年末の忘年会が続いていて、体調的にはあまりよろしくない。お酒は好きな方だったけど、お付き合いだけの酒宴そのものが好きなわけではない。そもそも、大人数の宴会とかバカ騒ぎは、とりわけ苦手だ。
基本的には好きだったお酒にしても、年齢を重ねるにつれて内臓系が弱まってくるため、ときどき、もうそろそろアルコールを卒業してもいいかなとか思うこともある。かつては、アルコール抜きの人生などあり得ないみたいに思っていた時期もあっただけに、変われば変わるものである。
で、アルコールの話をしたいわけではない。
こういう慌ただしい生活を強いられていると、この生活が本当に望んだものなのか、これからも望むものなのかと考えてしまったからでもある。
来年は65歳になる、還暦を迎えたのがついこの間のように思っていたけど、もう10年という単位で考えると半分が過ぎてしまったということだ。
この5年間を振り返ってみれば、それなりに仕事においても私生活においても充実はしていた。しかし、この生活を残りの5年間で続けるか、続けられるかと考えると、どうだろうかと。
続けられるかとかいうような、受動的な心の動きではなく、どうしたいか、どうありたいか、ということに、やっぱり焦点を当てるべきなんだろうと、そこに思い至ったわけで。
何かを成し遂げようとしたときに、努力はするんだけど、そもそも、意思の力とか、思いが重要だとか言われる。「思考は現実化する」というようなビジネス本だってある。
なりたい自分というのが何かと言葉にしようとした時に、それは「お金持ちになりたい」とか「出世したい」とか、そういう俗世間的な願望ではなくて、「ありたい自分になったときの気分とか気持ち」みたいなもの、ありたい生活を営んでいる時の「心のありよう」みたいなものにフォーカスを当てる必要があるんぢゃないかと、気づいた。
それはすなわち、ポジティブな波動とかであり、そういう波動がどこかに同調して未来が作られていくのではないかと、ちょっとスピかかった話なんだけど、これは真実なのかもしれない。
そこのあ「ありたい姿」に対して、不安とか迷いがあると、逆にその波動に影響されて未来が形成される。同調する先に意思とか善悪とか判断はなくて、そこは「鏡」でしかないので、自分の波動が投影されるだけなんだ。
それが、そうなのだとすると、現実世界での俗物的なベタな願望を願うのではなくて、それが実現したときの自分や周りの人たちの気持ちとか気分とか、だからそういうもの全体がつくるものが、脳波や体温や笑顔や、そういうものを包含して波動としてどこかにあって、そこに同調できたときに、それが現実化するということ。
つまりベタな感情のメタ感情にフォーカスしなくちゃならないんだ。
だからこそ、いわゆる「瞑想」というステップを踏まないと、その波動にアクセスできないのではないか、と書きながら気づいた次第。
ここのところは、また考えてみたい。
朝の、短い時間でのメモとして。

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