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2006年7月2日日曜日

坂口安吾、太宰治、そして町田康など


町田康を読んでいたら、ふと坂口安吾でも再読してみるかという気になり、「堕落論」「続堕落論」(1946年)、「日本文化私論」(1942年)、「不良少年とキリスト」(1948年)、「デカダン文学論」(1946年)などをつまみ読みする。



戦中に書かれた「日本文化私論」や、戦後すぐに書かれたや「堕落論」は今読んでも、いささかもその光芒も力も失っていないものだなあと関心しきり。「デカダン文学論」では島崎藤村や横光利一、夏目漱石をコテンパンにやつけている。特に「こころ」の主人公を自殺させたことに対して、坂口は辛辣な批判を浴びせている。


自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに


坂口の堕落は、現代から見ると古い日本的なものからの逸脱であり、決して所謂「退廃」を意味していない。力強く前向きだ。


不良少年とキリスト」は、MC(マイ・コメディアン)を演じた太宰治が自殺した直後に書かれた太宰のバカヤロウ的文章で思わず胸が詰まる。そう思ったら無性に太宰を読みたくなって「人間失格」「斜陽」そして未完の「グッド・バイ」を続けざまに読む。


太宰はダサイだの暗いだの言われていたし、今で言えばヲタクみたいな同級生が太宰を好きだったりしたことも手伝って、学生時代には太宰の小説からあまり感銘を受けなかった。しかし、この年になって改めて読むと、彼のニヒリズムの厳しさにヒリヒリする。「人間失格」を書くために太宰は生まれてきたと文庫解説の奥野健男氏は指摘する。しかし「斜陽」の4人の主人公とて全て太宰の分身ではないか。2作を続け読むと誰が誰で何をしでかしたのかの境界がぼやけてくる。井伏鱒二は「悪いやつ」だったんだなアとか(笑)


坂口は「不良少年とキリスト」の中で

あれを人に見せちやア、いけないんだ。あれはフツカヨヒの中にだけあり、フツカヨヒの中で処理してしまはなければいけない性質のものだ。

と断じた。しかし太宰を読んだ後に、もう一度この文章に接すると違和感がある。坂口と太宰は根本からして違う人間なのだ。むしろ太宰の内面は三島のそれに近いような気がする(だから三島は太宰を「近親憎悪」したのか)。坂口と太宰は明らかに系譜もベクトルも異なっていることに、今更ながらに気づく。


町田文学は太宰の系譜を汲んではいる。しかし彼もあそこまで退廃はしていない。独特の醒めた眼がある。それが諧謔のギリギリのところで彼を踏みとどまらせる。太宰はコメディアンで芸術家で革命家ではあったが、町田はパンク歌手で詩人である。坂口もパンクだ。しかし、それぞれが求める堕落も革命もパンクも異なっている。


太宰も町田も個人と人生の大いなる虚無を見つめ、虚無から逃避することでばかばかしい日常を無理やり生きた。ドラックとアルコールは共通だが、町田氏は白い狂気に向かい、太宰は暗い死を選んだ。坂口は、ひたすら強く生きたか。


最後に、多分、町田氏は死なねーなと根拠なく思ったところで(今時死ぬるほどに虚弱な芸術家は絶滅したか)、柄にもないデカダン文学浸りはオシマイにしよう。

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