筆者の外山滋比古氏は、英文学者にしてエッセイスト。一読して、文章が旨いなあと。著者が一番書きたいことは、情報や思考を整理する方法ではなく、考えるとはどういうことなのかということのようです。本書の出版は1986年。まさにこれから本格的なコンピューター社会を迎える前兆が感じられつつあった20年前にあって、コンピューターにまかせられることはまかせ、自ら考える主体的なアタマとなる必要性を問いています。本書を学校教育が「飛行機型」の人間を作らずに「グライダー型」の人間ばかり作っているとの主張から始めていることからも、それは明らかです。
氏の考える=発想スタイルはというと「考えに考え抜く」というものではなく「発想は寝て待て的」なものであるようです。アイデアを「発酵させる」「寝かせる」、そして整理するということは「忘却させる」ということなのだと。また、ものを考えるには、「朝飯前」という言葉があるように朝が良いと書いています。
とはいえ、氏の「朝」というのは8時頃であり「朝」の状態を再現するために、朝食は食べずブランチに、食後は本格的な昼寝というスタイル。めまぐるしい現代人のそれでないことは確か。アイデアを「寝かせる」という氏の推奨するスタイルが当てはまるのは悠長な学者か、あるいは企業の研究員くらいではないのか、という思いもしないではありません。毎日が課題や問題山積みの企業活動においては、意思決定タイミングは極めてスピーディーでなくてはなりませんから。
メモとメタ・ノートという考え方も、今となっては全く目新しいものではありません。「複数の手帳を使い分ける」とかの題名で、文具店の販売促進に一役買っている雑誌が定期的に書店の棚を占拠しているのは良く目につくところ。考えてみればブログというツールは、私にとってはノートとメタ・ノートの間のようなものですし、「書く」ことによって安心して「忘れる」ことが出来るのも事実。
しかし、ここで更に気付くのですが、毎日の判断にせよ長期的な意思決定にせよ、自分の無意識の中に「忘却」させていたアイデアや願望と無縁であるということまでは否定はできません。若い時には実現できなかったけれども、ある年代になってやっと実現可能な環境かつポジションになったということも、ないわけではないなあ、と思ったりもします。
「とにかく書いてみる」という章には深く頷いてしまいました。
書き進めば進むほど、頭がすっきりしてくる。先が見えてくる。もっとおもしろいのは、あらかじめ考えてもいなかったことが、書いているうちにふと頭に浮かんでくることである。
「自分が何を話すか自分で分かっていない」と言ったのは内田樹氏。確かにそうであるよなあと。そういう意味でも「思考の整理法」とかその手の類書とは一線を画しているようにも思え、氏の考え方は充分に現代でも通用するのだと思います。
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