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2002年10月10日木曜日

悪意を前提に生きるということ

ネットでの書き込みを読んでいると、ネットで嫌な思いをしている人が意外に多いようだ。インターネットをやめてしまった人もいれば、自分の文章を利用されてしまっている人もいる。不特定多数を相手に公開している以上、HPの悪用という懸念はつきまとうし、迷惑メールも覚悟しなくてはならないし、ウィルスやハッキングも日常茶飯事だ。「ネットに存在する悪意」を前提にネット生活を送るということは、もはや常識であろう。

これはネット生活ばかりではなく、実生活においても同様の状況なのだと思う。以前は考えてもみなかった「悪意」を意識するということは、特に今までそういう意識のなかった私達には少しばかり気の重い作業である。特に性善説の立場を取る人には「悪意」を意識することには罪の意識さえ伴う。事故防御として当然と言われればそれまでなのだが。

最近の事件から感じることは、「悪意」の質が変わってきたように思えることだ。例えば少し前に起きた札幌西友元町店での偽装客問題。偽装肉を販売したと言うこと自体、販売行為における「悪意」であるが、その悪意を犯している者たちが、客に対しては「善意」を期待していたというのは皮肉な話しである。(売っていたのは皮肉ではなく牛肉だが)

犯罪者とて自分達の罪を棚に上げ、客の性善説を信じていたわけだ。そのようなバランスがもはや崩壊していること、更には自分達の悪意を、悪意とは感じていない倫理観の崩壊ということもこの事件は露呈しているように思えた。

ブッシュのイラクへの強行姿勢も、北朝鮮拉致問題にしても、相手国の「悪意」を前提にした政策が前面に打ち出されている。攻撃される前に撃つというのは鉄則ではあるにしても、別の方法がないものかと思わざるをえない。特にイラクへの強行姿勢にはブッシュと石油メジャーのつながりもちらほら見えるため、さらに気分が悪いのだが・・・

モラルハザードとも呼ばれるこれの意識の変容が、経済や教育と深い関わりがあるのだとしたら、暗澹たる気分は、さらに晴れることはない。

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