時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2013年11月22日金曜日
2013年11月21日木曜日
【演奏会】エンリコ・ガッティ @白寿ホール コレッリ
エンリコ・ガッティ(バロック・ヴァイオリン) Enrico Gatti - baroque violin
グイード・モリーニ(チェンバロ) Guido Morini - harpshichord
曲目 未発表コレッリ
THE UNKNOWN CORELLI From the 12 unpublished sonatas in the Assisi manuscript
すばらしいの一言、充実の音楽。コレッリの初期作品が、こんなにも豊かに響くのだとは。
グイード・モリーニ(チェンバロ) Guido Morini - harpshichord
曲目 未発表コレッリ
THE UNKNOWN CORELLI From the 12 unpublished sonatas in the Assisi manuscript
- ソナタ 第1番 ニ長調
- ソナタ 第2番 イ長調
- ソナタ 第3番 ニ短調
- ソナタ 第5番 イ短調
- ソナタ 第6番 ト長調
- ソナタ anh.34 ニ長調
- ソナタ 第7番 ヘ長調
- ソナタ 第8番 ハ短調
- ソナタ 第9番 変ロ長調
- ソナタ 第10番 ト短調
- ソナタ 第11番 ホ長調
- ソナタ 第12番 イ長調
- ソナタ anh.33 イ長調
- ソナタ anh.35 イ短調
すばらしいの一言、充実の音楽。コレッリの初期作品が、こんなにも豊かに響くのだとは。
2013年11月14日木曜日
2013/11/14 —遠い風景—第10回 永野一久 テンペラ画展
—遠い風景—第10回 永野一久 テンペラ画展
東武池袋でたまたま観たテンペラの細密画
自分の画風を変えないこと
それで「売れる」
先鋭性を求めないアート作品
所有する喜びとか見続ける快楽とか
そういうものも、あってもいい
現代美術や先端の芸術家のように、常に尖鋭的である必要はない
以下は個展の解説の抜粋
以下は個展の解説の抜粋
■11/14(木)~20(水)
※最終日は午後4時30分閉場
■6F 1番地 絵画サロン
西洋の古典技法である金箔を用いてテンペラ画を描く、日本では数少ない画家・永野一久氏が、第10回目の個展を開催いたします。
変わりゆく日本の象徴的俯瞰として、細密に描かれた懐かしい里山の風景。大空を自由に漂うトンボが降り立つ民家、廃屋を思わせる隠れ家に、ささやかな夢や希望に満ちた記憶が甦ります。
風景の中に音楽を重ね、思いを巡らすように、いつの日か奏でる楽器が登場する立体の木工細工など、新たな展開を予感させる新作20余点を展観。
《永野一久 略歴》
1949年 熊本県に生まれる
1974年 東京造形大学卒業
1989年 カナダ国際ミニアチュール展、セントラル美術館油絵大賞展
1990年 上野の森美術館油絵大賞展、伊藤廉記念賞展
1991年 セントラル美術館油絵大賞展
2004年 池袋東武にて個展(〜'12年)
・その他、銀座、表参道、吉祥寺、大阪、熊本にて個展・グループ展多数
・現在、宝仙学園短期大学芸術学科にてテンペラ技法を指導
●「水車小屋」34.4×55.0cm・・・504,000円
●「遠い里山」33.3×33.3cm・・・294,000円
●「幸せの鳥」23.4×17.3cm・・・152,250円
2013年11月1日金曜日
2013年10月28日月曜日
2013年10月23日水曜日
この国はどこで間違えたのか 寺島 佐高
2013/10/23 この国はどこで間違えたのか 寺島 佐高
日本の歴史認識
独り立ちできない
成熟しなかった団塊の世代
世代として次の世代に何かを残す責任
冷戦後の日本の立ち位置
ドイツはアメリカとの関係を見直した
自由主義、市場経済の資本主義の限界
哲学の必要性
揺り戻し
アジアからの視点
幼稚な政治家しか生み出さなかった
個としての独立
アメリカの責任追及
原発のGEとか
対米追従という思考停止
表面的な右傾化、愛国心
歴史に学ぶこと
石橋湛山
魯迅
江藤淳
日本の歴史認識
独り立ちできない
成熟しなかった団塊の世代
世代として次の世代に何かを残す責任
冷戦後の日本の立ち位置
ドイツはアメリカとの関係を見直した
自由主義、市場経済の資本主義の限界
哲学の必要性
揺り戻し
アジアからの視点
幼稚な政治家しか生み出さなかった
個としての独立
アメリカの責任追及
原発のGEとか
対米追従という思考停止
表面的な右傾化、愛国心
歴史に学ぶこと
石橋湛山
魯迅
江藤淳
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2013年10月14日月曜日
2013年10月5日土曜日
2013年9月28日土曜日
蟻鱒鳶ル 2013年
東京三田にある「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」です。
ときどき見に来ているのですけど、なかなか工事が進まないですね。
造る行為そのものに意味があるような建物ですから、造ることそのものが目的化、永遠に作り続けることが命題化されているのでしょうか。
2013年8月25日日曜日
2013年8月16日金曜日
高村薫:太陽を曳く馬を読了はしたものの
読了とはいうものの、内容のほとんどは意味不明、理解不能
ひたすらに問い続ける小説。高村氏自信が問い続けること、その答えを求めるためには膨大な言葉を連ねるしかないということ。
仏教もしかり、オウムもしかり。その中での仏教論、認識論などなど
現代でそのような形而上的な問題を問う意味があるのか、ということに真っ向から反抗し立ち向かう。
2013年8月3日土曜日
【本棚】村上春樹 1Q84 読了
amazonの評価を読むと、賛否両論というか、否定的な意見が多い。
批判者はあまり、文学に親しんでおらず、たまたまベストセラーだから始めて読んだみたいな人も含まれているようである。
村上作品は、決してわかりやすくないし、面白くもない。
自分勝手で日現実的なキャラも共通。
意味深なような謎掛けはあるものの全くの解決はなく。
ノルウェーの森に見られた性描写はここでさらに枠を拡げる。
何を書きたいのか?と疑問をつける人も多かろうが、多義的な世界を書いていることは確か。
しかし、最初のクールな青豆のイメージがだんだん幼稚になっていった、という感想は一理あると思うとともに、女から母親になったことによる変化ととらえてもいいのかも。
あくまでも男性視点あることは否定しない。
20年前との幼なじみが再び出会うなんてロマンとも思えないような妄想を小説の一つのテーマと大団円に据えることそのものが、歪で現実感も生活感も伴わない設定に思える。
天呉のあくまでも社会性のない、ナルシスてィゥクな受け身なキャラ、そのままの印象。
読んでいて、村上小説の世界観やキャラ設定を理解できない人には、つまらない以上に、嫌悪さえ覚えると思う。
しかし、ここに描かれた、ある種の回復できない喪失感と再生への期待とか、より困難な世界に立ち向かうスタンスとかは、ひとつの村上的な理想を示しているかもだ。あくまでもロマンとして。
この程度のロマンも許さないのならば、世の小説のほとんどはゴミ箱行だ。
宗教に対する認識の薄さは、ちょっと目に余るのだけど、宗教を信じていない、あるいは批判精神もない人に、オウム的なもののありようとかを使ってはもらいたくなかったね。
読み切ってはいないが、高村薫の太陽が曵く馬の難解さと深さに比べると、恥ずかしくなるほど。
エンタメと考えれば楽しめないこともなかったよ。
批判者はあまり、文学に親しんでおらず、たまたまベストセラーだから始めて読んだみたいな人も含まれているようである。
村上作品は、決してわかりやすくないし、面白くもない。
自分勝手で日現実的なキャラも共通。
意味深なような謎掛けはあるものの全くの解決はなく。
ノルウェーの森に見られた性描写はここでさらに枠を拡げる。
何を書きたいのか?と疑問をつける人も多かろうが、多義的な世界を書いていることは確か。
しかし、最初のクールな青豆のイメージがだんだん幼稚になっていった、という感想は一理あると思うとともに、女から母親になったことによる変化ととらえてもいいのかも。
あくまでも男性視点あることは否定しない。
20年前との幼なじみが再び出会うなんてロマンとも思えないような妄想を小説の一つのテーマと大団円に据えることそのものが、歪で現実感も生活感も伴わない設定に思える。
天呉のあくまでも社会性のない、ナルシスてィゥクな受け身なキャラ、そのままの印象。
読んでいて、村上小説の世界観やキャラ設定を理解できない人には、つまらない以上に、嫌悪さえ覚えると思う。
しかし、ここに描かれた、ある種の回復できない喪失感と再生への期待とか、より困難な世界に立ち向かうスタンスとかは、ひとつの村上的な理想を示しているかもだ。あくまでもロマンとして。
この程度のロマンも許さないのならば、世の小説のほとんどはゴミ箱行だ。
宗教に対する認識の薄さは、ちょっと目に余るのだけど、宗教を信じていない、あるいは批判精神もない人に、オウム的なもののありようとかを使ってはもらいたくなかったね。
読み切ってはいないが、高村薫の太陽が曵く馬の難解さと深さに比べると、恥ずかしくなるほど。
エンタメと考えれば楽しめないこともなかったよ。
2013年7月22日月曜日
今回の選挙で投票するに当たり、政治.comなどの傾向サイトを参考にしたか
その際に、憲法96条改正、9条改正については「反対」として判定した。
以前は、自衛隊が違憲であるままの状態の方が、国家としておかしいというような考え方をしていたのだが、
日米安保条約をそのままに、自衛隊を軍隊にすることができないように
日米関係、軍事同盟について抜本的な見直しを含むような9条改正は、いまの中途半端な日米議論おいては得策ではないと考えるからである。
米国の傘はそのままに9条を改正することは、米国が望む方向とも思えない。
一方で、中国の協力化や韓国の嫌日化などが進む中で、アジアの中での日本と周辺国、アメリカと中国と日本の関係も微妙に変化せざるを得ない。
そういう関係の中で、米国追従を放棄することも、軍隊をもった国家として独立することも
どちらも、日本にも日本人にも、その覚悟はまだできていないだろう、と思うのである。
2013年7月15日月曜日
【本棚】村上春樹の1Q84を読んでのメモ
これで完結している
純愛
欠落
空白
喪失
欠落
そういうものを埋めるもの
月の多義性
表と裏
失われた分身
性の意味
孤独
人が生きるということ
何を求めているのか
心の問題
精神
宗教的なもの
それを必要とする人としない人
喪失と再生の物語
失うということ
リトルピープルとは?
良きもの?
啓示を与える
ただ犯す、壊す存在ではない
自分探しの旅
淡いロマン
あるいは幻想
アドベンチャー
小説としての面白さ
謎は謎のまま
説明しないとわからないものは説明してもわからない
最初から説明的なものを拒否
小説の入れ子構造。
純愛
欠落
空白
喪失
欠落
そういうものを埋めるもの
月の多義性
表と裏
失われた分身
性の意味
孤独
人が生きるということ
何を求めているのか
心の問題
精神
宗教的なもの
それを必要とする人としない人
喪失と再生の物語
失うということ
リトルピープルとは?
良きもの?
啓示を与える
ただ犯す、壊す存在ではない
自分探しの旅
淡いロマン
あるいは幻想
アドベンチャー
小説としての面白さ
謎は謎のまま
説明しないとわからないものは説明してもわからない
最初から説明的なものを拒否
小説の入れ子構造。
2013年7月6日土曜日
【演奏会】大野和士指揮 新日本フィル ブルックナー7番
2013年7月5日(金)19時15分

それでも、この手の音楽は生で聴くのに限ると思う。現代音楽は、聴き方や集中力が異なるから、組み合わせは別の曲が望ましいと思った次第。情よりも理が勝ったプログラムであったか。
すみだトリフォニーホール
指揮 大野和士
新日本フィルハーモニー交響楽団

シャリーノ/「夜の肖像」(1982年)
ツィンマーマン/「ユビュ王の晩餐のための音楽」(1966年)
ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノーヴァク版、1954年)
ワーグナー生誕200年を記念したプログラムなのだが、ワーグナーは一曲も演奏しない。大野氏がこだわりぬいたプログラムとはいえ、ひねり過ぎの感がなきにしもあらず。
シャリーノはバイオリンのフラジオレットの上に、静かな音か薄膜のようにかぶさる10分程度の曲。無調?という点ではワーグナーにつながるか。
ツィンマーマンもメジャーな曲ではない。バイオリン、チェロなどの弦が入らず、逆にオルガンやギター、ピアノ、ハープ、エレキギターなどの楽器が加わる。いろいろな曲からの引用が展開されるが、期待させたほどには乗り切れない。最後の乱痴気騒ぎのような場面(幻想の暖断頭台への行進とワルキューレが奏されるところ)も浮ついた印象だけを残す。
オモチャ箱をひっくり返したような感じ、という点では、むしろマーラーにテイストが近いように思える。
休憩をはさんでの今回のメインとなるブルックナー7番。大野氏の指揮は、過大な感情は移入せず、速めの軽快なテンポで曲を進める。盛り上がるところもしっかり音量はあり、目立った大きな破綻もない。少し雑と聴こえるところや、ブルックナー的な音の重奏感が不足しているように思え部分がなきにしもあらず、聴く場所が2階席であったせいだろうか。
しかしながら、どこか不完全燃焼の残るプログラムと演奏であったことも確か。私が聴いたのはワーグナーの息吹だったのか、正真のブルックナーだったのかと自問。
ツィンマーマン/「ユビュ王の晩餐のための音楽」(1966年)
ブルックナー/交響曲第7番 ホ長調(ノーヴァク版、1954年)
ワーグナー生誕200年を記念したプログラムなのだが、ワーグナーは一曲も演奏しない。大野氏がこだわりぬいたプログラムとはいえ、ひねり過ぎの感がなきにしもあらず。
シャリーノはバイオリンのフラジオレットの上に、静かな音か薄膜のようにかぶさる10分程度の曲。無調?という点ではワーグナーにつながるか。
ツィンマーマンもメジャーな曲ではない。バイオリン、チェロなどの弦が入らず、逆にオルガンやギター、ピアノ、ハープ、エレキギターなどの楽器が加わる。いろいろな曲からの引用が展開されるが、期待させたほどには乗り切れない。最後の乱痴気騒ぎのような場面(幻想の暖断頭台への行進とワルキューレが奏されるところ)も浮ついた印象だけを残す。
オモチャ箱をひっくり返したような感じ、という点では、むしろマーラーにテイストが近いように思える。
休憩をはさんでの今回のメインとなるブルックナー7番。大野氏の指揮は、過大な感情は移入せず、速めの軽快なテンポで曲を進める。盛り上がるところもしっかり音量はあり、目立った大きな破綻もない。少し雑と聴こえるところや、ブルックナー的な音の重奏感が不足しているように思え部分がなきにしもあらず、聴く場所が2階席であったせいだろうか。
しかしながら、どこか不完全燃焼の残るプログラムと演奏であったことも確か。私が聴いたのはワーグナーの息吹だったのか、正真のブルックナーだったのかと自問。
それでも、この手の音楽は生で聴くのに限ると思う。現代音楽は、聴き方や集中力が異なるから、組み合わせは別の曲が望ましいと思った次第。情よりも理が勝ったプログラムであったか。
ラベル:
ブルックナー,
交響曲,
新日本フィルハーモニー交響楽団,
大野和士
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