2001年9月8日土曜日

景気回復の暁に・・・

長くなったので項を改めるが、構造改革なって景気回復したとき、皆さんどういう生活をしたいのだろうか?
 
会社に勤める人なら、夜のクラブでドンペリ飲んで、ゴルフ場に通いまくりたいのだろうか(私は経験ない)? あるいは、経費で韓国や東南アジアに行ってカジノに行きたいのだろうか(これもない)?  女性なら、ブランドバックやコートを身にまとい、海外旅行や香港買い物ツアーに毎年のように行きたいのだろうか?
 
そういう生活が、豊かな生活なのか?・・・・確かに豊かだとは思う。
 
でも、私はそんな生活をしたくはない。
 
情報や流行に追われず、家族や友人と、自由に豊かに、安心して過ごせる環境と時間をください、と言いたい。
 
隠居するということじゃない。イベント的な派手な楽しみではなく、日々の生活での楽しみみたいなものが少なすぎると思うのだ。
 
いまの日本の社会で、子供の成長を十分な余裕をもって、ともに喜んで見守ってあげられる大人はどのくらいいるだろうか。

2001年9月7日金曜日

外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質

外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。
 
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
 
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
 
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
 
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
 
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
 
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
 
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
 
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
 
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。

2001年9月5日水曜日

職業訓練の報道

9月3日の朝日新聞朝刊に、再就職における雇用のミスマッチと、職業訓練あるいは技術を学ぶ学校において「学級崩壊」が生じていることに触れていた。

学級崩壊の原因はふたつのケースがあるらしく、ひとつは教える内容が難しすぎて分からないというもの、もうひとつは、自分のやりたい内容が十分に得られない(易しすぎて実務に使えない)というものらしい。どちらもIT関連産業における技術者養成の教室として取り上げていたが、確かにキーボードを触ったことがなく、ワープロや表計0算を覚えてたいというニーズと、表計算とデータベースソフトを使ってプログラムを組むような、今風のシステムエンジニアを目指すニーズは同じ教室では扱えまい。

さらに、それらの職業訓練をたったの数ヶ月で終え、再雇用の道が開かれているのかということにも疑義を呈していた。福祉関連の職業にしても、3ヶ月やそこらで「プロ」になれるものではなかろう。数年から数十年を実務で働いていた正社員とどうして渡り合えようか。

ここに、セーフティーネットの限界が見えてくる。4日の朝日新聞(だったかな)では、中高年技術者にアジア方面からの雇用ニーズがあることを報じていた。これから技術的に発展しようとしている国が、例えば松下の大量リストラ要因を吸収するという構図だ しかし、これも給与面で満足のいく結果が得られる人は極わずかであるらしい。

ここまで雇用情勢が悪くなると「一度入った会社に、なんとしてもしがみつこう」という意識が強くなることも否定できまい。企業とて、自己啓発だ資格取得義務だの個人の付加価値を上げるように尻を叩く。付加価値の低い社員は出世させないとまで言い切る。

またしても企業論理での人としての付加価値。企業至上主義である以上は、再就職の道は極めて狭いというのが実感である。すんなり希望職に就ける人は、おそらく会社の中でも成功するタイプの人だろう。

2001年9月3日月曜日

失業時代を迎えて

IT関連企業のリストラなどを新聞で見るにつけ、恐ろしい時代に突入しつつあるという実感が湧いてくる。リストラされる対象社員(国内・国外を問わず)は、企業の狭い価値観の中で「不要」という烙印を押されるわけである。

この企業の価値観というものが今のの社会を支配しているわけだが、仮にこれを「正」とした場合、企業が求める人物像が教育などを通して育成されているのかという疑問が湧いてくる。

勉強しなくなった大学生(かくいう私も昔はそうであった)や、勉強をさせなくなってきた義務教育など、こと基礎学問に関しては教育は荒廃の一途を辿っているように思える。(というよりも、文部科学省は「できるもの、使えるもの」と「それなりの人」の二極化を図ろうとしているように思えるのだが、これは以前も書いてきた。)

さて、企業にとって有用とはいかなることであるか、少しだけ考えてみた。

企業が求める人物像を考えるに、まずタフであること(これは体力・精神力ともにである)が第一条件である。 次に、対外折衝能力に長けること。タフネゴシエーターであることは、一方的に自分の論理を展開するのではなく、人から信頼されることが必須であり、このような資質が最も重要であると考える。学習で得られるスキルとしては、専門分野におけるゆるぎなき知識があり、専門外の分野にもある程度明るいことが求められるだろう。公教育はこの点を担っているのだろうと思う。これらを有した上で、内政重視の組織型人間ではなく、外向きで前向きかつ独創的な発想ができ、思考の柔軟性と確たる意思を有し(相反する資質だが)、ジョブにおけるリスク管理ができており、いくつかの考えられるケースに対応可能な用意をしておけることなどなど・・・。そして、人物的には、人から好かれ他者への配慮と思いやりがあり、仕事オンリーの人物ではないこと、などなど。(列挙してきて うんざり してきた。「そんな奴いねーよ」てね)

こういう人物を企業が求めるとしたら、学校教育や家庭教育でできることは少ないと思えてきた。企業側は、大学まで出ていながら、使える学生が少ないと嘆くが、大学側はそれには抵抗を示しているようだ。企業への就職予備軍を作るのが教育の役割ではないと、仮にとなえるならば、教育の役割とは何か。ゆとり教育で何を見出させるのか。

失業率5%というと、すぐにセーフティーネットというが、不幸にもリストラされた方に再就職させ企業で成功するほどの「スキル」を後から身につけさせることなど可能なのだろうか。といって、学習で得られるスキル以外で自分を売り込めるとしたら、上にあげた資質を含めて他に何があるだろうか。自分を振り返ってみると、いまの立場が砂上の楼閣でしかないことに慄然とする。

一方で、企業の価値観から「正」とする人物像を否定する人物像というのは考えられるだろうか。企業=組織として捉えているわけではないので、独立した事業家みたいなものはそれには入らないような気がする。

このような社会で生きてゆく上での、道しるべが見えないのは私だけだろうか。

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル 演奏:ライプチヒ放送交響楽団 録音:1969 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。

2001年8月29日水曜日

【音盤】「今さら『運命』?」と言うなかれ!~三つのライブ録音

ラトルの「運命」が話題になっている。これを機会にと思い、その他の気になる演奏をふたつほど(フルトヴェングラー、テンシュテット)聴き比べてみた。
このほかにも、ライブで忘れられないセル&ウィーンの演奏もあるのだが、これ以上運命に付き合うのはちょっとつらいので、またの機会に譲りたい。一度聴いただけで「あたる」演奏と、何度か繰り返さないと「ピントこない」演奏、こういうのは個人差あがあるのだということが、今回の収穫か。


ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 指揮:サイモン・ラトル 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴァイオリン独奏:チョン・キョン=ファ EMI TOCE-553311
ラトルとウィーン・フィルによる「運命」である。レコード芸術では絶賛級の賛辞を与えられていた、非常に刺激的な演奏である。(レコ芸の評をどう考えるかはさておき・・・)
国内版を買うのは値段の点で躊躇してしまうのであるが、どうしても聴いてみたく購入。一聴しただけで文章を書く雑さをご了承願いたいが、これはすさまじき「運命」であると感じた。
カルロス・クライバーの怒涛のような「運命」もあるが、それ以上に刺激的な演奏に聴こえる。印象に残るのは、やはりティンパニの音やピッコロなどの音、さらには、全楽章を支配している圧倒的なリズムと切れの良さだろうか。演奏からは軋みのようなものさえ聴こえてくるではないか。今さら「運命」なんて、と思うならば聴いてみると良い。新たな感動が沸き起こるのを禁じることができないだろう。
どちらかと言うと「快速系」の演奏なのかも知れないが、軽くはない。微塵の迷いもなく突き進むその姿は、聴くものの内側に大きく質量感のある感動を落とす。ベートーベンの音楽の持つ力、硬く熱く重い金属のような力強さを我々に与えてくれる。
ぜひ聴いてみて、その音楽を感じてもらいたい(ああ、こういう演奏を聴くと、つくづく生演奏に接したくなるよ)。レヴュは気が向いたら書いてみたい。
ラトルはウィーン・フィルとのベートーベン全集の録音に取り掛かっているらしく、各交響曲の特徴を際立たせることを意図しているらしい。これからが非常に楽しみである。


ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:フルトヴェングラー 演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:1947年5月27日 DG
解説不要の名盤。フルトヴェングラーが戦後ベルリンに復帰した演奏の三日目のもので、歴史的名演奏として名高いものだ。ラトルの演奏を聴いて、改めてこの演奏がどういうものなのかを知る意味で聴いてみた。
石をぶつけないでいただきたいが、この名演を聴くのは今回が初めてであった。クラシックな方々には「基礎問題的常識」であっても、この世界に疎い、あるいは足を踏み入れたばかりの若輩者には、未知の世界なのである。
さて、この演奏の凄さはあちらこちらで語り継がれている。最近のレコード芸術「21世紀の名演奏300選」でも54年版を押しのけて上位に入ってきたという演奏である。しかし、録音はモノラルだ、本当にそんなに凄いのか?と半信半疑で聴き始めたことを告白しておこう。
半ば期待を込め半ば揶揄的に聴き始めたのだが、恥ずかしい話、感動するとかいう言葉では表現できないほどの衝撃を受けてしまった。私は2楽章のあたりからから、涙を抑える事ができなかった。始終泣きどおしで最後のコーダまで聴いてしまった。あまりにも、あまりな演奏に、この盤をもう一度聴く気力がおきないほどだ。
CDであっても「あたる」というのか、何かにシンクロしてしまう瞬間というものがある。この演奏がまさにそういう状態だったのかもしれない。何と言う「運命」がここには展開されているのであろうか。どこが凄いとか説明すること自体が無意味にさえ感じさせる鬼気せまる演奏だ。
「フルトヴェングラー的アインザッツ」とか「怒涛のアッチェレランド」とか、言葉を弄すれば何か書けるだろうが、それらは空しい行為でしかない。歴史的名盤と皆が言う意味が嫌と言うほどに分かった。
「たった一度聴いただけで分かったなんて言うな。」という人もいよう。しかし、再度聴いて、さきに始めて聴いたときほどの衝撃があるかと考えれば、それは叶わないのではないかと思うのである。衝撃は最初のものだけが真実であると思う。

 



ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 作品67「運命」(ライヴ録音) 指揮:テンシュテット 演奏:ロンドン交響楽団 録音:1990年8月30日 米RARE MOTH RM 401/2-S
札幌PALS21で見つけた海賊版。カップリングはブレンデルのピアノによるブラームスのピアノ協奏曲第1番である。
テンシュテットも私にはなじみの多い指揮者ではない。バーンスタインと並ぶマーラー指揮者という印象が強いが、あちこちのサイトを覗いていると、スタジオ録音とライブ録音の差が大きい指揮者であるという評が多い。マーラーのライブを探しているが、なかなか見つからず、たまたまこの盤を見つけたので買ってみたという次第だ。
フルトヴェングラーの演奏を聴いてしまって、続けてこの演奏を聴くことに意味があるのか、疑問に思ったことも確かだが、半ば強迫的な義務意識で聴いてみた。
最初に聴きとおしたときは、正攻法でなんとなく響きの柔らかい(甘い)演奏だな、という印象を超えなかった。ライブの海賊盤なんで音質もいまひとつだし。何気なく流して聴くとあまり特徴のない演奏に聴こえてしまうのかも知れない、「運命」という耳慣れた曲であるだけになおさらだ。
しかし、何度か聴いいると、音が自分の中で立ち上がってくるのを覚える瞬間がある。「・・・!!」という感じだ。この演奏でもそうだった、「ええ? 何を今まで聴いていたんだ?」と自問してしまった。
確かに正攻法のベートーベンだ。例えばラトルのような切り込んだ斬新な解釈はみられない。しかし、それでいて、ここには並々ならぬ熱気をはらんだ、すさまじきエネルギーの演奏が込められていることに気づかされた。ティンパニの叩きなども尋常とは思えない。地が沸きあがるようなベートーベンである。
カップリングされているブラームスも物凄い。ブラームスはワタシ的にはちょっと苦手なのだが(嫌いなのじゃない、とっかかりがつかめないのだ)あのブレンデルがものすごいピアノを弾いている。今回はブラームスのことを書くのが主旨ではないので割愛するが、このテンシュテットのライブ録音、類稀な熱演であることは確かなようだ。



2001年8月28日火曜日

構造改革なくして景気回復なし

この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。
 
景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。
 
男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。
 
女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。
 
旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。
 
そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。
 
毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。
 
景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。
 
宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。

失業率5%

失業率が5%を超えたというニュースが新聞にのっていた。失業率の捉え方もあるが、実際に準失業状態の人も含めると実数はもっと多いのかもしれない。

さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。

頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。

構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。

40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。

無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。

翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。

こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。

これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。

2001年8月26日日曜日

ついにヤマハのレッスン休会にいたる

このごろ業務とプライベート両面が多忙につき、ヤマハのレッスンも月一度受けられれば良い方になってしまった。月一度に30分のレッスンで1万数千円のレッスン料は非常に高額であるので、熟慮した末、休会届を提出した。したがって、本日がヤマハでの小松先生のレッスンは最後となる。

最後だということだが、レッスン内容は相変わらず。吹ける曲が今はヘンデルしかないんでG-mollのOp1.Nr.2を通しで吹いてみる。指使いはそれほど難しくはないが、装飾を入れたりしてセンスよく吹くにはまだ程遠い状態。特にAdagio楽章を、自分で変装を加えて吹くというのは苦手だなあ。アーティキュレーションもまた先生と復習して色々試してみる。これもどうフレーズをつなげるかひとつで、曲のイメージが変るものだ。ここら当たりもセンスなのかなと思う。

小松先生のレッスンをはじめて、おそらく3年くらいになるのだが、ヤマハでの発表会も二度出たし、レッスンもガリボルディから始めてまあよくここまで続いたなとも思う。でも、ここから先に進むというのは、ひとつの壁を乗り越えないとダメなんだろうなと思い始めたことも確かだ。

ここから先というのは、分かりやすく言うと教則本的に言えば、ケーラーのミディアム・エクササイズに入る前というか、アルテスで言ったら2巻というところだろうか。アルテスの2巻は一通り習ったのだけど、指定テンポで正確に吹けたかというと、全くもって情けないばかりで、もう一度最初からやり直してもいいくらいの出来である。

教則本や練習曲を吹きたいからフルートを始めたわけではないのだが、基礎的な指の動きというのは、どうしてもネックになるし、T&Gみたいな地道な練習が是非とも必要なわけだ。

というわけで、レッスンがあると思うと笛も持って練習もするのだけど、レッスンをこなすだけの練習になりがちだし、これを機会に、もう一度やり直してみようかなと思っているところである。

しかし、趣味なんで急ぐ必要はないと思うものの、指や歯や肺が健在で笛をいつまで吹けるのかと考えたら、他の楽器よりは満足できる年数て短いような気がする。

学生時代にオケとかやっていれば、アマチュアオケとかに入りたいと思うけど、それも無理っぽいし、同じレベルの人とアンサンブルなんかできればいいと思うけど、時間・空間・人・スキル的に難しい。

私の習っていた小松先生は、確か今現在で72歳のはず。結構もう、いいおじいさんなんだけど、肌艶はいいし白髪のきれいなヘアスタイルで、姿勢なんかもしゃきっとしていて、しかも指も私より回るてんだから、うらやましいていうか、尊敬しちゃうよね。笛を吹くという行為と、レッスンで色々な人に常に接しているというのが、いつまでも若さを保っているのだろうな。


小松先生には、フルート協会でまた会う機会もあるけれど、とりあえずはありがとうございました。



2001年8月18日土曜日

【音盤】クナッパーツブッシュのブルックナー8番


ワーグナー:「ローエングリン」Vol.1 第1幕前奏曲 ほか 指揮:クナッパーツブッシュ 演奏:ミュヘン・フィル 録音:1962(ブルックナー) 1963(ワーグナー) DG Westminster
DGのWestminsterレーベルからクナのブルックナーとワーグナーが発売されていた。クナといえば熱烈なファンも多くクナの優れたHPもいくつか拝見したことがある。クラシック初級者である私はクナの演奏をほとんど聴いたことがない。
さてこの盤はリマスターテープ版なのであるが、クナッパーツブッシュの演奏よりも、録音されている音の広がりやクリアな音質に驚かされた。ブルックナーとワーグナーの音楽が絶妙のハーモニーで響き渡り、天上のような音楽を聴かせてくれる。弦の艶やかさなどにも一点の曇りもなく、例えばローエングリンの美しいことと言ったら・・・言葉にはならないほどだ。また、ブルックナーの壮大さときたらどうだ。改めてブルックナーの素晴らしさを認識させられる思いだ
とは言っても、「クナのこの演奏は…」などと恐れ多いことは当分書けそうにない。ただ、非常に充実した一枚であることは確かなようだ、ということだけは記さずにはおかれない。(「当たり前だ!!」と怒りの声も聞こえそうだが…)

2001年8月17日金曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バルビローリ指揮 ハレ管による交響曲第5番




指揮:バルビローリ 演奏:ハレ管弦楽団 録音:Dec 1952 The Barbirolli Society, CDSJP 1018(輸入版)
シベリウスの5番を聴くときに、その中に何を見出し何を聴き取ることができるだろう。まずは、シベリウス自身がこの交響曲の着想を得えたときの言葉が、曲のもつイメージを端的に言い表しているように思えるので以下に引用してみたい。
「深い谷間にいる。おぼろげながら登る山が見え始めてきた。するとその瞬間、神がその扉を開いて、神のオーケストラが演奏する…」(「北欧の巨匠」音楽之友社 より)
いかがであろうか、曲を知っている人ならば成る程とうなづくのではなかろうか。シベリウスが「神」をどのように認識していたかは分からない。彼の曲からは(他の交響曲であっても)大いなる自然に対する畏敬とも畏怖ともとれるような感情を抱くことがある。シベリウスはキリストのような「神」ではなく、もっと包括的な壮大なる存在と捉えていたのではないかと思う。5番交響曲を聴いた後に残る全身に満たされた喜びや至福の感情は、偉大なる存在を身近に感じたときに得られる満足感なのだろうか。
もう一つこの交響曲のインスピレーションの源泉として語られる体験がある。すなわち白鳥がシベリウスの頭上を旋回し陽光の照る靄の中を、銀のリボンのように消えていったというものだ。彼は「生涯で最も大きな感銘の一つ」と記しているが、この経験そのものを音楽から感じ取ることは難しい。しかし、3楽章が終了した後の感興がシベリウス自身の感じた感動に近いものだとするならば、何と素晴らしい体験だったのだろうと思わずにはいられない。
このように極めて音楽的純度の高い交響曲を聴くに当たって、これから紹介しようとしているバルビローリ&ハレの演奏が他を圧しての名演奏であるかは議論が分かれると思う。ライナーノーツによると、バルビローリは交響曲第5番を57年(本演奏)、66年、68年と三度録音している。彼のほかの演奏を聴いていないため客観性を著しく欠くとは思うものの、私はこの演奏から多くの豊なイメージを感じ取ることができた。
このコンビの演奏の特質としては、熱い演奏ではないが迫力は十分である。録音が古いせいでffの部分音が割れているのが残念だが、オケの勢いなども不足なく伝わってくる。全体的にリズムの歯切れが良く、また音の重心の高さは涼しさや莉莉とした整然さを感じさせる。ロマンティシズムに流れそうになる部分においても、一歩手前で踏みとどまっているようにも思え、好感がもてる。といって、感情の入り方が少ないわけではない。むしろこの曲に対する深い愛情に裏打ちされた演奏のように思える。
例えば3楽章のラストへ向けての盛り上げ方には繊細さと美しさの中から、音の大伽藍が築き上げられる様であり圧巻である。音響の悪さを差し引いても十分に堪能することができるのではなかろうか。録音が悪いといってもそれはff部分であり、各セクションの動きなどは比較的良く聴き取ることがでるためクレバーな印象を受ける。そのようなところが、色彩豊かに聴こえる要因なのかもしれない。
以上のように書くと上出来の演奏のように読めてしまうが、先にも書いたように、これがシベリウスのあるいはバルビローリの名演奏であるかは分からない。それよりも、演奏される曲が素晴らしいのだと思う。何度も繰り返し聴くたびに色々なものが見えてきたり感じられてきたりする曲であると思う。
��楽章の壮大なるラストに酔うも、2楽章の思索的な散歩をするかのごとき逍遥を楽しむのもよし、また鐘か打ち寄せる波のうねりのような音楽に身をゆだねるのもよしである。言葉には換言できない音楽的体験を得ることができる。
最後にふと気づいたのだが、1楽章の勇壮な主題に入る以前の部分、弦のトレモロの伴奏が不安気な感じを抱かせる部分がある。4番交響曲のようなとりとめのなさや、つかみ所のない動きをしているものの、前作との決定的な違いは、その先に解決や頂点がある点だ。この時期のシベリウスの精神的な充実度を示しているように思えるのだが、いかがだろうか。

2001年8月16日木曜日

靖国神社と東京裁判

昨日の日記の視点で欠けているものがあることに気付いた。それは、「東京裁判」というものについてである。「東京裁判」とは言うまでもない、連合国の戦勝国が日本の戦争犯罪人=国家の指導者を裁いたという裁判だ。そこでA、B、C級戦犯が裁かれた。東京裁判の正当性について疑問視する主張があることも薄々は知っているが、それ以上の深い議論にまで立ち入って調べたことは、恥ずかしながら私としては皆無だ。

しかし、ここにまで立ち上らなければ「靖国」問題の真相は見えてこないのではないかと思い始めた。C級戦犯とされた者たちの遺族は、断腸の想いであるかもしれない。何故に自分の肉親が「戦犯」なのかと、靖国の御霊になり終戦の度に慰霊されることがどうして他国から非難されなくてはならないのかと。

戦争犠牲者の御霊を祀り、慰霊するという行為は何なのか。さまざまな想いが余りにも重く交錯し、今の段階では何が正しいのか結論付けるのことの難しさを感じる。

一つだけ言えるとしたら、戦争責任を含めて日本においては、真剣に戦争という行為を教えられてもいなければ、子供たちに伝えてもいないということだ。

【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第5番


指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1/1975 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
シベリウスの5番を曲をよく聴くにつれ、シベリウス独自の音楽的世界と音響の魅力に深く感動を覚えるのを禁じることができない。曲の全体的な印象は、前作の4番で見せたような暗さはない。エネルギッシュでまた大いなる畏敬と深い至福の感銘に満ちた音楽に仕上がっている。
シベリウスの交響曲は標題音楽ではなく、いわゆる絶対音楽と区分されているが、私には音楽的にこの両者を厳密に区別する必要があるのかと疑問を感じることがある。「標題的」「絶対的」ということ意味があるのだろうかと思うのだ。音楽研究の場ではその区別は必要なのだろうが。
なぜこのようなことを書き始めたかというと、シベリウスの音楽を聴いていると、色々なイマジネーションや感情的なものが心の中に浮かんでくるからなのだ。たとえば、第一楽章の冒頭のホルンによって導かれる木管の音などは、靄の中からの朝日のようですがすがしい思いがするし、第三楽章の冒頭の弦のトレモロなどもそよぐ風の音を聴くかのようだ。何らかの標題を付けたとしても不思議に思わないかもしれない。
そのような自然や体験から得られたインスピレーションを背景として、壮大な音楽的な世界が立ち上がってくる様はまさに圧巻である。シベリウスがフルートやトランペットを始めとする金管群に与えた役割は何と重要であろうか。クライマックスで現れる主題群は重層的な和音は、ブルックナーのようなオルガン的音響を形作る。
終楽章(第三楽章)のラストのあり方は、6つの和音が離れ離れに響き、決然たる終わり方をするのだが、なんとも不思議な終わり方をすると初めて聴いたときに感じたものである。それまでのトランペットを中心に奏でられる2分音符主題が、余りにも音楽的な充実感に満ち満ちているだけに、ラストの不自然さはいっそう際立って感じられたのである。
しかし何度もこの曲を聴くうちに、あのような曲の終わり方は、抒情に流されないかのような強い意思表明のようにも思えてきて、それがかえって心地よく響くようになってくるものである。
いままでのC・デイヴィス&ボストン響の演奏をどのような評で書いてきたか、本当は振り返る必要があるのかもしれない。今はそれを行わないが、この演奏を聴いてデイヴィス&ボストンてこんなに弦が美しくそして、打楽器や金管が力強かったかしらと思ってしまった。
特に第一楽章の最後など、トランペットの終結主題にたたみ掛けるような打楽器がかぶさり、スピーカーを通して聴いていたら圧倒されてしまい、開いた口がふさがらない状態になってしまったものだ。
先に書いたブルックナー的な和音の重なりも十分に満喫することができ、聴き終った後に至福にも似た充実感に満たされる。これぞシベリウスという感じだ。良く聴くとこの演奏には粗さもある、オケが抜群に上手いというわけでもない。でもある種の清冽さと潔さが感じられ曲の持つ性質を表現し尽くしているようにも思えるのだ。

2001年8月15日水曜日

13日の参拝と小泉首相の公約

「13日に小泉首相が靖国を参拝したことは公約違反だ、これからの構造改革を推進する上でマイナス要素を投げかけた。」と言うマスコミや政治家がいる。

昨日の筑紫哲也のニュースに出ていた自民党女性政治家(名前はわかりません)も「非常に残念、公約違反だ」と公然と批判していた。

舛添氏はこれを受け、「13日参拝と構造改革推進は別問題」「政治家は色々な意見を調整しつつ最終結論を出す」ものなので、構造改革という公約をトーンダウンするつもりはない、と答えていた。(ちなみに、枡添氏の靖国参拝に対する意見は「高度に政治的判断で評価できる」というもの)

私も、枡添氏の意見に同調する。もし小泉氏が公約とおり15日に参拝していたならば、私は小泉氏を全く理解することができず、むしろ恐怖をもって彼の行動を注視することになっただろう。

「中国からの抗議に屈したと思われたくない」などという意見も多いらしいが、これにも違和感を感じる。枡添氏も言っていたように、今回の一連の首相の言動は国際社会に対して説明可能であるとは思えないからだ。そのような理不尽なものを「公約」という一点張りで「厳守」することを要求するのはいかがなものかと思うのだ。

構造改革推進はそれはそれで、進めてもらいたいが、「間違っていた」ことには修正が必要なのではないか。そして、「間違っていたこと」を小泉首相は自ら説明する責任があるということだ。

それさえ行われれば、政治活動にどこに支障があろうか。


予想とおりの反日感情

ニュースを見ていたら小泉氏の靖国参拝に抗議してのデモや小泉人形を燃やすなどの反日行動が韓国と中国で行われたらしい。この反日行動が、ごく一部の人の間だけのもので一般市民は冷ややかなのか、あるいは、大多数がこの行動を喝采しているのか、本当のところはどうなのだろう。ニュースだけ見ると、規模や広がりについてほとんど伝わってこない。我々が受ける感情は「やっぱりな」ということくらいだ。

それにしても驚くのは、他国の行動に対してここまで過剰に反応する彼らの土壌である。それほどの反発が深い根のところにあるわけだ。行動を起こす人たちを見ると結構若い層のようだから、これは教育あってのことではなかろうかと思う。中国や韓国では、日本よりも詳しく戦争と靖国の関係を理解しているのだろう。

さらには、日本を迎合しようとしながらも反日感情を捨てきれないという何かしこりのようなものがあるのではないかと思う。それだって、教育が植え付けているのではないか?

例えば、「日本は韓国や中国を搾取してアジアで圧倒的に優位な立場を築いた」と認識しているとするなら、そういう歴史認識を教育で醸成しているわけだ。

翻って、日本人が米国やその他の諸外国の行動に対して、猛烈なる抗議をすることが一体あるだろうか。沖縄の問題にしたって冷ややかなのが現状だろう。これも教育のせいなのか、それとも、単なる無関心なのか。

やはり、他国との協調と国際社会での一員となるには、お互いの歴史観を理解することが重要で、その前提には、自分たちの歴史観を明確にする作業がぜひとも必要だと思うのだが。