2004年4月24日土曜日

読売の自己責任ということ

4月16日 編集手帳より

◆自分なりの目的があっての旅だと三人は言いたいだろう。正しいと信じる目的のためならば手段は常に正当化される――といった幼稚な理屈はテロリストと狂信者だけにとどめておきたいものである


なるほど、アメリカの中枢部(おそらく右派)は、イラク(中東問題)について正しいと思ったことを強引に進めているわけですから、ブッシュを含む一派は幼稚でテロリストで狂信者ということですか、読売もやっと分かったぢゃ無いですか。

産経の自己責任ということ

4月23日 産経抄より


人質の多くは反戦活動家といわれている人で、日ごろは国家や政府を否定し批判している。その人たちが、いざ困った時は国家が自分を助けろというのは少々虫が良過ぎはしまいか。


例えば人質になったのが、小泉政権方針に全面的に賛成し、自衛隊派遣を是認し、NGOとして自衛隊の人道支援を後方から直接的に支援したいという意志でイラク入りして拉致されていたとしたら、産経を初めパッシングする方々はどのように反応するのでしょうか。




産経の主張は、親の金で生活しながら、社会や親に反発するのは「自分で稼げるようになってからにしろ」と。会社の方針に合わなくて批判する者は、給料を貰いながら批判しているわけで「虫が良過ぎる」と。国家の保護を受けながら安全を保障されているくせに、その制度を批判するのは「勝手すぎる」といことですよね。

4月17日 産経抄より


それどころか三人は「これからもイラクで活動したい」とか「撮るのが仕事なんだよ、おれは」などと語っている。自分勝手もいい加減にしてもらいたい。これ以上わがままを通すなら「何があってもお国に助けを求めない」の一札を入れよ。


なるほど、一札入れれば何をしても構いませんか。逆に一札入れなくては政府方針に反することは一切まかりなりませんか、「いい加減にしろ」「勘当」なわけですね「はねっ返り息子や娘」は。


政府批判組だからやはり自己責任ですかね。

海外盤洋楽CD輸入禁止!? 2

すでにあちこちのサイトやブログ、MLで話題の件ですが、参議院を反対なしで通過してしまったそうです。本件については、詳しいことを私が言及するよりも、以下のサイトを紹介しておくだけで十分かと。

MEMORY LAB WEBSITE賛成191、反対0

ちょっと長いのですが引用させていただきます。


今回の著作権法改定は小泉政権の「知財立国宣言」のもとに押し進められている。政界で旗を振っているのは、自民党のコンテンツ産業振興議連会長である甘利明衆議院議員だ。彼のホームページにはこう書いてある。「特許や著作権を戦略的に駆使して産業の競争力をつける、たとえ高くても日本のモノを使うしか方法がない"オンリーワン政策"の構築です」。これが彼の考える「知的財産国家戦略」であるという。

ところが、「高くても日本のモノを使うしかない」というのは海外においての日本製品の競争力のことを指しているのではなかったわけだ。これから日本の洋楽ファンが「高くても国内盤を買うしか方法がない」ことになるのだから。そして、その中身は欧米からライセンスされたソフトであり(CCCDの場合はその特許もだ)、外資系レコード会社の場合は、原盤のライセンス料は日本の税収には繋がらない。




あと以下のブログにも関連リンクがあって、そこから辿っていけば便利です。


いかんともしがたい


本当にいかんともしがたいです。

ロジェストヴェンスキー/チャイコフスキー交響曲第4番

  • 指揮:ロジェストヴェンスキー
  • 演奏:レニングラード・フィル
  • 録音:1971年9月、Royal Albert Hall, Live

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

ほとんど「バカじゃないのか」と思うほどの演奏です、凄まじきは第四楽章。フィナーレの音が未だ鳴っているのに、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの観衆は歓喜と怒号を抑えることができないでいます。

もともとチャイ4の第4楽章は明るさとお祭り騒ぎの曲なのですが、ホールの底が抜けてしまうのではないかという強烈な音響から始まる演奏は、CDという固定された媒体を通しても「ブッ飛び」具合が伝わってきます。第四楽章中間部(5分40秒)で大打撃と休止が繰り返されるとこなどは、シンバルとティンパニとチェロの背板で脳天をぶん殴られたような迫力です。

金管も打楽器も弦楽器も、こんなに粗々しくも強烈な音を出せるものなのかという、一つの限界にまで達してしまっている演奏と言えるかもしれません。トロンボーンなど音が割れる寸前です(というか既に割れているかもしれない)。粗々しいだけならばそれほど感心しないのですが、憂愁を込めて歌うところも、重厚な音響に支えられていてなかなか聴かせてくれます。

落ち着いて聴き返してみれば、一楽章の悲愴さと暗さと重さも凄まじい、鬼気迫るものを感じます。もはや個人の苦悩などというものよりも、抗うことのできない狂暴性や残酷さまでも感じます。しかしここでも決して演奏が雑なわけではなく、木管が優しげにテーマを歌うところの裏の歌わせ方やピアニッシモの表現など、なかなかです。

��Dの解説では"The Times"に掲載されたAlan Blythのレビュを紹介していまして、最初の三つの楽章についてのレビュは以下のようなものでした。

Rozhdestvensky seemed determined to divest the work of its usually rhetorical and melodramatic connotations and give us the music for its own sake. The results were like the spring-cleaning of a picture:all the detail came up fresh and clear so that the preconceptions engendered by the venner of generations could be dismised from the mind."

それにしてもやっぱりこの演奏は第四楽章に尽きることは否定できず、録音の質がそれほどよくはありませんが、現代では決して望むことのできそうもない異常なハイテンション演奏(HMV評)を楽しみたいという方には(たぶん)お薦めできます。

同時収録は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番(60年)ですが、こちらは未聴ですのでレビュはいつかまた。

HMV レコメンド HMVの評価 9

ロジェストヴェンスキー&レニングラード/チャイコフスキー第4番 1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音。以前にBBC RADIO CLASSICSレーベルから発売、廃盤となって久しかった異常なハイテンション演奏が嬉しい復活。

 時、世界的にも最強の精鋭集団だった「鉄壁の」レニングラード・フィルが冷徹なボス、ムラヴィンスキーの手をはなれ、いつもの演奏会とはまったく異なるロジェヴェンの派手な芸風を得て、旅公演で燃えに燃えまくった貴重きわまりない記録です。

 第1楽章冒頭から濃厚ヴィブラートで咆えるブラスに仰天、広大に設定されたダイナミクスによって極限まで拡大された情感が、緩急自在に振幅するさまには絶句です。

 第4楽章はもう滅茶苦茶にモノ凄く、作曲者自身もこの楽章を「鳴り物入り」と評していたそうですが、そのことをここまであからさまに示した演奏もまたとないでしょう。

 この興奮に、聴衆も最後の和音が鳴っている間から雄叫びのような喝采をあげ始めるは、会場中に口笛は飛びかうは、もう大変な騒ぎです。

 併録のショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番は、以前同じレーベルから限定発売されていたものと同一で、こちらも嬉しい復活。1960年のモノラル・ライヴながら良好な音質で、ロストロポーヴィチ壮年期の凄演を味わうに何ら不足ありません。

2004年4月21日水曜日

【音盤】イベール:フルート協奏曲











アラン・マリオンの「超絶技巧フルート協奏曲集」は、フルートをお好きな方ならお馴染みであるイベールの作品で最後を飾っています。


この有名な曲はマルセル・モイーズに献呈され、フィリップ・ゴーベール指揮・パリ音楽院管弦楽団の演奏で1934年に初演されたものです、びっくりするような組み合わせですよね。




��0世紀を代表するフルート協奏曲の呼び声が高いのですが、私はこの曲にいまだ馴染めないでいます。はじめてこの曲をCDで聴いたのは、ムラマツのCDによるモイーズの演奏(第一楽章のみ)だったのですが、録音が余り良くないせいでしょうか、あるいは未熟なリスナーだったからでしょうか、第一楽章の性急な音符の動きはちっともエレガントや粋には聴こえず、うるさいだけの奇妙な曲という印象でした。


それ以来この曲をなかなか楽しむことができない、というか聴く気にならないでいたのですが、今回改めてマリオンの演奏で聴いてみますと、そんなに悪い曲ではないなと思うのでした。


第一楽章の性急と激しさは、やはり私はついていけないものを感じるのですが、第二楽章は美しい旋律線を聴かせてくれますし、第三楽章の運動性と快活さ、敏捷性、そしてどことなく洒脱な感じは、何度か聴いてきると慌しく動き回るパリを連想したりします(と書きながらパリなど行ったことがありません=空想のパリということで)。中間部のフルートソロとなる部分から憂愁の表情に変わる部分も、今までの雰囲気と一転していてフルートの奏でる旋律を満喫することができます。


今でこそこの曲は「超絶技巧曲」でも「難曲」でもなく、音楽コンクールなどでもよく取り上げられる曲ですが、ひょっとすると見かけの技巧以上に曲として聴かせるのが至難の業の曲なのではないかと思ったりしました。


このCDは他ならぬマリオンの演奏ですから決して悪いはずなどないのですが、それでもビシッと琴線に触れてこないのですよね。この曲に対する愛着みたいなものは少しは沸いた気がしますが(笑) そのうち、もう少し別の演奏を物色してみたいと思います。


●アラン・マリオン(Fl)●マクシミアーノ・ヴァルデス指揮●ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月19日月曜日

展覧会:東京都美術館:栄光のオランダ・フランドル絵画展


大々的に宣伝していますのでGW中などは込むと思い、今日天気が良いことをきっかけに、9時の開館と同時に入館してきました。

天気が良いせいでしょうか、朝早いというのに結構な人出です。それでも絵画の出展数が少ないので比較的ゆっくり観ることができました。

お目当ては何と言っても私が最も敬愛する画家、フェルメールの「画家のアトリエ」です。最初は順番に観ていたのですが、途中からじれったくなり、一番最後に展示されているところまで、まずは行ってみることにしました。

さて、はじめてフェルメールに接した印象は、もはや言葉にすることができません。何と言う幸福でしょうかね、観ていてじんわりとしてきてしまいました。観ている他の人も絵の前から動こうとしません。もう画面に釘付けといったところです。

この絵は、フェルメールの絵の中では最大のものなのですが、フェルメールの絵の魅力が余すところ無く伝わってくる作品でもあります。手前の重い捲られたカーテンは、画家とモデルの秘事を覗き見しているような感じです。カーテンは吊るされて固定されているのではなく、今まさに「私が」捲っているように思えませんか?


そして見えてくるのは、洒落た衣装の画家と、その後ろに窓から差し込む優しい光に照らされた女性です。この女性の儚さと美しさと永遠性ときたら、ほとんど奇跡のようであるとしか思えません。眼を閉じて再び開いたら、そこに女性がいなくなっていないかと、心配になります。しかし、女性は一瞬の喪失感を感じさせつつも、永遠にそこに光とともに固定されているのです。また、壁にかかっている地図は実物の地図を模写したものですが、その皺を弄ぶようになでる光の美しいこと。

フェルメールは意識的に手前の画家や椅子などと比較して、女性を「ぼやかして」描いています。輪郭などもはっきりしないのです。これはフェルメールが当時のカメラ・オブスキュラを利用していたというのが定説ですが、それは絵画に奥行きや遠近感を与えるだけではなく、それ以上の驚くほどの効果を生じさせているように思えます。

これもよく指摘されるのですが、天井から下がったシャンデリアの表現も、光の反射の描き方など解像度の悪いカメラを通した画像と酷似しています。でも、フェルメールがカメラ・オブスキュラを使おうが使うまいが、どうでもよいことです。

そうしてキャンバスに定着された光は、移ろいやすさと永遠性という二つの相反するものが見事に合体し、観る者をどこか別の世界に連れ去ってしまうほどの魅力に満ちた作品に仕上げているからです。これを眼の恍惚といわずして何と言えましょうか。


先ほど、絵画は一期一会のものであると書きましたが、私がこの絵に再び会うことがあるとするならば、それまた奇跡のような僥倖であろうと思わずにはいられません。


とまあ、感情的な文章をしたためてしまいましたが、そのほかの絵も面白かったのですが、とにかくフェルメールの印象が強すぎてダメですね。



レンブラントの絵も2枚ほどあって、これはこれで大したものではありましたが、今日はレンブラントまで語る気にはなれませんな。

たった1枚の絵を観たさに1500円というのが高いか安いか、前評判の割には展示作品が少なすぎやしないか?(マルモッタンの時の半分だな)という疑問もありますが、まあ、それもよしといたしましょう。

展覧会:東京藝術大学美術館:再考 近代日本の絵画

この展覧会は東京藝術大学大学美術館、東京都現代美術館、セゾン現代美術館が共同して企画したもので、19世紀末から100年にわたる日本の近代・現代の絵画を通して展示することで、日本の近代化のプロセスを再考し再構築し、日本の未来にあらたなひとつの展望を開くことを期待して開催されているものです。

朝日新聞でも紹介されていましたので、知っている方も多いと思いますが、私のお目当ては一重に狩野芳崖(1828-88)の「悲母観音」を観る事でした。

この観音像は、芳崖が死の直前まで描き続けたもので、かのフェノロサも絶賛した作品として知られています。教科書で観た事のある人も多いと思います。

絵画も音楽もそうですが、複製と実物というのは似て非なるものであるのですが、この絵画もまさにそういうものでした。絵画というのも一期一会みたいなところがありますから、観られたことを素直に僥倖であると思わないわけにはいきません。

この絵は結構大きなサイズなのですが、その慈愛に満ちた光と輝きは、宗教心が無い者であっても捕らえて放さない魅力に満ちています。

観音様というのは、中性または男性として描かれますので、顔には聖徳太子のようなヒゲがあるのが、違和感を感じますが、悲母観音の足元から泡のように誕生した赤子の笑い顔が愛らしく独特の雰囲気を醸し出しています。慈悲に満ちた観音の表情と、非常に細やかな描写が見事です。色使いも下側の青色から上へ向かって金色色に変化してゆく様など(左の絵では到底伝わりきらないのですが)気高ささえ感じます。

芳崖も素晴らしかったのですが、展示室に入ったとたん圧倒するように聳え立っていた竹内久一(1857-1916)の「伎芸天」、これも凄かったですね。

この作品は、シカゴ・コロンブス世界博覧会(明治26年)で日本の伝統的木彫芸術を世界に見せるために作成されたものでしたが、損傷が激しかったため長く展示できず、最近修復されて、ようやく日の眼を見るようになった作品です。(すごく大きいです)

日本の伝統的な木彫の流麗さ、華麗さ、そして力強さ、いやどこを取っても、前から見ても、横から見ても、そして後ろから眺めても、すくと立ったその威容は感嘆するばかりで声を失ってしまいました。修復された色彩も実に落ち着いた派手さで惚れ惚れします。

これらの作品は、東京藝術大学が所有している作品で、まさに芸大は「お宝の山」なのでしょうね。
その他には、いくつかの日本画や、黒田清輝、岸田隆盛、和田三造、佐伯裕三などなど、中学時代の教科書で観たような「名画」、西洋絵画の亜流のような絵画などが多く展示されていました(図録を買っていないので詳述できず)。

こうして眺めさせてもらいますと、いかに近代日本が貪欲に西洋の文化や技巧を取り入れてきたがが如実に分かるような気がします。憧れと驚きに満ちながら、新たな世界を開拓してゆく様は、果敢にして勇敢であるといえますが、やはり一方で、その変化があまりに性急であり、消化しないまま表面的にだけ次々と西洋文化を吸収したフリをしていただけではなかったうかと、思わずにはいられませんでした。

【演奏会】奏楽堂の日曜コンサート

今日も東京は非常に良い天気でした。日曜日に限って7時過ぎにはしっかり眼が覚めてしまいます。そこで上野まで脚を伸ばし、東京都美術館の「栄光のオランダ・フランドル絵画展」と東京藝術大学美術館の「再考 近代日本の絵画」の展覧会ハシゴをした後に、旧東京音楽学校奏楽堂での日曜コンサートを聴いてきました。

この建物の2階には小さなホールがあり、日曜日ごとにチェンバロ(第1、第3日曜)とパイプオルガン(第2、第4日曜)そして室内楽(第5日曜)を開催しています。

今日はチェンバロを芸大在学中の脇田英里子さん、そしてソプラノを同大学博士課程の飯島香織さんがつとめ、イタリアのバロックものを中心に演奏が行われました。

曲目は、カッチーニ、スカルラッティ、フレスコバルディ、ヘンデルですが、大変得をした気分です。奏楽堂は予想以上に響くホールで、チェンバロの音が何とも言えずに心地よく空間に広がってゆきます。そして飯島さんのソプラノがまた素晴らしい。まだ学生とのことですが、歌唱力もさることながら曲間の語りや立ち居振る舞いなど、貫禄のようなものさえ漂わせているように思えました。そして歌うことがほんとうに素晴らしいものであることを、教えてくれるような演奏でしたね。

飯島さんはここ奏楽堂で何度もコンサートを開いている方のようですし、脇田さんもチェンバリストとして活躍されているようで、お二方とも平成13年度のアカンサス音楽賞を受賞されています。

ちなみに私はリハーサルも少し聴かせていただいていたのですが(立ち入り自由ですから)、そのときはトレーナにパンツルックというラフな若者風の飯島さんでしたが、本番の舞台では白とブルー系にスパンコールが光まくっている、それはそれは素敵なドレスを身にまとっていらっしゃいまして、これまた溜息さえ出そうなものでありました。

脇田さんはソロは1曲だけ、バッハのパルティータを演奏されましたが、ちょっとこれは物足りなく、やっぱりしっかりと聴かせてもらいたいものだと思ったりしたのでした、贅沢なことですが。

ちなみに奏楽堂は都美術館の裏にある小さな建物でして、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)の校舎として使われていた建物を保存修復したものです。昭和63年には国の重要文化財にも指定されている建物です。

��フレスコバルディのパイプオルガン集を聴きながら)

●G.カッチーニ:愛の神よ、何を待つのか?●G.カッチーニ:我が麗しのアマリッリ●スカルラッティ:菫●フレスコバルディ:こんなにも私を蔑み●バッハ:パルティータより●ヘンデル:私を泣かせてください●ヘンデル:樹木の蔭で●ジョルダーニ:カロ・ミオ・ベン

2004年4月18日日曜日

【本棚】許光俊:「生きていくためのクラシック」

以前『世界最高のクラシック』という本を紹介しましたが、これはその続編です。タイトルも『世界最高のクラシック 第Ⅱ章』とされています。それにしても、『世界最高』だの『生きていくための』とは、何とも大げさです。

許氏は『最初に』で『なぜ、私は「世界最高」にこだわるのか』と自問し、それに対し以下のように自答しています。

私の生は、もう十分に退屈で、つまらないからである。平凡で、卑俗だからである。
生が何が何でも生きるに値するものとは、どうしても考えられないからである。

だから「世界最高」にこだわるのだと、『生きるための自己弁護』が必要で、生きるに足る人生であることを確信するために例えば最高の音楽が必要なんだと。

許氏は1965年生まれで私よりも年下ですが、なぜそのような諦念を持っているのか全く理解に苦しみますし、彼の諦観につきあうほど私は情緒的人間ではありません。それでも許氏独特の観点からセレクトされた演奏がどういうものであるかは、暇な休日や苦痛でしかない夜の通勤電車の中での慰みにはなります。

この本で紹介しているのは、あるテーマを定めて(例えば第4章「岩のブルックナーと絹のブルックナー」というように)いくつかの演奏を対比して解説しています。彼が「生きていくための」と自信を持って主張するだけあって、掲載されている演奏はベタ褒めです。文章を読んでいるだけでいたたまれなくなり、すぐにでもCD店で求めたくなってしまうような書きぶりでして、聴かずに死ねるかという気にさせてくれます。(ただ、それが延々と続くので閉口するのですが)

一方で以下のような辛らつな文章も彼ならではでしょうか。

(ベルティーニは何故)世界的に見れば幼児レベルでしかない日本のオーケストラを指揮しているのか。また、虚名ばかりのろくでもない指揮者たちがクズのようなCDを作り続けている一方、ベルティーニの録音が著しく少ないのはなぜなのか。

ごめんなさい、私は「幼児レベル」の日本のオケにも、「クズのような」商業主義の演奏にも感動してしまいます。許氏のような選別耳も知識もありません。

ということで、彼が「生きてゆくため」に必要とした指揮者は以下です。(『世界最高のクラシック』で紹介している識者は、ほぼ避けられています)

リヒター、パイヤール、クリスティ、ジュリーニ、コルボ、ショルティ、スヴェトラーノフ、マタチッチ、レーグナー、マルティノン、ベルティーニ、クーベリック、ムラヴィンスキー、アーノンクール、ケーゲル、ザンデルリンク、セル、パティス、パーンスタイン、ベーム。

【音盤】モリック:フルート協奏曲

Whlhelm Bernhard Molique(1802-1869)という作曲家の名前は、はじめて聞きました。ドイツ・ロマン派に位置する作曲家ですが、現在ではほとんど忘れ去られている一人でしょう。ちなみにGoogleで「モリック フルート協奏曲」と検索しても、このCDの他は、ほとんど情報は得られませんでした。

CD解説によると、この曲はテオバルト・ベーム(現在の形式のフルート開発者)のために書かれたものとのこと、三楽章形式の華やかな曲です。

第一楽章は短調の力強い弦の響きの中から、決然とフルートソロが現れ浪々と歌を歌いはじめます。いかにもロマン派的なフレーズですが、正直なところ私はロマン派のフルート曲というのがどうも苦手です。19世紀ロマン派のフルートといえば、チマローザやトゥルー、ベームなどもそうなのでしょうか。吹いている人は気持ちが良いと思うのですが、モーツアルト以上に「みな同じ」に聴こえてしまうのは私だけでしょうか・・。

第二楽章のAndanteは、非常に優しげな旋律を持った楽章で、ここだけ単独で演奏されることもあるようです。 中間部分はそれなりに技巧的ですので最初のフレーズだけならば吹いてみたいと思わせてくれます。

第三楽章は一転して跳ねるような愛らしくコミカルなリズムが印象的で、ラストに向かっての技巧を凝らした輝かしさもそれなりに楽しませてくれます。


モリック:フルート協奏曲 ニ短調
  • アラン・マリオン(Fl)
  • マクシミアーノ・ヴァルデス指揮
  • ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月17日土曜日

【音盤】ドヴィエンヌ:フルート協奏曲 第7番

今週はマリオンのフルート協奏曲を聴いています。DENONからの廉価版CREST1000シリーズの「超絶技巧フルート協奏曲集」という盤で、最初に納められているのはドヴィエンヌです。

ドヴィエンヌ(1759-1803)は「フランスのモーツアルト」とも呼ばれ13曲のフルート協奏曲のほか、協奏交響曲や室内楽など多くの作品を残しました。当初は20歳の時にパリ・オペラ座末席ファゴット奏者として入団しましたが、その後フルートを学び、1982年に自作のフルート協奏曲でフルート奏者としてデビューしています。1795年には新設された音楽院(後のパリ音楽院)の初代フルート科教授を務め著書「新フルート教則本」(鍵のフルートのための教本)も残していて、フルートの歴史に少なからぬ足跡を残しています。

フルート協奏曲は1787年頃の作品とされています。第一楽章冒頭からいかにもモーツアルト的な和音が鳴り響き一気に聴かせてくれます。ヴィルトオーゾ的な技巧が駆使された曲で楽しめます。第二楽章はカデンツァ風の優しい曲、第三楽章は再び快活なロンドです。

モーツアルトのフルートとハープのための協奏曲などと比較しても、テクニカルな面と曲の明るさが際立っているように思えます。第三楽章などでも、当時のフルートの演奏技術の粋をいっているのではないかという表現に出会います。

CD解説によると「当時フランスではやっていたギャラント様式の優美な表情」が特徴とされているようですが、そういう専門的なことはまるで分からないのですが、またいつまでたっても分かろうともしないのですが、素直にこの曲の運動性能に身を任せるだけで、日ごろの疲れと憂さが晴れてゆくようで、心地よい光を体の中に受けることができます。

モーツアルトのフルート曲には飽いたけど、あの雰囲気も捨てがたいというときや、颯爽、快活、それでいて芯の力強さが欲しい、だけど重い曲は嫌という時には最適かなと・・・。


  • ドヴィエンヌ:フルート協奏曲 第7番 ホ短調
  • アラン・マリオン(Fl)
  • マクシミアーノ・ヴァルデス指揮
  • ニース・フィルハーモニー管弦楽団

2004年4月16日金曜日

イラクの人質3人は解放とネットの議論


イラクで拉致されていた3人が解放されたようです。まずはよかったと胸をなでおろしますが、ジャーナリストを含む2人が新たに再び拉致されたようです。イラク状況はまだまだ楽観できません。


ネット(たとえばここ)での自作自演説は解放された今でも根強く、また「ウヨ」だの「サヨ」だののムラ的な言葉で相手を罵倒し、近隣の国々を貶めるようなスレッドは絶えることがありません。




週刊誌では三人の家族や過去を暴く記事が紙面を飾り、記者会見での家族の態度や主張がおかしいと糾弾し、更にはどちらかといえば左翼系の思想の持ち主であることまでを強調する紙面もあります。人質の家族に対する反感や嫌悪は(たとえばここ)、ひとえにイデオロギー的に「左翼的」ということであり、ひいては政府に反対する意味での「プロ市民」「反戦」「平和主義者」「ボランティア」「NGO」に対する嫌悪のようです。そういう団体や活動を「偽善者」とまで言い切る人も少なくないことを知りました。


このような感情論に支配されたスレッドやある考えの方々というのは、いったい何なのだろうかと考え込んでしまいます。口汚いスレッドであってもよく読むと(よく読みたくなどありませんが)、彼らの少なからぬ者たちは教養も知識レベルも低くはない一般人であろうことが伺えます。それだけに、薄ら寒い思いがするのです・・・(江川紹子さんのサイト


このエントリーは、Letter from Yochomachiにトラックバックしていますが、私もイデオロギー論争に興味は全くありません。こうした文章を書くのも、自分のフラフラしているスタンスが現時点でどちらに偏っているのかを確認するためのものでしかありません。


ネット上のような考えが、私が考える以上に多いということであれば、やはり護るべきものはまだ守る必要があるのではという思いにも(今の段階では)なるのでした。

2004年4月15日木曜日

映画:真珠の耳飾りの少女


「完璧(Perfect)」 いささか大上段ではありますが、私が画家フェルメールに抱いている気持ちです。その天才画家と「真珠の耳飾りの少女」という絵のモデル(グリート)とのドラマを描いたのがこの映画です。10日が封切でしたので早速観てきましたが、この映画を観た印象も、まさに「完璧」というものでした。

映画が始まると同時に、映画を通して流れるテーマ音楽がフルートに導かれて奏でられます。それだけで、もはや私はこの映画から眼を離すことができなくなりました。

フェルメールの絵画の最大の魅力は、部屋(アトリエ)の左側から柔らかに入り込むデルフトの光にあります。この映画を作った人たちは、よほどフェルメールを研究し、そしてフェルメールの絵を愛しているのでしょう。冒頭に書いたように「完璧」と映画を見ながら感心し、幾度となく画集を食い入るように眺めたあの絵が、3Dさながらにサイドからパンをして見慣れた構図に納まるカメラワークに、よくぞここまでと唸ってしまいました。

とにかく画家のアトリエと17世紀のデルフトの街の描写などが驚くほどの美しさで表現されています。電気のない時代の夜の描写も見事です。

唯一気に入らなかったのは、グリートがフェルメールを想いながら眺める空の色くらいでしょうか。フェルメールが「雲は何色か」とグリートに問いかけ、自ら答えるうちにフェルメールを理解し、そしてフェルメールもグリートを理解したという重要なシーンのあとの場面です。フェルメールの有名な「デルフトの眺望」でもそうですが、フェルメール感じた空の色ではなかったような気がします。



ストーリーの詳細は割愛しますが、フェルメールの家にお手伝いとして雇われたグリート、じきにグリートとフェルメールは暗黙のうちに心を通わせるようになります。それを眺める娘のコルネーリアの子供らしい悪意に満ちた策謀、嫉妬に乱れる妻カタリーナなどが描かれます。

フェルメールがグリートをモデルとして絵を描き始めたときに、真珠のピアスが不可欠であるとして自ら針でグリート耳に穴を開けるシーンは極めて官能的です。しかもグリートが付けるのはフェルメールの妻のピアスなのです。

それを知った後の妻カタリーナの演技も見もので、化粧気のない愛憎入り乱れた表情は女性の哀しさを背負っているかのようですし、出て行けとグリート命ずるところは凄絶です。

二時間弱の映画ですが、そういうわけで私にはあっという間に過ぎ去ってしまいました。映画館を出た後、しばらく実世界に戻ることができず浮遊するような感覚さえ味わってしまいました。

グリートを演ずるヨハンソンは、パンフレットなどで見ると非常に肉感的な印象で、フェルメールの絵の雰囲気ではないと実は心配していたのですが、映画ではそんなことは全然ありませんでした。機会があればもう一度観たいと思っています。

  • 監督:ピーター・ウェーバー
  • 原作:トレイシー・シュヴァリエ
  • 音楽:アレクサンドル・デプラ
  • フェルメール:コリン・ファース
  • グリート:スカーレット・ヨハンソン

2004年4月11日日曜日

イラクの人質解放?!

朝7時のNHKを付けたら人質を24時間以内に解放するとのこと。その後昼前に解放するとの追加情報も放送局に届いたとのこと。

私は「???」という思い。テロリストは人質の親の懇願する姿を見て考えを変えたと、イラクの指導者から連絡があったと。その中で日本政府はどこまで役割を果たせたのでしょう、政府に直接連絡は全くなかったそうですし。

そういう意味では「ソフト戦略」「力による解決ではなく穏健派との共同関係」が紛争解決に奏効することを示したといえますが、どこか腑に落ちません。



声明文では人質を解放するというカードを放棄しながらも「自衛隊撤退」を求めています。そもそも、なぜ米軍ではなかったのでしょう。シーア派の逮捕された指導者を解放せよとか、諸悪の根源である「米軍のファルージャ包囲を止めろ」とかいう要求は全くしていませんしね。

イラクには日本に好意的な人もいるそうですし、また声明文でも「広島」や「長崎」に触れていますから、日本に対する知識もあるようです。それゆえに日本の対米追従と自衛隊派遣を「裏切りである」と捕らえたのでしょうか。

我々は外国の友好的な市民を殺すつもりはないと』と声明文にありますが、ということは最初から殺すつもりはなかったのですね。丸腰の若者たちですから、イラクに敵対しているとは普通思いません。しかし彼らや彼女がアラビア語を話せたとは思えず、英語を話すと「敵国言語」と思う民族です、若者であるだけに組しやすく利用価値ありと拉致拘束したのかも知れません。だから人質に利用価値なしと判断(自衛隊撤退は早期に否定されたため)し、今回の解放に至ったと思われますが、どうやらプロのテロリストではないようです。

いずれにしても武装集団の言動には不可解な点が多く、自作自演説に傾く声も一部では聞こえてきますが(こちらにも疑問)、まずは無事帰って来れることに、安堵いたします。