2004年2月11日水曜日

年金問題ですが

このごろ「年金が危ない」という手の特集やら記事がやたらと目に付きます。週刊誌や隔週刊誌、月刊誌などで記事にしていないときがないくらい。新聞も年金問題を特集し、書店にも「年金崩壊」の本が山積。

実際そうなんでしょうけれど、これって実は情報操作で「危ない、危ない」と危機感を煽ることで国民を慣らしてしまっているという面はないのでしょうかね。

2004年2月9日月曜日

展覧会:パリ/マルモッタン美術館展


東京都美術館へマルモッタン美術館展を観て来ました。本展覧会では印象派のクロード・モネと、日本ではあまり知られていない画家であるベルト・モリゾの作品を一挙に見ることができました。

印象派のクロード・モネは非常に有名ですし、高校時代には彼の絵に心酔して画集を数種類そろえるほどでしたが現物をこれほどたくさん観るのは今回が初めてでした。

モネの絵は絵葉書は勿論、お皿になったりテーブルクロスになったり、本当にあちこちで溢れていますし、画風の分かりやすさから日本では大人気のことはご存知の通りです。今回モネの実物に接して感じたことは、彼の風景画は誰もが持っている「記憶の風景」を呼び起こす働きをするのではないかということです。タッチは風のように荒く、それでいて一瞬の移ろいのはかなさを秘めた風景を彼は描き出します。それが遠い昔の夏の風景だったり、懐かしくも楽しかった水辺での思い出だったり、人によって想起される記憶はそれぞれだと思いますが、彼の絵からは風景以上の情景に心乱されてしまいます。単なる風景画以上のものをそこから感じてしまうのです。

モネは晩年に白内障を患いました。この時期の彼の絵は具象から抽象へと向かったと、よく解説されますが、今回晩年の彼の幾枚かの作品に接し、そういうものではないのではないかと感じました。

例えばジベルニーの庭で書かれた睡蓮や太鼓橋などは色の中に形を崩し溶解してゆきますが、絵のタッチを見ると、色は互いに塗り重ねられていても濁ってはいません。下の色が十分に乾いた後に、荒々しいタッチで再び筆を重ねていることがはっきり分かります。ここには何か計算づくの怨念のようなものさえ感じます。そういえば色彩も赤系統を多用するようになり、さながら情念の炎が燃え上がっているかのようです。

形象が崩れた後に立ち現れる記憶としての風景は、晩年の絵においても顕著で、近くでは絵の具の塗り重ねとしか見えなかったものが、離れて目を細めて眺めれば、そこには紛れもない光そのものがキャンバスに定着されていることに気づかされます。彼は抽象に向かったのではなく、光そのものを彼の全精力を費やして固定したのだと思うのでした。彼には抽象とか具象とかいう概念はなかったのだと思います。

ベルト・モリゾについては事前の知識が全くありませんでした。モリゾは女性ですが、繊細でやさしい色彩を使う絵でした。ずっとそばにおいておきたくなるような絵です。ルノワールやシスレーなどの絵も1枚か2枚ありましたが、これはこれで彼らの画風を再認識させるものでした。それと展覧会の最初の一枚にあった、コローの絵(画集を買いませんでしたので名前は覚えていません)。この絵は素晴らしかった。いかにもコロー風の絵なのですが、画面の両側には黒々と覆いかぶさるような樹木が、そのむこうに広々とした湖と対岸が見えるという風景ですが、この湿度感を伴った空気ときたら、私はおもわずその小さな絵を見て吐息をもらしてしまいました。

2004年2月8日日曜日

上野の旧法華ホテル

上野の不忍池の際に建っている、菊竹清訓設計のソフィテル東京(旧法華ホテル 1994年開業)。
日本を代表する有名な建築家の作とは言え、景観的にどうなんでしょう。


右手には三井不動産のマンションが建設中です。



建築家 菊竹清訓の日本建築界に果たした役割は大きいものの、作品は好きになれません。

【本棚】斉藤孝:「三色ボールペン情報活用術」


三色ボールペンを使って情報を活用しようという本です。10分の立ち読みで内容を把握できるように、本文の大事なところは太字になっています。

三色の使い方とか、何をすればよいのかはさておき、氏の言う「情報整理術では駄目なのだ」というのには、賛同します。私も京大式だのカード式だのリフィルだの色々媒体を用いましたし、IT機器が手軽になってからは、プレーンテキストをベースに、grepやsedなどのスクリプト系コマンドを使って整理したり、DBソフトや電子手帳などにも手をを染めました。

結論として言えたことは一つ。整理した情報は二度と使わなかったということでした。なかなか悩ましい問題ですね。まあその程度の仕事や趣味の世界でしかないということですな。

ちなみに私も3色(正確には4色ですが)ボールペンを持っていますが、氏の言う通りには多分使いません。それにくだらない本にボールペンで線を引いてしまおうものなら、Book Offに持っていっても売れなくなってしまいます。

2004年2月6日金曜日

【本棚】森永卓郎:続年収300万円時代を生き抜く経済学

題名の通り続編です。読んでみますと前編の実践編ということになりましょうか。

森永は金持ちなのにどうしてそういう本を書くのか、というキモチは私も持ちましたが、そう思った読者の方は多かったようです。

前作を読んで成る程と思う反面、ちょっと違うなあということも感じたのですが、共感できる部分も多かったため、ついでに続編である本書も読んでみました。前書が2003年3月1日発行、本書が11月25日発行ですからその間約半年程度しか経っていません。ですから森永氏の経済に対する考え方には全く変化はありません。(むしろ半年の間で経済状況は悪化していると指摘していますが。)

そういう本書のテーマは「まえがき」の以下の部分に要約されています。

前作を読んでいただいた方々から、たくさんのご意見をいただいた。[...] 一つは、具体的にどのような対策をとれば年収300万円で暮らせるのか教えて欲しいというもので、もう一つは年収300万円で暮らせると言いながら、実は森永は金持ちではないかというご批判だった。(P.4)

このように書かれていますので、前編の実践編というふうになりましょうか。森永氏は所得格差は絶対に進む、数年後には必ず意図的なデフレ脱却が起こり土地や資産は上昇し、そうなったらもう日本は過去のような皆が平等であった時代には二度と戻れないと警鐘を発しています。

彼はそういう市場原理と戦っていくという姿勢よりも、300万円で身の丈にあった生活をした方が人間的な生活を回復できますよと説いているのです。第4章で森永氏で自らの前書の書評を紹介していますが、まさに「『逃散』の勧め」というわけです。ですから、そういう生活を選択した方々の生活ぶりについても第3章「心豊かなライフスタイルを模索し実践する人たち」として紹介しています。

ちょっと違うのではと思うのは、世の中が1億以上稼ぐ社会の数パーセントの人と、社会の6割り程度を占める年収300万円代の人と、年収100万円以下の三つの層に分化するということでしょうか。(P.65) 確かにアメリカ社会は数パーセントの超金持ちと一般の人に分化しているという話は聞きますが、本当にそうなるのかとなると、鈍いせいか実感を伴いません。それでも彼は書きます。

一つだけどうしても言っておきたいのは、「これから日本が市場原理主体の社会に変貌するなかで、能力や成果が政党に評価されるようになるのだから、きちんと仕事で成果を出していけば、それが出世に結びついていく」と考えるのは、完全な誤りだということだ。(P.235)

会社生活にはもはや夢も希望もないと言い切っているのと同じです。会社の中で「ラットレース」を繰り返し身も心もボロボロにするよりもっと豊かに暮らせというのですが、確かに会社生活は厳しい面もありますが、皆そこの中で自己実現を重ねてきているわけです。急にそういう人生を止めなさいと言われても、実のところ戸惑うばかりです。自分の足元の階段をはずされるようなものですから。

森永氏の考え方に同調できる部分も実は多いだけに考えどころです。思うに、日本の会社勤めの人の大部分はあまりにも忙しすぎ、家庭はおろか、近隣や社会、自国の政治、さらには国際社会としての役割に、個人的に関わっている時間がないと感じています。あるいはすごく忙しく働くことが、社会やその他の人たちと直接結びついている人たちは幸せかもしれません。多くの会社勤めの人は、自分の成果を社会に還元して納得できにくくなっているのではないでしょうか。

会社勤めはどんなに頑張っても、役員や顧問にならない限り長くて60歳で定年です。リストラ後の再就職がままならないように、普通の会社勤めの人が、そこでのキャリアを定年後にも生かせる機会は稀有と言ってよいでしょう。会社という肩書きを外れた個人として、自分が自分以外のものとの繋がりが薄すぎることが日本人とそして日本の最大の不幸なのかもしれないと思うこのごろです。

2004年2月5日木曜日

【本棚】森永卓郎:年収300万円時代を生き抜く経済学


先のようなことを考えていたのは、森永さんの本を読んでいたからです。

森永さんの経済に関する考え方についての論評はできませんが、内容は示唆に富むものでした。相容れないところもなくはありませんが。

テレビ朝日のニュース・ステーションに出演されている森永さんの本です。最近この人の書いたものを良く目にします。特に経済系の週間・月間誌、30代ビジネスマン向けの雑誌をぱらぱらと捲れば、人の良さそうな彼の写真をすぐ探すことができます。だから本の題名が良くないですね。「あちこちで結構稼いでいるくせに、人には年収300万円で生き抜けとご教授を垂れるのか」と、やっかみにも似た反発を覚えるものです。

そうは言っても、何を言っているのか、とりあえず読んでみました。

景気回復と不良債権処理の考え方は、竹中金融相や木村剛氏の考えとは真っ向から対立しているようです。森永氏は不良債権をなくしてもデフレからは脱却できず景気も回復しない、むしろマネタリー・ベースを増やして流通現金量を増やし、更に土地担保主義の金融システムを復活させよと主張しています。一方の木村氏は「悪臭の源は不良債権である」(日本資本主義の哲学:木村剛)と言い切っているのですからね。

デフレ処理と不良債権処理に関するテクニカルな問題については、私はその是非を判断する知識を持ち合わせていません。興味のある方は両者の著書を読み比べて判断されると良いかもしれません。

私が面白かったのは、「日本に新たな階級社会が作られる」(2章)、「1%の金持ちが牛耳る社会」(3章)などの部分で、全てではないにしてもかなり説得されてしまいます。薄々私が感じていることと似ているからです。森永氏は最初控えめながら、こう書きます。

不良債権処理を進めても、マネーは増えず、景気も回復しない。[...] (政府は)何ひとつ良いことが起こらない金融再生プログラムをなぜ強行しようとするのか。一つの可能性は、小泉内閣のブレーンたちが、とてつもなく頭が悪いということだ。[...] (そんなことはありえないので)むしろ、小泉内閣の正体が「金持ちをますます金持ちにする」ことになるのだとしたら、この金融再生プログラムは実によくできている (P.49)

これを実現させる手順は以下のようだと書いています。

  1. ITバブルを引き起こして「頭金」を作る。
  2. 金融引き締めによるデフレを仕掛けて、資産価格を急落させ、不動産を借金で購入した企業を追い込む。
  3. 不良債権処理を強行して、放出された不動産を二束三文で買い占める。
  4. デフレを終わらせて、買い占めた不動産価格でキャピタルゲインを得る。
  5. 一度たたき落とした旧来肩の企業や一般市民が、這い上がってこないように弱肉教職社会へ転換する。

今、東京で起きている現象に妙にラップする部分を感じてしまうのは私だけでしょうか(まさに日々そういう事象を仕事でも目にしていますから)。現象は②~③に達しています。

しかしここからが良く分からないのです。森永氏の言う「勝ち組」とは具体的にどこに居る人たちのことなのでしょう。私の業界(完全な「負け組」ですから)では、全く実感を伴いません。

また彼の論では、家族もかえりみず寝る暇も惜しんで働き1億円の年収を得る一部のサラリーマンと、「負け組」の年収300万円のサラリーマン、更にそこにさえ達さない三つの層に分かれると書いています。これは少し私の感覚と異なります。年収1億円のサラリーマンも、年収300万円のサラリーマンも、同じように死ぬほど働いているのが現実のような気がします。(死ぬほど働く期間は異なるでしょうが)。

真に恩恵をこうむるのは、どこに居るのか分からない、死ぬほど働くことを一生しないですむ「資産家」「投資家」のような気がします(それこそ、そんな人たちはどこに居るのだと思いますが)。また、森永氏が主張するように300万円でよしとして、ガリガリ働くことを放棄して優雅に過ごせるような人など、それこそ僅少であるように思うのです。

日本において価値観の転換が必要ということは、おそらく言われなくても皆が気づき始めています。でも理不尽に思うことは、世界でもトップクラスの平均年収を誇り、物質的にも衣糧・教育環境とも豊かな日本国民が、なぜにこんなに「幸福感」を実感できないでいるのでしょう。それは労働時間や高い地価だけのせいでしょうか。

彼の主張は私に色々なことを考えさせてくれました。それはまたおいおい書いていきましょう。

夢のような生活:成功報酬

平成16年の日本における「夢のような生活」とはどのようなものでしょう。サラリーマンの場合、早く成果主義を導入してもらって若いうちは死ぬほど働き、同僚はもちろん上司も蹴落とし、スーパー・サラリーマン(そんな言葉あるのか?)にいち早くなり、

40代までに一般のサラリーマンがもらう生涯年収くらいの金額を稼ぎ出し、更に運用可能な資産も保有し、どんなレストランやブティックに入っても、値段を気にせずに注文することができて、豊かな不動産(当然ローンではない)と物資に恵まれ、時間も気にせず気のあった仲間たちと生活を送るのが「夢のような生活」でしょうかね。


50代前半にして会社の役員となって部下や関連会社を奴隷のように使って会社業績を上げることがそうなのでしょうか。あるいは若くして引退して海外に移住して趣味の世界やゴルフ三昧をすることが、それに当たるのでしょうか。


なんだか違いますよね。だとすると「夢のような生活」という設計図を、以下に書いて、さらには次世代に伝えることができるのでしょう。自分中心の小さな「オレ様の世界」にまとってしまうことを、どうして否定できましょうか。

スレイブ:奴隷


中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授が、青色発光ダイオードを発明した報酬として、日亜化学から当時報奨金として2万円からもらえなかったということを、海外の研究者に話したところ「スレイブ」の呼ばれたということが頭にひっかかっています。


世のサラリーマンの大半は(個人の能力の差はさておき)サービス残業を前提にして勤務していますし、大手・零細企業を問わず、忙しい部署の社員は帰宅時間が24時を回ることも、それほど珍しいことではないと思います。


それでも報酬は残業時間とは一切関係なく一律で支給されていますから、頑張る社員(能力がないだけかも知れませんが、誰も客観的な評価ができません)もそうでない社員も給与格差はほとんどないというのが現状でしょう。


「会社や組織は一割の社員が支えているのだ」という意識だけが(本当に意識だけですが)彼や彼女らに小さな誇りと自負とモチベーションを与えているのかもしれません。仕事の大義とか意義という点になると、サラリーマンは自分の意志とは反する業務も行わなくてはなりませんから、言い方によっては「企業の奴隷」とも称されても否定できない状況なのでしょうね。


そういう今の「会社中心主義」「会社での実績に自己実現を重ねる」という生き方に夢も希望も感じないという若者が増えても、不思議なことではないとは思います。


では、そういう現実を打破するために「出来る社員」に高給を払う「成果主義」を導入するという事に対しても、総論賛成各論反対という意見が大半でしょうか。自分が組織の中で「勝ち組」になる確証はありませんし、そもそもJOB DESCRIPTIONや数値化された目標と達成度の評価というような客観的評価基準やそれに代わる尺度が無い以上、人の業績を図ることができないわけです。

2004年2月4日水曜日

【音盤】カルロス・クライバー/ベートーベン交響曲第6番「田園」

  • カルロス・クライバー(指)バイエルン国立歌劇場管弦楽団
  • 独ORFEO C 600 031B
  • 1983年11月7日

昨年話題となったカルロス・クライバーの「田園」を聴きました。

ネットでの感想を読む限り、賛否両論でしたが、演奏、録音回数ともに少ないC・クライバーですから期待が過剰になっていたふうにも伺えます。私にとっては、これはこれでとても素晴らしい「田園」となりました。

ベートーベンの交響曲では4番、5番、7番などがいずれも名演の誉れ高いのですが、クライバーは生涯の中で「田園」を振ったのは、ここに納められている1983年11月7日の演奏が唯一なのです。クライバー・ファンならずとも注目をしてしまいます。

そもそも「田園」という曲は、ベートーベンの交響曲の中でも損な役回りをしているように思えます。中学の音楽の時間に名曲鑑賞という名の下で聴かされたであろう「名曲」なのですが、ベートーベンの他の曲のように、「よし、今日はひとつ天気も好いし公園に行く変わりに《田園》でも聴くか」とは絶対にならないのです。天気が良かったら家で音楽など聴くなよという突っ込みはおいておくにしても、「田園」をこの前いつ聴いたかというと思い出すのが難しいほどです。

私にとってはそんな曲なのですが、クライバーの演奏を聴いてみて、果たして「田園」という曲を見直す思いでした。牧歌的なイメージとは裏腹に、他の曲と同様のベートーベン的苦悩と歓喜の交替を聴くことができます。かと言って力瘤を溜めまくったベートーベンでは全くなく、クライバーの4番や7番と同様に、疾走するかのようなスピード感、第4楽章に見られるような畳掛けるような激しさ(本当に凄まじいの一語に尽きます)、そして圧倒的な平穏が訪れる第5楽章など、起伏の激しく切れの良い音楽を聴くことができます。

「田園」の定盤は知りませんが、今回この盤を聴くに当たって、東京に持ってきていたフルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1947年5月25日のライブと比べてみました。比べることが間違っていると思えるほどに、フルトヴェングラーの演奏は立派であり感動的です。テンポもしっかりしていて重厚で激しいベートーベンを聴かせてくれます。

さて再度クライバーの演奏に立ち戻ってみると、やはりそのテンポの速さは圧倒的です、異常とも言えるかもしれません。83年当時は誰も振らなかったであろう程の速さ(あるいはベートーベンが楽譜で意図した速さ?)で駆け抜けます。きっとアファナシエフならば「君の演奏は速すぎる」とまたしても言うでしょう。それでもそこから立ち上ってくる音楽は、紛れもなくベートーベンの音楽以外の何ものでもなく、音質の多少の悪さなどを差し引いても、真に感動的な音楽に仕上がっていると私には思えます。

演奏の後には3分50秒もの拍手が録音されています。演奏終了後、すぐには拍手が起こらず、数秒遅れてまばらな拍手が、そして割れるような熱狂的な拍手へと変わっていきます。CD解説はLillian Kleiber、解説を引用して私の感想を終えることいたしましょう。

applause was slow in comming;[...]. A few concertgoers began hesitantly to applaud,but the rest of the audience continued to sit there as though under a spell,Only when Carlos Kleiber brought the orechestra to their feet a few moments later did jubilant applause break loose.
拍手を聞くだけで鳥肌が立つ思いです。ただ、ネットで読む限りでは賛否のうち否に傾いているように思えました。

2004年2月2日月曜日

【本棚】三島由紀夫:仮面の告白


読む本がなくなると、本屋に行って無駄な時間を費やしてくだらない本を買うくらいなら、昔読んだ本でも読もうという気になるものです。それで、今回は何の脈絡もありませんが、三島の代表作のひとつ「仮面の告白」を読んでみました。この作品が書かれたのは昭和24年(1949年)ですが、作品価値は全く色あせていないことに改めて驚かされます。

三島由紀夫の文壇デビュー作である「仮面の告白」を改めて読んでみたが、小説の内容と語り口の瑞々しさは今もって新鮮で驚くばかりだ。この小説を始めて読んだのは高校生くらいの頃であったろうか。三島といえばナルシシズムの極地の人であり、耽美的であり、背徳的であり、そして男色家であるという印象が強く、また「仮面の告白」は三島の半自伝的な小説であろうという面にばかり感心が向いていたように思う。しかしながら、実のところこの小説はそのようなことは余り重要ではないのだと思い至った。

読み進めるうちに、これは告白という自叙伝風の小説でありながら、その実、極めて精巧かつ作為的に作られた小説であることに気づいてしまう。主人公に「男色」というアブノーマルな性格を付与することで、自己認識や自己嫌悪を行う一人の個人の内面を、えぐいほど痛烈に描き出している。更には主人公の嫌になるほど理性的な自己分析の過程をさえ読むことになる。

彼が「仮面」と称したのは、男色であることを隠し一般の男性のように振舞ったことを指すのではなく、逆に男色を前面に出すことで、更にもう一度自分の真意を隠蔽したところにこそ仮面性が潜んでいるように思える。

どういうことかというと、主人公が強烈なる(肉体的にも精神的にも)コンプレクスとの裏腹に強烈なる自意識を持っているが故に、その自意識を隠蔽しなくてはならないからである。強烈なる自意識は決して敗北してはいけないのである。彼は確かに男性として不能であると認識し、苦い挫折感を味わいはするが、しかしながら自己愛と彼自身の男色傾向にすがることができるため徹底的な敗北はしないのだ。

主人公は誰よりも「日常生活」を怖れていたくせに、実は彼の深い内実はもしかすると「日常生活」を送ることを願っていたのかもしれない。それをかなえることができないと把握している主人公は、自分を幾重にも裏切ることで敗北を塗布しているかのような印象を受ける。彼が「初恋」とした近江への傾慕も、自分が男色家であるが故に女性を愛せないと結論付けた園子への愛情もしかりである。彼が戦争によって自分の意志とは無関係に死ぬことを漫然と望んでいたのも、人生への決定的な決着を自分では付けたくはなかったからであろうか。

そういう意味においては、確かに究極の自我であり究極のナルシシズムであり、さらに高度なる告白ということになるのであろうか。誠に世の三島論など読んだこともない私には、勝手な解釈であるが、どのようにも読める点、やはりタダモノではない小説である。

2004年2月1日日曜日

中村教授の200億円判決

中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の職務発明をめぐる訴訟で東京地裁は、中村氏がかつて勤務していた日亜化学工業に200億円の支払いを命じました(1月30日)。大手新聞各社の社説は、賛否に分かれていたようでした。

私個人としては200億円という法外な金額にまず度肝を抜かれましたし、払う方の企業も大変だなあとは思いましたが、かといってこの訴訟が報酬額のみが先行した行き過ぎの判決であったという印象も受けないのです。

世の中、拝金主義がまかり通ることや、お金さえあれば幸せという風潮には反発は覚えますが、それでもお金が解決することは多々ありますし、お金はないよりはあったほうがよいに決まっています。
で、何を思ったのかというと、日本の子供たちがドリーム(あえて夢とは書きませんが)を描くための将来の職業を考えた場合、野球選手をはじめとする一部のスポーツ選手か、あるいは芸能界というだけでは何だかさびしいと思うのですよね。研究者が自分の頭脳で対価を貰うということに、将来的なドリームを乗せる余地があるのならば、この判決には色々な意味があると思うのです。
サラリーマンは今までは大差ない給料を皆貰っていたから「サラリーマン」と卑下されていたのですが、こういう訴訟が最近の流行の「勝ち組」と「負け組」に更に分化されてゆくための助走でないとも言い切れないという気もいたしますが。
��00億円という額は「法外」というよりも、一体そんなに貰ってどうするんだろう、という気がしましたが、あれほど頭の良い学者さんですから、再び研究に投資するのでしょうね。それこそ夢を追い続けるという意志がかなえられるというところなのでしょうか。

2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2004年1月28日水曜日

古賀議員の学歴詐称について

昨年11月の衆院選福岡2区で自民党の山崎拓前副総裁らを破って初当選した民主党の古賀潤一郎議員(45)の学歴詐称事件が話題ですね。
 
本日の全国紙の社説(朝日、産経、毎日)ともそろって議員の資質そのものを批判しています。福田官房長官も「何なんですかねぇ。過失なんですか。それともウソをついたんですか。『ウソは泥棒の始まり』と言いますからね」などと相変わらずとぼけたことを言っています。
 
さて、私も古賀議員は議員を辞職すべきだと考える一人です。選挙によって選ばれた議員であるという責任ですよね。 結局学歴社会を否定するような風潮がありながらも、学歴なしには生きてゆけないことを自ら示してしまったこと、また誤魔化しをしても、謝れば責任を取ったことになること。志が多少高ければ、多少の不正は目をつぶっても良いと考える倫理観。加藤紘一の「みそぎ行脚」を思い出しますが、そんなものが許されるのでしょうかね。 

大人がこれですから、子供がおかしくなっても当然ですね。最近の「借金は踏み倒すが勝ち」とか「開き直ってごまかす」というのも、どこかの大企業や、どこかの国の首相の態度に顕著ですからね。 子供の最近の意識の変化を「栄養が足りない」と主張する一派もいますが、彼らこそムカシ栄養が足りなかったのではないでしょうか・・・

【音盤】ヴェルディ:歌劇「アイーダ」

ジェイムズ・レヴァイン(指)メトロポリタン歌劇場po.

こちらのDVDは指揮がジェイムズ・レヴァイン、演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。録画も1989年10月のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。エジプトの騎兵隊長を務めるラダメス役にはプラシド・ドミンゴが起用されています。

あまりにも有名なこの歌劇ですが、映像を伴って鑑賞したのは初めてです。

先の「リゴレット」がロケを行った映画仕立てであったのに対し、こちらは舞台映像ですが、メトロポリタンの舞台の豪華さと華やかさは、もはや言葉を失うほどです。オペラが高価なのも頷けるというものです。舞台セットの神殿は何でできているのでしょう、ここまでするか、という驚きもないでもありませんが。何しろ凱旋シーンでは本物の馬にひかれてラダメスは登場しますし、第4幕の神殿の前では篝火が炊かれます。日本の舞台なら消防法でNGでしょうね。

ドミンゴの歌うラダメスはまったくもって素晴らしく、アイーダ役のアプリーレ・ミッロの歌声も惚れ惚れします。悪役ということになっているアイーダの恋敵アムネリスを演ずるドローラ・ツァーイックは、いかにも憎まれ役的な好演で惚れ惚れします。あまりの演技にアイーダよりもアムネリスの方に感情移入してしまいます。

「アイーダ」といえば第2幕の凱旋更新のシーンが有名ですが、確かにあの場面は壮麗で「絵になる」とは思いますが、劇としては第3幕移行がやはり面白いですね。ラダメス、アイーダ、アムネリスの感情の振幅が深い味わいを出しています。

あまりの音楽と映像の素晴らしさに、私は観ながら何度も涙してしまいましたよ。

More...(いつか書きます)

2004年1月27日火曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「リゴレット」


  • リッカルド・シャイー(指)ウィーンpo.

ヴェルディの代表的なオペラ「リゴレット」のDVDですが、指揮はリッカルド・シャイー、演奏はウィーン・フィル。好色なマントヴァ公爵にはパヴァロッティ、ジルダにはグルベローバ、リゴレットにはヴィクセル、演出はジャン=ピエール・ポネルと名前を聞いただけで涎が出てきそうです。さらにこのDVDが特徴的なのは、映像が劇場の生録画ではなく舞台をマントヴァに現存するパラッツォ・ドゥカーレなどを用いた映画仕立てとなっていることです。

劇が始まった当初から、数々の名曲のオンパレードで圧倒されてしまいます。まるでオペラのオムニバス版を聴いているような錯覚さえ覚えます。

またセットの豪華さにも目を見張るばかりです。爛熟した貴族社会の饗宴シーンは、私のような善良な小市民には少し過剰であり、若干の嫌悪を覚えなかったわけでもありません。しかし、何度も見るうちに耐性が出来てくるものです。

すると、もうヴェルディの芸術世界にどっぷりとはまってしまい、頭の中はパバロッティの歌うカンツォーネが高らかに鳴り響いてしまいまうのです。もう完全に突き抜けた歌声は快感の粋に達してしまいます。

それにしても「どの女も私にとっては同じ」(第1幕第1場)とは…、モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」もそうですが、この時代には、女心に対する根深い不信感があるのでしょうかね。

More...(そのうち書きます)