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2002年12月28日土曜日

辺見庸:永遠の不服従のために

サンデー毎日に連載された「反時代のパンセ」をまとめた単行本が出版された。

辺見庸氏の文章を読むことが、この時代幸福であるか、あるいは不幸であるかを考えることは難しい。なぜなら、彼の突きつけるテーマは、あたかも闇に鈍く光るナイフのように、ギラリとした鈍い光を放って読むものの脇腹に押し付けられるからだ。私はその瞬間に動くべきか止まるべきか、冷や汗をかきながら呆然としてしまう。ナイフの切っ先ににじむ赤い血は、果たして自分の血なのだろうかと危ぶみさえしながら。

『「転向」についての丸山眞男のメモを読んだとき、ふと生首、いやアジサイを思った。(中略) でもガクアジサイたちも、それを見るわれわれも、変色に心づくのは、ごく稀である。やっかいなのは、そのこと。無意識の、はっきりした痛覚もない変身であり変心なのだ。』(「裏切りの季節」より)

彼は、私のように、時流に流されるかのように意見を変えてゆく者の脆弱さに対し、怒りも軽蔑もしてはいなかもしれない。私は逆に彼の本を読み彼の声を聞いたにも関わらず、それ故にというか、彼から無視されてしまうかのような錯覚に陥り、ひどく狼狽してしまうのだ。

彼の論点を要約することにも意味はない。彼のマスコミ批判や平和への考え方、今の日本や米英のありようなど、列挙してゆくと、声高々に主張しているように思えてしまうかもしれないが、そうではない。彼が有事関連法案に対してどのような反対のスタンスをとっているのか説明したところで、「お前さん、違うんだよ」と言われてしまいそうだ。なんだか彼の前に立つと、薄っぺらな本質的とはいえないような問題を、延々と阿呆のように弄しているような気にさせられてしまう。

『樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。』(「国家の貌」より)


彼が何に対して「服従しない」と言っているのかは明白だ。しかし、彼のような精神を有して生きてゆくことも、極めて大きなエネルギーと勇気の要する行為であると思う。社会とうまくやってゆくためには、彼のような考え方に染まることは、ある意味において「危険」である。しかし、一方で私にとっては、抗うことのできない危うさと確かさでもある。

『まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。』(「戦争」より)

ひょっとすると私は、単なる精神的なカウンターバランスとして辺見氏の主張を受け入れようとしているのかもしれない。自らの考え方の柔軟性や精神の健全性を示すバロメータとしているのかもしれない。だとすると、この上なく狡猾な接し方とは言えないか。社会における辺見氏のとらえられ方も、案外そういうところにあるのかもしれないと思うと、自分のことを差し置いて憂鬱になる。この本が売れれば売れるほど、不幸なことなのかもしれないと思うのだった。

『例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた』(「仮構」より)

そういうことさえ、辺見氏は了解していているかのようなのだ。心底、おそろしく、かなしく、そして美しくも強い本であると思う。

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