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2009年1月29日木曜日

歌舞伎座の建て替え

歌舞伎座の建て替え計画が発表になりました。以前から計画はありましたが昨今の急激な経済状況の変化から、大きく見直しをかけていたと思っていただけに(→歌舞伎座発表 08年10月20日09年1月22日)、1月28日のマスコミ発表は意表を突かれた形でした。私もこのブログの中で何度か本件には触れてきました。(→2005年4月21日2005年11月17日

今の歌舞伎座は昭和26年(1951年)に建替えられたものです。現在の耐震基準に合わず、またバリアフリーに対応していないため、エレベータやエスカレータもない。いまや歌舞伎ファンの2/3は40歳以上です。高齢者が多い客層に対して優しくない建築であることは否定できません。その点から建て替えも止む無しという気もしないわけではない。(不便で何が悪いのかという意見もありましょうけど)

建て替えにおいて批判の対象となるのが、その外観。現在の歌舞伎座の面影は残しながら、超高層ビルが屋根を貫いて屹立している姿は滑稽とも悲劇的とも見えます。歌舞伎座の土地は松竹のもの、歌舞伎座の建物は歌舞伎興行を行う松竹に株式会社歌舞伎座が賃貸している。不動産収益の比率の増加を目論む松竹は、オフィス床面積を確保するため、区や都と交渉してきたのでしょう(都市再生特別地区として床面積の増大を含む)。

新聞の予想図からは、唐破風の衣裳は残ったものの、懸魚や化粧垂木、高欄などが大幅に削除または簡略化されているように見えます。デザインの簡素化は、おそらく経済的な理由から断念されたと考える方が妥当だと思います。現在のそれはコンクリート製であり、同じようにコンクリートで作っても、あるいは本物志向で木製としても、建設費はいたずらに増大することは明らかです。近代的要素としてガラス、そして「和のテイスト」として、申し訳に縦格子を配したといったところでしょうか。

とは言え、風景や街並み、記憶には連続性が必要です。有形なものを破壊することは、無形のものも大きく毀損します。このことを嘆く歌舞伎ファンも多いことは承知、私もガッカリしました。しかし考えてみると今の歌舞伎座とてヘンな形です。都知事が「銭湯みたい」と言ったかどうか知りませんが、寺社建築としては余程銭湯の方が立派な建物があります。唐破風とて松岡正剛氏流に言えば「和洋折衷の象徴」です。そもそも最初の歌舞伎座は洋風であったのですから、寺社建築に似せて歌舞伎座を造る必然性は余りありません。所詮は芝居小屋、再現するならば江戸のそれでしょうか。

新しい歌舞伎座にもきっと私たちは時間とともに慣れるでしょう。そして失われた細部に宿っていた呑気さや豪奢さ、ゆったりとして豊かな時間が平成の世にも生きていたことを、将来の我々は写真や語りとともに懐かしみながら。重要なのは器ではなく、無形文化としての「歌舞伎」そのもののの存続なのですから、私たちは歌舞伎をいかに存続させえるか、ということこそ議論されるべきなのだろうと思う次第です。

2009年1月26日月曜日

歌舞伎座:初春大歌舞伎~昼の部


歌舞伎座で「初春大歌舞伎」の昼の部を観劇してきました。歌舞伎座の建て替えもいよいよ決定したようです。2009年4月までの16ヶ月間、「歌舞伎座さよなら公演」と銘打っての公演の最初となります。

演目は「祝初春式三番叟(いわうはるしきさんばそう)」に続いて幸四郎の「平家女護島 俊寛(しゅんかん)」、菊五郎と時蔵の「花街模様薊色縫 十六夜清心(いざよいせいしん)」そして玉三郎の「鷺娘」です。久々に歌舞伎を堪能できました。

一番良かったのは、もっとも期待していなかった「十六夜清心」です。河竹黙阿弥の作品。演じられるのは「稲瀬川百本杭の場」「川中白魚船の場」そして「百本杭川下の場」。鎌倉極楽寺の僧である清心と遊女の十六夜が、どんどんと悪者になっていくという狂言の前半部分。

清心が僧でありながら色恋や浮世の快楽を捨てきれずに、悪心を抱いていくその変化が見所です。求女をはずみから殺してしまい、自らも死のうとするものの、遠くから嬌声が聞こえて逡巡、そして思いとどまっての名台詞。「これを知ったはお月様と、俺ばかり」! ここの変り方が、ヌラヌラと面白い。

俳諧師白蓮を吉右衛門が演じています。狂言を通してみると、こいつはとんでもない悪党なんです。その悪さが台詞から見えていてさすがの貫禄といったところ。通しで観てみたい狂言です。

「鷺娘」は今回が二度目(→一度目はこちら)。変な批評などせず、玉三郎の踊りにどっぷりと浸かるのが、一番よかろうと思います。ナマ「鷺娘」もそのうち「伝説」になるでしょう。

幸四郎は、私はあまり好きな役者ではない。いくら有名、人気、幸四郎のオハコとはいえ、正月から観たい演目でもありません。感動よりもあざとさと過剰さが気になってしまいました。意に反して良かったのが、千鳥を演じる芝雀! 初心な感じがなんともかわいい。「りんぎょやってくれめせや~」が耳について離れません(笑)。彼女の純粋さが、大きく俊寛の心を動かしたことが良く分かります。最後の回り舞台の演出は劇的ですが、やっぱり幸四郎の演技がなんとも、泣き叫ぶより最後の沈黙の方が余程説得力がありましたね。

2009年1月25日日曜日

ドゥダメルのマーラー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルのベートーベンに続く第二段、マーラーの交響曲第5番をDGの1week streamで聴いてみました。

音楽的なテーマはベートーベンの第5番に似ているし、音楽に希望を託しているドゥダメルが録音したいという気持ちも分かります。

しかし、この5番にあってもマーラーの音楽は複雑であり混沌としすぎている。まったくもって一筋縄ではいかない。今の時代にあってマーラーに過度の感情を移入しすぎる演奏は忌避される傾向にはあると思う。しかし、だからといってマーラーが有していた矛盾や屈折、諧謔を無視していいとも思えません。

ドゥダメルの演奏は、重心の低い厚い音を提供してくれます。特に低弦やブラスの支えが利いているように思えます。ダイナミックレンジも広い、強奏はアクセントが効いていますし、カンタービレやメロディラインの部分も美しい。確かに水準の高いオケです。

第一楽章の抑圧された凶暴さとか音楽の振幅、第四楽章の抒情に流れすぎない明晰さなどは見事です。この有名な楽章が単に甘ったるい感傷だけではないことを前後の楽章の間で分からせてくれます。終楽章の推進力も流石といったところでしょうか。

であるにも関わらず、何か足りない、全体に音楽が平板に聴こえます。途中で何だかバラバラになった音楽に戸惑っている自分(私)がいる。音楽に摩擦が少ないというんでしょうか、説得されない。悪く言うと退屈、私にとって何度も聴き返したいマーラーにはなっていない。そもそもマーラーなど常日頃に親しみたい音楽ではありません。ですから聴くからには何か欲しい。

うーん、難しいものです。実演を聴いたら印象は全く違うかもしれませんよ。1週間の間にあと、数回は聴いてみると思いますけど、まずはファースト・インプレッションということです。

2009年1月22日木曜日

ドゥダメルのベートーベン交響曲第5、7番(DG 1week)

DGの1週間視聴サービスで真っ先に聴いてみたのが、今更ながらにドゥダメルのベートーベン。話題になるだけあって、注目に値する演奏でした。買っていない盤の演奏を、しかもストリーミング配信されているものを評する行為が「妥当」なのかはさておき、インプレッションを書いておきます。

問題はドゥダメルの楽天性と明朗性についてどのような判断を下すかです。今のところは素直に肯定、受容する気持ちと、態度を留保したい気持ちに分かれています。

ドゥダメル自身、インタービューなどで語っているように、彼は音楽の力を信じています。またベートーベンの交響曲の持つ音楽的テーマについても精通しています。またベネズエラという国、決して西側諸国のように裕福とは言えない環境に居た音楽家達によって演奏されるベートーベンということ。

これらをすべて理解するかしないかに関わらず、演奏から聴こえてくるのは楽天性と明朗性。そして単純な世界観と若者らしい可能性と希望です。悪いはずはありません。いやむしろ出来すぎているとさえ感じます。

音楽と同時進行で主観的感想を連ねてみたら、A4で4枚もの賛辞と疑問で埋め尽くされました。それ程までに刺激的で驚きの演奏です。既に多くの人たちが熱狂的に支持するのも首肯できます。特に交響曲第七番 終楽章の圧倒的なスピードとリズム、凄まじいまでの疾走を聴くと、体の内部からふつふつと沸き起こる本能的肉体的な喜びを抑えることができません。

第五番 第三楽章のコントラバスの響きも鳥肌ものです。チェロとコントラバスのフガートの部分です。コントラバスがこんなにもリズミカルに弾けられるものでしょうか、まさに「踊る巨象」です。

You Tubeにプロムスの映像があります。まるで「のだめ」でも披露されていた楽器回し(本当にクルクル回す!)。あのノリと軽さ、ラテン的健康な官能性。(本当にあの映像は衝撃です)。クライバーの洒落て豪奢なノリとも違う。

とはいえ、いわゆる爆演系とはなっていない。弱音も丁寧に、ダイナミックレンジも広い。ですから、聴く前に想像していた演奏とは少々異なり、最初に聴いいたときには肩透かしのような感じがしたものです。何度か繰り返して聴くに従い、彼のこの盤における特性が分かるようになってきました。深い精神的ドラマは歌われていませんが、ラストへの歓喜を志向する強い確信と希望を感じます。そこには南国を吹き抜ける生ぬるい熱風さえ錯覚します。いいぢゃないですか。ベートーベンに深い精神性を求めるならば、何もドゥダメルを聴かなくても満足できる盤は他にもありましょう。

さて、こうして何度か繰り返して聴いてみますと、彼がほかの曲もどう料理するのか、ぜひとも聴いてみたいという欲求が沸き起こってきました。

2009年1月19日月曜日

Deutsche Grammophonのサービス

Classicaのiioさんが紹介している通り、最近のネット技術を使った音楽配信には目を見張るものがあります。ベルリンフィルのライブ中継やライブラリーの閲覧は、TVニュースで流されたほどです。自宅のiMacで実際にアクセスしサンプル映像を確認してみますと、映像の解像度、音質はきわめて高く、ついにここまで来たかと驚きを新たにしました。

一方でDeutsche Grammophonによる、1アルバム99セントで1週間限定視聴サービス~ Stream (7 Days)~も驚異的です。今のクラシック界においてDGのレーベルの魅力がどの程度かはさておいても、膨大な黄色レーベル音源が、わずか99セントで聴けるとなれば話は違います。

今まで買うのを躊躇っていた盤も、どんどん聴いてしまいそうです。だいたい、CDを買って感動したところで、取り出して聴くのはせいぜいが数度。それも買った最初の数日間に限られてしまいます。あとは余程のことがないかぎりは、CDラックの中で再び王子が見つけてくれるまで深い眠りに入るのが関の山です。

このようなサービスが、レーベルにとって真に利益をもたらすのか私には判断がつきません。Naxos Music Libraryに提供する音源が続々と増えていくということは、音楽配信にとって新たなビジネスモデルが確立しているのかもしれません。

ネットのあちら側に膨大なソフトがあるという世界(狭義のクラウド・コンピューティング?)は、今までの所有を前提とした世界観を根底から覆します。amazonの電子ブックにもその予感があります。個人が買うのは「権利」だけになるのですから。具体的な物が信用取引に還元されてしまいます。

理想は端末を通じて「あちら側」の膨大なソフトに、いつでもどこでもアクセス可能という状況でしょうか。ランニングのお伴として何を選択するのか、それだけで10分以上迷いそうですね。

DGも結局はハードなメディアを買ってもらうことで利益を得ようとするならば、配信する音楽に制限をかける~たとえば、ある楽章を全曲ダウンロードでなくては聴けないようにする、あるいは人気のある新盤は1weekに対応しないとか…~の措置をすることは考えられます。実際にすべてが1weekの視聴に対応しているわけではなさそうです。

企業の論理を優先して顧客を囲い込むことが、著しく顧客の利便性を阻害していることが指摘されています。最近の新聞記事では携帯電話の料金契約体系についての指摘ですが、似たような事例は事欠かないでしょう。電子マネーや音楽フォーマットなどの規格争いなどもその典型でしょう。企業側の生き残りを賭けた姑息な対応は、著しく顧客満足度を損ない、しいては企業に対する不信感につながる可能性があります。結果的に消費者に愛想をつかされると。

まあ、そういう難しいことを考えずに、聴ける間に聴ける曲を聴けるだけ聴いてしまった方が得であることだけは確かです。他にもネットを通じて配信されるソフトは多く、それほどの時間を音楽視聴にかけられるかの方が問題でしょうけど。

で、まず聴いてみたのはこの盤でした(つづく、そのうち)。

2009年1月12日月曜日

映画:エジプトのジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザ)

新宿バルト9で上映されているUKオペラCinema 「ジュリオ・チェーザレ」(ヘンデル作曲、グラインドボーン音楽祭2005年)を観てきました。DVDにもなっている本作品は、クレオパトラ役のダニエル・デ・ニースを一躍有名にした公演。

映画館でオペラというのは何度か観た事があります。貴重な映像を大画面で観る事ができるのは有難いのですが、音量と音響がちょっと酷い。クラシックを知らない人には適正な音量というものが理解できていない、ただ単に「大音量であれば迫力がある」としか考えていないのでしょう。音は割れ、高音もヒステリック。クリスティ率いるエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団の微妙なハーモニーが騒音としか聴こえないのが何とも哀しい。歌手の歌声は肉声のそれではなく、ハンドマイクを通した街頭演説さながら。

歌手のドアップ映像もつらい。ハリウッドのスターではない。大アップでの熱唱はビジュアル的に耐えることができません。

そのような音楽的、ビジュアル的悲惨な面があったとしても、デ・ニースのクレオパトラは素晴らしい。彼女が登場すると世界が全然変ります。ジュリオ・チェーザレ役のサラ・コノリーやセトス役のキルヒシュラーガーなど並み居るヘンデルを得意とする歌手陣を向こうにまわしての圧倒的な存在感。これにはデイヴィッド・マクヴィカーの演出によるところも大きいのだと思います。ドロドロした復讐劇に、少し軽目のエンタテのトッピングをかけている。その対比が上手い。

デ・ニースには文字通り「つま先」まで痺れてしまいます。でかい口、大きな眼。チャーミングにしてコケティッシュ、健康的な色香。いわゆるエロかわいいてやつでしょうか。最後、さながらミュージカルのように歌って踊る「Da tempeste il legno infranto」がアタマにこびりついて離れません。確かにデ・ニースがフィガロのスザンナ役を演じたならばハマリ役でしょう。

二度の休憩をはさんで227分。観るのも結構体力が要ります。デ・ニース観たさに映画館に脚を運びましたけど、さらに別のオペラを観たいかと考えると、この音響では勘弁といったところでしょうか。新宿では16日(金)までですから、観るならお早めにといったところでしょうか。

2009年1月3日土曜日

柴田哲孝:「完全版」下山事件 最後の証言


本書「下山事件」をどのようなコンテクストの中で読むかにより、評価は分かれるかもしれません。佐藤一「下山事件全研究」、森達也「下山事件(シモヤマケース)」、そして諸永祐司「葬られた夏-追跡・下山事件」。これらを読んだ上で、本書に下山事件の解明を求めたとき、不満や疑問が残るか、真相解明の快感が得られるか。

純粋に「下山事件」の決定版を出版するという意図が柴田氏の目的であったならば、本書のような構成にはならなかったはずです。他書や報告との差異や論拠の違いを、一つ一つ漏れなく潰していくという遣り方こそ取るべきで、柴田氏の都合の良い文脈の中で散発的に資料を引用するという書き方は、フェアに感じられません。

おそらく、本書は「ジャーナリスト柴田氏」の自分探しの書なのです。氏の下山事件に対するアプローチは、自分の叔父が下山事件に関与していたかもしれないことを知らされたところから始まります。叔父は柴田氏の成長過程で大きな影響を与えた人格として紹介されています。「下山事件」そのものよりも叔父について調べたかった、すなわち、柴田氏自らのルーツを探ることが目的であった。

追求を始めると、事件や証言には不可解な点が余りにも多い。最初はルーツの旅であったものの、ジャーナリストとしての血が真実を求め始めたようです。それから氏は膨大な時間をかけて事件に迫っていきます。

下山事件に関与したらしい亜細亜産業という叔父の会社を中心として登場する人物名には驚かされます。政治家、右翼、左翼、CIA、CIC・・・、そして三菱など。昭和の一時代が亜細亜産業という「場」に凝縮されているかのようです。

多くの証言を通して(身内のものも多いのが欠点ではあるが)、亜細亜産業の正体を暴く作業そのものが、叔父を探す作業につながり、ひいては下山事件を紐解くことに繋がっていきます。ここらあたりの筆致はグイグイと読ませます。

そして、全てを「辻褄が合うように考えると」、下山事件は、国鉄内部のだけの問題だけではなく、アメリカの日本占領政策と日本という、大きな枠組みの中で生じた「事件」であることが見えてくる。アメリカの国家戦略、権力と利権の構図。著者の、この結論を読んでストンと溜飲を下げるか、胡散臭いと感じるか。

さらに人脈と事件のルーツとして柴田氏は、「満州鉄道」に拘り続けます。そして最後に下のように結んでいます。

もちろん張作霖爆殺事件や柳条湖事件が下山事件と直接関係していたとする論法は成り立たない。だが、下山事件の背後には、満州鉄道から延々と続く人脈が存在した。精神的な支柱として、もしくは事件の発想の根幹として、その裏に満州鉄道が存在したことは確かである。
私は下山事件にはそれ程「思い入れ」はありません。ですから、本書にはイノセントに接し、大変面白く読むことが出来ました。正直、昭和史に関してはイロイロと目から鱗のところも多かったです。ですから下山事件の犯人が誰であっても、私にはどうでも良いことです。むしろ最近の書「CIA秘録」でも読まなくては、という気になりました。

この作品の後に柴田氏は、作家として歩み始めます。先に酷評した「TENGU」も、本書を読むと氏が何を書きたかったのかが分かりました。あれは氏の構想だおれの作品です。あまりにも「下山事件」で得た結論が「ロマンチック」過ぎたということです。