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2002年12月29日日曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ペーター・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35
ヴァイオリン:ワディム・レーピン 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。



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