2006年9月21日木曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番、第13番/ファジル・サイ





    モーツァルト
  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

ファジル・サイのモーツァルトがとても楽しい。モーツァルトのソナタ集では1953年録音のギーゼキング盤などが昔の定番であったように思えます。その中からいくつかを聴いてみますと音質は悪いものの、硬質にして男性的、そして理知的な(結構表現は激しい部分もありますが)モーツァルトを聴くことができ、今でもその価値は失ってはいないと思います。

しかしサイのモーツァルトを聴いてしまうと、録音の新しい古いを越えて、サイの音楽の瑞々しさと真新しさに驚いてしまうのです。

例えばK.330です。この曲はアインシュタインが「かつてモーツァルトが書いたもっとも愛らしいもののひとつ」と評したとのこと。今時の小学生か中学生でも弾きこなしてしまうのではないかと思えるような平易明朗な曲。しかし、この弾むようなリズム感、生き生きとした躍動感はまさにモーツァルトの天才にしか成しえない作品。サイの装飾音符の切れ味と小気味の良さ、音楽からあふれ出す喜び。第二楽章の、長調の曲に一瞬翳る憂いと気だるさ。第三楽章で再び蘇る若さの弾力と美しさを、サイの演奏は十全に表現していることに驚きます。ところどころ、左手バスの響きがはっとするほどに重く力強く(しかし粗くない)、曲に深みを与えています。まるでフィギュアスケート選手の華麗にして力感あふれる繊細な演技が描く氷の弧を眺めているかのよう。ラストのドライブ感とそれに続く強打も利き処。

K.333も同様に流麗軽快な曲。アンダンテ・カンタビーレの第二楽章はことさらに美しく、暖かい日差しの中でウトウトとまどろむがごとき曲想、しかしここにもモーツァルト的な深刻ならざる翳りが差します、このアンニュイがたまらない。冒頭の主題に戻ったときの柔らかな安心感の格別さ、全ては夢の中。再現部をサイは提示部よりも華麗かつ繊細に弾きます。とにかく聴いているだけで幸せが二つくらい増えたような気にさせてくれる曲。サイの演奏に喝采。

もっとも、17のピアノ・ソナタひとつづつの魅力や特徴を書き分ける能力は私にはないので、上の感想も、どちらがどちらのものか良く分からないのですが・・・(^^;;


どの曲でもサイは唸るように歌っていてます。それが気になるといえば気になるのですが、まあ、唸る人は他にもいますから、多めにみるとしましょう。

2006年9月15日金曜日

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番K.331《トルコ行進曲》/ファジル・サイ





    モーツァルト
  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

《トルコ行進曲》付きとして紹介されることの多い曲ですが、有名な第三楽章だけではなく、最初からきわめてモーツァルト的な雰囲気を楽しめる曲です。

例えば第一楽章。これは主題と六つの変奏曲の形をとっています。10分程度の楽章ですが、年頃を迎えた少女の寸劇を観ているかのような印象さえ感じてしまいます、例えばこんな具合に。

主題は、母への優しい想い、あるいは秘めたる気持ちを静かに暖めているかのような、あるいは恋人の写真をうっとり眺めているような、ほっくりとした幸福感を感じます。第一変奏は、うれしい知らせがあったのかのように快活になり、ウキウキした心の昂ぶりを表現します。第ニ変奏は更にスキップするがごとくに、あるいはクローゼットから色とりどりの服を出してはしまっているかのよう、気持ちはどんどん弾みます。第三変奏は一転してイ短調に変わり、心の乱れ、不安と翳りが表現されます。夢見る雰囲気は薄れ激しさが増し、いらだたしさに爪を噛み涙を流します。第四変奏は再び冒頭に現れた主題が、至福感と抒情と華美さを増して展開します。続く第五変奏は、何かを告白するかのような恥じらいとためらい、そして可憐さを感じさせる曲調に変わります。声も出ないほどここの変奏は美しすぎます(サイが唄うのも今回ばかりは許す)。そして最後の第六変奏はアレグロ、快活にそして力強く喜びが爆発し華麗なステップを舞います。

第二楽章も、サイのピアニズムの瑞々しさ、ドキドキする躍動感、夢見るような陶酔感を充分に味わえます。何かどこかが新しく、心を刺激する。決して奇を衒ってはいない。

終楽章の《トルコ行進曲》は圧巻でしょうか。トルコ趣味の曲をトルコ人であるサイが、抜群のテクニックで疾走します。アクセントの強さと鋭さ、弱音部の美しさ、その対比の見事さ。陶然とする想いにアタマの芯が痺れながら最後のコーダに突入。そ、そうくるかっ! このコーダの表現は、ベートーベンの《熱情》でも聴かれたテクニックに近い。独特のタメとその直後の加速が恐ろしいほどに曲を立ち上げる。続けざまに5度も聴いているが、まさに麻薬、何たる表現。


親しみやすく有名な曲ですが、私はある意味で極めて高度な曲だと思います。サイのピアノは色彩豊かで、美しくも力強く、目の前に無数の花びらが舞っているかのよう。

2006年9月14日木曜日

モーツァルト:キラキラ星変奏曲/ファジル・サイ

  1. ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調K.333
  2. キラキラ星変奏曲(「ああ、ママに言うわ」による12の変奏曲ハ長調K.265)
  3. ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
  4. ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331《トルコ行進曲》
  • ファジル・サイ(p)
  • 1997年9月、パリ
  • WPCS-11742

もう秋だというのに天気はグズグズとして東京は雨ばかり。仕事も忙しいばかりでさしたる成果もなく、また半年が無為に終わろうとしています。あ"~、フラストレーションがァ!と心の中で叫びながら、深夜の帰宅道をiPodに入れた中から何か聴こうとクリクリと曲を探す。

結局のところ、マーラーやブルックナーには食指が伸びず、モーツァルトのピアノ・ソナタを聴いてしまう。しかも、グルダやピリス、グールドやインマゼールなどの演奏ではなく、サイのキラキラ星変奏曲を。繰り返して。

実際のところ、サイのモーツァルトは良い。硬質な弾力が心地よく、また柔軟性とスピードも充分です。彼の最近のベートーベンにも驚きましたが、この盤にも多くの驚きが込められています。強烈なスパークに満ちた怒涛の演奏といえましょうか。聴いていて、心が弾む弾む。単純な主題から煌くような変奏の数々、しかしベートーベンのそれのように深刻や深淵には向かわない。逆説的に深い歓びも哀しみも内包しつつ、表層は無邪気な戯れだけがスパンコールのように覆う。モーツァルトの天才。それを弾ききるサイの能力の確かさ。

12の変奏の中ではハ短調の第8変奏の気だるいアンニュイ、第11変奏のアダージョが聴きどころでしょうか。モーツァルトのオペラ・アリアを聴いているようで果てしなく美しく愛しい。

夜空を見上げると空の星が少しだけ高くなっていた(>気がする。曇り空だし)。心も数センチだけ高くなる(>気がする)。

2006年9月3日日曜日

ムンク事件、解決


新聞によりますと8月31日に、2004年8月にオスロのムンク美術館から盗まれた「叫び」と「マドンナ」が2年振りに発見されたとのこと。


��ノルウェー)警察によると、両作品とも同日に発見され、ムンク美術館の専門家による鑑定と、科学的な調査の結果、本物と確認された。作品の発見については、情報提供者などへの金銭の受け渡しはなかったという。

強奪に関与した犯人は、既に捕まっていたのですが、作品は不明のままだったようです。



日本の新聞では損傷度は、予想よりも小さいとありますが、


Munch Museum director Ingebjoerg Ydstie said “The Scream” had been banged hard in one corner and “Madonna” had a roughly one-inch hole and some loose paint.Our skilled conservators will be able to repair the damage,” she said.

ということらしいです。ふたつの名画は、いったいどのような「旅」をしてきたのでしょうか・・・。このままでは、2年越しの事件も私の中では半分未解決。Google NewsのUK版などで検索すると、結構記事が出てくるようですが今は読む気力ほとんどなし・・・、つーか、ノルウェー警察は詳細語らずか。


The police statement said: "Out of consideration of police working methods, it will be hard to give details about how the operation was carried out."



2006年8月31日木曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ21番「ワルトシュタイン」・17番「テンペスト」/ファジル・サイ

ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

それにしてもファジル・サイのベートーベンはモンク無しにカッコいい。走り抜ける軽快さ、抜群の運動性能と若き熱情、そして儚いまでの美しさと快活さ。生きていることの潔さも苦しさもひっくるめて、しかし深刻ぶらず深淵にはまらず表現しきる。激しい表現をしていながらも重くベタ付くことはない。スピードが哀しさを誘うというのは、ちょっとモーツァルト的。また彼のピアノを聴くことから、ある種スポーツに似たカタルシスを得ることができます。

《ワルトシュタイン》は第一楽章の刻むリズムがベートーベン的反復で印象的な曲。弾けた乱痴気騒ぎや悪戯、物思いや憂鬱など、光と影の対比を私は感じます。この曲は第二楽章から第三楽章に移る部分が私はとても好きです、何度聴いてもいいなあと。完全にひとつ上に突き抜けた感情が、控えめながらも高らかに、そして限りなく美しく表現されているかのよう。いつしかファジル・サイと一緒になって鼻唄さえ歌ってしまう、しかしそれでも、最後の雄たけびは、やっぱり余計か。

《テンペスト》は、シェイクスピアの戯曲など知らなくても名曲だと改めて思います。この頃のベートーベンは悪化する耳の病気と危機的な精神状態にあったのだとか。第一楽章は暗くも勢いのある曲想、悲劇へと向かう走駆を思わせますが、サイのピアノはどん底の悲劇を描きはしません。ピアニシモの表現にいとおしむかのような美しさを聴くことができます。有名な終楽章も悲劇性と軽やかさを両立させながら、哀しみを美しさにくるんで提示します。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、強奏部の激しさとともに、弱奏部の余韻も美しい。思った以上に繊細な表現が聴かれるだけに、何度も繰り返し聴くとサイの唸り声が耳障りになってきます。

2006年8月28日月曜日

坂東氏の件


昨日の坂東氏の真意について見解が深まったわけではありません。ただ、ネットを見ると予想以上の非難糾弾のアラシ。坂東氏の掲示板は完全に「荒らされた」後の残滓がブスブスしてる状態で、もとの議論は欠片も見当たりません。


もはやネットに議論はなく、感情的なパッシングのみが溢れかえる。坂東氏の猫殺しの論理については私もちょっと極端だなと疑問を感じはしますが、それでも、ネットに上の過激な意見ほどには吐き気を催しません(「坂東、死ね!」とか「生きる価値なし!」とか)。そこに隠れる真実と欺瞞の差はどこにあるのか。坂東氏は図らずも、自らの暗部を晒す以上に日本の暗部を抉り出してしまったのでしょうか。


ひとつだけ予想するとすると、タヒチにおいて子猫を捨てる(殺す)ことは、そんなに異常な行為ではないのかもしれません。近代以前の日本で農村の「間引き」が公然と行われていたこととと同様に。近代になることで人権、平等などの思想により常識は変わりましたが、それによって隠蔽されたものもあるのだということ。


生んでから殺すか、生む前に殺すか(いや、生ませないか)


どうも気にかかる話題。ちょっと調べると、あちこちで随分話題となり、小池環境相までがコメントしているらしいです。内容は18日の日経新聞(夕刊)の今はタヒチに住む坂東眞砂子氏のコラム。


坂東氏は日本の土着的なホラーを書かせたらピカイチでしたし、「道祖土家の猿嫁」においては民衆レベルでの近代日本のチカラみたいなものを書ききった傑作であると思っています。「山妣」においても、人間の業深さや、強烈なエロティシズムを発散しており、彼女の作品群からは前近代的な死と隣り合わせの生の享受みたいなものを感じ取ったものです。(どちらもBook Offにこの間売ってしまったので、正確なことは覚えていない)


そんな彼女がタヒチに住むと決断したのも、現代の日本が彼女には住みにくく、彼女なりの生き方が反映された結果であると理解していました。


で、猫殺しの話題です。すなわち「避妊手術を施すよりも成猫には妊娠出産という生の本能的な喜びを享受させてやりたい。生まれてきた子猫は育てられないから殺す」ということ。


全くもって今の日本の常識においては異質な考え方であり、批判することは簡単す。当然、多くの人たちが糾弾しています。私もあんまりであるとは思う反面、あれほどの作品を書く人が、批判されることも、自己矛盾の論理と言われることも踏まえて、あえてコラムを書いたその真意がどこにあるのか、考えざるを得ません。


今の私には安易に批判の矛先を彼女の論理に向けることができません。何かとてつもなく大きなテーマを提示しているような気がしています。未熟なため、その実態と本質が私にはまだ掴めません。


2006年8月7日月曜日

エスクァイア 9月号~発見、クラシック音楽


「エスクァイア 日本版 9月号」が「発見、クラシック音楽」と題して、かなり本格的な特集をしていることをいくつかのブログで知りました。書店で立ち読みしようと思ったのですが、これが本当に、かなり詳細にしてマニアックな記事であるため、思わず購入してしまいました。

雑誌の詳細な紹介は他のブログに譲るとして、私が本記事を読んで感じたこと。時代はおそらく新たなクラシック・ファンを求めているのではないか、ということ。


記事の特集が「ロシア・ピアニズム」「古楽」「「オペラ~グラインドボーン・オペラ・フェスティバル」という組み合わせ。今年流行の「モーツァルト」は敢えて言及を避け、夏オペラのワーグナーは一顧だにせずというスタンスはなかなか見事です。

オマケCDの最初の曲、《バッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲からアレグロ》が流れた瞬間に、私は「やられた!」と思ったものです。だって、理屈ぬきにカッコいいんですもの。おそらくはクラシックに馴染みのない人も、スピーカーから音が出た瞬間にハッとし、思わず作曲家を確かめて、もういちど愕然とするに違いありません。この軽快な曲の後がシャルパンティエだなんて何て素敵な。

「エスクァイア」は男性雑誌のハズですが、これは極めて女性的な選曲と企画。というか、このごろは男性も随分と女性化しましたから、いわゆるジェンダー・フリーな感覚なんでしょう。

クラシックは快活にしてカッコよく、どこか教養的、貴方をワン・ランク上に仕立ててくれます。先鋭化された感覚の表現や究極のヒーリングを志向することもできますし、ロマンティシズムや貴族的豪華さや退廃さえも体現しています。オペラに限らずクラシックにエロティシズムを感じてしまったら、おそらくはどんな娯楽も適いますまい。眉間にシワを寄せて眼をつむり手を振りながら聴くなんて野暮ヤボ。

雑誌の編集後記に「えんぴつで奥の細道」というベストセラーを取り上げて、下記のような対話がありました。

●歳とってくると、古典とか読んでないとっていう焦りみたいなものがある。源氏物語ちょっとしか読んだことないな、とかね。暇ができればできるほどそう思う。これなら、読まなきゃいけないと思っていたものが読めて、字も上手になるし、人生も豊かになるし。

●それって結局、暇だってこと?

自分が歳を取るほどに暇になってきたという実感は全くありません。しかし日本人総体で考えると膨大な「消費しなくてはならない時間」だけは増大してきているのだろうなと。その隙間にクラシック音楽もある位置を与えられるのではなかろうかという予感だけが。

2006年8月6日日曜日

【音盤】シューベルト:交響曲 第9番 ハ長調 D944《ザ・グレイト》/ラトル

  1. 第1楽章:アンダンテ~アレグロ・マ・ノン・トロッポ(16.48)
  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート(16.26)
  3. 第3楽章:スケルツォ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.13)
  4. 第4楽章:フィナーレ アレグロ・ヴィヴァーチェ(12.15)
  • サイモン・ラトル(cond) ベルリンpo.
  • TOCE-55790

AmazonやHMVのカスタマーズ・レビュなどを読むと真っ二つに感想は割れています。かつての巨匠の名演を知っている人にとっては、冒涜に近い演奏と感じている人もいるようです。しかし私はこれはこれで面白く聴くことができました。

そもそも「グレイト」って、そんなに退屈な曲でしょうか。確かに執拗なまでのフレーズの反復、いつ終わるとも知れない音楽は冗長という印象を与えます。それゆえに、他の作曲家の交響曲などに比して深みにも欠けるという評価も受けているようです。何が「天国的な長さ」かはさておいても、そういう点を全てひっくるめてがこの曲の魅力だと思っています。

おそらく若い世代の感覚には、ラトルのようなアプローチの方がこの曲には好ましいのかもしれません。演奏スタイルを含めて退屈することなく、そしてクール(カッコイイ)と感じることでしょう。ラトルがこの曲に対して何を意図しようがベルリンpo.の演奏技術は圧巻ですし。

私のiPodにはジュリーニ指揮 バイエルン放送響の「グレイト」が入れてあって愛聴しています。ジュリーニの演奏と比べると、ラトルの演奏は全く別物ではありますが、これはこれでひとつの斬新な解釈だろうなと許容します。このような演奏も好ましいと思いますから、私も場合によってはラトルの演奏を聴きたくなります。それはビールを飲むときに、エビスやギネスもいいけれど、スーパー・ドライも飲みたいときがあるよね、といった感じでしょうか。

それであったとしても、例えばジュリーニの演奏を聴いた後に感じる、音楽を聴き通した後の至福と内側からこみ上げてくるような感情の波をラトルの演奏から感じることはありません。


ただ音楽にそれが必須な要素なのかと問われれば、私は敢えて否と答えます。いつもいつも大きな感動で襲って欲しくないという気持ちもあります。同じ曲を演奏しながらも(聴きながらも)、求めているものも、結果も全く違うのだと思うだけです。

2006年8月5日土曜日

【音盤】ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/リヒテル

GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURY

SVIATOSLAV RICHTERⅡ
    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ 第12番 変イ長調 作品26
  2. ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31の2《テンペスト》
  3. ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57《熱情》
  4. アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO57
  5. ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 WoO 6
  6. ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
  7. ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
  8. ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
  • 456 949-2

ファジル・サイの《熱情》を聴いて、ふと他の演奏も聴きたくなって、手元にあったリヒテルの演奏を聴いてみました。

ここに納められている演奏は1960年11月、ニューヨークのスタジオ録音のものです。もはや評価の定まった演奏であろうとは思うものの、改めて聴いてみれば圧巻の一言。確信に満ちた響きと圧倒的な凄みには返す言葉がありません。

それにしてもリヒテルのピアノを響きの深さといったら! 余韻の持つ美しさ、決して粗野にならない強靭さ。音に込められた意味が、音楽でしか表現できない感情が、ここには詰まっています。

ファジル・サイの演奏では経過句に過ぎなかった第2楽章が、かくも優しく染み入るような深さで表現されてしまっては完敗です。中盤の早いパッセージ部では思い出と哀しみの華が散り乱れるかのようで痺れてしまいます。

第3楽章であっても、あくまでも微妙な起伏と激しさを高度にコントロールしながら、早い中にも響きを込めます。

圧倒的名演というものは、何度も聴いていられるものではありません。救いなく渦巻きながら疾駆する絶望と哀しみ、プレストでの自虐と諧謔の後の凄まじさ。嗚呼・・・もはや論評不能。

2006年8月4日金曜日

ベートーベン:ピアノ・ソナタ23番「熱情」/ファジル・サイ




    ベートーベン
  1. ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 o.57『熱情』
  2. ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 o.53『ワルトシュタイン』
  3. ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 o.31-2『テンペスト』
  • ファジル・サイ(p)
  • 2005年6月 シオン(スイス)、ティボール・ヴァルガ・スタジオ
  • AVCL25092

ファジル・サイが「熱情」を弾くとどうなるか。いくつかのCDレビュ読み予想はしていたものの、この演奏はそれをはるかに上回る、凄い。いや正統なピアニストやベートーベン好きからは否定される演奏であるかも知れません。しかし、私は激烈にこの演奏を好み、何度も何度も繰り返し聴いています。

ファジル・サイはうなり声さえ上げながら、第1楽章から猛然としたスピードで突き進みます。第2楽章に入ってもテンションは少しも緩むことはありません。

そこかしこに聴こえるサイのうなり声。ピアニストのうなり声が録音されている演奏は少なくはありません。あのポリーニの「熱情」しかりです。しかしファジル・サイのそれはもはや猛獣の咆哮。内部のあふれるばかりの感情が抑えきれずに爆発し、溢れ、奔流する。勢いにまかせてはいますが、テクニックは抜群でピアノの粒も際立ち、ただでさえ起伏の大きい曲の振幅は激しく上下します。

恐ろしいまでの勢いで突入する第3楽章、その速いこと。もはやベートーベンの深みや狂おしいばかりの感情は、轟然とした疾走の中に置き去られます。「華麗なる絶望の曲」。ベートーベンは歓喜を込めたはずではないのに、あまりに壮烈。疾走する絶望。

速すぎて楽譜を逸脱しているとか、コーダで加速できていないという批判もありましょうが、リズムの変化は実際の加速以上に刺激的。鍵盤を駆け回り叩きつける指先の強烈さ。

かように極めて現代的な表現、今の世にして成立する演奏。スポーティーな感覚に身を委ね聴き終わった後には達成感とスッキリ感さえ覚えます。これもベートーベンか。

2006年7月29日土曜日

【本棚】桐山秀樹:ホテル戦争―「外資VS老舗」業界再編の勢力地図


昨今の東京は雨後の筍のように街中にクレーンが林立し、さながらバブルのような建設ラッシュです。さまざまな表情を魅せる超高層ビルの中に、超高級外資系ホテルが鎮座している様を眺めるにつけ、世の中本当に変わってしまったという思いを強くします。

これからオープンするザ・リッツ・カールトン東京(東京ミッドタウン)やザ・ペニンシュラ東京(日比谷)、または既にオープンしたマンダリン・オリエンタル東京(日本橋)などなど、一昔前ならば余程海外旅行通でもなければ名前さえ知らなかった外資系ホテル、このホテル攻勢は一体何なのかと、気になる人は気になることと思います。

桐山氏は東京のホテルを(1)スモール・ラグジュアリーホテル (2)グランドホテル (3)老舗ホテル の三つにカテゴライズし、これから外資を巻き込んだ新たな「ホテル戦争」が始まるのだと主張します。著者自らホテル好きで(仕事の取材でなのか、プライベートかは分かりませんが)いくつもの海外のホテルを泊まり歩いた(らしい経験に基づく)評価は興味深いものです。 

しかし、内容的にはかなり食い足りない。眼の肥えた顧客のホテル紀行文的な領域を超えず、ホテル経営という観点からの詰めは少ない。読みやすいけれど内容が薄いというのは、最近の「売れ筋」新書の特徴そのままです。ホテルの財産が建物のハードにはなく「サービス」というソフトと、それを支える人であるという指摘にも何の目新しさも新しい発見もありません。石ノ森章太郎の「ホテル」を思い出すまでもなく昔から変わらないことです。

私が知りたかったのは、それぞれのホテルの生き残り戦略。すなわち対象とするセグメント(客層)、それに対する収益の見通しなどだったのですが、この点の分析はほとんど皆無。ホテル経営的な分析を考えても、桐山氏の指摘する三つのカテゴリーはほとんど分類の体をなしていません。

もともと東京のホテル客室数は3万5000室ほど、これが一気に4万室まで増えるのだそうです。しかも、宿泊料金は最低でも5~6万円以上の高級ホテルなんです。誰が泊まるのか、こんなに出来て大丈夫なのかとは、業界関係者でなくても知りたいところです。

例えば日本銀行や三越に隣接してオープンしたマンダリン・オリエンタル東京に関する記述。

そのターゲットは日銀、兜町といった東京の中枢部の金融を訪れる、アジアや欧米の金融関係者と外国人投資家たちである。そして、日本橋の超高層ビルの最上階で、高級スパやエステを楽しんだ後、日本橋三越本店やコレド日本橋でショッピングを楽しむ「日本人女性客」をもう1つのターゲットとしている。(「第1章 外資ホテルの持つ「武器」と「戦略」について」P.38)

ちょっと画一的な解釈に感じます。(投資家がわざわざ日本に来て投資行為をするものなのか?) むしろ日本の上場していない企業オーナーや病院経営者(いわゆる日本の富裕層)を加えた方が良いのでしょうか。マンダリンの条件は、他でオープンする高級ホテルでもすげ替えが可能です。「日本橋三越」を「銀座や六本木、六本木の高級ブランド店に、「金融関係者」を「IT企業家」「海外賓客」などと入れ替えればどこのホテルでも通じるコンセプト。

おそらくは、こういう客を満足させる五つ星級の超高級ホテルが東京には今まで存在しなかったということ、更にそのようなホテルに宿泊する層が増加したことが一因なのでしょう。まさに今、開拓すべき新マーケットだったということか。

であるならば宿泊金額 数万円以上出すことを躊躇しないセグメントが、どこに、どの程度居て、彼ら彼女らがどのくらいの頻度でこれらのホテルを利用すると予想し、客単価として幾ら期待するのか。現在のホテル投資が将来の変化を見据えた「適切な投資」であるのか否かについて、もっと深く語って欲しかった。(>新書に期待する方が間違っています!)

それにしても、です。このような超高級ホテルが乱立する世界というのは、以前には想像できませんでした。そういうものが成立するマーケットが育っていなかった。やはりパンドラの箱がここでも開いてしまい、ホテル業界も極めて鮮烈な二極化傾向にあることを示していると考えるのは簡単。二極のどちら側にも入れないホテルや旅館、自らのポジショニングを定め切れないホテルは、本当に消え去るしかないのでしょうか。

2006年7月21日金曜日

【音盤】NAXOS日本作曲家選輯/武満徹:鳥は星形の庭に降りる他

  1. 精霊の庭(1994)[14:40]
  2. ソリチュード・ソノール(1958)[6:23]
    3つの映画音楽(1994/95)
  3. 訓練と休憩の音楽-『ホゼー・トレス』より-[5:02]
  4. 葬送の音楽-『黒い雨』より-[5:10]
  5. ワルツ-『他人の顔』より-[2:20]  
  6. 夢の時(1981)[14:27]
  7. 鳥は星形の庭に降りる(1977)[13:44]
  • マリン・オールソップ(cond)、ボーンマスso.
  • 2005年1月;イギリス、プーレ、ライトハウス・コンサートホール
  • NAXOS 8557760J

NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹の盤が発売されています。曲目には晩年の「精霊の庭」が入っていることや、映画音楽からの編曲も収録されていて大変に魅力的な構成です。

早速聴いてみましたが、オールソップ&ボーマンスso.のサウンドはクリアでかつ透明な響きといった印象。武満音楽の美しさを充分に表現していて聴きやすい仕上がりになっているようです。ただ個人的な好みからは、(うまく表現できないのですが)もう少し摩擦感といいますか、ひっかかりのようなものが欲しいところです。「ユニバーサル」な武満像という点では、こういう解釈が正統なのでしょうかね。

《3つの映画音楽》は、武満が手がけた映画音楽から作曲者自らがアレンジして組曲風にまとめたものとのこと。『黒い雨』は武満展で映画を観ている時は「暗いBGMだな」くらいにしか思いませんでしたが、音楽だけ聴いてみると極めて秀逸。『他人の顔』のワルツは諧謔性とデカダンな美しさに舌を巻きます。

演奏機会の少ない「ソリチュード・ソノール」も収録されているので武満ファンには必須な盤でしょう。

それにしても驚くのは(相変わらずの)片山杜秀氏の詳細にして緻密な解説。写真が挿入されているのは最初の頁だけ、下のような調子で11頁にも及ぶ解説はCDのそれを越えています。この解説を入手するだけでも、この盤の価値はあるかと・・・


かねてから敬愛していますおやぢの部屋2からトラックバックを受けました。そちらの解説の方が適切でございます。

2006年7月14日金曜日

【音盤】モーツァルト:フルート協奏曲/エマニュエル・パユ

  1. フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.299
  2. フルート協奏曲第1番ト長調K.313
  3. フルート協奏曲第2番ニ長調K.314
  • アバド(cond) パユ(fl) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  • EMI Classics 56365

アバド率いるベルリンが、1996年にパユと録音したモーツァルト。パユの演奏が気に入るか気に入らないかは別としても、極上のモーツァルトが聴けることに変わりはありません。

「気に入るか気に入らないか」などと、もって回った言い回しをしましたが、パユはかつても、そして今も、世界屈指のフルーティストと言って良いでしょう。技巧面、表現力などの点からもモンクのつけようなどあるはずもありません。

そんな彼ですが、演奏をCDで聴いていますと、平板といいますか、特別なことは何もしていないように聴こえます。フルート協奏曲であるからといって、フルートソロが前面にグイグイと押し出てくるような演奏でも技巧バリバリという演奏でもない、斬新な解釈で驚かすこともしません。ごく自然に、さらりと、優雅にモーツァルトのメロディを奏でます。

たとえばK.313では第2楽章Adagio ma non troppoの気持ちよさといったらありません。肌を撫でる暑くも寒くもない、ごくゆるやかな風のような感じ、あるいは揺り籠でまどろむかのよう。カデンツァはニンフがやってきて夢見心地の唄を唄ってくれる。素敵すぎます。(ここだけではなく、カデンツァは全てが素晴らしいです)

ですからアクの強さや個性的な演奏を求める人などからは、物足りなく感じることがあるかもしれません。あまりに上品すぎるとか、うまいだけだとか・・・。

しかし、これはこれで良いかなと。極上の音楽と極上の演奏に身を任せる至福に浸りきること、私のような素人には、モーツァルトはどう演奏すべきかとか、とか、モーツァルト演奏がいかに難しいかなど、到底理解できません。聴いていて心地よければ、それが全てではないかと思ったりします。

とにもかくにも、パユのモーツァルトには惚れ惚れ。しかも聴いていて落ちつた気持ちにさせてくれる、そんな演奏だと思います。

2006年7月12日水曜日

東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2 高木綾子/モーツァルト:フルート協奏曲 K.313


高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。


過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。




まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。


今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。


オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。


��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。


彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。


まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。


横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。


高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏、若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かったと思いますよ(笑)。



ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)


東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2


藝大の奏楽堂で、金昌国さんのレクチャーと幾つかの協奏曲を聴いてきました。



  1. レクチャー「通説に挑む」 モーツァルト フルート曲の真実ほか
  2. ホルン協奏曲 第4番 変ホ長調 K.495(大野雄太=新日本フィル)
  3. フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313(高木綾子=説明不要)
  4. オーボエ協奏曲 第1番 ト長調 K.314(K.285d)(小畑善昭=藝大助教授)
  5. 4つの管楽器のための協奏交響曲 変ホ長調 K.297B


  • 日時:2004年7月8日 13:00 東京藝術大学奏楽堂
  • 指揮:金昌国(藝大教授) 東京藝術大学有志オーケストラ
  • 真田伊都子(ob=日本フィル主席)、村井祐児(cl=藝大助教授)、河村幹子(fg=新日本フィル主席)、守山光三(hrn=藝大教授)



私の目当ては(当然ですが)フルーティストの高木綾子さんであります。高木さんの感想はエントリを改めることとしまして、それ以外の感想を簡単に書いておきましょう。


金教授のレクチャーの持ち時間は2時間。先生もおっしゃっていましたが、語り足りないくらいのようでしたね。フルートとモーツァルトが好きで好きでたまらなくて、「モーツァルトとフルートの関係を裂くような発言には猛然と反発したくなり、膨大な時間を費やして反論のための研究をしてきた」と言う金教授の熱意には脱帽するばかりです。最近手術をなさったとかで、まだ唇などが荒れたままで笛が吹けないのだそうです。そういえば(写真などと比べると)随分痩せたのでしょうか・・・。指揮の途中で指揮棒を落としておられましたが、今後も元気で活躍されることを祈るばかりです。


演奏会の最初は、2005年の日本音コン ホルン部門第1位、まさに日本を代表するホルン奏者 大野氏によるホルン協奏曲。丁寧で柔らかなホルンの音色から奏でられる音楽は、至福の時間を提供してくれました。ホルン奏者がこんなに格好いいものだとは、今の今まで知りませんでした。


オーボエ協奏曲は新日フィルの主席オーボエ奏者でもあった小畑氏による演奏。音楽演奏というものは人柄がにじみ出るものである、とつくづく感じました。表情が少し硬い印象を受けましたが、演奏は非常に温かみのあるもので、とても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。カデンツァもさすがに百選練磨のプロですね、聴きごたえのある演奏でした。


最後の《管楽器のための協奏交響曲》は、モーツァルトの真作かどうかアヤシイとされている作品です。モーツァルトを愛する金教授は「モーツァルトの作品と信じて演奏します」とレクチャー最後で述べたように、素人的にはモーツァルトの作品でないと言われても真偽の程は分からない。それでも曲を聴いていますと、他の3曲の生き生きとした音楽に比べて、どこか平板な印象が拭えない印象も受けるのは先入観のなせるわざでしょうか。


��人の管楽器奏者の中では、音色の点においてもオーボエの真田さん(左写真)が群を抜く表現力でしたね。小畑さんのオーボエよりも更に明瞭で明るい音色には惚れ惚れしてしまいました。今でも演奏する姿が脳裏に浮かびます、決してビジュアル面だけでの評価ではありません。


ということで、次は高木綾子さんの演奏の感想に続きます。


2006年7月11日火曜日

ナンダロウ、この若冲フィーバーは?


東京国立博物館の「若冲と江戸絵画展」。確かに意欲的な企画であり、内容も充実しているのですが、ブログでネット上の感想をつらつらと読むにつけ、ちょっと普通の展覧会とは違った「熱気」に包まれているような気がしてなりません。昔から若冲を知っていて熱狂している人、今回始めて知って驚いている人。それぞれが、それぞれの観かたや楽しみ方をしていますが、語る言葉が途切れることがない、と言った感じのブログが多い。


これはいったい、どういうことなのか? と、少し考えてしまうのでした。

今まで異端とされていた伊藤若冲のような「エキセントリック」な画家が、日本にも存在したという新鮮な驚きと裏切り。精神性や哲学性、あるいは寓意や歴史性の薄さ、平明で分かりやすいテーマ。ヲタク的に語ることを尽きさせないテクニックとディテール。プライス氏の、自己の審美眼を信じた自己流のコレクションの確かさ。作品の展示方法への挑戦。数ヶ月も前から公式ブログを立ち上げる周到さ。などなど・・・。


すなわち、今までの権威的な芸術運動や教育に対する無意識のアンチテーゼ、自己の審美眼を信じたという「オレ流」への共感、そして、何よりも分かりやすさ。受ける準備は整ってたといったところでしょうか。


フェルメールや若冲の作品を観て来た後は

言葉が溢れんばかりに湧き出てきて整理がつかないほどです。

要は「簡単」なわけです。



弐代目・青い日記帳のTAKさんの指摘、さすがですね。


「簡単」なことが悪いわけではありません。くだらない考察でした。




伊藤若冲 《猛虎図》部分

東京国立博物館:プライスコレクション 「若冲と江戸絵画」展

東京国立博物館で7月4日に開幕したプライスコレクションを早速観てきました。

この企画は展覧会の公式ブログが立ち上がっていまして、内容的にも非常に充実しているだろうことが予想されました。混雑の中で絵を鑑賞するのはつらいものがありますから9時には発券場に到着。開門と同時に早足で平成館まで急ぎ(チンタラ歩く100人ほどを抜き去って)展覧会場まで一気に駆けつけました。

今回の目玉である若冲と、実はこちらの方が期待の大きかった琳派の絵をまず足早に鑑賞。オシマイまでざっと、どこに何が展示してあるのか確認してから最初に戻り、今度は人の流れに乗りながら、もう一度ゆるりと鑑賞いたしました。

ただ、今回の展覧会は、そんなことまでしなくても「列は止まらずにお進みください」などという莫迦なアナウンスが登場するほどに混雑はしていなかったんですが・・・。


プライスコレクションの充実度とか若冲の魅力については、公式ブログで詳しく説明されていますから、ここでくだくだしく述べる必要がないほどです。しかしこうして、ある程度まとめて若冲に接しますと、若冲は技法の多彩な画家であり、かつ北斎に劣らぬ画狂であったのだなと思います。

有名な《鳥獣花木図屏風》(上図)は横尾忠則を彷彿とさせるポップさとラディカルさを感じずにはいられません。近寄って仔細に観ますと、升目を埋めた色彩からは芸術家に特有の疲れを知らない偏執さを感じますし、離れて絵を概観すれば象の莫迦莫迦しいほどの大きさに圧倒されます。しかし若冲は、そこに諧謔を込めているわけでは微塵もなく、真正面からこの技法と構図に辿りついているようです。

極度に簡略した技法と勢いのある筆致で描かれた《鶴図屏風》の滑稽さと洒脱さを、若い女性は「カワイイ」と感想を漏らします。しかし、当の若冲が鑑賞者に媚を払ったという痕跡は全く感じられません。

そういう若冲のたどり着いた境地が、83歳の時の《鷲図》(左図)です。同じ時期に描かれた《伏見人形図》との技法の差異に驚かされると同時に、鷲の迫力と波頭表現の様式化の対比など見事の一言であり、唸らざるを得ません。

日本画の代表と言えば応挙的なものばかり強調し、印象派は教えても若冲的な様式を教えてこなかった日本の美術教育は、いかがなものかと(一瞬)思ったりします。

第4室での展示は「江戸琳派展」と称し、酒井抱一や鈴木其一の作品を堪能できます。早朝のまだ数人しかいない展示室で、酒井抱一の《十二か月花鳥図》を独占して眺めることのできる至福といったらありません。もう思わず顔はにやけてしまい、ためつすがめつ堪能させてもらいました。

ここの展示空間は少し変わっていて、作品をフラットな照明で鑑賞するのではなく「変化する光」の中で作品の魅力が変ずることを鑑賞者に気付かせるようになっています。プライス氏によると日本画は見えすぎても良くないのだそうです。作品を照らす光により印象が異なってしまうことは、この間の地中美術館で鑑賞したモネについても感じたことです。


琳派ですから魅力的な作品は多いのですが、ここでは《佐野渡図屏風図》(上図)を挙げておきましょう。光の変化によって、キラキラと降る雪が極めて効果的に画面を印象付けてくれます。画像を観てお気づきでしょうか、印刷(レプリカ)となっては「変化して舞い降りる雪」を全く認識することができません(画面中央に「しみ」のようにしか確認できない)。実にこの画の雪の美しさときたら絶品なのですが。

ここに紹介した作品の他にもまだまだ魅力的な作品は山盛りです。長沢芦雪の《幽霊図》や森狙仙の猿も素晴らしいです。鶴や猿や虎などの動物も良いですが美人画だって魅力的です。語りだしたらキリがなくなりそうです。

こうして思い出しても本当に力の入った展覧会だと思います。図録は重いので買わなかったのですが、ちょっと後悔。会期は8月27日までですから、終るまでに、もう一度くらい行こうと考えています。(と思ったけれど、日程を考えると、もうほとんど予定がなさそうな・・・)

2006年7月7日金曜日

【本棚】「説得」の戦略


ビジネスシーンにおいて、相手を説得する場面というのは余りにも多い。私の職種の場合、説得の相手は顧客であったり役人であったり。夢見るデザイナーやガリガリの技術者であることも少なくはありません。社内においては幹部や上司は勿論、他部署の社員、同僚や部下、派遣社員。生産現場においては契約関係にある調達先の社長や営業担当者にはじまり職長から末端作業員まで。考えてみると毎日がネゴシエーションと調整を含めた「説得」に終始していると言っても過言ではないかもしれません。

もっとも私は経営者ではありませんから、株主や投資家を説得する必要はありません。

まあ、とにかく「説明」し「説得」する日常であることは今後も変わらないでしょう。しかし、社会において「説得術」は教えてはくれません。特に日本の場合は、その能力を個人のもって生まれた資質やパーソナリティに帰着させてしまっているような雰囲気があります。本書のまえがきの日本では説得力や交渉力の教育はかなり遅れているという一文を目にし、まさにそうだよなと頷いてしまいました。

内容はハーバード・ビジネス・レビュに掲載された論文記事から、本書のテーマに合う内容のものをセレクトしたものです。従って、同一の筆者が書いているわけではないく、内容の一貫性や分析の深さという点からはイマひとつの感が拭えません。それでも、自分の「説得」というスキルを改めて見直し、交渉やプレゼンテーションの場において、場当たり的に対応するのではなく、ちょっと考えて行動する小さなきっかけくらいは与えてくれそうです。

特に、ミラー・ウィリアムズのCEOと会長による「意思決定スタイル別 ビジネス説得術」は興味深い。これによれば、意志決定者は 1)カリスマ 2)思索者 3)懐疑主義者 4)追随者 5)コントローラ の5種類に分けられるのだそうです。それぞれに合わせた説得術があるのだと。自分や直近の交渉相手がどのタイプに当てはまるのか考えながら読み進めるとリアリティがあって面白いです。

「ストーリーテリング」については、我が社でもそれが得意な重役もいますね。しかし、それも時と場合によりますなあ。そもそも、本書が対象としている「説得」「交渉」のシーンは、知的で高尚な相手が主であるエリートな場面であることを想定しすぎています。我々が接するネゴシエーションの場面は、もっと低俗で泥臭いものが多いのですがね。

高木綾子さんがブログの女王?

テクノラティで「高木綾子」とか検索していたら、「こにゃにゃち日記あらため、革命的批評に向けた日記」とかいうタイトルのブログで、高木綾子さんのブログの人気に迫るとかいうエントリが目に付きました。

こにゃにゃち氏(<--名前か?)によると「セレブ系にみえて実は庶民派」「難解な言葉や専門用語を使わずに、圧倒的に分かりやすい」ことが彼女のブログの魅力なのだとか。また、

��なぜかエミールという名前の)ネコを抱いて、日本代表のレプリカを着て、女子大生にしてはよく調度された家具に囲まれて、写真に納まる。「オレもネコになりたいぞ!」と、オジサンたちの萌え心をくすぐる、このあたりが凄い

のだそうです。

のだそうです・・・。たしかに、もう俺は立派なヲヤヂである。しかし「オレもネコになりたい」か?

ネコになったら留守番ばかりだろうから、それはないな。と中年の冷静なアタマは思考する。

どうせなるなら、サルになった気でサンダル持ちになるとか、フルートケースになるとか。いやいや、そうぢゃなくて、ほら、フルート本体だよなっ、とか思ったりする。で、そうくるなら、あまり使われない「H管」(「ハーカン」と読むっ!)なんかぢゃなくて、黄金の(>実はシルバーだけど>いやいや中年だけど)「頭部管」だよな!とか。でも同じ頭部管でも「ヘッドコルク」ぢゃ暗いし狭いし臭いし痛いから(どこが?)、ベストは「リッププレート」!だようっっ!!とか・・・(-_-;;)。ほとんど意味不明・・・錯乱・・・

妄想は限りなく膨らんだりしぼんだりしながら、土曜日の奏楽堂へと心は飛ぶのでありました。

��ところで、彼女はもう「女子大生」ではないと思いますが・・・?>こにゃにゃち氏<--名前か?)

2006年7月6日木曜日

【本棚】坂口安吾:「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」「文学のふるさと」


坂口安吾を再読してみた、などとカッコウ付けたモノ言いを先日してしまいましたが、それが恥ずかしいまでの勘違いでしかなかったことを、「桜の森の満開の下」(昭22年)、「夜長姫と耳男」(昭27年)のニ作品を読んで思い知らされました。


小説を読んで、衝撃を受けたり、呆然としたり、陶然としたり、泣きそうになることなど、そう滅多にあるものではありません。しかし、この二つの作品には心底慄然とし、そして読後には名状しがたい感情に包まれてしまいました。どちらも恋愛作品の形を成していながらも、その異形の美しさ、アンモラルなまでの残酷さ、それに反比例する純粋さ、ラストに向けての予想外の展開、そして、そこに現れる虚無と孤独に満たされた充実感。


坂口安吾といえば、学生時代には「堕落論」と「日本文化私論」そして「不連続殺人事件」くらいしか読んでいなかったのかもしれません。今回「FARCEについて」や「文学のふるさと」「風博士」などを読み進めますと、坂口を読み解くキーワードのひとつとして「不連続」というか、すなわちプツンとちょん切られた空しい余白(「文学のふるさと」)ということを感じます。坂口は、その余白に非常に静かな、しかも透明な、ひとつのせつない「ふるさと」を見ないでしょうか。と続けます。


坂口の指摘する「ふるさと」の意味は、我々が日常に使う語彙とは異なっています。そこで得られる虚無、恐ろしいまでの孤独、不連続性、不条理にも似た感覚、そして何か、氷を抱きしめたような、せつない悲しさ、美しさ。そういうものが存在する場所。そして、そういうものを表現しきっている小説の凄さ。私の拙い言葉では、作品の魅力を還元することは困難、坂口安吾、恐るべしですね。


かの松岡正剛氏もともかくは『夜長姫と耳男』を読むべきと書いています。本屋に走らなくても「青空文庫」でかなりの作品(著作権切れ作品のボランティア配信)を読むことができます。azurブラウザ使用しますと、電子ブック感覚で読みやすいです。

2006年7月5日水曜日

【音盤】高橋アキplays武満徹

  1. 閉じた眼
  2. ピアノ・ディスタンス
  3. 遮られない休息 I、II、III
  4. リタニ I.アダージョ II.レント・ミステリオーソ-アレグロ・コン・モート
  5. フォー・アウェイ
  6. 雨の樹 素描
  7. 雨の樹 素描 II
  8. 閉じた眼 II
  9. 2つのレント:アダージョ-エ・テンポ・ディ・リベロ、レント・ミステリオサメンテ
  10. ロマンス
  11. こどものためのピアノ小品 I.微風、II.雲
  12. ゴールデン・スランバー
  • 高橋アキ(p)
  • TOCE-13320

    ��月末に直島を訪れたことは以前書きました。そこで現代美術作品などに接したせいか、無性に武満徹を再び聴きたくなってしまいました。EMI ClASSICS 決定版1300に高橋アキさんのピアノ演奏を安価で入手できますので、早速聴いてみました。

    正直に言うならば、武満徹の音楽はいまだによく分かっていません。ですからこの盤に納められた「こどものためのピアノ小品」とか、おなじみのビートルズ・ナンバーを編曲した「ゴールデン・スランバー」などの、あまりゲンダイオンガクしていないメロディの中に、つい、自分にとっての武満の音楽的意味とか価値を見出そうとしてしまいます。武満は難解な曲も書いたけれど、一級のメロディメーカーだったんだなという一面的で独断な納得の仕方、武満もそんなにとっつきにくくないぢゃない、という偶像の民主化。

    武満の曲は「こどものための」だとか、スタンダードナンバーの編曲であっても、実は演奏するのが、かなり難しいのだそうです。でも、そういう難しさを全く感じさせずに曲はあまりにも美しい、美しすぎて哀しくなるくらいであります。ですから、武満の音楽に癒しを求めてしまうことも否定はできません。

    しかし、そういうアプローチしやすく親しみやすい武満像とは裏腹に、難解ながらも響きの豊穣さに浸りきったとき、音楽が琴線の深いところにハマる武満音楽というのもある。本盤の最初に納められている「閉じた眼」はルドンの絵を思い出さずとも、心の深いところに降りてゆくかのような静けさと、ある種の激しさに深い感銘を覚えます。比較的親しみやすい「雨の樹素描」は、たっぷりと水分を含んだ質量感のある大樹の豊穣さが脳裏に浮かびます。

    相場ひろさんはCD解説の中で、前衛音楽の先駆者であった武満と映画音楽などの分野で活躍した武満を「ふたりの武満徹」の相克として説明しています。かつては前衛時代の武満こそが本来の姿であるとして評価されていたが、現代においては武満の価値は一転しのだと。

    こんにち武満を聴き、愛好する人たちの多くにとって、かつてとは逆に彼は、前衛音楽に対する調性音楽の勝利を象徴する作曲家として理解されているようなところがありはしまいか。

    これを読んで一瞬はっとはしたものの、あまりに武満を理解する「型」に拘泥しすぎてはいないかとも思います。

    虚心に聴くならば、先にも書きましたように、ある瞬間に音楽が琴線を奮わせる。セリー理論だとか調性だとかの専門家しか理解できない音楽理論をゆうに飛び越えて、音楽の持つ得体の知れない力が人を捉えて放さなくしてしまう。そんな武満音楽の魅力を改めて思い知らされてくれる名盤であると思います。

[読書メモ]坂口安吾

坂口安吾の作品をいくつか読んでの雑感。



  • 若さゆえの肉欲を抑えきれない精神
  • ロマンチストゆえに恋愛と肉体の愛のハザマにあって、肉体の愛を究極までに純化することによって、あからさまな欲情をカモフラージュした
  • すなわち、女性には精神的な要素を認めず、現代から考えると蔑視とも取れるかのような存在として描く
  • それは「白痴」という正常な精神を有さない女性であったり、肉体の要求のまま生きている淫売であったりする
  • そして行為を許容したり拒否しながら、行為そのものへの欲求を客体化させてしまう
  • 自分をひたすらに堕落せしめているとは言っても、所詮は気ままな男のやけっぱちさ?
  • 堕ちた所から見えてくる姿、そこから斬ること

2006年7月2日日曜日

坂口安吾、太宰治、そして町田康など


町田康を読んでいたら、ふと坂口安吾でも再読してみるかという気になり、「堕落論」「続堕落論」(1946年)、「日本文化私論」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)、「デカダン文学論」(1946年)などをつまみ読みする。



戦中に書かれた「日本文化私論」や、戦後すぐに書かれたや「堕落論」は今読んでも、いささかもその光芒も力も失っていないものだなあと関心しきり。「デカダン文学論」では島崎藤村や横光利一、夏目漱石をコテンパンにやつけている。特に「こころ」の主人公を自殺させたことに対して、坂口は辛辣な批判を浴びせている。


自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに


坂口の堕落は、現代から見ると古い日本的なものからの逸脱であり、決して所謂「退廃」を意味していない。力強く前向きだ。


「不良少年とキリスト」は、MC(マイ・コメディアン)を演じた太宰治が自殺した直後に書かれた太宰のバカヤロウ的文章で思わず胸が詰まる。そう思ったら無性に太宰を読みたくなって「人間失格」「斜陽」そして未完の「グッド・バイ」を続けざまに読む。


太宰はダサイだの暗いだの言われていたし、今で言えばヲタクみたいな同級生が太宰を好きだったりしたことも手伝って、学生時代には太宰の小説からあまり感銘を受けなかった。しかし、この年になって改めて読むと、彼のニヒリズムの厳しさにヒリヒリする。「人間失格」を書くために太宰は生まれてきたと文庫解説の奥野健男氏は指摘する。しかし「斜陽」の4人の主人公とて全て太宰の分身ではないか。2作を続け読むと誰が誰で何をしでかしたのかの境界がぼやけてくる。井伏鱒二は「悪いやつ」だったんだなアとか(笑)


坂口は「不良少年とキリスト」の中で

あれを人に見せちやア、いけないんだ。あれはフツカヨヒの中にだけあり、フツカヨヒの中で処理してしまはなければいけない性質のものだ。

と断じた。しかし太宰を読んだ後に、もう一度この文章に接すると違和感がある。坂口と太宰は根本からして違う人間なのだ。むしろ太宰の内面は三島のそれに近いような気がする(だから三島は太宰を「近親憎悪」したのか)。坂口と太宰は明らかに系譜もベクトルも異なっていることに、今更ながらに気づく。


町田文学は太宰の系譜を汲んではいる。しかし彼もあそこまで退廃はしていない。独特の醒めた眼がある。それが諧謔のギリギリのところで彼を踏みとどまらせる。太宰はコメディアンで芸術家で革命家ではあったが、町田はパンク歌手で詩人である。坂口もパンクだ。しかし、それぞれが求める堕落も革命もパンクも異なっている。


太宰も町田も個人と人生の大いなる虚無を見つめ、虚無から逃避することでばかばかしい日常を無理やり生きた。ドラックとアルコールは共通だが、町田氏は白い狂気に向かい、太宰は暗い死を選んだ。坂口は、ひたすら強く生きたか。


最後に、多分、町田氏は死なねーなと根拠なく思ったところで(今時死ぬるほどに虚弱な芸術家は絶滅したか)、柄にもないデカダン文学浸りはオシマイにしよう。

2006年7月1日土曜日

[読書メモ]町田文学のエッセンス

町田文学のエッセンス、根本的なパターンに変化はない。


  • ダメ人間と現実のねじれ

  • 奇行と狂気

  • 本人が真面目であり、世間の期待に応えようとしつつも結果は異なる方向にしか向かわない

  • 自分を客観視

  • 自虐的な喜劇

  • 人生に対する余裕



2006年6月29日木曜日

直島めぐり【その3】ジェームズ・タレル


安藤氏とジェームズ・タレル氏によるコラボレーション作品は地中美術館と「民家プロジェクト」の南寺で接することができます。

タレル氏といえばアリゾナ州のローデン・クレーター・プロジェクト(未完成)が有名です。このアート作品はクレーターという自然のすり鉢の中から天空を眺めるというものです。あたかも宇宙空間を切り取ったフレームの中から見せるという壮大なるものです。以前TVか何かで放映され、いかにもアメリカ的なスケールのでかさに驚いたものです。

地中美術館にある「アフラム、ペール・ブルー」は、室内インスタレーション作品。光の中に脚を踏み入れるかのような不思議かつ非現実な体験が得られます。ただ危険防止のために柵とアラームが設置されているのは残念。これでは地下鉄ホームではないですかっ、タレル氏の非現実感を「この先危険」を知らせる無機質なアラーム音が、まったくただのジョークにしてしまっている罪は大きいと思います。

南寺で体験できるのは「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」という作品。こちらは、そういう莫迦げた演出はありませんから、素直にタレル氏の作品世界に浸ることができます。

まず鑑賞者は全くの「暗室」に通され、ベンチに座ることを促されます。室内は目を開いているのか閉じているのかさえ判然とせず、目の前には網膜に明滅する模様しか見えません。ちょっとした根源的な、実存を脅かすかのような恐怖さえ感じます。

ふと長野善光寺の胎内巡りをふと思い出します・・・(空間の広がり感はまるで異なりますが)、あそこでは「鍵」に触れると極楽浄土が約束された筈。タレル氏の「鍵」は光。室内に入り5~10分すると暗闇に慣れてくることで、部屋の正面に薄ぼんやりとした映画のスクリーンのような弱い光が見えてくると説明されました。光が見えたらそこに向かって歩いて行ってよいと・・・。

本当に自分にも「光」が見えるのか、不安と期待に捉われながら、自分がどこに居るのかも分からない暗闇で待つこと数分。それは不思議な体験でした、徐々に目の前に何かが見えてきたときの覚醒の感覚と感動。

説明すると、ただそれだけの作品なのですが印象は強烈でした。何も見えなかったところから浮かんでくる光のスクリーン。一旦見えてしまうとそれを背景に明滅する先を歩く人の幻影さえ認識できます。全くの暗黒の中で自分や同行者を再び見出したときの不思議な驚き。あたかも3D画像が初めて「見えた」時の驚きや悦びに似ていましょうか。

この手の作品は、「時間がかかる」ため、日本やスウェーデン、ノルウェイなどでは受け入れられるものの、アメリカやドイツでは展示が難しいとタレル氏は言います。日本人であることを喜ぶべきでしょうか(笑)

タレル氏は「光や空間の芸術家」と紹介されます。アートや芸術が人に感動を与えたり、自己を再認識させたりするものであるのならば、タレル氏の作品は改めて一級の作品であると思うとともに、はじめてインスタレーション作品の持つ「力」を思い知った次第です。

●直島めぐり1 ベネッセハウス

●直島めぐり2 地中美術館

●直島めぐり3 ジェームズ・タレル









2006年6月27日火曜日

直島めぐり【その2】地中美術館


安藤忠雄氏の地中美術館は2004年7月18日にオープンしました。クロード・モネの絵画とともに、現代美術作家であるジェームズ・タレル氏、ウォルター・デ・マリア氏の作品が常設展示されています。



建物のほとんどが「地中」に埋設されていること、そして今や世界的なとも言える建築家である安藤氏の建物そのものが「作品」になっていることなどから、建築関係者を越えて話題となりました。

予め写真や雑誌などで、建物の概要は掴んでいたつもりですが、実際に安藤氏の建築を「体験」してみますと、彼の作品の中でも群を抜いて素晴らしいと感じました。今年オープンした表参道ヒルズが、全くいいところなしであり落胆させられたのとは、えらい違いです。

表参道ヒルズは、そのプロセスそのものが「作品」であったというのが私の評価ですが、直島プロジェクトはプロセスと結果を含め彼の代表作足りえていると思います。安藤氏の作品は、商業的な垢にまみれてしまうより、建築が屹然として存在を主張できるカタチの方が合っているのでしょうか。建物を地面に埋めてしまうということは、究極の環境配慮なのか、環境に対する欺瞞と冒涜なのかは議論が分かれると思いますが・・・
ここに収められたモネの作品も、静謐な空間と柔らかな自然光によって生来絵が持っていた美しさと力を取り戻しているかのようです。モネの聖地ともいえる新装されたパリのオランジェリー美術館がどういった展示空間になっているのかは分かりませんが、今まで接したモネの中では、最も絵画に適した環境であると感じました。

モネは大好きな画家ですから、このような空間で睡蓮シリーズに接することができたことには深い喜びと至福さえ感じます。自然光に照らされた絵画は通俗名画的な俗悪性を一切脱ぎ去り、霊的な雰囲気さえ漂わせていました。

ここでの安藤氏の建築は非常に控えめで、作品の力を引き立てることに成功しているようです。安藤氏には珍しく、コンクリートには塗装を施し、室内の入隅部は曲線を用いています。床に敷きつめられた70万個にも及ぶ2cm角の大理石も静謐な空間を作ることに一役かっています。

ジェームズ・タレル(米国:1943年生まれ)の展示スペースのひとつである「オープン・スカイ」は、鋭利に切り取られた空と、そこから降り注ぐ光の変化を楽しむ空間芸術です(左写真)。これには全く驚かされました。ウォルター・デ・マリアの展示スペースも素晴らしい。(ジェームズ・タレルについてはエントリを改めます)



しかし何よりも一番驚いたのは、やはり安藤氏の建築そのものでした。特に三角コートを結ぶ回廊の壁を切り取る開口幅35cmのスリット(左、下写真)は驚きでしかありません。建築の持つ有無を言わさぬ説得力という点において圧倒的です。



印象派のモネも、展示されているのが晩年の睡蓮シリーズですから、もはや抽象絵画、光と色彩の洪水と称しても良いような作品。建築家の安藤氏と、モネや光の芸術家であるタレル氏などの現代美術が、違和感なく融合しているのも、ともにギリギリまでの純粋性を志向しているという点で共感しあうものがあるのでしょうか。



ちなみに、掲載した写真や図面は「あちこち」から無断転載したものです。

2006年6月26日月曜日

直島めぐり【その1】 ベネッセハウス


香川県の直島に今年の5月オープンしたばかりのベネッセ・ハウス「パーク」に宿泊。安藤忠雄氏のコンテンポラリー・アート・ミュージアムと、2004年に出来た地中美術館、それと家プロジェクトなどを駆け足で観てまわってきました。

下の写真はホテルのバルコニーからの風景、なんともリッチです。部屋からは瀬戸内海が一望でき、山からは鶯の鳴声が朝の5時くらいから聴こえてきます。



宿泊施設も安藤氏の設計ですから、エントランスロビーからして、こんなカンジです。最近はコンクリートに長大な横スリットというのが、彼のお気に入りのようです。



レストランに向かう廊下も、こんなふうにコンクリートで出来ています。ここでは縦のスリットが綺麗ですね。



レストランのウッドデッキの目の前は砂浜。長閑な瀬戸内海が望めます。天気が良いと四国まで点在する島々が見えるのでしょうね。瀬戸内海は交通の要所らしく、タンカーやらフェリーがひっきりなしに往来しています。

ホテルは「アート・ミュージアム」というくらいですから庭には様々なアート作品が点在しています。



ほんとうに駆け足ではありましたが、なかなかにJCB GOLD的な旅でありました。詳細は続きます。



●直島めぐり1 ベネッセハウス

●直島めぐり2 地中美術館

●直島めぐり3 ジェームズ・タレル











【本棚】パンドラの箱とフラット化


Syuzoさんのブログを読んでつらつら考えます。

私も仕事とは別に、この先どういう世の中になっていくのかの興味がつきません。「パンドラの箱」を考えるキーワードの一つは、私の場合は「フラット化」ということです。情報化やIT化が産業革命に次ぐ大きな変革であると説いたのはドラッカーだけではありません。

「フラット化」ということが気になっていたら、本屋でトーマス・フリードマンの「フラット化する世界~経済の大転換と人間の未来」という本がたまたま目に付き、読み始めています。フリードマン氏は自著の「レクサスとオリーブの木」を引き合いにしながら、グローバリゼーションが大きく三つの時代として存在していたと説明します。

ひとつは旧世界と新世界の間で貿易が始まった1492年から1800年頃まで(グローバリゼーション1.0)。次が多国籍企業による世界統一の時代で産業革命を含む1800年から2000年まで(グローバリゼーション2.0)。そして今はグローバリゼーション3.0に移行したのだと。個人や小集団が簡単にグローバル化することが可能になったということ。確かにこれは劇的な変化です。

私の常識は、私の子供にはもしかすると伝わらない。私たちの成功体験は、彼らの世代には無意味なものとなるかもしれない。私たちの時代の幸福感は彼らの不幸でしかないかもしれない。未来はどこに向かうのか。政治の力が復権することはありえるのか、経済や資本主義主導ではない社会は到来するのか。個人と組織の関係は変化するのか。哲学や文学は、あるいは音楽やアートは何を表現するのか。神は終に絶滅するのか、あるいは劇的復活を遂げるのか、Googleが神だなんて、あまりに莫迦げていませんか?

2006年6月23日金曜日

町田康:へらへらぼっちゃん


町田氏のエッセイ集です。彼が「くっすん大黒」を発表したのが1996年のこと、ここに収録されているエッセイは1992年からのもので、彼が小説家としてデビューする前の文章であるという点で興味深いものです。

内容は彼の小説世界そのままで、内装業者友達の世話による「ペンキ塗り」や「冷蔵庫」に関する逸話も、彼の体験に基づいたものであることが理解できます。

それにしても不思議なのは、3年間も働かずに昼間から酒を飲み時代劇を見続けるという生活を続けながらにして、人間的にも家庭的にも破綻しなかったという驚くべき彼の持続性。


何もしないで遊び呆けることの難しさ。彼の処女小説「くっすん大黒」が上梓されることになるに当たって、

私はこの本を、これから就職する人や仕事をやめてぇ、と思っている人に読んで欲しいなあ、と念願している。(「遊びの苦しみ」P.227)

なんて書いています。彼の「遊んで暮らす」というのは筋金入りでして、その覚悟はあるかと。

なにしろ当方は、必死になって何もしないで遊んでいようとしているわけだから、昼酒を飲んでみたり、再放送のテレビ時代劇を日に五本も見たり、都々逸の稽古をしてみたり、木桶に飯と菜を盛って、犬のように手を使わずに食ってみたりと、いろいろ試しているのである。(「旅人・遊び人」P.13)

なんだそうであります。ココだけ読むと、キの印としか思えないのですが、まあそれが町田康なんですねぇ。

町田小説にどっぷりつかってしまった人には、彼のルーツが分かるようなエッセイでもありまして、ビール飲んだりハム食ったりしながら、芝清之編「東西浪曲大名鑑」、坂口安吾「明治開花安吾捕物帳」、八剣浩太郎「大江戸愛怨伝」、織田作之助「江戸の花笠」なんて読んでいるんだものなあ、そうか、そうか、やっぱりそうであったか、なんてね。思ったりするわけです。

大槻ケンヂの巻末の解説も抜群。

ここで、ふと思ったけれど、彼の小説の読者層というのは、やっぱり十から二十代の若者なんではなかろうかと、いい大人が「町田康はオモロイ」なんて書いているのは、もしかすると、間違っているかもしれない・・・。場違いなライブハウスにスーツ着て聴きに行ったような、恥ずかしい違和感。そろそろ町田巡りもオシマか?しかし・・・町田本を読むのを止めたら、次は誰に熱中できるというのだ?

2006年6月21日水曜日

町田康:権現の踊り子 ほか


興味のない方には「いい加減、町田ネタはうんざり」と思われるでしょうが、面白いのですから仕方がありません。個人的な備忘録としてのブログですから、興味ない方はスルーして下さい(苦笑)。

で「権現の踊り子」という川端康成文学賞を受賞した作品を含む短編集。面白いのは「工夫の減さん」という、ことごとくマイナスかつネガティブな作品でしょうか。

減さん(名前がそもそもネガティブ)は、全く役に立たない「工夫」を繰り返し、その「工夫」が本人の幸せにも周りの人たちの便利にも全然寄与せず、しかも減さんが、多大な苦労をして日々「工夫」をしながら生きていることを周りの人は理解していないという不毛、絶望、断絶、滑稽。ああ、町田文学の全てがここに濃縮されています。

「それにつけても減さんは工夫の好きなやつだったよねぇ」と話しかけた。
女は俺の顔を見て、「そうだったっけ」と言って首を傾げた。俺は、
「けっこうそうだったよ」と小さい声で言って麦酒を飲んで噎せた。

思わず知らずに答えて噎せる主人公。噎せざるを得ない、この無理解と摩擦と哀しさ。

他者が徹底的な「他者」となり、自分だけが取り残され絶望的な狂気に至るさまをB級ホラー的な味わいで描いた「ふくみ笑い」も、時代劇好き町田氏にして描けた、人格が破綻た水戸光圀を主人公とする「逆水戸」も、モンクなしに面白い。中崎タツヤあたりにマンガ化してもらいたい味わい。

しかし・・・町田文学は、確かにどこにも向かっていない。ヘタをすると人間の虚無と立ち向かって、へらへらと笑っている。なんで、こんなことをするのか、どうしてこうしなければ自分は生きられないのか。笑いながらも深淵を覗いている。

2006年6月20日火曜日

町田康:告白


時代劇の好きな町田氏が、近代的自我を持たない社会の中に、極端に自意識過剰な自我と思弁を持ち込んだら、両者に生ずる摩擦とかズレがさぞ面白かろうに、と思って描き始めたのかどうかは分かりません。しかし内容は、そういう単純な意図をはるかに越える内容を描ききっています。

小説は近代的過渡期に生まれた悲劇を描くに留まりません。人が成長してゆく過程の中で、思弁的かつ自己弁護的なるものを捨て「大人」に成ることに付いてゆけない者の圧倒的孤独をも描いており、そういう点においては、現代的かつ町田的テーマでもあります。


熊太郎の持つ存在の哀しさ。それは近代的自我持つ主人公と他者との間に横たわる深い溝として説明されます。彼だけが思弁的内向性を有していたが故に、他者に自分の考えが「伝わらない」ということ。しかし、彼の考えだけが伝わらないのではなく、他者の思弁も、熊太郎はそんなものは存在しないとアタマから否定していことによって、彼には一生理解することができないのです。存在しないと考えるものを理解することはできません。

他者と自分の痛いまでの違いの認識、自己認識あるいは、極端なる自意識。行動よりも思弁が圧倒するということ。決して埋まらない自己と自己、そして自己と他者との間の断絶の中で、分裂と不信、甘さと自己愛に支配された彼は、救いと自己の解放、現実との整合などを求めて、どこまでも、どこまでも、捩れていきます。

現実と折り合いのつかなさ、世渡りのヘタさ、真面目にやればやるほどに、ズレてゆく主人公の姿は全ての町田文学の典型です。しかし、「告白」で描かれた狂気の結末は、不条理やユーモアという笑いのオブラートを取り除いたが故に、彼の他のどの小説にも似ず悲劇的です。最終的に熊太郎は救わなかったような描かれ方をしています。彼の見つけた自己の内部の「曠野」、果てしない虚無と絶望。銃声は彼の何を殺したのか。

もう一度、いやしかし、彼は本当に救済されなかったのだろうか、と考えます。ここには、「人は何故人を殺すのか」ということ以上に、「人は何故に生きるのか」「何故に死すのか」という命題をも含んでいます。熊太郎のダメ姿を自己投影する読者も多いはずです。そこに町田文学に対する共感があり、そして深く考えさせられます。

改めて思う、町田氏は凄いです。classicaのiioさんに教えられて町田道に入りましたが、最初からこの本を読まなくて、つくづく良かったと思います。感謝の意を込めてTBしておきます。

2006年6月18日日曜日

山口恭子:だるまさんがころんだ、猿谷紀郎:碧い知嗾/岩城宏之 & OEK




  1. 山口恭子:だるまさんがころんだ (1999)
  2. 一ノ瀬トニカ:美しかったすべてを花びらに埋めつくして… (1995年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)
  3. 猿谷紀郎:碧い知嗾 (2003年度オーケストラ・アンサンブル金沢委嘱作品)


  • 岩城宏之(cond) オーケストラ・アンサンブル金沢 高木綾子(fl)
  • 2003年4月24(1)(2) 2003年9月19日(3) 石川県立音楽堂コンサートホール(ライブ録音) WPCS-11723

せっかくなので、山口さんと猿谷さんの作品についても言及しておきましょう。

最初の山口さんの曲は「だるまさんがころんだ」という無邪気なタイトル、しかし童謡風のほのぼのさとは全く異質の音楽世界、静と動の激しい対立と緊張が表現されています。山口さんはこの曲が残響の長いホールで演奏されることを意識したそうです。長く引き伸ばされる音、小刻みなフレーズ、弱奏とたたきつけるような音塊、そして最後の消え入るような終わり方が印象的。5分程度の短い曲ですが、響きの生み出す面白さと不思議なイメージを堪能できます。《本当は怖い「だるまさんがころんだ」》

猿谷さんといえば、「ディープインパクト~栄光」で有名な作曲家(らしいです)。慶応義塾大学法学部卒業後、ニューヨークのジュリアード音楽院作曲科に留学し優秀な成績で卒業されているという異色かつエリートな経歴。彼の書くプログラムノートも哲学的で難解。雑踏の中に時折飛散する少し碧みがかった花弁のような真理を拾い集めてみたいとあるのですが、私には雑踏の中での無秩序で不安な断片のようなものしか聴き取れず。こちらの曲は、今の私には余り馴染めませんでした。猿谷さんは現代作家の中で確たる地位を築いている方のようですので、他の作品も機会があれば聴いてみたいと思います。