朝日新聞の文化総合欄に、「雑記帳十二ヶ月」と称して作家の高村薫が小文を寄せている(2月3日(日))。今回のテーマは「受験」についてである。
高村は「近代、小説が受験に苦しむ青年を正面から描いた例は、ひとつも思い浮かばない」と言う。それを「入試試験が即物的な技術に過ぎず、発見も悦びもない単純な流れ作業」であるため、そのことに費やした時間が「自虐以下の何ものかであり、だから小説も描かない」と解く。そして、いまの受験の道が「近年あまりに長くなりすぎて」いると疑義を呈し、受験生を「長期刑を科せられた囚人のよう」と、受験そのものを「所詮不毛な経験」と言っている。
あながちはずれた意見ではないと思うものの、現実は、だからといってどのように振舞えば良いのかの回答はない。思えば子供達には中学生になる頃から漠然とした大学受験というプレッシャーが与えられる。昔も受験戦争や受験勉強もあったのだろうが、今ほどは加熱していなかったというべきなのだろうか。あるいは、勉強以外のことに対する刺激が少なかったのかもしれない。受験が重圧として感じるのは、それに費やす時間を捻出するのが苦痛ということもあるのだろうし。
子供にはいろいろな可能性と、いろいろな性格がある。一律の教育に当てはめることじたいがもう無理な時代になってきているのだろう。
子供が勉強が嫌いというのは、間違った見方だと思う。誰だって学ぶことの悦びや、未知なるものへの好奇心というものはある。それを、学校の勉強や受験勉強では教えることができないということそのものに間違いがあるのかも知れない。
勉強に限らず、昨日できなかったことが今日できるようになることは、誰にとてっても悦びである。そういう学習に対する向上心を芽生えさせるような教育というのは、今の体制では不可能なのだろうか。
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