感じで、ピアノの中の動きなので強くなり過ぎないように注意。

83小節目から始まるフレーズは、テーマと同じリズムだが音が少し変わっているので、特に84小節目のG-Es-Gのところなど、軽く遊ぶような感じを出す。88-89小節、90-91小節のクレッシェンドとディミヌエンドをしっかりと表現する。

96、100、104小節目の頭はピアノが和音終わるところ、次に入るところはすこし時間をとって拍の裏から余裕をもって入る、決して急がない。

とにかく小さな拍で曲をとらえると、変なアクセントがついてしまう。大きなフレーズをとらえてゆったりと歌うようにしたい。

こういう曲をセンスよく、さらりと吹くのって、本当に難しい。

体を動かさない練習

吹いていて体や膝を動かしすぎる、体で拍を取るクセがある場合は、フルートの足部管を壁にあてたまま(あるいは壁の入隅に当てて固定したまま)、曲やT&Gを練習してみると良い。

やりにくいと感じるかもしれないが、今までできなかったことが、意外と出来たりするものである。

そう言われたので、家に帰ってからやってみた。すると壁に足部管を固定していることにより、楽器全体が固定されることになるため、楽器がぐらついてしまうような運指が比較的楽に出来ることに気付いた。

例えば中音のCをはさむスケールなどは指も楽器がばたついてしまいアンブシュアが固まらないのだが、この練習をすることで安定した音が得られるのである。いかに楽器(唇とフルートの角度を)を動かさないことが重要か改めて知った次第。

ハーモニクス(倍音)の練習

倍音によるソノリテを練習すると、高音域でのピアニッシモの表現などが非常に楽になる。ハーモニクスで吹いている場合でも、できるだけ雑音が入らないように、そのままいつでも曲が吹けるような気持ちで音を作ること。

特に、私のようにアパチュアが広がりすぎる傾向のある人にはハーモニクスを用いた練習は効果的である。この練習は即効性があるので、試してもらいたい。

実際、数分間ハーモニクスの練習をしただけで、C4が比較的やさしく出せたものである。いつもは、音にならないのだが。

これも、練習のはじめにまずハーモニクスをやってから、ソノリテなりT&Gに取りかかると、高音域、低音域とも音に張りが出ることに気付いた。

アキヤマの14k(No.110)

先日のアキヤマの試奏会でも展示されていた14kの楽器を先生は現在借りているとのこと。今までの金はどうしても気に入らなかったのだが、この楽器は特別、金もきちんと作ると魅力的だとおっしゃる。アキヤマフルートは名器ルイ・ロットを目指して試行錯誤しながら少量生産を行っているメーカーである。

私もアキヤマの14kと先生のいつも使われている初代ロット(No.1850)を少しだけ吹かせていただいたが、凛として芯のある伸びやかな音は吹いていて快感に近いものを感じる。

ちなみに楽器の重量がどのくらいあるのか、料理用の秤で計ってみたところ、以下のような結果となった。


  • ルイ・ロット(No.1850) 約 380g
  • ヘインズ(No.43668) 約 390g ~ 私の楽器
  • アキヤマ 14K (No.110) 約 450g


450gといえば、シルバーでも管厚の厚い楽器程度の重量、一般的な木管よりは軽い重さだろうか。先生の使われているロットは本当に軽いことが分かる。しかしロットは、キーも非常に薄くできている。アキヤマもロットのキーの形を模したティアドロップ型だが、見た目も押さえた感じも厚い。まぐろの刺身とヒラメの刺身くらいの厚さの違いといえば分かりやすいか?(>かえって分かりにくいかも)。楽器の重量は管の重さだけではないため、先の重量を単純に比較はできないかもしれないのだが・・・

アキヤマは私のヘインズと比べても、低音のキーの押さえやすさや音の出しやすさ、それに何と言っても音程の良さが際立っている。製作者の秋山さんが「本家のロットに勝てるのは音程です」と言うだけあって、ロットを使われている先生をしても「こんなに楽なのか」と思うとのこと。非常に魅力的な楽器であることは認めざるを得ないのであった。

アキヤマフルートは、札幌のプロフルーティストでも知名度は低いのではないかと思う。大手楽器店での販売を目指していない楽器であり、好きな人が直接工房に買いに行くという楽器であるだけに、希少価値もあると思う。

私の知人(アマチュア)でも既にアキヤマを所有している方、あるいは注文した方がいる。うらやましくも、良き選択をしたと思うのであったよ。


レッスンを終えて

レッスンを受けていて思うのだが、先生が試しに同じ曲を吹いてくださるが、どうしてそんなに音から表現が出てくるのかと嘆息してしまう。なるほど、そこはそういう風に歌うのか、そこは、そんな風に色を変えるのかと、初めて聴く曲でも、昨日今日練習した曲でもないのだが、新たな発見があるのであった。もっとも、それを直ぐに自分のものとできるほど、私の音楽センスは良くはなく、さらにフルートの運動神経も鋭くはないのであったよ、トホホ・・・。そして、そういう雰囲気を文章にするのは、かなり至難の業であると思うのであった。

それにしても、練習の仕方ひとつとっても、ワンポイントのアドバイスの適切さには恐れ入るのでありました。さて、今年もこれでオシマイです。皆様良いお年をお迎えください。




2002年12月28日土曜日

辺見庸:永遠の不服従のために

サンデー毎日に連載された「反時代のパンセ」をまとめた単行本が出版された。

辺見庸氏の文章を読むことが、この時代幸福であるか、あるいは不幸であるかを考えることは難しい。なぜなら、彼の突きつけるテーマは、あたかも闇に鈍く光るナイフのように、ギラリとした鈍い光を放って読むものの脇腹に押し付けられるからだ。私はその瞬間に動くべきか止まるべきか、冷や汗をかきながら呆然としてしまう。ナイフの切っ先ににじむ赤い血は、果たして自分の血なのだろうかと危ぶみさえしながら。

『「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。(中略) でもガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。』(「裏切りの季節」より)

彼は、私のように、時流に流されるかのように意見を変えてゆく者の脆弱さに対し、怒りも軽蔑もしてはいなかもしれない。私は逆に彼の本を読み彼の声を聞いたにも関わらず、それ故にというか、彼から無視されてしまうかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽してしまうのだ。

彼の論点を要約することにも意味はない。彼のマスコミ批判や平和への考え方、今の日本や米英のありようなど、列挙してゆくと、声高々に主張しているように思えてしまうかもしれないが、そうではない。彼が有事関連法案に対してどのような反対のスタンスをとっているのか説明したところで、「お前さん、違うんだよ」と言われてしまいそうだ。なんだか彼の前に立つと、薄っぺらな本質的とはいえないような問題を、延々と阿呆のように弄しているような気にさせられてしまう。

『樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。』(「国家の貌」より)


彼が何に対して「服従しない」と言っているのかは明白だ。しかし、彼のような精神を有して生きてゆくことも、極めて大きなエネルギーと勇気の要する行為であると思う。社会とうまくやってゆくためには、彼のような考え方に染まることは、ある意味において「危険」である。しかし、一方で私にとっては、抗うことのできない危うさと確かさでもある。

『まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。』(「戦争」より)

ひょっとすると私は、単なる精神的なカウンターバランスとして辺見氏の主張を受け入れようとしているのかもしれない。自らの考え方の柔軟性や精神の健全性を示すバロメータとしているのかもしれない。だとすると、この上なく狡猾な接し方とは言えないか。社会における辺見氏のとらえられ方も、案外そういうところにあるのかもしれないと思うと、自分のことを差し置いて憂鬱になる。この本が売れれば売れるほど、不幸なことなのかもしれないと思うのだった。

『例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた』(「仮構」より)

そういうことさえ、辺見氏は了解していているかのようなのだ。心底、おそろしく、かなしく、そして美しくも強い本であると思う。

2002年12月24日火曜日

動物達の音楽会 Vol.2 より ヴィヴァルディの「ごしきひわ」

日時:2002年12月23日 13:30~ 
場所:札幌ザ・ルーテルホール
ピアノ:曽根田正美、瀬尾珠恵、落合一絵 
ソプラノ:小出あつき 
フルート:河崎亜希子 
ピアノ:落合一絵 
ヴィヴァルディ/フルート協奏曲 二長調 Op.10 第3番「ごしきひわ」 第一楽章 アレグロ、第二楽章 カンタービレ、第三楽章 アレグロ 

知り合いのフルーティストが出演するということで、コンサートに行ってきた。「動物たちの音楽会」というテーマで、3人のピアニストがそれぞれ交代で、テーマに沿った曲を披露するというもの。フルーティストの河崎さんは賛助出演ということである。 

曲目は、チャイコフスキーのオープニングにはじまり、ラヴェルの組曲「鏡」、ソプラノによるプーランクの小品、ドビュッシーやフォーレ、サンサーンスなどなど。ショパンのワルツなども演奏されたが、フランス系の曲の多い構成であることが目をひいた。(残念ながら最後までは聴かれなかったのだが) 

そんな中にあって、河崎さんと落合さんによるヴィヴァルディの「ごしきひわ」は、ひときわ生き生きとした音楽を私たちに与えてくれたように思える。フルートの清冽で煌びやかな音はホールを満たし、爽やかな聴後感を残してくれた。 

「ごしきひわ」とは小鳥の鳴き声を模した音楽が三つの楽章を通して聴こえてくる曲だ。最近では高木綾子さんが「イタリア」というCDで録音していることでも(その筋では)有名である。 

この曲の特徴は、何と言っても装飾音符に飾られた小鳥の鳴き声を、いかにそれっぽく聴かせてくれるか、そして途中のカデンツァやソロ部分をどう表現するか、ということがポイントだと思う。河崎さんの笛の音は、演奏の最初からピンと張り詰めた輝かしい音を会場に漲らせ、トリルと物凄く速いタンギングにより表現された音は、朝の輝かしい光の中でさえずる小鳥を、まさに彷彿とさせるものであった、と書いたら言いすぎか?
細かなパッセージでのピアノとフルートのアンサンブルも絶妙で、彼女の耳のよさとフルートの運動性能良さには改めて感服した次第。
おそらく今日の演奏会の客層から考えると(ピアニストの生徒さんとそのご家族か?)、フルートにはあまり馴染みのない方が多かったのではないかと思う。そういう中で、第一楽章のアレグロが始まった後にすぐ現れるソロ部分での彼女の笛の歌いと音色は、その瞬間に実に見事で聴衆の心をつかんでいたと思う。
中間のカンタビーレ楽章での装飾の入れ方や歌い方には、おそらくは彼女らしい表現を感じることができた。第三楽章のラストに向かっての駆け抜けてゆく爽快感もなかなかのもので、最後の上昇音形を挿入して颯爽と終わるあたりは、高木綾子さんのアルバムよりも良いなあと感じさせてくれた。終わって引上げる彼女の背中に向かって、客席の起こったちょっとしたざわめきが聴こえただろうか?
ルーテルホールというのは、行った人ならば分かるのだが、200人程度の小ホールであり、フルートのために建てられたホールと聞いている(オーナーもフルーティストであるとか)。しかしピアノソロを聴いていても感じたのだが、このホールにしてはスタンウィエイのグランドピアノの音量は、すこし響きすぎる嫌いがあるのではないかと思う。
実際にピアノの音はソロであっても非常に大きく聴こえた。ソプラノやフルートと合わせた時は蓋は全閉にしなくてはならないほどだ。ヴィヴァルディの曲にしても、そういう少し崩れたバランスと、そしてこの曲の原曲がピアノ伴奏ではない、ということを差し引いても、充分に楽しめる演奏であったと思う。
フルートの感想ばかりになってしまって恐縮であるが、彼女の笛を聴きに行ったのだし、ピアノの評は(恐ろしくて)うまくできないし、それに最後まで聴けなかったのでご容赦願いたい。ただ、プログラムとしてはとても楽しめる良い企画であったと思う。特に個人的には、ラヴェルのピアノを生で聴けただけでも、非常にうれしかったのであった。小出さんのソプラノも、歌っていいなあと思わせてくれるものであったし、瀬尾さんはまさに、司会も演奏も貫禄のといったところでしょうか(^^)
こういう演奏会は、肩肘が張らないので、もっとあっても良いなあと思うのであったよ。

2002年12月18日水曜日

【風見鶏】「国立市マンション訴訟、20メートル超の撤去命令 」

12.18 日本経済新聞、読売新聞ほか

意見箱にこの問題を書いたのが、2月14日と5月1日のこと。そして今日の新聞記事による判決だ。

住民の景観尊重の意見を組み入れ、20mを越える部分の撤去あるいは、撤去までの慰謝料と弁護士費用のの支払いをディベロッパーに命じた。判決では「(景観は)法的保護に値し、侵害行為は不法行為に該当する」と違法性を指摘した。

地裁ではあるものの、この判決の意義は大きい。確認申請を認可した行政責任と条例の関連など、行政対応のまずさについても今後焦点になると思う。いずれにしても、経済優先でやったもん勝ちという状況にNOを突き付けた意義は改めて大きい。

反対住民のサイトは以前紹介したが、まちづくりデザインワークスというサイトでもこの問題を紹介していると、教えていただいた。ここでは企業サイドによる法改正前の「駆け込み着工」に対し疑義と改正を求めている。

一方で訴訟問題が起こっていることが分かっていながらも、そのマンションを買う人が居る、欲しい人が居るということ。マンションに移り住む人には、地域住民が長い年月に渡って守り育ててきた存在の重さは知らない。地域住民たちの果実のみを借用し販売に利用するというスタンスは、企業論理は理解するにしても、冷静に見ると野蛮で破廉恥な行為に思える。

欧州では都心部に建てる建築に厳しい規制をかけているが、それに対する反発や反動がないわけではない。しかし規制と議論を通して自分たちの住む場所をよりよいものにしていこうという意思の力は感じられる。日本にはそういう土壌が薄いように思える。

問題は「景観」という、ともすると好みの分かれるデザイン的な問題として捕らえられがちだが、実際は、地域コミュニティのあり方、自分たちの住む地域社会の維持の仕方という、地方自治にもつながる問題を内包しているように思える。それが保守的な地域セクショナリズムや排他主義であるかも含め、地域の自治問題であるように思える。

今回の判決は、企業に勤める身としては複雑な思いで訴訟の行方を見守っている、というのが正直な感想だ。この件には複数の訴訟が起こされているが、それについては、読売新聞の記事を以下に引用しておきたい。


◆複数の訴訟、分かれる判断◆

 このマンションを巡っては、ほかにも複数の訴訟が起こされ、司法判断が分かれている。近隣住民が東京都多摩建築指導事務所に、条例で定めた高さ制限を超える部分の撤去を命じるよう求めた訴訟では、1審・東京地裁が昨年12月、「高さ20メートルを超える部分は条例に違反する違法建築物で、景観に対する利益にも重大な被害を生じさせた」との判断を示したが、撤去命令を出すかどうかは都側の裁量とする住民側一部勝訴の判決を言い渡した。

 これに対し、2審・東京高裁は今年6月、「マンションは条例の施行前から着工されており、違法建築物ではない」と住民側逆転敗訴の判決を言い渡し、現在、最高裁で係争中。

 一方、明和地所が国立市に約4億円の損害賠償を求めた訴訟では、1審・東京地裁が今年2月、「高さ制限の条例は(明和地所の)マンション計画を阻止するためのもので、(明和地所の)権利を違法に侵害した」として、同市に4億円の支払いを命じ、現在、東京高裁で審理が続いている。

��以上、12月18日 読売新聞電子版より引用)

HIYORIみどり 「撤去っていったって、人も住んでいるんでしょう? どうすんの?」

KAZAみどり 「明和地所も、こんな判決になるとは考えていなかったとコメントしていて当惑気味ね。撤去命令を受けた部分は賃貸で、現在は1戸だけ入居しているそうね。撤去対象とならなかった住民も"負けるとは思っていなかった" "もしもの時のために7階以下を買った"とコメントしていたわ」

HIYORIみどり 「住民は、景観のいい付加価値高い場所として購入したのでしょうね。地域住民の今までの努力の上に胡座をかいていると思われても仕方ないかもね。売主は訴訟問題も"大丈夫"とかうまいこと言ったんでしょうね」

KAZAみどり 「マンション住人にも司法はNOと言ったということになるのかしら、あなたたちに権利はないと。マンション住民もディベロッパーを訴えるかもしれないわね」

2002年12月11日水曜日

日本の防衛ということ

12月8日、イラクは国連に対し大量破壊兵器に対する申告書を提出した( accurate, full, and complete declaretion on time )。悪の枢軸とイラクを名指しし、平和維持のために西側諸国の同意をとりつけての結果だ。日本は、数日前にイージス艦のインド洋派遣を決定した。こういう動きを見るに付け、日本の独立国としてのあり方について考える。

憲法改正、自衛隊問題などは古くから議論されているが、私達は「まともな議論」をしてこなかったのではないか、ということを思い始めた。私は5月に、「有事関連法案とは何なのか」として意見箱に駄文を掲載した。そのときはどちらかというと、法制整備へ懸念を示すスタンスであった。しかし、今は、むしろ積極的に法整備すべきなのかもしれないとスタンスがずれてきている。政府の方針を全面肯定しているわけではない、法整備が前提というよりも健全な議論をすべきだと思うのだ。

憲法改正を口にする人には「タカ派」「右翼」というレッテルを貼りたがるように、わたしたちは防衛問題にアレルギー感情を持ってはいないだろうか。これは日本の教育の賜物なのかもしれない。日本国憲法が米国の押し付けであるか、あるいは日本を侵略国と決め付けた東京裁判が、戦勝国の独断的な裁判であったか、ここらあたりから議論は紛糾し始める。

平和憲法の精神への対立軸を全て「タカ派」「右翼」的なものとひとくくりにしてしまうことは、議論を先に進ませにくくしている。侵略戦争をしないということと、自国を防衛する軍隊を保持しないということは別物だと思う。およそ力を有しない独立国の平和などは幻想でしかないという者もいる。憲法の「国際紛争解決のための武力行使の放棄」が幻想なのだろうか。日本国憲法がうたうのは「絶対的平和主義」なのだから、既にして自衛隊は憲法違反なのである。自衛隊は黙認しながらも、他の政策の是非を問うことは筋が通らないように思える。議論は、どこまでも拡大曲解される解釈論に終始してしまう。

侵略としての戦争放棄は誰もが認めることだ。しかし、最近のテロ行為を考えるにつけ「侵略」の定義さえ難しい。イスラム社会は西側諸国に「侵略されている」と考えてはいないか。米英は今も昔も「侵略戦争」などはしていないと考えるだろう。第二次世界大戦の日本も「植民地開放戦争であり侵略戦争ではない」と主張する人がいる。しかし、それは経済的に優位でかつ、軍隊を派遣した側の論理でしかないのではなかろうか。

自衛隊を軍隊と呼ばないということも、事態を見えにくくしている。すでに米国、ロシアに次ぐ世界第三の防衛予算を使う国の自衛隊がなぜ「軍隊」ではないのか。自国防衛の際の命令系統を含め、迅速な対応ができるような法整備は確かに必要である。今のままでは役に立たない放蕩息子だ。ただし、である。あくまでも自国民の安全と平和を守るということが大前提だ。

国際社会における責務を考えた場合「自国領土領海を侵犯されたときのみ行使する軍事力」という考え方も通りにくい。自国が攻撃されないように、あるいは大量の難民が流入しないよう、軍事的手段を裏づけに他国政権を維持あるいは打倒する、という考え方に妥当性があるか、これも分かりにくい。

自国を自分で守るということを考え始めたときに、当然ではあるが国民に義務が発生する。どういう義務負担かも含め、考えなくてはならない。

以上の考えが、すべて宙に浮いたまま着地できない。安易かつ感情的にに「子供を戦場にはやりたくない」「戦争は殺し合いだ」「戦争絶対反対」という議論に流れてしまう。戦争を知るものは「戦争を知らない世代が、言葉遊びをしている」と揶揄する。

それでも、いやだからこそ、私達は、もう一度、第二次世界大戦の意味からはじめ、日米安保、憲法、自衛隊、そして国というものを根本から考え直さなくてはならないのではなかろうか。私には、どの見解がもっとも好ましいかさえ今は見えない。そして、日本を左右する政治家のスタンスも、まったく見えないという悲劇。


2002年12月6日金曜日

【風見鶏】イージス艦の派遣決定で分かれる新聞社説

イージス艦をインド洋に派遣することが決定された。これを受けて反対派の朝日、毎日、賛成派の産経、日経に意見は分かれた(読売は捕捉できず)。


朝日新聞  「イージス艦――これは納得できない 」 ~ これではなぜいま転換なのかの十分な説明にはなっていない(本文より)

毎日新聞  「イージス艦 派遣するならルールを守れ」 ~ イージス艦派遣を決めたことは、禍根を残す(本文より)

産経新聞  「むしろ遅きに失した決定 【イージス艦派遣】」 ~ テロ掃討作戦の米国を、憲法の範囲いっぱいまで支援するのは同盟国としてのいわば義務(本文より)

日本経済新聞  「1年遅れたイージス艦派遣」 ~ 海上自衛隊補給艦の安全を考えれば、高性能護衛艦を配備するのは当然(本文より)


各新聞サイトは無断転載を著作権法違反だといっているが、面倒なので四誌の全文をコピーした(→こちら)。各誌がどういう論調であるのかを覚えておいて損はない。産経、日経は日米安保条約を前提とし同盟国としての当然の義務であると結論付けている。



HIYORIみどり 「で、あなたはどう思っているの?」

KAZAみどり 「米国とイラクの緊張が極限になる前に派遣というタイミングは絶妙だと思うわ。石破長官はそもそも派遣を一刻も早く実現したかたのでしょうし。」

HIYORIみどり 「集団的自衛権とか周辺事態とか難しいんですけど・・・」

KAZAみどり 「言葉遊びや防衛アレルギー反応はやめて、平時の有事法制をまじめに考えるべきね。力のない平和なんてありえないわ」

2002年12月4日水曜日

【風見鶏】「映像公開、イラクが兵器隠匿と非難 米国防総省」

12.04
産経新聞(共同通信)

ラムズフェルド国防長官とマイヤーズ統合参謀本部議長は、イラク軍が早期警戒レーダーを民間の建物に隠そうとしているところを撮影したとするビデオ映像を公開したらしい。

はなからアメリカはイラクを信じていない。潔白を証明するのはアメリカではなくイラク自身だという論理だ。しかし、公開された情報さえアメリカは信じない、自分たちの調査と異なるとして。結果として・・・



HIYORIみどり 「いよいよ " Sunday deadline" が近づいてきたわね」

KAZAみどり 「12月8日というのも意味ありげだわ。アメリカは " Remember WTC " と言いつづけてきたのかしらね」

HIYORIみどり 「ところでYUKIみどりちゃんは、日本の話題は気にならないのかしら」

KAZAみどり 「道路改革と民主党の泥仕合でしょう。ああいう報道のされ方では、外野から内紛を楽しむというスタンスに終始してしまって、政治的議論には発展しにくいわ。」

【風見鶏】「拉致被害者支援法が成立、来年1月1日施行」

12.04
日本経済新聞

支援に関する法制化が全会一致で可決した。これを素早い対応と評価するか、やっと最低限の事柄が決定したかと捉えるかは人それぞれだろう。法律により保証されることも重要だが、必要なのは具体的な(絵に描いた餅ではない)支援であろう。支援される月々の給付額についても、これが妥当であるかの判断は難しい。

政府は「どうだ責任は果したぞ」みたいな態度だが、彼女あるいは彼らの失われた24年前に対する国家責任にはこの法だけで埋め合わせるものではない。アメリカは亡命したジェンキンス氏に対する訴追を諦めてはいない。逆に考えると、日本の拉致被害に関しても、国家の義務放棄に対する追訴は免れていて良いとは到底思えない。



HIYORIみどり 「月々夫婦で24万円、大人で17万円ですって。ばかにしてんぢゃないの。年収にしていくらになるのよ」

KAZAみどり 「だから、早く日本社会に慣れて職業につくことを支援すると言っているわけよね。自立できるようになるまで保護しますと・・・」

HIYORIみどり 「これだけで良いと思えないわ。国を相手に精神的苦痛に対する賠償責任と逸失利益獲得に向けて裁判でも起こすべきぢゃないかしら」

KAZAみどり 「拉致問題はまだ全く解決していないわ。残された疑惑も含めて、それは時期尚早ね。でも"責任"というけれど、何をすると責任を取ったことになるのかしらね。今まで"責任をとる"ということを行ってこなかった国だけにね。」

2002年12月2日月曜日

ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団 2002年日本公演

  • 日時:2002年12月1日 16:00~ 
  • 場所:札幌コンサートホールKITARA 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
  1. ムソルグスキー/歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 "モスクワ河の夜明け" 
  2. ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」 
  3. ボロディン/交響詩「中央アジアの創玄にて」 
  4. バラキレフ/イスメライ(東洋的幻想曲) 
  5. リムスキー=コルサコフ/交響詩「シェエラザード」OP.35 
  6. アンコール チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割人形」より グラン・バド・ドゥ、トレパック

ゲルギエフの札幌公演に行ってきた。ゲルギエフは好きな指揮者の一人だ。彼の演奏を聴くのは2000年1月の東京公演(マーラー交響曲第2番「復活」)以来のことである。あのときは、ゲルギエフのマーラーということに聴く前は不安を持っていたのだが、終演後は、もののみごとに脳天を吹き飛ばされたかのような衝撃に震えていたことを鮮烈に思い出す。そういうことで、期待は大きいコンサートであった。
好きな指揮者ではあるが、彼のつくる音楽にいつでも全面的に賛同しているわけでもない。CDを聴いていても、極端な表現は作品解釈上の妥当性という点では疑問を感じることもある。しかし、理性を超えたところで彼の音楽に惹かれることに抗えないのも事実だ。彼の音楽は圧倒的な説得力で語りかけてくるように思えるのだ。どうも私は、こういうマッチョ性に弱いところがある。
 
最近の彼は非常に有名になってしまったようにも思える。一部ではカリスマ視するような傾向がなきにしもあらずだ。今日のコンサートもどのような客層なのかと思っていたら、老若男女入り乱れているのである。クラヲタのような人よりも楚々としたこぎれいな人(*1>が多いのを見て、私は大いなる戸惑いを隠せなかった。これほどまでに彼が支持されていることに、今の今まで気付いてはいなかった。
同じカリスマ性を称えられる指揮者であっても、ゲルギエフはラトルとは全く違った音楽を作るように思える(ラトルは生を聴いたことがない)。ゲルギエフの演奏からは、非常に生臭く「直情的で獣のような」、そして有無を言わさない熱狂を感じる。そこが万人受けする要因なのかとも思う。
 
だからといって、ゲルギエフの演奏が雑であったり感情のままに荒々しく歌い上げているだけではない。ことさらに深刻ぶるような歌い方はしなないものの、彼なりの音楽に対する統率力や計算や分析というものは、聴くことができるわけだ。
そういう点からは今日の演奏もゲルギエフらしいく、熱く歯切れの良い演奏であったのだろうとは思う。激しいところは逆巻く怒涛のように激しく、柔らかく美しいところは草原を吹き通す風か、揺れる草花のようであり、色彩豊かな響きを堪能することができた。彼の微妙な指先(*2>や、大げさな指揮により統率されるオーケストラは、まさに主兵というイメージである。
 
また、今回の曲目はソロイスティックなところが要求されるものが多く、その点も楽しめるものであった。クラリネットやフルート(*3)などの木管をはじめとして、金管も安定感のある素晴らしい音色であった。シェエラザードのバイオリンソロも、若干線の細さを感じたが決して不満足であったわけではない。一方クレッシェンドの頂点でのはじけるような音響や地鳴りのような重低音も聴く事ができた。あれだけの音響で音が濁らないというのも流石といえようか。
 
選曲は全て標題音楽的であるため親しみやすい。ロシア的色彩の強い音楽は、一幅の絵画か絵巻物を読むようでさえあった。禿山の一夜やシェエラザードなどの超通俗名曲(*4)を、これほどまでの迫力で演奏してくれれば、本来ならば満足と言ってよいのかもしれない。
しかし、実は私は大いに不満なのである。全ての演奏が終わった後、札幌ではなかなか聞くことがきないような拍手とブラボーの嵐(*5)のなか、何か煮え切らない感覚を私は味わっていた。
 
それは札幌でのプログラムに負うところも大きいと思う。ゲルギエフはどちらかというとロシアの作曲家のうち、比較的マイナーな歌劇などを録音して脚光を浴びてきたという経緯がある。今回の札幌でのAプログラムも、そういう彼らしい特色の一片が感じられるものだ。それでも、このプログラムはあんまりなんぢゃないと思うのは私だけだろうか。前半は馴染みやすい交響詩を、後半はシェエラザードでは、さながらアンコールピースの寄せ集めを聴くかのようと書いたら失礼だろうか。それとともに、Aプロはメロディアスでピアニッシモで終わる曲が多いことも特徴だ。熱狂の中にブラボーの嵐を迎えるという選曲ではない。あるいは深い意味が込められた深遠な曲でもない(*6)。
 
それと、私が期待したほどのゲルギエフらしさの薄い、どちらかというと(彼の演奏の範囲内においては)比較的理性的な演奏なのではなかったかということだ。ここについては、聴いた人により捉え方は全く異なるだろうと思う。大きな感動を覚えた人に対して異を唱えるつもりも、水を差すつもりも全くない。ただ私には、若干の不満(というか燃え滓つーか)が残ったことも確かなのである。手放しで「カンドーした!!」とは言えない。
ここで更に考えてみた。もしかするとゲルギエフは、いつでもどこでも、獣のごとく直情型に鳴らしまくるというタイプの演奏家(*7)ではないのかもしれないということだ。彼の演奏の中には荒々しさの中にも揺るぎのない統率力と、独特の美学があることは認めるところだ。札幌公演は、その美しさの方を強調した叙情的演奏を目指したのではないかと思い至ったのである。(おとなしい演奏というのではない。あくまでも彼の演奏の技芸の範囲においてということだ)
 
そう考えると逆に今日の選曲の意図というものも見えてくるように思える。ソロイスティックでありかつロシア的な叙情音楽を堪能させる、という意味においてはなかなかなもので、決してAプロを軽く扱ったということではないのかもしれない(*8)。
とは納得してもだ。シェエラザードだって悪くはないのだが、他プロの方が魅力的に見えてしまう。案外Cプロのプロコフィエフの人たちは、シェエラザードの方が良かったと思っているのかもしれないが。ちなみに、他のプログラムは、ブルックナー交響曲第4番(Dプロ)、マーラー交響曲第9番(B、Eプロ)、ストラヴィンスキー春の祭典(N響)、ショスタコーヴィッチ交響曲第7番(N響との合同演奏)(*9)である。美しい旋律でダンスするゲルギエフも良いのが、目をむき牙をむき出して襲いかかるゲルギエフも聴きたかったなあと・・・。
 
蛇足だが、アンコール最後のくるみ割人形は(*10)圧巻であったことは付け加えておこう。
  1. クラシックヲタク=クラヲタが、こぎたない(失礼な!) と言っているのではない。ただヲタクが深くなるにつれ、ある外観上のスタイルに収束する傾向はあるようだ。いくつかのパターンはあるようだが。
  2. 今日の振りは、すべて指揮棒あり。ただし指揮棒を持たない手が、時に長島の一塁への送球のあとのように(ひどい例え!)、あるいはテルミンを奏でるがごとく微妙に揺れながらオケに指示を出しているようであった。
  3. フルートは前半4曲は、曲によりファーストを入れ替えていた。女性のフルーティストは木管であった。
  4. シェエラザードにしても禿山にしても、ゲルギエフ盤が発売されていなければ、食指が伸びることはまずないだろうと思える。
  5. ゲルギエフが登場したときの拍手からしてすごかった。ゲルギエフにかける熱い期待が込められているかのようで、私は実は面食らってしまった。
  6. そんなことは、チケットを買う前にプログラムを見た瞬間にわかるぢゃないのと言うかも知れない。しかし私はオバカなので、ゲルギエフが来るというだけでプログラムを見もせずにチケットを買ったのである。コンサートの直前まで「火の鳥」だったっけ? などど考えていたのである。
  7. 書いて改めて恥かしくなってしまったが、そんな指揮者だったら、通年発情型の ただの、お○か である。
  8. こういうのを「すっぱい葡萄の論理」と言うのでしたかしら?
  9. 同日のN響アワーは、まさにゲルギエフのショスタコとハルサイを報じていた。タコ7は「一楽章のほんの一部」(有名なところね)とハルサイは全曲。ハルサイはNHK FM放送でも生放送をしていた。たまたま私は車中でこの演奏のラストを聴いた。カーオーディオがしょぼいので「なんだかフヌケなハルサイだなあ。間違ってもブーレーズやゲルギではないな」と思ったのである。怒号のような拍手の後に「演奏はNHK交響楽団、指揮はワレリー・ゲルギエフさん・・・、生放送でお伝えしています」と流れ、ナニイ!と思わず叫んでしまった。 昨日、TVで再び見てみたが、視覚による錯覚だろうか、それとも実際にそうっだったのだろうか、ものすごい演奏に今回は思えたのであった。実際、演奏の感想なんてそんなものでしかない、ということの査証だろうか。
  10. もである。いまでも頭の中で鳴っているのだ