2007年12月10日月曜日

【本棚】小川洋子:薬指の標本

小川洋子という作家の作品が映画化もされ話題になっていることは知っていました。しかし積極的に読みたいリストには入ってはいませんでした。日経新聞夕刊で12月3日から「人間発見」という企画で『物語の森の観察者』と題する彼女とのインタビュー記事が5回にわたって連載され、記事を読んでみたところ、作品にも興味を持ちました。

小学校の頃は体も小さく、色々なことがみんなと一緒にできず、図書館だけは楽しかったという少女が大人になって。小説を書き始めた頃は最も重要なのは自分自身だったということ。一番知りたいのは自分で、それが最も深い闇だったと自覚していた彼女。彼女の創作はどこに飛翔したのかと。

最初に読んだのが、代表作の一つである『薬指の標本』。評判とおり透明で静謐な作品です。どこかを突付くと、そこからこなごなに壊れてしまいそうなくらいに繊細で、微妙なバランスで保たれた世界。ディテールはリアルでありながら全く現実離れしています。標本を作ってもらうということと、それを作るということ。

「封じ込めること、分離すること、完結させることが、ここの標本の意義だからです。繰り返し思い出し、懐かしむための品物を持ってくる人はいないんです。」

と説明する標本技師。彼は地下室で標本つくりに没頭し、それを保管し続けます。「標本」にして所有するということとは。主人公である彼女は、標本技師に抱かれながら問いかけられます。

「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」

その二人が、標本技師が彼女にプレゼントした靴をキーとしながら、秘められた関係性に陥っていきます。

「これからは、毎日その靴をはいてほしい」
彼女に、あまりにぴったり過ぎる靴。靴が彼女の足を侵食する。その束縛と解放がないまぜとなって、秘められたエクスタシーにまで昇華されてゆきます。
「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」

「標本」とは、いわば部分と時間を閉じ込めた小世界。その中に収められたモノは永遠に残ったとしても、それを包括していた全体としての存在は消えているということ。存在の消失と永続性、フェティシズムと乾いたエロティシズム。束縛されることで自己を解放するというアンビバレンツな衝動、むしろエロスよりはタナトスか。非常に雰囲気と香りを伴ったフランス人好みの作品かもしれません。

文庫に収められている、もうひとつの『六角形の小部屋』という作品も、『薬指の標本』に劣らずに不思議な小説です。しかし、ここでも語られるのは主人公の心、そして束縛と解放。

どちらも、ひたすら自己の内面に静かに降りて行くような作品。自分の心の井戸の底に何が沈んでいるのか、当の自分にも分からない、井戸の底にチラリと見えた水面がどんな色をしているのか。その水は透き通っているのか、はたまた黒く濁っているのか、毒なのか。

小川氏の小説は始めて読みましたが、この静謐さや幻想性は非常に儚い。性的な描写も女性の視点のそれだし、まるで少女の夢想した世界のよう。まだ彼女の作品は短編ニ作のみ、誤読している可能性はありますが、続けて幾つか読みたいと思わせる作家でもあります。

2007年12月3日月曜日

【本棚】村上龍:半島を出よ

村上龍の「半島を出よ」を読みました。発刊時に随分と話題になりましたし、アマゾンのレビュ数も多い。日本を舞台にした近未来小説であり、過激なエンタテイメントであり、かつ村上氏らしい問題提起になった小説です。膨大な資料から着想を得ての作品つくりは、小説も企画と組織力による企業活動に近いと思わせます。活字密度と、内容の綿密なプロットとディテールから、硬派な小説のイメージですが、そこは村上氏、物語としての面白さの方がウェイトが大きい。それが本書の良い所でもあり、欠点でもあるかなと。

「あとがき」にもあるように、『13歳のハローワーク』チームを中心として取材や資料手配を行ったらしく、協力者が幻冬舎の石原正康常務、日野淳氏、岩垣良子氏、篠原一郎氏というのですから。まさに小説のイシハラグループではないですか。

物語は壮大で一気に読ませます。しかし問題提起の割にはラストが安直で、「最後の家族」や「希望の国のエクソダス」ほかにも通ずる願望的楽観主義を感じます。と、ここまで書いて、ちょうど6年前に読んだ「最後の家族」の感想を読み返してみました(普通は滅多に自分の感想など読み返しませんが)。

村上のテーマを特定するのは難しいが、現在の日本のおかれた状況に対する閉塞感と、破壊的な欲求とともに再生への希望を見据えているような気がする。
自分で言うのもなんですが、これはそのまま「半島を出よ」に当てはまりますね、というかテーマに関しては付け加えることがない。繰り返しはしませんが「自立」ということに関しても村上氏のスタンスは全く変わりません。特にイシハラグループのモチベーションとありようは印象的です。

日本の経済的衰退と国際的な地位の低下という状況、政治の機能不全、国民の平和ボケ、それらがもたらす悲劇的な日本の未来は、今はまだ小説ほど酷くはないものの、確実に日本の現況を言い当てています。日本の状況は6年前よりも悲観的なカンジがするくらいです。

「半島を出よ」とは、北朝鮮人のことではなく、日本人が中国大陸の半島の一部であると見立てて、日本人に向けて放たれた強烈な一語であるようにも思えます。

私はこの作品のどこが好きかといわれれば、間違いなくラストとなりましょうか。中学二年のイワガキが学校や家族に馴染めないでいる中、イシハラたちに出会う。そこでイワガキは彼らが集まる倉庫で、何も話さずにソファにただ座って時を過ごしている四人に会う。

だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。
ワガキは邪魔をしているような気になって帰ることにする。明日も来て良いかとの問いに、イシハラは答える。
「それは、お前の自由だ」
息苦しく絶望的描写も多い本小説において、ここだけは、ある種の解放と、限りない平和が漂う部分です。

2007年11月19日月曜日

【音盤】ブラームス:交響曲第4番/クナツパーブッシュ&ケルン放送響

  1. 第一楽章 Allegor non troppo 12'51
  2. 第ニ楽章 Andante moderato 11'41
  3. 第三楽章 Allegro giocoso 6'55
  4. 第四楽章 Allegro energico e passionato 9'53
  • Hans Knappertsbusch(cond)
    Ko"lner Rundfunk-Symphonieorchester
  • 1953.5.8
  • C723071B

クナツパーブッシュのブラームス4番がORFEOから発売になっていました。クナのブラ4の録音は1952年のブレーメン・フィルとのものと、本盤1953年のケルン放送響の2種類があるらしく、これは後者の版。詳しくはSyuzo's Homepageの「クナを聴く」を参照されるのが良い。

というか、syuzoさんのレビュ以上のことは書けないのですが、とにもかくにも、このブラ4には心底たまげました。syuzoさんも第1楽章だけで満腹してしまうような演奏と書かれているように、第一楽章から重心は低く、凄まじい音楽が鳴っています。

特に、驚いたというか、ブチのめされたのは何と第二楽章。これ程の第二楽章を、かつて聴いたことがありません。分厚いというのでは言足りない度厚さ。そこに漂う一瞬恐怖さえ感じるほどの迫力。それに反する、チェロが歌う劇的なまでの浪漫と美しさと哀しさ。楽章終わり(8'10)近くでの弦楽合奏の恰幅たるメロディの素晴らしさ。ブラ4の第二楽章から、これ程の音楽を引き出せるものとは。

そのままの迫力で始まる第三楽章冒頭では肝を潰します。巨大な質量を持った音塊を硬質な壁にグシャリとぶつけたような音。粗く朴訥であり、そして半ばヤケではないかとさえ思える金管の音。皮が、いや底が抜けるのではないかという打楽器の強打。これらには背筋が寒くなる思いを感じながらも、それら全てが渾然となって、ある説得力を持って迫ってきます。重い演奏です、粗いといえば粗い。しかし、ピアニッシモからフォルテッシモまで、実は巧みにコントロールされています。小細工は一切なく、言葉を越えた音楽が身体を蹂躙します。

終楽章は痛いほどの音楽が鳴り響きます、悲劇的な英雄の肖像でしょうか。syuzoさんが闘争的音楽と評したのには同意します。戦い前の内なる闘争心を全身に漲らせ、その暗いエネルギーを一体にどこに放散させようとしているのでしょう。しかし、この演奏のフィナーレに解放と解決はありません。

かのグスタフ・マーラーは、この曲を「空っぽな音の桟敷」と評しました、相変わらず作曲当時は評判がよろしくなかったようです。クナはそこに、恐ろしいほどの密度で、かつて聴いたことのないほどのエネルギーを注ぎ込んだように思えます。この熱情は何によるのか、まともでは受け止め切れません。

2007年11月10日土曜日

【音盤】ついでにラトル&ツィマーマンのブラームスPコン1番を聴いてみる

ブラームスのピアノ協奏曲といえば、ラトルとツィマーマンがCD棚にありました。2005年発売で、以前感想を書いていたと思ったのに何も記していなかったようです。改めて簡単なインプレッションなどを。


ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ツィマーマン(p) ラトル(cond) ベルリンpo 2003
00289 477 6021

ツィマーマンにとっては1984年のバーンスタインとの演奏以来実に20年ぶりの演奏です。ライナーによりますと前回は万全の録音とは言えなかったようです。楽器は運送の事故で、とてもブラームスに適したとはいえない楽器となり、しかもビデオ録音のため各種機材の溢れかえったホールは、音響的にも悪影響であったのですとか。

"For the recording of the First Piano Concerto I was unable to get the instrument I wanted, as the van that was supposed to bring the piano from Italy was involved in an accident. The instrument that was finally placed at my diposal may well have been good for Mozart, but not for Brahms."

ツィマーマンの侮恨が伺えるコメントです。今回のレコーディングについて何を考えるかとの問いに対しては、

"Every recording documents a single moment."

と言い切る彼ですが、相当の思い入れで本録音に取り組んだことは確かなようです。当然自ら調整した"his own piano"を持ち込んでの演奏です。80以上の異なる演奏を聴き比べ、テンポ設定の研究も行ったのですとか。

"By this I dont't mean a metronomic tempo;rather,it's something subjective,something that I might call the psychological perception of a tempo."
"Everything must cerate the impression of a uniform flow."

そういう点から、非常に気合の入った演奏が聴かれます。アマゾンとかHMVのレビュでもカスタマーズ・レビュ絶賛されているようです。バックのベルリン・フィルはオケの精度も良く、確かに現在望みうる最高の演奏だと言えるかもしれません。

ラトルは相変わらずティンパニを際立たせた、ハリのある演奏に仕上げています。ホールの響きも良くバランスも良いです。ピアノは激しいところでも決して濁らずに際立ち、それでいて凄まじく、弱音部の音色も鮮やかにして美しい。ラトルの指揮下というせいもあるのか、演奏は洗練されており、ガッチリとした骨格を示し、タフであり、ベタさはありません。第二楽章冒頭のオーケストレーションなどは映画音楽!のように美しい。反してツィマーマンのピアノは、少々くぐもり内省的な響きを聴かせます。ブラームスの憂愁というより、もっと現代的なリリカルさを感じる部分です。終楽章の炸裂も鮮やかの一言。

さて、それでは、この演奏の感想が最上かと言えば、何度この演奏を聴いても心情に訴えてこないというか、ある線より上には響かない。いや、とても、とても素晴らしい演奏です、生で聴いたら、おそらくぶっ飛ぶと思いますよ。しかし、何でしょうね、このモノ足りなさは、私が古い人間なんでしょうか。

2007年11月9日金曜日

【音盤】ベルマンの「悲愴」を聴いてみたが

ベルマンの演奏は、ロシアン・ピアニズムの継承者などと称されています。「ロシア・ピアニズム」という本もありましたが、では一体にその本質は何かといったら、私のようなトーシローには漠たるイメージしかありません。

ロシアン・ピアニズムとは何かという点についてのネット上の知識といえば、「おかか1968」ダイアリーで2006年から不定期連載された『【不定期連載】全く役に立たないロシアピアニズム・ガイド*1)』が一番詳しいのかなァなどと思いながら、ラザール・ベルマンが弾くベートーベンのピアノ・ソナタ第8番を聴いたりしています。(ブラームスのカップリングだったから)

ベルマンのベートーベンはあまり俎上にのぼらないようですが、この演奏も清冽なテンションがピンと張り詰めた好演であると思います。第一楽章は激烈な音楽でさえありますが、ゆるぎないテクニックとそれをベースにしたドライブ感に、冷ややかさと計算を感じます。第二楽章のカンタービレも甘すぎない。第三楽章冒頭のフレーズの出だしはあまりに美しく、乾いた冷たい粉雪がサッとばかりに舞うかのよう。だんだんとそれが吹雪になっていき、最後の打鍵はダンッとばかりに強烈。カーネギーの割れんばかりの拍手にも納得。続けて4度も聴いてしまった・・・。

ベルマンといえば、リストとかラフマニノフとかチャイコフスキーのバリバリな演奏が有名なようです。実は全く未聴なそれらの演奏も、聴いてみたいと思わせるのでした。




ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」

ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ

SICC 824



  1. 参照URL→http://okaka1968.cocolog-nifty.com/1968/2006/08/post_c30c.html

2007年11月6日火曜日

【音盤】秋ということでブラームスPコン1番を聴いてみる

秋になり、活動も書き込みも低調になりがち。そういうときは秋らしくブラームスでも聴きたいという気になってきます。11月4日響アワーではエレーヌ・グリモーのピアノによるピアノ協奏曲第1番の1楽章が放映されました。指揮はアシュケナージで、貧弱なTVのスピーカーを通しても結構な熱演と聴こえ、第一楽章が終わって拍手が生じるというのは、いかにもアメリカ的であるなァと思ったものです。

私のCD棚にはブラームスPコンのラインナップがほとんどありませんので、池袋HMVに行ってSONYの廉価版シリーズから標記の盤を購入して数度聴いてみました。リファレンスと言えるほどの盤がないので、とやかく書くこともないのですが、この曲は改めて名曲だなとの感を新たにしました。

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番
ラザール・ベルマン(p) ラインスドルフ(cond) シカゴ響 1979
ベートーベン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」
ラザール・ベルマン(p) 1979 カーネギー・ホール・ライブ
SICC 824

曲は1958年、ブラームス25歳の作。曲が出来るまでには紆余曲折があったのは有名なハナシ。無骨なところもありますが、この曲に込められた多くの感情と抒情と激情は聴いていて飽きることがありません。20分近くもある第一楽章はやっぱり圧巻で、オケと張り合うかのようなピアノの強打と流れるような旋律はまさにブラームス。展開部の前に現れるホルンの音色などはライン河の流れる風景を彷彿とさせてくれます、勝手な解釈ですけどね。

ベルマンはロシアン・ピアニズムの継承者としてリストやラフマニノフで有名ですが、本盤のブラームスでも彼の鍵盤は冴えているようです。抒情に傾きすぎずに旋律を歌い上げるところは好ましくウェットに流れないのはベルマンの特質なんでしょうか。聴き疲れはなく、よい意味で繰り返し安心して聴ける演奏です(実際買ってから5度くらい聴いた)。

ベルマンのピアノをYou Tubeでいくつか検索してみると、ラフマニノフやリストの作品をいくつか聴くことができます。これはこれで、素晴らしいですね。

2007年11月5日月曜日

N響に高木綾子さんが!

11月4日(日)のN響アワーは『ブラームス・ふたつの第1番』と称して、ピアノ協奏曲第一番 第一楽章と交響曲第一番 第一楽章と第四楽章が放映されました。後半の交響曲においてN響の首席フルート奏者をつとめたのが、このごろ活動の幅を更に広げている高木綾子さんでした。

いつもは自前のドレスなどで華やかな衣装ですが、最近短くカットされた髪に黒のオケ服も映え、それはそれは・・・。

え?N響の演奏?それは安定感あって、いかにもでしたかね。

2007年10月27日土曜日

曽根麻矢子チェンバロ・コンサート~高木綾子のフルートと共に~

ずいぶん前(10月14日)のことになってしまいましたが、コンサートの感想を書いておきます。


神奈川県区民センター(かなっくホール)で開催された、曽根麻矢子さんのチェンバロコンサートに行ってきました。あくまでも高木さんは「ゲスト出演」ですが、私の場合は目当ては高木さんのフルートでありました。しかし曽根さんのチェンバロも悪かろうはずもありません。


    第一部(チェンバロ・ソロ) 
  1. ラモー:クラヴサン曲集 より「ミューズたちの対話」 
  2. クープラン:クラヴサン曲集 第14オルドルより「恋のうぐいす」 
  3. ラモー:クラヴサン曲集より「一つ目の巨人(ロンドー)」 
  4. J.S.バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV825
    第二部(デュオ、フルートソロ)  
  5. ヘンデル:15のソナタ Op.1 より第4番 イ短調 
  6. ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ ト短調 Op.13-6  
  7. ドビュッシー:シランクス 
  8. J.S.バッハ:フルートとハープシコードのためのソナタ ロ短調 BWV1030

  • 日時:2007年10月14日(日) 14:00~
  • 会場:かなっくホール
  • 曽根麻矢子(チェンバロ) ゲスト:高木綾子(フルート)
  • チェンバロ:David Ley 1977年製作のフレンチDUMONT1707年モデル

第一部は曽根さんの即興的なトークも含めリラックスして楽しめる演奏会でした。特に、一曲目が終わった後は、客席の十数名を舞台に上げ、チェンバロの傍で「恋のうぐいす」を聴かせてあげるなど、堅苦しく音楽を聴かなくてもいいんだよとでも言いたげな企画でありました。

曲目としては、しっかりとチェンバロでバロックを満喫したいという向きには、多少食い足りないところは残ったかとは思います。高木さん目当ての私でさえ、もっと弾いて欲しかったと思ったくらいですし。それでも、ラモーが生で聴けたからよかったかな。

第二部は高木さんをゲストに迎えての演奏です。高木さんの音色はいつ聴いても「ウげっ!」とばかりに驚いてしまいます。かなっくホールは300席程度でフルートには丁度良い大きさなんでしょうか。彼女が最初の一音を奏でた時に、一体どこから音が出ているのだろうと思わせるほどに、ホール全体が響きます。音の深みとまろやかさは一層に円熟味を増したかのよう。それに呼吸法のうまさでしょうか、息継ぎが自然でワンフレーズが恐ろしく長い。それゆえに、旋律の連続性がはっきりと伝わってくる。さすがと言いますか、貫禄といいますか。

途中にソロでドビュッシーの「シランクス」が奏されました。チェンバロとバロック音楽を主体とした曲目には、いささか不釣合いな感は否めないものの、彼女の「シランクス」が聴けたのは儲けものといえましょう。それ以外の曲も、フルート・ファンには馴染みの曲ばかりで、楽しむことができました。彼女の演奏には、ときどき高木節とでもいうような癖を感じることもあるのですが、これも彼女の演奏の味でしょうか、よしとしましょう。

アンコールは曽根さんのチェンバロ・ソロ。「ゲストというのに、随分演奏してもらいましたから、アンコールはチェンバロを弾かせてください」みたいなことをおっしゃってから2曲ほど披露。最後の曲は、最近パリで録音したばかりの平均律から。

曽根さんと高木さんのデュオは1年に二度ほどやりたいとのこと、次回は来年3月頃に計画ですとか、楽しみが増えますね。

今日は東神奈川という場所がらか、300席の客席にも空席が目立ちました。知名度抜群の彼女ら二人をしても、神奈川では満席が難しいというのは、かなっくホールの宣伝の下手さなのか、あるいは、それが音楽事情なのか。
 


2007年10月15日月曜日

三遊亭円朝作:怪談 牡丹燈籠 岩波文庫

ということで、歌舞伎を観た(→clala)ついでに三遊亭円朝(1839-1900)の『牡丹燈籠』を読んでみました。人情話に長じた円朝が中国は明の『牡丹燈記』から着想を得て、それに天保年間牛込の旗本で起こった事件を加えて創作したお話し。円朝の高座での話を速記でしたためたもので、この時代の作なれども言文一致の見事な作品に仕上がっていることにまず驚嘆します。

円朝の講談での流れるような台詞回しがそのまま写し取られているかのようなリズムと流れの良さ。それに人物の台詞の言い回しの妙。どこを読んでも味わい深く面白い。

しかも、物語は歌舞伎の劇よりもはるかに深く、「忠」「義」「孝」など、いかにも江戸時代的なテーマが横たわる仇討ちの物語になっています。円朝作の原本の真の(?)主人公は、お峰や伴蔵などではなく、実は歌舞伎には登場しない若者であったりします。かといって、お峰、伴蔵、お国、源次郎などのかげが薄くなることはまったくなく、よくぞ彼らのしぶとい生き様を活写したものであります。

『怪談』とあり、確かにかの有名な幽霊も登場しますが、幽霊以上に恐ろしいのは人間の方でございまして、恐るべき因縁と業が絡まり合います。色や欲に溺れ、裏切りと殺しが続き、そこに自己犠牲と忠義が加わり、様々な物語が錯綜しつつ最後は一本の糸に繋がり感動の大団円へと進むのあります。(ご都合主義などと言ってはいけない)

お峰が死んだ後も話しは続くのですが、御母堂登場後のシーンなど、涙なしに読むことはできませぬ(;_;)余程日本人はこのような仇討ち話が好きなのであるなと思わざるを得ないのでありました。

歌舞伎との筋の違いを書き立てても、両者は全く別物に仕上がっていますから何のタシにもなりません。歌舞伎の方も、あれはあれで見事な着眼点と演出になっています。それでも、ふたつだけ書くとするならば、伴蔵は円朝作では大した悪党として描かれていることと、お露の幽霊にサプライズが用意されていることでしょうか。ご興味のある方は一読を。

2007年10月14日日曜日

歌舞伎座:芸術祭十月大歌舞伎 夜の部 怪談 牡丹燈籠

久しぶりに歌舞伎を観てきました。歌舞伎座で上演中の夜の部、三遊亭円朝原作の通し狂言『怪談 牡丹燈籠』です。歌舞伎の『牡丹燈籠』は河竹新七版と文学座版の二種類があるそうですが、今回は後者のもの。74年初演、大西信行脚色・戌井市郎演出によるものです。伴蔵が仁左衛門、お峰が玉三郎という組み合わせ。なんでもう秋だっていうのに、怪談なんだろうとは思いますが、まあよしとしましょう。

前半は恋焦がれた新三郎を幽霊になったお露が憑き殺してしまうところまで、後半はお国と源三郎、お峰の末路まで。仁左衛門と玉三郎という話題の組み合わせですから、前評判や人気も上々。休日は安い3階席は空いていません。幕見席に久しぶりに並んで、狂言のみの観劇としました。

ただし、幕見席というのは、やはり通(つう)の席だなと改めて思いましたよ。最初は、お米やお露の声が聞き取りにくく、何を言っているのかさっぱり、芝居にのめり込めない。4階の幕見席からでは役者たちの細かな所作までは全く分からないんです。

それでも台詞回しはほとんど口語ですから筋が分からないということはない。有名な怪談話が気のきいた欲得まみれの夫婦劇になっています。特に玉三郎演ずるお峰がいいです。芝居は喜劇調で妙に玉三郎の演技がツボにハマっています。伴蔵が幽霊を見たという話を、怖がりながらも「聞きたーい」と言う所、幽霊からもらった百両を震える両手で数えるところ、そして「チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ~」。わざとらしさも感じますが、ここは素直に笑った方が得。

それでも見所は、馬子久蔵(三津五郎)をとっつかまえて、伴蔵の浮気を吐かせ、そして酔って返る伴蔵に浮気を詰め寄るシーンでしょうか。ここの玉三郎は歌舞伎というよりも現代ドラマを演じているかのよう。それだけに、これが歌舞伎か?と違和感もないわけではありませんが、やはりこれも歌舞伎。そして芝居として面白い。

玉三郎については、渡辺保氏が今月の劇評(→こちら)に以下のように書いています。

玉三郎は結局新七本よりも大西本のほうがその芸風に合っているのかもしれない。そこに玉三郎の女形としての特徴と現代性があるのだろう。これは「玉三郎論」の重要なデータである。

玉三郎の現代性ですか、成る程、よくわかんないけど。

お米演ずる吉之丞の幽霊姿は、近くで見るとかなりサマになっていたとの感想もありますが、これは全く確認できず。近場で観れなくてやっぱり残念です。ラストの「殺し場」は、お国と源次郎、伴蔵とお峰と続きます。いかにも歌舞伎的な「殺し場」ですが、伴蔵とお峰の場面は演出が過ぎましたか、雷鳴は不要なように思えます。ここは、しっかり二人の芝居を観たいところ。こずるいところもあったけれど、哀れな女です、お峰は。

本芝居は、三遊亭円朝の通し狂言が元になっていますので、2回ほど三津五郎が高座の円朝を演じて物語をします。なかなか楽しめる演出ではありましたか。やっぱり、久しぶりに観ても歌舞伎は面白いですね。


2007年10月12日金曜日

モネ損傷事件 さらに続報


モネ損傷事件の続報を追っています。全く個人的な興味です、今後も同様のことを続けるつもりはありません。


さて、若者5名(4名?)が起訴される方向のようです。うち1名は空調会社社員で、美術館への進入方法が分かっていたようです。


事件は本当に予め意図したものではなかったようです。APによりますと、5人は深夜に美術館に忍び込み、警報が鳴り響き驚いて逃げるところを、一人が絵にパンチをくらわせたとのこと。犯行はビデオカメラに収められていました。



The intruders wandered around the museum's ground floor, where the Monet painting was hanging, until an alarm sounded. Before fleeing, one of them punched the painting, officials said.


警報が鳴るまでウロウロしてたっていうんですから、おおかた酔っ払ってウダ話でもしていたんでしょうね。名画のかかっているギャラリーを歩きながら!>なんてウラヤ★シイ!


彼らはフランス刑法でいうところの、"damaging on object of public usefulness"で起訴(preliminary charge)されるとのこと。


Under French law, preliminary charges mean that the investigating magistrates have determined there is strong evidence to suggest involvement in a crime. It gives the magistrates time to pursue their probe before they decide whether to send the suspects for trial or drop the case.


主犯格の男性の罪は3年の懲役と45,000ユーロ(64,000USドル)の罰金だそうで、前科もないようですから、本当に今は反省していることでしょう・・・(;_;)


��月に盗まれた絵は、それにしても、どこにあるのでしょうかねえ。

2007年10月10日水曜日

モネの損傷犯が捕まったようで・・・

モネの絵画損傷の続報です。容疑者5名が捕まったようですね。以外に早い解決のようです。



One of the five being held for questioning gave himself up on Monday and told police the names of his companions after taking fright at the intense media coverage of a break-in that was captured on a security camera.(ABC News)

18~19歳の未成年らしく、お祭り騒ぎの中で酔っ払ってやってしまった、ということのようです。悪ふざけが過ぎたというか、後先を考えられなかったということでしょうか。突発的行動にしては反響が大きすぎました。修復可能で致命的な傷でなかったのが何よりです。


Police sources say statements made so far suggest the intruders had been drunk and did not premeditate the attack on the painting.(ABC News)


美術品に限らず歴史的建造物、貴重な自然など、性悪説を前提として展示あるいは存在していません。しかし、深い考えない悪意により傷つけられているのは洋の東西を問いません。とはいっても、相次ぐ美術品盗難や損傷事件の報に接すると、美術館や博物館の脆弱性が気になるところではあります。防弾ガラス+警備員に阻まれて、2m以上近寄れないというのも鑑賞スタイルとしては最悪ですけど。


Several recent incidents have raised questions over the security of works of art in French museums.(AFP)


え?音楽のサイトなのに誰も興味ないですか? この絵は高校時代から好きな絵のひとつでしたからね・・・、やっぱり気になりますでしょうに。

2007年10月9日火曜日

モネの絵がまたしても憂き目!


またしても、モネの作品が憂き目に合いました。フランスは10月7日、芸術と文化の祭典「ホワイト・ナイト(Nuit Blanche)」が開催中。同時にラグビー・ワールドカップ準々決勝で、ニュージーランドのオールブラックスから全く期待していなかった勝利を飾ったことから街はお祭り騒ぎ。酔っ払った5名(four or five people, likely four boys and a girl)がオルセー美術館に押し入り、モネの「アルジャントゥイユの橋」(今年、国立新美術館で見たばかり!→clala)をこぶしで傷つけたというのです。傷は切り裂かれたように10cmほど。修復は可能とのことです。




Five apparently drunk people broke into the Musee d’Orsay early on Sunday morning and punched a 10cm (4inch) tear in Le Pont d'Argenteuil by the Impressionist painter.


フランスの文化・通信相は破壊行為に心を痛めると同時に罰則の強化を主張してます。



It would be good a thing to increase the sanctions for (people who vandalise) a church, a museum, a monument, because they are attacking our history.


It’s always a heartbreak when an art object that is our memory, our heritage, that we love and that we are proud of is victim of a purely criminal act.



フランスは8月の盗難事件(→clala)といい、美術品関連の事件が絶えないようです。窃盗の場合は、心無い窃盗犯による仕業であったにしても、最終的には美術品に(金銭的)価値を見出しての犯行。美術作品に限らず過去の遺産や芸術作品を破損させる行為は歴史や文化遺産に対する反逆行為です。どちらも憎むべき犯罪ですが、破壊行為は許しがたく。


今回の犯罪がバカ者による度を越した悪ふざけであれば一過性のものでしょう。しかし、それが現在を生きる者の不満の捌け口として成されているのであれば問題は大きい。自分たちよりも芸術作品の方が「大事にされている」と思う気持ちが、もし仮にあるとするならば、これらの反社会的行動の根は非常に深いと言わざるをえません。フランスは移民問題とか内政は日本とは異なります。犯人の若者が、どのような者たちであるのか、事件の背景についも、注目しておきたいところです。

2007年10月6日土曜日

【本棚】山田昌弘:希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く


格差論の火付け役となった本書も文庫本化されましたので、ようやく読んでみました。

本書は、ニュー・エコノミー下の社会において、格差が「量的格差(経済的量的格差)」から、個人の努力では超えられない「質的格差(職種やライフスタイル、ステイタス)」の格差を生み、最終的に「心理的格差(希望の格差)」に繋がると捉えた点が斬新でした。現在の格差の最大の問題点は、将来に希望を持てる人と将来に絶望している人に分裂してゆくのだと。

学者は、とにかく分析が仕事です。山田氏は1957年生まれ東大卒。彼の主張するところの「パイプライン」(下図 本書P.193より転載)がうまく機能していた時代の成功者です。私を含め高度成長やオールド・エコノミーの時代に生まれた者は、将来の見込みも持たずに(持てずに)過ごす現代の一部の若者に対して根本的な疑問を持っています。自分の子供が住む日本社会に対する漠然たる不安もありますが、このままでは自分の年金が受け取れなくなるという利己的かつ現実的な不安が本音でしょうか。何故こんなことになったのか、自分たちと彼らは何が違うのかと。


そういう疑問には、本書はキッパリと明確な回答を用意してくれています。その点においては評価できる内容といえましょう。しかし、分析というのは目的があってするものです。人を納得させるための分析では、思考の遊戯でしかありません。分析結果をもとにどういうアクションを提示するのかが最も重要で、その点において本書は愚書の類と同一です。

最終章に「9 いまなにができるのか、すべきなのか」という章が設けられています。現在生じている問題は経済的格差以上に心理的格差(希望格差)であるとし、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵であると主張しています。努力すれば豊かな生活が報われる社会を実現(復活)させるために、山田氏は以下の提言をしています(P.276-282)。

  • 能力をつけたくても資力のないものには、様々な形での能力開発の機会を、そして努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みを作る → 学校システム、職業訓練システム、誰でもできる比較的単純な仕事に対して、努力してスキルをつければある程度評価されるというシステムの導入
  • 自分の能力に比べ過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策 → 過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化
  • 公的に(個人の)コミュニケーション能力をつけることを支援する → 自分のコミュニケーション能力のなさを自覚し、自分の理想通り(の相手)など存在しないことを経験から学ぶ
  • 収入は低くてよいからのんびり農業をやりたい、テレワークで暮らしたい、一生一人で生活したいなど、新しいライフスタイルを目指す人(中略)に対する具体的な実現支援策を用意
  • 政府がキャリアカウンセリング事業を、学校教育、生涯教育に大々的に取り組む
  • 若者にも「逆年金」制度

提言はこれだけです。こういう対策を行わなければ、若者は「希望」を持つことができず、アディクションに逃避し、さらに「エンビー型」の嫉妬心による犯罪、すなわち「不幸の道連れ」が増える可能性のあることを別箇所で指摘しています。

「エンビー型」犯罪の究極が赤木氏(→http://www7.vis.ne.jp/~t-job/)の「希望は戦争」でしょうか。ここまで書いてきて、赤木氏をはじめとしてして「フリーターを罵倒している」という論調の意味が、何となく分かってきたような気がします。分析は一面正しいのですが、何かがまた抜け落ちているのだなと。

2007年10月3日水曜日

[立読み]長野慶太:部下は育てるな! 取り替えろ!

刺激的な題名の本、書店でざっと立ち読み。買うほどの内容ではありませんが、書いてあることには首肯できる点も多い。ただし、部下を取り替えることのできるほどの実力と権限を既に持っている上司ならば、このような本を読むことはないのでは。なかなか育たない部下、あるいは期待したパフォーマンスを上げない部下に悩んでいるから、このような本を手にとるのではないでしょうか。


部下は育てるのではなく勝手に育つのを待つ、だとか、部下と分かり合おうなどと思うな、というのは、一面においては確かにそうかもしれません。パワハラ上司は別としても、最近は部下におもねる本が多すぎる気もします。全面的に賛成はしませんけどね。