夜の部の「野田版研辰の討たれ」は評価の分かれる演目だと思います。初演当時ほどの反響や批判はさすがにもう薄れてきているように思えますが、それでも「果たしてこれは歌舞伎なのか」という議論は今でもあると思います。私のような新参者が、歌舞伎の世界に子供の頃から浸かりきってきた人の芸をとやかく論ずることはナンセンスだとは思うのですが、時間が経つと考え方も変わりますから、現時点での感想を素直にまとめておくとします。
私はあまりテレビを見ませんので、最近のお笑い系の新ネタどころか芸能界の動きには極めて疎い人間です。それでも次から次へと繰り広げられる演出や台詞には(分らない部分もありますが)圧倒されましたし、今までの歌舞伎には全く見られなかったエネルギーや若さを感じますから、数ある歌舞伎演目のひとつとして、こういう芝居があってもよいのかなと思います。
五月夜の部の演目は、人気古典歌舞伎の「義経千本桜」と玉三郎の「鷺娘」、そして「野田版」ですから、現代見ることのできる「カブキ」の最高峰が出揃ったような感さえありました。三ヵ月の襲名披露公演を振り返ってみるに、歌舞伎の持つ表現世界の広さと奥深さをまざまざと見せ付けられました。歌舞伎がまさに九頭龍(ヒュドラ)にも例えられる訳も分ろうというものです。
夜の部最初に演じられた「義経千本桜 川連法眼館の場」は非常にケレン味溢れる芝居です。ケレンとは俗受けを狙って演じられる芸(「肩透かし」や「仕掛」「早替り」など観客の意表をつく演出)のことを指します。歌舞伎が江戸時代においては武士の能と対照的に、庶民の芝居であったことを考えれば、筋とは関係のないところのケレンそのものを楽しむという観方もあったのだと思います。歌舞伎は論理的な「筋」をあまり重視せず、型の美学を見せるものであるような気がしていますから。(これとて一面的な歌舞伎観ではあります)
そのケレン味たっぷりの「川連法眼館の場」の後だというのに、「野田版研辰の討たれ」を観てしまうと、それまでの芝居の細やかな所作の印象などが消しとんでしまいます。玉三郎の「鷺娘」の苦悩と悲しみと嗜虐美さえも忘却の彼方に行ってしまうほど、とにかく「野田版」には全く異質なものを感じました。
「野田版研辰の討たれ」が歌舞伎であるのかということは、観ながらずっと考えていたことです。八代目幸四郎(初代白鸚)は「歌舞伎役者が演じればそれは歌舞伎です」と答えたらしいですが、果たしてそうなのでしょうか。赤穂浪士の討ち入り事件を皆で「聞いたか」「聞いたか」と初っ端から噂話するところなど実に歌舞伎風ですし、義太夫も登場するので確かに歌舞伎らしいのですが、それでも私は「歌舞伎風野田劇」という感をぬぐえませんでした。
全員が動き駆け回る演出方法も、二人にスポットライトが当たり語る場面も、全員がダンスのようなステップを踏む場面も、現代劇では見慣れたものかもしれませんが歌舞伎においては斬新です。歌舞伎を歌舞伎たらしめている見得にしても、福助が「天晴れぢゃ」と言って切った素っ頓狂な見得を、更に「お裾が・・・」と言ってツッコミを入たりするのですが、これではギャグ・マンガです。これらの演技からは、歌舞伎独特の間や美学が感じ取れず、観ていてちょっと疲れる。いったいドタバタ喜劇をわざわざ歌舞伎座で演ずる意味は何なのか、首をかしげる気持ちも少なくはないです。
夢の遊民社の野田を見たのは、恥ずかしながらもう20年も前です。下北沢の本多劇場で観た野田の言葉遊びとスピーディーな劇には驚嘆しましたし、好きか嫌いかは別として強烈なエネルギーを感じたものです。野田氏と勘九郎氏の出会いは結構古いらしく、何かの本によりますと、意気投合した二人が夜中の歌舞伎座に忍び込み、野田氏が「ここで芝居をやりたい!」と叫んで舞台の上を走り回ったときから「野田版~」は生まれたのだそうです。廻舞台を使った演出は、意表を付くもので、かつ極めて効果的であり、なるほどと舌を巻きました。
実のところ自分の中でも賛否両論なのですが、全体としては「観客をわしづかみにしてしまう点、野田秀樹はやはり天才だな」とは思います。劇としての密度も高く、テーマも現代的で上出来でありましたから、観ておいて良かったと思います。でも、多くの感想にあるように「楽しくて仕方が無い」「面白すぎ」「最後にホロリ」などとは素直には思えず、面白いとは思いながらも、野田のあざとさが見えてしまい、そうするともう、そこに踊らされるのが何だか阿呆らしくなってしまうのも確か。
もっとも、この芝居を評価する人には、野田劇か歌舞伎かという議論さえが不毛でありましょう。面白くて何がダメなのか、現代的な要素を取り入れて発展してゆくのが歌舞伎のありようではないかと言うでしょうね。歌舞伎とは何かということになると、勉強不足な私には実はさっぱりでして、ヒュドラに例えられるほどに捉えどころのないのが歌舞伎であると先ほど書いたばかりです。間や歌舞伎の美学がないと書きましたが、このスピーディーさも現代の間と美学であると言えないこともないわけですし。
勘三郎の「野田版」にかけた熱意は彼の発言から十分に伝わってきますし、勘三郎が歌舞伎の将来を誰よりも考えていることも理解はしています。しかし、こういう劇が心底に楽しまれるのだとしたら、これは歌舞伎にとって幸福なことなのか、あるいは不幸なことなのかと思ってしまうのです。これをきっかけにリピーターが増えれば、これほど幸せなことはないのでしょうが。
概して批判的な意見ですが、私は結構保守的でクソマジメなところがありますから、こういう感想を持つのも仕方ないでしょうな。翻って、このごろ話題さっぱりな、クラシック界の現状についてもつらつらと考えたりしてしまったので、こんな文章になっちまいました。以上。
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「てぬぐいぶろ」さんのブログに、はからずもその3。 歌舞伎でアルか?
というエントリがありましたので紹介しておきましょう。
古典にも面白みを感じますが、面白いと思うのはそれが古典だからではないでしょう。
なかには「ふんっ」て思う作品も古典と呼ばれていたりするわけで(私見)。
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別に「野田版」に心酔しているわけではありませんが、「歌舞伎座では伝統を重んじた歌舞伎を」と声高に云う方は、
��通し狂言」のみを歌舞伎として認めるのか、
と疑問に思い……、ちょっと鼻息荒くしてみました。
歌舞伎に疎い私は「通し狂言」だけが「伝統を重んじた」ものであるとの認識はありませんが、歌舞伎として認められるには何が要件なんだろう、とそれが気になっているだけです。Flamandさんがコメントで書かれている継承・破壊・創造などというサイクル
も理解しますが、どこまでが創造的破壊なのかの見極めは私にはついていません。歌舞伎に接している以上、勘三郎からは目が放せないといったところでしょうか。