2004年4月11日日曜日

【音盤】ジュリーニ/LOP:ブラームス交響曲第1番

  • 指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ
  • 演奏:ロサンゼルス・フィルハーモニー管
  • 録音:1981年11月

ジュリーニ/LOPによるブラームス交響曲第1番は名演であるとの評判が高く、今年1月に再発売された盤です。

ジュリーニの演奏ですからテンポはゆったりとしています、というかかなり遅いです。第一楽章が19分弱、第ニ楽章が10分半、第三楽章が5分、そして第四楽章は18分半です。しかしこの遅いテンポで丁寧に歌われるブラームスは格別な味わいで、堂々たる風格を有しています。最後まで聴いていると、何か人生の長い旅路を終えてきたような境地と至福感にまで達してしまいます。

ゆったりしたテンポではあるのですが、弛緩したり生ぬるい演奏では全くありません。第一楽章は冒頭から音響の迫力は物凄く、特にティンパニの強いアクセントをもった強打が印象的です。しかしこれとて、ただ強いだけではなく微妙なニュアンスの違いを叩き分けています。打楽器と重厚なオケが一楽章の持つ暗さや悲愴感を際立たせています。

翻って第二楽章のAndante sostenutoは暗さと明るさを兼ね備えた美しい楽章です。この「田園風」楽章でのジュリーニのオケの唄わせ方には陶然としてしまいます。第二楽章の7分頃に現れるソロ・ヴァイオリンの部分など、ヴァイオリン・コンチェルトを聴いているような気にさえさせられます。続いてのヴァイオリンと木管が寄り添うように唄うところは特に格別で、こうなるとコンチェルトではなくオペラの一幕と言ってもいいかもしれません、ここだけ何度も聴きたくなってしまうほどです。

第三楽章は更に「幸せ感」が高まっていきます。しかし、あざとい表現とか煽るような表現は聴こえません。第一楽章のティンパニの強打も昔のことのように思えます。第三楽章は短い間奏曲のようで、再び壮大な悲痛を予告する第四楽章に受け継がれますが、この楽章はとりわけ見事です。

ブラームスが描いた音楽も素晴らしいのでしょうが、ジュリーニの演奏は実に説得力があります。ティンパニの強打の意味もはっきりと分かり、かの有名なホルンとフルートが奏でる旋律が現れる頃(3分半)には体がブラームスで満たされてしまっています。主部のベートーベン第9の歓喜の主題に似た第一主題を聴くいていると、まさにこれは形を変えた、ベートーベンよりも穏やかで静かな、しかし内に秘めた熱情では負けない歓喜であることが、しみじみと分かります。いやはや本当に美しい旋律です、完全にブラームスが効いてしまっています。ジュリーニのテンポで聴きますと、ブラームスが非常に大人びて聴こえます。感情をむき出しにする直情型の演奏とは異質のもので、それでいて激しいという恐るべき音楽です。

中間部のたたみかけるかのような音響は、ブラームスの複雑な感情(喜び、怒り、嫉妬、絶望、そして達観)が全て詰まっているかのようです。故にラストに向けての感情の解放は静かにそして熱く、一人静かに固い拳を握り締めるがごときです。ブラボー!

(CDと同時進行的にレビュを書くと、こういう直情型支離滅裂文章になってしまいますね・・・)

四谷の桜

四谷は上智大学の横の土手沿いの桜を撮ってきました。満開のピークは過ぎましたが、新緑と桜の色合いが美しく、かえって桜一色の頃よりも味わいを増しています。


イラク拘束事件の責任所在

被害者の家族がTVで政府に訴状やら苦情を呈していますが、ネット上の意見ではネガティブな反応が多いようです。危険地帯に自ら行った彼女と彼らと、未成年までもイラクに行かせた家族に対する非難です。

イラク撤退に反対という世論も7割近いらしく、私は少々驚いてしまいました。




私はすぐに自衛隊撤退すべきという意見にも(そもそも派遣がどうだということもあり)同調しかねるのですが、政府も世論もひとつの選択肢を即座に放棄したということに疑問を感じています。


それにしても「自己責任」と言う方々は厳しいですね。危険なイラクに飛び込んだ彼らと彼女の行動には、私も幼さと甘さを感じますが、「自己責任」を問う方々は、彼らと彼女の日本における行動にさえ批判と嫌悪を感じているように思われます。さらにそこに、家族の反応が「自己責任主張派」の感情に油を注いでいるようです。政府方針や自衛隊に反対するような輩が、どうしてその政府や自衛隊に助けられなくてはならないのだと。


当然、日本政府はイラクへの渡航に関し警告を発してしていましたが、結果的には彼らと彼女のイラク入りを許可したわけです。責任の所在という点では何処に帰結するのでしょうかね。本人と家族の自己責任もありますが政府の責任も否定できず、全力を挙げて救出することも当然であると思えます。


今回の事件に対する反応は、政府にも何か重い決断を迫られていますが、個人にも踏絵のような意味合いも持ってしまったように思えます。自衛隊派遣どころか、日米安保を含め大きな課題を投げかけている事件です。それにしても、時間がない・・・

2004年4月10日土曜日

福岡の靖国違憲判決に対する産経抄

「クラシック音楽」のサイトを放棄して「プチサヨク」のサイトへと変化したと思われそうですが、それでも記録しておきたい記事が9日の産経新聞『産経抄』にありました(このごろすぐ忘れてしまいますので)。福岡地裁の首相靖国参拝の違憲判決についてです。

裁判官に対する不信を強く感じた [...] 死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑った』と書き出し、以下のように展開します。





  • 国のために死んだ人びとは英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる

  • (靖国を)おまいりすることはいわゆる宗教的活動ではない

  • (靖国参拝は)先祖をうやまう人間的で自然な儀礼

  • 判決自体が、裁判官の主義主張に基づく“政治的性格”

  • なぜなら判決がでるやいなや、中国と韓国は「大いに評価する」とコメントしてきた(から)




大変勉強になりました。私も国のために死んだら「英霊」となって「靖国」に名前を連ねて「神」(『欧米でいう“ゴッド”とは違う』)になれるのですね。イラクの自衛隊員は靖国の神にはなれませんから、これから国のために死んでくれる若者のために、しっかり下地を作ってあげようと、ありがたい処置ですね。これは、日本古来の自然観や習俗とか国家神道に基づくものであって宗教ではないのですし、日本人なら誰もが持つ自然な美しい心から発露したものですから、いやおうなく「愛国心」は醸成されますね。「靖国」「日の丸」「君が代」三点セットに「教育勅語」を付けますか。

死者の慰霊と鎮魂と、神話の神々を祭った神社と天皇と、一体いつどう結びつきましたか。それは靖国の歴史でしょうが。しかも官軍だけを祭った。それが日本の伝統文化ですか。守ろうとする「国体」って何でしょうかね。私は産経の主張する「国家」に命を捧げる気には、今のところなかなかなれません。(とこう書きますと、「国家に所属していながら自己矛盾」だとか「日本にいる価値なし」とか、感情的に激昂する人が多いんですよね)

イラクでの日本人拘束事件

イラクにおける日本人三人の拘束事件は各方面への波紋を広げています。

日本政府は早々に「自衛隊は撤退しない」という強い意思表明を行っており、アメリカからも評価されています。一方で拘束された家族は「選択肢を奪われた、なす術が無い」と呆然状態です(「筑紫哲也のニュース23」)。



ネット(例えばYahoo掲示板)を徘徊していると、今回の三人の被害者に対して否定的な意見が目に付きます。彼らに対し「サヨク」というレッテルを張りたがる方々や、自ら危険なイラクに何の手立ても無く飛び込んだのだから「拘束死志願」であるので「自業自得」、「助ける必要はない」、更には「殺されても仕方ない」「焼き殺してくれ」という意見まで散見されます。そういう方々は、好きで冬山登山やシケの日の釣りに興じる「バカども」は救助する価値なしと言っているわけでして、眩暈がしてきて読むのを止めました。

また、今回の拘束事件は「自作自演」であるという説まで登場しています。確かにテロ組織からの具体的要求が「自衛隊の撤兵」という一点であるため、何か腑に落ちない気持ちはあります。日本で放映されていない映像 も あります 。マスコミは自粛したか報道規制でしょうか。


��日の大手新聞は毎日を除いて皆この問題に触れていますが、いまさら引用せずとも内容は推察の通りです。ただその中で読売新聞は『昨年のイラク戦争の直前から、外務省は渡航情報の中で危険度の最も高い「退避勧告」を出していた。三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なものではなかったか。』と被害者の自己責任を問う意見を表明しています。そして大手のどの新聞も、人質の人命救助を強く訴える論調が薄いものであることが印象的でした。


福田官房長官は記者会見にて、ダッカ人質事件の際、当時の福田首相が「人命は何よりも尊い」としてテロリストに屈したことに触れられたのに対し、「当時とは時代が違うし、意味合いも異なる」と答えたようです(前後の脈絡は分かりませんが)。

日本政府は「国際人道支援」を止めるつもりは無く、また人質奪還の可能性やストーリーを全く描けないのに、一つの選択肢を一番最初に切り捨てたわけです。政府が守るものは、海外で勝手にテロにあった同胞の命ではなく、西側諸国の中での日本の地位と立場であることをこれほど明確に示したことはないのではないでしょうか。


もし今回のテロが本物であれば、テロリストとの連絡手段がない以上、交渉の余地のない一方的でかつ卑劣な要求であることは論を待ちません。政府は後二日で何ができるのでしょう。情報収集と救助に全力を挙げると言っても、イラクに対する諜報活動や情報網が整備されているとは全く考えられません。


昨年11月、外務省は二人の外交官をイラクに派遣し死なせてしまいました。彼らはティクリットの会議に出席するためでしたが、ティクリットが当時最も危険な地域であることを外務省は掴んでいなかったということです。外交官二人は、アメリカの関係者なら必ず携行するはずの軍用地図を渡されていなかった可能性が指摘されています。


イラク派遣前のサマワの状況判断についても同様です。このような日本政府が、どうやって人質を救出するのでしょう。私はどう考えても(>というほどには考えていませんが ^^;;)先が読めません。陸上幕僚監部調査部などの情報部関係者などが積極的に情報収集ですか、それとも、アメリカ国防総省の下の諜報機関あるいはCIAからの情報提供と米軍による武装解除にでも頼るのですか?あるいは、ひたすら非道であることを訴え続けるだけでしょうか? (いや、実は、諜報網も解決ストーリーも描けていて、一気に救助可能なのかもしれません、私が知らないだけで)


翻って、自衛隊を撤兵させることはテロリストに屈したことになるのでしょうか。日本は「人質」さえ取れば組しやすしとテロリストの標的にされるということでしょうか。そうしたとき、テロリストは日本に対して今度は何を要求してくるのでしょう。人質を取っての身代金の要求ですか、あるいは国際テロリストの解放とか・・・。


今回の武装勢力がいかなる組織かは不明ですし、イラクの中には日本人に対して敵対意識を持つ人は少ないという報道もありますが、明らかにアメリカのイラク侵略と駐留、それに加担する国を「敵」とみなす勢力、あるいはそういう勢力を利用しようとする組織は存在するということです。


イラクではスンニ派のみならずシーア派まで両派共同でナショナリズムを展開し反米活動を始めつつあるという状況に変化してきています。フセインもNoであったが、アメリカもNoであると突きつけています。そういうアメリカに日本は加担していると見なされているわけです。アメリカや日本の立場に立てば、今回の武装集団はテロリストで犯罪者ですが、彼らから見れば侵略者以外の何者でもないような気がするのです。


「人道支援」とか「国益」とか「民主化」とか言いますが、結局は西側あるいは列強諸国の経済的「勝ち組」の理論でしかなく、アラブ諸国の立場からの、アラブ人に尊厳と敬意を払った上での活動では決してないはずです。アメリカの行動こそテロリストを増殖させているのではないのかという意見に私は少なくとも今のところ同調します。


今回の事件が茶番でなければですが、大事な一日が過ぎてしまったことは確かです。

2004年4月9日金曜日

小泉首相の靖国参拝に違憲判決


��日の新聞報道ほかによると福岡地裁(亀川清長裁判長)は、小泉首相の就任後初めての靖国神社参拝について違憲と判断したそうです。首相の靖国参拝は全国6地裁で起訴されており、今回は3番目の判決で始めての違憲判断になったものです。福岡地裁に訴えを起こしていたのは、九州や山口県などの宗教関係者、在日韓国・朝鮮人ら211人。

参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる』とした判決の骨子は以下。





  • (小泉首相は)参拝後、総理として参拝した旨を述べており、総理の職務執行と認められる

  • 宗教とかかわり合いを持つことは否定できない

  • 自民党や内閣からも強い反対意見があり、国民の間でも消極的意見が少なくなかった。一般人の意識では、参拝を単に戦没者の追悼行事と評価しているとはいえない

  • 戦没者追悼場所としては必ずしも適切でない靖国神社を4回も参拝したことに照らせば、憲法上の問題があることを承知しつつ、あえて政治的意図に基づいて参拝を行った

  • 参拝が神道の教義を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長する効果をもたらした

  • 社会通念に従って客観的に判断すると、憲法で禁止される宗教的活動にあたる

  • 靖国参拝は合憲性について十分な論議も経ないまま繰り返されており、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、同様の行為が繰り返されることになる



憲法20条3項の政教分離には違反しているとしましたが、原告への慰謝料請求については、『参拝で原告らの信教の自由を侵害したとはいえない』として棄却しています。


さて、これに対する大手新聞の8日の社説を引用しておきましょう。

朝日新聞 社説は『首相がこだわる靖国神社とはどんなところなのか』と靖国神社成立の歴史と『軍国主義の精神的な支柱という役割』に言及し、


  • 日本国憲法が国は宗教的活動をしてはならないと戒めているのは、そうした過去の反省に立っている

  • (伊勢神宮参拝は)違憲の疑いがあるが、靖国神社が背負う歴史を見れば同列には論じられない

  • 個人的心情だと開きなおる前に自分の立場を考えなければならない

  • 首相が参拝すれば、それは靖国神社を特別扱いし、援助していると見られても仕方がない


とした上で『憲法違反という司法の警鐘に素直に耳を傾けるべきだ』と結んでいます。

朝日として当然の論理でしょう。

一方、読売新聞は朝日の否定した歴代首相の靖国参拝に関する訴訟事例と伊勢神宮参拝などに簡単に触れながら、以下のような論旨を展開します。



  • 首相の靖国神社参拝は戦後も、伊勢神宮参拝などと同様、日本の伝統や慣習に基づいて歴代首相が行ってきた、ごく自然の儀礼的行事

  • なぜ靖国神社参拝に限って、近年になって違憲かどうかが問題にされるようになったのか

  • 小泉首相の靖国神社参拝を「政治的意図」とする今回の判決自体が、政治的性格を帯びた内容



と判決に真っ向から疑問を呈しています。

さて、最後は産経新聞です。まず『これまでの判例を著しく曲解した判』と冒頭から強い語調で地裁判決を非難し、



  • (首相の参拝によりその年の終戦記念日の参拝者が前年の2倍になったことに対し)参拝者が増えたのは結果的にそうなったのであり、首相が事前にそれを意図して参拝したわけではない

  • 重大な判例違反

  • 福岡地裁の違憲判断を推し進めていくと[...]恒例の伊勢神宮参拝も憲法違反に問われることになる

  • 福岡地裁の判決は、特定の主義主張に偏っている

  • 福岡靖国訴訟は、首相の靖国参拝に反対する僧侶や牧師、市民運動家、在日韓国・朝鮮人らが全国各地で起こしている靖国訴訟の一つ

  • 一連の訴訟は、裁判を利用した一種の政治運動



としており、読売と同様に特定の団体の意向に基づく政治的色合いの判決だと結論付けています。

読む前から結論の分ってしまう社説というのも、げんなりしてしまいます。

読売と産経は政治色が強いと批判しますが、靖国参拝自体が政治色の強いものです。外圧とかマイノリティとかを論じる気はしませんが、福岡地裁の亀川裁判長その人が、今後政治的どう影響されてゆくのか(あるいは司法の独立性を維持し続けられるのか)そこら当たりを報道は追求していてもらいたいものです。

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【過去の意見箱】

2001 08/14 小泉首相の靖国神社 電撃参拝

2001 08/14 歴史認識の違いと他国の干渉

2001 08/15 予想とおりの反日感情

2001 08/15 13日の参拝と小泉首相の公約

2001 08/16 靖国神社と東京裁判

2003 01/14 小泉首相の靖国神社参拝

2004年4月7日水曜日

海外盤洋楽CD輸入禁止!?

いったいこれは何ですか? レスするには余りに無知すぎ、しかも眠すぎます。
明日の昼以降に、落ち着いて下のサイトを読んでみます。

海外盤洋楽CD輸入禁止に反対する
Stop the Revision of the Copyright Law


【本棚】田中宇:イラクとパレスチナ アメリカの戦略


以前、「アメリカ以降」(2004年2月20日 第1版)、「イラク」(2003年3月20日 第1版)と田中氏の本を紹介しました。いずれもアメリカのイラク侵攻以前に書かれた本でしたが、本書は2003年1月20日 第1版発行ですから、これらの本の中では一番古いものになります。

私がどうして中東問題とか、国際関係に少なからず興味があるのかといえば、アメリカに反旗を翻したいわけでも、イラク国民を憂えているわけでもありません。強いて言うならば、今まであまりにも国際関係の常識に無知であったこと、知り始めると非常にスリリングであること、ひいては、将来の日本の方向性についての知見を与えてくれることなどが理由でしょうか。

本書では、アメリカをはじめとしてイギリスなどの列強諸国が、中東に対してどのような世界戦略を描き統治してきたかの概略を説明してゆくことで、現代にまで続く中東問題の根本原因に言及しています。中東に少し詳しい方ならば、ほとんどが常識問題であるかもしれません。

田中氏は、イギリスやアメリカの中東戦略について「分割統治」と「均衡戦略」という観点から説明しています。これは、一国だけ(欧米に敵対するような)強大な国を作るのではなく、互いのパワーバランスにより消耗させあい、ひいいては西欧中心の世界を安定させようとさせる戦略のことです。

イスラエルの存在やサダム・フセイン政権を今回のイラク侵攻まで温存させたのも「均衡戦略」から説明しています。

西欧の為政者が本当にこのような壮大なる世界戦略を描いているのだとしたら、日本の外交などは子供だましもいいところですし、北朝鮮問題を初めとして、日本はあたかもアメリカの手の上で遊ぶ孫悟空のような存在だと比喩されても、否定することはできない気がします。

田中氏が中東問題に拘る理由については、エピローグに述べられいます。

私がアメリカの戦略の裏側を読み解こうとし続けるのは、アメリカが今後もずっと超大国であるかどうか、疑問があるからだ。

また、アメリカが911テロを利用して軍国主義に走った理由については、

アメリカがもはや経済的に世界を支配できず、経済が弱体化した結果、軍事で世界を支配しなければならなくなっているから

と説明しています。これは『アメリカ以降』で田中氏が展開することになる考えです。今後アメリカが衰退してゆくとしたら、日本の盲目的な対米追従は危険であり、それを回避させるためにも『アメリカに対する十分な分析が必要』であるとし、

アメリカの世界戦略の本質が最もよく分かるのは、中東情勢であると私には思われる

と書いています(P.260~261)。田中氏の書くことを100%鵜呑みにしたり、盲信するつもりはありませんが、田中氏の視点はかなりニュートラルであるため多くの本質を突いているのではないかと私には思えています。

2004年4月3日土曜日

【音盤】ラター:レクイエム

今週聴いていたのはNAXOSの『ラター:レクイエム、宗教音楽集』です。

ラター:レクイエム、宗教音楽集
  1. 合唱とフルートのためのアンセム
  2. 合唱とオルガンのための降臨節アンセム
  3. 無伴奏二重唱のためのアンセム
  • NAXOS

レクイエムといえば、モーツアルト、フォーレやヴェルディのものが思い浮かびますし、少しマイナーですがデュリュフレのレクイエムというものもあります。ラターのレクイエムは、フォーレやデュリュフレと類似のコンセプトの曲でしょうか、また『深き淵より』という詩篇第130番や『主は我が羊飼い』(詩篇第23番)が挿入されているのが特徴的です。


ヴェルディのレクイエムのような劇的さは排除されていますので「ヒーリング」系レクイエムとして好まれているのかもしれません。あるいは他のラターの曲もそうですが、英語で歌われていますしメロディも比較的馴染みやすい曲が多いので、より好ましく思われるのかもしれません。

この曲はラターの父の死への追憶として作曲(1985年)されたものだそうです。確かに聴いてみますと、第2曲目の詩篇はチェロと合唱のアンサンブルはとても心地よいですし、『ピエ・イエズ』を歌うソプラノのエリン・マナハン・トーマスの声は繊細ですばらしい響きです。『サンクストゥス』は明るい曲調でグロッケンの響きが印象的、"Sanctus, Sanctus"と歌う合唱は喜びに満ちています。

『アニュス・デイ』は中間部で盛り上がりますが、後半の合唱とフルートの掛け合いが静謐さと祈りを表現しているようで限りなき安らぎに満ちてきます。その雰囲気のまま詩篇第23番のオーボエの響きに引き渡されるところは、この曲での絶品の部分といえましょうか。最後の『ルクス・エルテナ』のソプラノとフルートに導かれる歌は、まさに奇跡的なほどの崇高さに満ちてきます。ラストでは冒頭に歌われた"Requiem aesternam dona ,eis Domine"が繰り返されるのですが、気付くと思わず一緒に口ずさんでいます。

実は『レクイエム』の何たるかもあまり理解せずに書いているのですが、宗教やキリスト教に馴染みのない人でも楽しめる曲であると思います。私はこれを機会に、別の演奏のラターも聴いてみたくなりました。

●ラター:レクイエム、宗教音楽集(NAXOS 8.557130) より

木村氏のブログ:広告に関すること

『週刊!木村剛』の今週のコラムは『「広告の奴隷」から「広告の主人」へ』というものでありました。

木村氏は、今までは受動的であった広告の受け手が、『消費者は [...] 各種の情報で武装しつつあり』、『発信者が特定されるブログ』が『そのサイトの信用力が他のメディアと同格』になった場合、『消費者は既存の広告以外に有力な情報源を持つ』として、従来型の広告媒体からインターネットを通じた主体的な広告選択の可能性が拡がると書いています。




少し疑問もあるので書いてみます。現在でもインターネットでは見たくもないバナーと広告の洪水です。むしろサイトの方が巧妙な広告技術が駆使されているように思えます。ログ履歴を通して、一体どのような情報を企業が享受しているのか知るよしもありません。

またブログが広告情報主体の担い手になるという考え方も、ではそのブログの主体である個人が、どのような選択眼に基づいて広告情報を提供しているか分らなければ、ニュートラルな広告情報源とは捉えることができなくなります。


逆にブログなどが提供する広告情報においてニュートラルなものはないという論点に立つならば、誰々が推薦している広告情報であるから信用できる、あるいは、しないという選択はできるかもしれません。ブログ流行以前から、カスタマーズ・レビュを掲載しているサイトは多いですし、購買者の評価点を表示する広告も何かで見たことがあります。


そうした広告情報であっても、更にそれが作為的に操作されたものでないかを広告情報の受け手は考慮する必要があります。購買者は商品が少なく一方的に広告を受けていた頃よりも、広告を評価する情報を更に吟味することになり、広告呪縛は続いてゆくようにも思えます。

だからこそ木村氏は『サイトの信用力が他のメディアと同格になってきたならば』という条件付きでこの仮定を提示していますが、『他のメディアと同格』というのがまた、クセモノかなと思えます。


なぜ木村氏のエントリーに反応したかといえば、「商品広告」という経済的なものではなく、広く「マスコミが流布している情報」ということにまで敷衍して考えるならば、両情報に明確な区別はないかもしれず、求められるものは情報の受けての判断力と取捨選択力、そして主体的な情報への接し方とそれを可能にするある種の知恵が必要になってくると考えているからです。


そもそも広告評論家の天野氏にいわせれば、表現の全てが「広告」であるという極論にまで達してしまいそうです。「政治的プロパガンダ」こそ言葉の通り「広告」ですからね。

(エントリー当初より少し改稿)

2004年4月2日金曜日

国旗と国歌にまつわる話題3

大手新聞間で「社説」での意見交換が続いています。2日の朝日新聞社説によれば、朝日が3月8日と31日の2度に渡って国旗・国歌強制に対する反対を掲げたところ、産経新聞が4月1日の『産経抄』でそれを批判、また読売新聞も3月31日の社説で朝日を遠まわしに批判したというものです。(朝日の社説バックナンバーは読むことができません)




『産経抄』は数ヶ月前までは携帯で毎日読んでいたのですが、パッケット代を払ってまで読む内容でもないと思いその後チェックしていませんでした。読売の社説については私も31日のブログで紹介したばかりです。


産経や読売が右よりであることは今更論を待たないのですが、産経新聞は『都教委はあらかじめ[....]通達を出し、それに反した場合は懲戒処分の対象になることを伝えていた』ため処分された教師は『教師失格者であ』り、都教委の措置は『当然』と断じています。
いやはや。先ほど私が『産経抄』は読む内容ではないと書いたのは、あまりに産経の論調が一方的で同じ内容を毎日毎日繰り返しているだけのように思え辟易したためです(と書くと、産経読者から罵倒されそうですが)


朝日と産経の意見の隔たりは議論にさえなっていません。朝日や私が紹介した岩波の『世界』は、国旗・国歌強制そのものに対する異議であり、都教委の指導そのものが行き過ぎであるのではないかと疑問を呈しているのです。通達先にありきで、それを破ったので処分するのは当然ではお話しにも何もなりません。


朝日も2日の社説の反論では、


 さて、私たちの主張は何か。卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ。それがなぜ国旗・国歌を貶めることになるのだろうか。


と抗弁しています。


日本人は単一民族であると(一応は)されていますし、長く鎖国をしていた経緯や周りを海で囲まれていることなどから、民族意識、国歌意識が大陸諸国よりは薄いのかも知れません。あるいは、同じ島国であっても台湾や東南アジア諸国のように、植民地化の歴史がありませんから民族自立の意識も希薄なのかもしれません。アメリカのように巨大大陸でありながら建国の歴史が浅いことから、強力な国家意識が必要な国もあります。


私は朝日新聞を全面的に信用しているわけでは全くありません。そもそも、国旗や国歌がなぜ必要なのか考えてみる必要があるのではないでしょうか。日本は明治維新そして終戦と二度にわたって国民意識を根底から変革する事態に遭遇しました。過去の歴史と不連続であるわけです。「愛すべき日本」「護るべき日本」とはどのような「日本」なのか、考える必要があるのではないでしょうか。その先にこそ議論はあるわけで、表層的で不毛な国旗・国歌論争には飽き飽きです。


ただひとつ私の態度を明確にしておきますと、天皇の時代が永続的に続くことを歌った「君が代」を、私は国歌であると承服することは全くできません。それが歌詞抜きになったとしてもです。もしこれが日本の精神性を代表する唄であるとするなら、森元首相の暴言ではありませんが、日本はやはり美しい「神の国」という思想まで一直線でしょうに。

2004年4月1日木曜日

フェルメールの真作!?

朝一番から驚かされます。『拍手は指揮者が手を下ろしてから』というサイトで、贋作だと思われていた作品がフェルメールの真作と認められ、オークションにかけられるという内容です。ネタ元はBBC NEWSのようです。フェルメールは私が最も敬愛する画家ですので穏やかではいられません。



フェルメールは寡作で知られるオランダの画家ですが、贋作の多さでも有名です。今月15日からは東京でフェルメール展が、そしてフェルメールを素材とした映画も放映予定で、今か今かと待ちわびていたところにこの話題です。

4月1日だから・・・・なんてことは、ないでしょうね!>BBCと思いましたが、ニュースは3月30日のものですからほぼ確実のようですね。

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さて、落ち着いてよく調べてみますと、この作は以前から真作ではないかと疑われていたらしいですね。2001年のフェルメール展で展示されて話題になったようですが、そのときには図録にも加えられなかったとのこと。(情報元

実際にこの絵を見た方のコメントものっていまして、

この絵の寂しさに加えて、空間的な圧迫感があるフェルメールらしからぬ絵だった

というものだそうです。いずれにしても早く生フェルメールに出会わなくてはなりません。

【音盤】ラター:無伴奏二重唱のためのアンセム

今週は寝る前に1曲、ラターの宗教曲です。この曲(Come down, O Love divine)は、ウェストミンスター修道院の混声合唱団のために1998年に作曲されたもので、昨日紹介した Arise shine とともにNAXOS盤が初録音とのこと。考えてみたら専属(みたいな)作曲家のいる修道院とか合唱団というのは、何と幸せな存在なのでしょうね。


非常に静かな曲で、深い祈りを感じることができます。女性ソプラノの声が天から降ってくるかのような印象です。ラストも消え入るかのように合唱が糸を引いて終わる、それはそれは奇跡のように美しい曲で、効果テキメンで眠くなってまいりました。



●ラター:レクイエム、宗教音楽集(NAXOS 8.557130) より


DAYS JAPAN 創刊


DAYS JAPAN という雑誌が創刊されていることを書店で見て知りました。『世界を視る、権力を監視する写真中心の月刊誌』というキャッチで『フォトジャーナリズムを中心にした雑誌』であることうたっています。

発刊の主旨は明確です、いつまでもネットで読めるとも限りませんので、引用しておきます。


今、情報はあふれているものの、どの情報を信頼していいのかわからない状況に私たちは置かれています。アフガン、パレスチナ、イラクと次々と戦争があるたびに既存の大手メディアへの信頼感は少しずつ薄れ、あらゆる情報にバイヤスがかかっていることを、みんな感じています。戦争前に戦争誘導型の記事が現われたり、その戦争の遂行に水を差す記事や写真は、編集部のデスクから上には上がらなかったり、「読者投書」欄の意見も注意深く選択されていることがわかります。


いまどき雑誌を創刊することのリスクについては、編集長の広河 隆一氏も紙面で語っています。それでも発刊せざるを得なかったところにギリギリの選択を感じます。 創刊号の執筆者にアジア経済研究所の酒井啓子さんなどです。

実は雑誌を買ってはいませんので手元にないのですが、ページを捲ると米軍のイラク爆撃で、クラスター爆弾によりぼろきれの様に体を引き裂かれた少女を抱きかかえるイラク人の写真が全紙大で掲載されていました。写真のテロップは「米軍支援をした以上、この写真から眼をそむけることはできない」というように書いていました。

一方で巻末では、十数年前にピューリッツアー賞を左の写真で受賞したカメラマンが1年後に自殺した件にも触れ(彼は写真を撮る暇があったら子供を助けられただろうという批判された。自殺はそれが原因ではないという人もいる)、ジャーナリストの使命などについても言及しています。紙面では、この写真を撮ったときは「助けるとか助けない」以前に、近くには子供の母親もいたし、子供を撮影していたのは賞を受賞したカメラマンだけではなかった事実も紹介してます。

生意気なようですが、ジャーナリズムの表も裏も知り尽くした人の編集している本のように感じました。

国旗と国歌にまつわる話題2


音楽のブログなのではありますが、やはり書いておかずにはいられません。31日付けの朝日新聞社説は『国旗国歌――起立せずで処分とは』として東京都教育委員会の国旗・国歌に関する通達に関し職務命令違反があったとして180人もの職員を処分した件に触れていました。


一方、読売新聞では『[国旗・国歌]甲子園では普通のことなのに』として、国旗・国歌に対する学校の混乱を『学校だけが社会の意識とかけ離れている』と断じています。




まず、朝日の論調を読んでみましょう。紙面は都教委の通達から今回の処分に至る一連流れを『いきすぎを通り越して、なんとも悲しい』という言葉でまとめています。『日の丸や君が代に抵抗感を持つ人』や『むりやり起立させられたり、歌わされたりするのはいただけないという人』もいるのだから『一人残らず国旗に向かって起立させ、国歌を歌わせようというのはむりがある』と書いています。


読売新聞は、都教委の通達を『式に国旗、国歌を正しく位置づけるため』のものであると是認し、『日本の国旗、国歌はもちろん、外国の国旗、国歌をも尊重することが国際的礼儀につながることを子供たちに理解させることは、学校教育の大きな目的』としています。サッカーのW杯などでの若者が国旗を振る姿にも触れ『国旗や国歌に対する自然な態度が育っている』とし、先の学校だけが異常との論理で締めくくっています。


教育現場で何が起きているのか、昨日紹介した『世界 4月号』の『「報国」の暴風が吹き荒れる』(斉藤貴男)から引用しておきましょう。


  • 教職員や来賓の席順表や式次第を、あらかじめ都教委に宛てて提出した学校がある。

  • (式)当日はどの学校にも指導主事ら都教委職員四~八人ほどが来賓として派遣され

  • 君が代斉唱に臨む教職員の態度を監視

  • 教頭が教職員席周辺を歩いて「指針」通りに振舞われているか否かを確認

  • その様子を都教委が壇上の来賓席から見張る

  • 反抗的とされた教職員は例外なく、式の終了後、校長室で指導主事らに取り囲まれ事情聴取を受け

  • 報告を受けて都教委人事部は改めて彼らを呼び出す

  • 都教委同席の予行演習で「国歌斉唱の声が小さい!」と生徒を怒鳴りつけた校長がいた

  • 君が代の伴奏をしたくないという音楽教師に「出て行け」と命じた

  • 式典の後の講演会で、日の丸と並べて星条旗が掲揚され、アメリカ合衆国国歌の演奏とともに生徒が起立を促された(大田区内のA高校)


これが、ほとんどの学校現場で起きているならば、明らかに異常だとは思わないでしょうか。

W杯アジア一次予選に沸くTVを付けながら・・・