2003年8月25日月曜日

【風見鶏】柳井一隆 写真展 ~ Metal road

アサヒカメラでも紹介されていた柳井一隆氏の写真展(KODAK PHOTO SALON Gallery1)を観てきた。この写真展は高速道路の夜景を撮ったもの。


ポストカードの写真を見ても分かるように、普段見慣れていて、むしろ酷い景観の代名詞とも言える高速道路が、妖しく光彩を放ちながらも圧倒的な重量感を有して細部まで曝け出している。

夜の高速道路(深夜ではなく、まだ人が生活を営んでいる時間帯)を、長時間露光によって浮かび上がらせているが、出来あがっている写真は驚くほど美しい。これが、渋滞と排気ガスで充満している高速道路であるとは到底思えず、擬似都市の写真を見ているような気にさせられる。

細部までにピントの合った写真は、見ていて快感を呼び起こす。高速道路や橋脚、光る螺旋階段などが、かくも美しいものであったかと認識を新たにする。

しかしながら現実世界においては、このような色彩は決して現出するわけもなく、柳井氏の美意識によって構築された "Metal road" と現実のギャップに、心がざわめくような異質な軋みを感じる。美の感覚は、ものごとをちょっとした角度から眺めることで再発見できるものであるし、また柳井氏が "高速道路" という素材に拘った理由も、ある意味で同時代的であると感じ、共感を覚える。

HIYORIみどり 「柳井氏によると、この写真はネガフィルムなんですって。焼き上がりをイメージできるのなら、ポジよりもネガの方が格段に扱いやすいんですって」
KAZAみどり 「写真技術のことはよく分からないけど、思ったとおり若手の写真家だったわね」

2003年8月23日土曜日

【音盤】スヴェトラーノフのシェヘラザードと法悦の詩



Nikolai Rimsky-Korsakov
 Mlada:Procession of the Nobles
 Scheherazade, Op.35
 London Symphony Orchestra
Alexander Scriabin
 Le Poeme de l'extase, Op.54
 USSR State Symphony Orchestra

Evgeny Svetlanov
Recording:
Royal Festival Hall,London, 21 February 1978
Royal Albert Hall,London, 22 August 1968


今年の夏は記録的な冷夏だとかで、夏休みも気温が上がらずに全く冴えなかった。北海道から来た身には涼しいに越したことはないのだが、都会のうだるような酷暑を心の底で期待していた私には、肩透かしな思いであったことも否定はできない。気温が上がって欲しいときに思ったような結果が得られないと、気分まで萎えてしまい、日の当たらないモヤシのような気分になっていた。

しかし、今週半ばから、思い出したかのように暑さがもどってきた。休日の今日などは軽く30度を越える暑さで息をするのも苦しいほどであった。こうなると気分は単純に盛りあがり、「ガーッ!!」とした音楽を能天気に聴いてみたくなるものである。

そういう訳で登場するのが、スヴェトラーノフの「シェヘラザード」と「法悦の詩」である。スヴェトラーノフの演奏であるから、ここは細かいことを考えないで音響の洪水に浸りたい。

「シェヘラザード」の爆演としてはゲルギエフ版が記憶に新しいが、こちらも負けずとエネルギー全開の演奏になっている。弦はうなる、シンバルははじける、打楽器は轟然とロールする、ハープは手から血が出るのではと思うような音を奏でる。それでいて音楽には破綻を来さない。もっとも少し力任せのように聴こえる部分もある。例えば、第三楽章の"The Young Prince and the Young Princess"でバイオリンが甘いメロディを奏でる部分などは、もう少し絡みつくような熱情やロマンが欲しいと感じる部分がなきにしもあらずではある。にしても演奏はLSOであり決して性能は悪くない。特に第四楽章のスネアドラムの硬質な刻みと弦の凄まじいばかりの強奏、麻薬でもやっているのではと思うようなクラリネットの節回し、血管がブチ切れそうなトランペットのタンギングなど軽い眩暈さえ覚える。クライマックスの大音量はもはや底を抜けている。冷静に聴けば結構粗いところも気付くのだろうが、全てはラストの静けさに入る前の一撃で吹っ飛んでしまう。

「法悦の詩」もゲルギエフ版があるが、私はこの曲になかなか馴染めないでいる。男女の営みを音楽的に表現したものだと言われるが、経験が浅いせいか(^^;;どうもその気になれない。スヴェトラーノフ版を聴いてみたが、もしこれが「男女の営み」だとするならばあんまりであるとは思った。音楽は相変わらずストレートに押し寄せる音の洪水を聴かせてくれているし、スヴェトラーノフファンならば垂涎の演奏とはなっていると思う。それに、クライマックスのモノ凄さときたら、もはやバーバリアンなエクスタシーに満ち溢れ、更には超新星爆発を起こし宇宙と一体になったかのような感覚さえ覚える。要するにブッ飛び演奏ということだ。たぶんこれが「行為」だとしたら全てのエネルギーを発散し尽くして死んでるな。そうは思ってみても「法悦~」に、乗りきれない自分を感じる。演奏そのものよりも、演奏終了後の聴衆の気が狂ったような絶叫と拍手に驚いてしまう。紳士然としたロンドンの人の秘めたる情熱か?

それでも、狂おしいほどの暑き夏の夜には、これ以上ない濃い音楽ではあった、嗚呼汗だくだよ。

【風見鶏】表参道の界隈

久々に表参道をウロウロしてみた。33度は越えるのではないかという中、JR原宿駅を降りると、何やら聴きなれた民謡調ロック音楽が流れている。まさか!と思ったら「スーパーよさこい2003」というイベントであった。ほへ~と関心、ついに、よさこいも竹の子の聖地に戻ってきたか(藁)
そのまま表参道を青山一丁目方面へ歩く、青山には超高級ブティックが目白押しだ。超某人気ブランド店の前で親子連れが記念写真を撮ろうとして、警備員に咎められていた。写真くらいいいぢゃないの・・・。
高級ブランドは大胆な建築意匠を用いてイメージを高めようと躍起だ。ブランドには全く興味がないのだが、建物を見ているだけでも興味はつきない。
しばらく歩くと同潤会アパートのあったところは、工事現場に様代りしていた。延々400m近くもあったはずの同建物がなくなった景色は異様だ。安藤忠雄氏設計の建物ができるのは2006年1月とか。
更に進んで246の手前には、今の日本の建築会では無敵である隈研吾氏設計による商業ビルが完成を間近に控え聳え立っていた。
さて実は今日の目的は、246を越え根津美術館の近くに出来たプラダ ブティック青山店をこの眼で見ることである。この建物は、今をときめく建築家ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計で、日本の建築家たちに大きな衝撃を与えた建物だ。(ゴメンなさい、写真は「日経アーキテクチュア750号」のものです) 




写真を見てお分かりのように、常識的な形態を全く逸脱したガラスのボックスだ。わたしもこんな建物を見るのははじめてだ。
意を決して(藁)中にも入ってみたが、近未来映画のセットにタイムスリップしたかのような感覚を覚えた。ちなみにふと手にとったサマーセーターの値段も、一瞬頭が白くなるようなものでもあったが(獏)
こうして1.5km程度の距離を歩いてみると、日本の商業ビジネスシーンの実験場のような体裁を現していることに気付かされるのであった。


HIYORIみどり 「とにかく、建物もいいけど暑かったわね。歩くだけで水を1リットルも摂取したわよ。日差しはお肌に悪いし、こりごりだわ」
KAZAみどり 「オープンカフェで飲んだ、アイスモカショコラが美味しかったわ。スタバの2倍以上の値段だったけどね」

2003年8月19日火曜日

某室内楽ホールの音響改善後の演奏会

東京都内の某室内楽専用ホールで音響改善工事が行われたとかで、改善後のお披露目兼音響測定会の機会を得たので行ってきた。

音響設計者にも会ったので今回の改修の経緯を伺ってみた。ホールは出来てから10年近く経っているのだが、ホールが出来て直ぐにピアノ演奏用に向くようにデッドなホールに改装してしまったたらしい。そのため弦関係の演奏家からは苦情が多かったとのこと。このたびホールの所有者が室内楽専用ホールに改めたいとの意向を示し音響改善を行った(というか改装前の原設計に戻した)とのこと。目指したのは、ホールの音響性能の指標のひとつである残響時間で示すならば、約1.2秒程度にすること。測定の結果、空席時および客が入った状態でほぼ想定の残響時間が得られたらしい(ホールの性能は残響時間だけで測られるものではないのだが)。

さて、そういうホールでの演奏は、アマチュアの弦楽四重奏によるモーツアルトのティベルティメントと、N響コンサートマスターの篠崎史紀氏によるヴァイオリン演奏会であった。弦四はアマチュアながら、ハイレベルな演奏。篠崎さんのソロに至っては言うことは何もない。アンコール三曲を含め、ヴァイオリンを堪能させていただいた。

音を聴いた感想としては、個人的には木質系の柔和な響きを特色とするホールになっているように思えた。一方で伴奏のピアノの音がモコモコと聴こえ、もう少し響いても良いのではないかと思ったものである。今回の改修は残響時間を長くする方向のものであったと後で聞き、何と私の耳は主観的で当てにならないかと思った次第。ホールの良し悪しなど聴き分ける高度な耳など持ち合わせていないようだ。

2003年8月16日土曜日

【本棚】夏目漱石:それから


何故に今さら漱石なのかと思うだろうが、盆休みに読むものがなかったので、書棚にあった本書を戯れに読み始めたら、思いのほか面白かったのということなのだ。文庫の発効日が昭和5×年とあるので、中学三年生の頃に読んだようだ。

当時は漱石を結構読んでいたようで、「虞美人草」「坑夫」「明暗」など、あまり読みやすいとは言えないような作品も本棚で埃をかぶっている。"読んでいたよう"などと他人事のような書き方をするのは、今回改めて「それから」を読んで気付いたのだが、小説の細部をほとんど覚えておらず、始めて読むがごとき新鮮さを味わうことができたからである。というよりも、中学三年生で「それから」を読んでいたとしても、読めたことになっていたのかとも思う。

ご存知のように「それから」は恋愛小説であり、前作の「三四郎」と続作の「門」で三部作となっている漱石の代表作のひとつだ。主人公の代助は30歳でありながら、働きもせず親からの支援でのらりくらりと生きている。その彼が、親友の妻である三千代と道をはずれた恋の道に落ちるというストーリーだ。

漱石は、代助という「食うために働くのは堕落だ」と思うような主人公を設定し、自分の信念も、家族も、親友も、全てを裏切って愛の道を取るというテーマを書ききった。今でもかつても不倫であることに変わりはないが、その重さも意味もまるで異なる時代においてのそれは非常にスリリングだ。後半に代助が三千代に愛を告白する場面、嫂に自分の思いを語る場面など、まさに手に汗握る展開である。

しかし、少し本を置いて考えてみると、これを単に代助と八千代の不倫の物語と捉えるのだけでは済まない問題が含まれているようにも思える。職を持たずに親の援助だけで生活しているモラトリアム人生の代助と、彼の親友であり、いち早く実社会で成功と挫折を経験している平岡との葛藤や対立、そして代助自らは意識しないところでの平岡に対するコンプレックスなどと絡め、何故代助が現在の安住した生活を捨て、八千代との茨の道を選んだのか考えなくてはならないようだ。

代助は父親の進める政略結婚によって父や兄の住む実業の世界に絡み取られることこそに反発を覚えた。食うために働くことは堕落であると自覚しながらも、結果としてそれを放棄しなくてはならない八千代との愛の路を選んだことは、彼の矛盾した心象を表している。いやむしろ、他人に絡み取られることを拒むが故にこそ、自らの墓穴を掘り、新たな世界に飛び出すために八千代との愛を選択したというように読めないこともない。

自立するために職を選ぶにしても、今の自分の世界を捨てる理由が欲しかったということなのだろうか。社会的道徳理念とは反するが、自らの心情に従った純粋な愛の形を漱石が書きたかったのかどうか、詳しい漱石論を読んでいないので真意はわからないが、代助の屈折した感情が印象的ではあった。このような、一見積極的な愛の形に見えるものが、一方で消去法的な逃避的な愛の形にも見えるてしまうのだが、気まぐれな彼の情熱が覚めた先の世界については、本書では語られていない。

それにしても漱石はなかなか面白い。休日にぶらりと、この小説の舞台となった今の神楽坂でも見てこようかという気にさせられた。

2003年8月10日日曜日

【本棚】桐野夏生:顔に降りかかる雨


本作は93年、第39回江戸川乱歩賞を受賞した作品である。桐野氏といえば、もはや押しも押されぬミステリー作家としての地位を築いているとは思うが、これは彼女の初期の作品に当たるのだろう。

ミステリー界には三F現象とか四F現象という言葉があるらしい。すなわち作者、主人公、読者の三者がいずれも女性なのが三F、これに翻訳者が加わると四Fなのだとか。


言われてみると、この小説は女性が書いたという雰囲気や匂いに満ち溢れている。登場人物を紹介するときの描写の仕方、服装や香水・アクセサリーなどの小物についての記述など、ブランド名が明確に用いられており、記号として知る人ならばイメージが膨らむように書かれている。あるいは、主人公の村野ミロと一緒に失踪した女性を追う村瀬の描写の仕方、そしてラブシーンへと至る描写・・・あざといほどの「女性の視点」という描写が、逆に私には鼻についてしまう。主人公の村野ミロが、最初は嫌悪しながらも成瀬に惹かれてゆく過程も、やっぱりなあ・・・という思い。

こういう気分は何なのだろうかと、読みながらずっと考える。男社会の描写や視点に慣れすぎている事から来る違和感か、我々男性がしがらみに縛られて逆立ちしてもできないような垣根を、女性たちが軽々と越えてしまうことへの羨望か、あるいは営々と築きあげられてきた男性社会に対して、そういう生きざまをみっともないと思わせられることへの悪あがきか。

もっとも桐野氏はそんなことを意図して書いているのではないようではある。女性にも気持の良い、フットワークの軽い、そして面白いミステリーを書いているだけなのだろう。従ってミステリーとしての面白さは十分、そこにアングラ的なSM風俗や、東独逸のありようとの対比、女性の野心と願望などが織り交ぜて書きこまれており、読物としても悪くはない。

しかし読後感としては、ミステリーとしての味わいよりも彼女の文体そのものの印象が強すぎるため、ゲンナリしてしまう。女性のビビッドなパワーに当てられたというところだろうか。彼女がロマンス小説やレディースコミックの原作者としても活躍している、との解説を読み、成る程と納得した次第。世の中の、女性と男性の妄想の違いに思い至る小説でもあった。

こうしてレビュを書いて気付いたが、私はミステリー読んでも、ミステリーのトリックや質そのものには全然関心も感心もないのだな・・・

2003年8月4日月曜日

【本棚】貫井徳朗:迷宮遡行


貫井氏は「慟哭」が絶賛を博したため、第二作目を書くことにかなりのプレッシャーを感じたらしい。彼は悩んだ末に「烙印」(1994)を書き上げるが、作品として成功したものとは言えず、そこで今回「迷宮遡行」という作品に全面改稿しとのこと。

貫井氏は今となっては、書店の人気ミステリーコーナーを賑わしている作家であることは認めるのだが、この作品を読んでも、私にはピンと来なかった。

貫井氏は、本作においては、会社をリストラされ、恋女房にも逃げられた冴えない男性を主人公とし、女房を探すうちに、まわりには暴力団の陰がちらつき始め、そして意外な結末へと向うのだが、それを意図的に軽妙な語り口で書いている。

(主人公がヤクザに脅されながら吐く言葉)

「そんなつもりはありません。で、でも教えてくれるなら、ちょっと嬉しいかなぁ―――って嘘です。冗談です。」(P.152)

こういう文体や作風については好みが分かれると思う。喜劇として読むならば良い。それだけに、「慟哭」でもそうであったが、どうしてもラストが承服できない。

いったい貫井氏は何を書きたいのだろう。意外さや奇抜さで読者をあっと言わせたいがために、ハードボイルドやミステリを選択しているのだろうか。手品やコントを見るような楽しみはあっても、私はその先に進めない。

それに、貫井氏は若いのに(というのも変だが)、どうして「全てを失った男」が好きなのだろう。喪失と再生というテーマならば良い。貫井氏の場合は、喪失から喪失へなのだ。それは悲劇であろうが喜劇であろうが、私には救いが見出せない。

水の塔

 

哲学堂水の塔

2003年8月1日金曜日

【本棚】横山秀夫:動機


陰の季節」で否定的なレビュを書いた気持のまま、ほとんど期待もせずに本書を読み始めたのだが、その感想を全面撤回させていただかなくてはならない。横山氏の小説は、非常に面白いし着想にしても、確かに言われてみれば今までになかった視点だと、やっと分かった。

今回の4つの小説は、警察もの(「動機」)だけではなはない。前科物の出所後の運命的な物語(「逆転の夏」)や、地方新聞の女性記者(「ネタ元」)、そして地方の裁判官が主人公(「密室の人」)だ。これらの物語に共通しているのは、生じる事件がごく身近なものであり、時にそれは「陰の季節」でもそうだったように、内部組織の不祥事に近いものだったりする。それのどれもこれもが、人間の一寸した「魔」をついて生じた事件に端を発している点が、題材に対し感情移入しやすくなっている。また、彼の書く人物は、殺人前科者であっても裁判官であっても、結局は「ただの人」として描かれ、それが極めて印象的なのである。

例えば「密室の人」の「魔」とは、裁判の審理の間についつい居眠りをしてしまうということから、話しは予想もしない方向へ展開してゆくし、「逆転の夏」においては、事件の発端が女子高生の中絶手術代稼ぎの売春に、これもひょんなことからひっかかってしまった男が、金銭トラブルから女子高生を成り行きで殺してしまったという事件が鍵となって物語は進行する。

「ネタ元」にしても、地方新聞の女性記者を中央新聞が「引き抜き」をかけるということを題材して扱っている。引き抜きという人間の虚栄心や出世欲などを微妙にくすぐる誘いに対し、男社会で果敢に奮闘している主人公の心が揺れる様の描写は見事だ。

横山氏の書く小説は、人間に対する活写が(少しステロタイプに感じることもあるのだが)非常に生き生きとしており見事だ。ごくふつうの人生を真面目に送ってきた人たちの姿、あるいは、暗い過去や哀しい過去を背負った人間の苦悩や悔しさというものが、実にギリギリとするほどの迫力で描き出されている。そして、やはり彼の小説からは、そういう人間たちに対する暖かい視線があるのだ。

こういう営みや描写が。「陰の季節」では、わざとらしく、そして少し古いタイプの小説であると感じ、違和感を覚えたのだ。彼や彼女らが守ろうとしているものや戦っているものが、あまりにも小さな組織内のできごとであり、矮小な世界の出来事であるため、目を塞ぎたい気持になってしまったのだ。

しかし、こういう世界に目をつぶってしまったならば、そして、普通の営みを否定すると嘘いてしまったならば、いったい自分自身は何を守っているというのか、自分の矜持はどこにあるのかと問わねばならないだろう。

「聞いたふうなことぬかすんじゃねえ! てめえらの仕事って何だよ。俺らは体張ってんだ。街ィ守ってんだよ。てめえは何守ってんだ? 本部長か? てめえ自身か? 言ってみろ!」

「馬鹿野郎、そんなもん家族に決まっているだろうが!」

増川の手がふっと緩んだ。(「動機」P.53)
「鬼畜じゃなかった。山本はただの男だった。気が小さくて……誘惑に弱くて……どこにでもいるつまらない男だった。獣でも鬼畜でもないただの……」(「逆転の夏」(P.179)

こういう描写が、ちょっとクサイというかわざとらしく、鼻白む思いもするのだが、今回は許す。何故なら、私はここの表現に救いを見出し、そして打たれてしまったのだから。

ああ、大事なことを書くのを忘れていた。横山氏の小説は人情ドラマではない。あくまでも、そういう世界を基盤とした上質なるミステリーである。横山氏が今では押しも押されぬミステリ作家であることは誰もが認めるところだが、やっと端っこを掴むことができた思いだ。

(……にしても、こうまでレビュ変わるかよ(--;;;

2003年7月24日木曜日

【本棚】横山秀夫:陰の季節


解説曰く

横山秀夫『陰の季節』が決定的に新しかったのは、警察小説でありながら捜査畑の人を登場させなかったことだ。(中略)横山秀夫の警察小説は、捜査小説というよりも、「管理部門小説」といっていい

(中略)読み終えても残り続けるのは、管理部門で働く人間の悲哀をも描いているからである。その切なさが、我々と同じような些細な悩みをかかえる日々の営みが、鋭く活写されているからこそ、読み終えるとふと隣の人に話しかけたくなるのである。(北上次郎)

これは褒めているのだろうな、と思う。帯も「驚愕の警察小説」だ。私はこういう小説に少しばかり馴染めない。「中間管理職の悲哀」というステロタイプのテーマだけでゲンナリだ。スポーツ新聞や夕刊フジ、整髪料と育毛剤の匂い、肩から下がる型の崩れた黒い鞄。会社では人事と自分の保身に全神経を集中させ、陰では罵倒しながらも表では上司を媚び、組織を維持することを是とし、小さなムラの中で階級がひとつ上がること人生の目的とする。

毎日そんなものを、嫌でも見せられて、そして自らもその一部をしっかり演じていて、いまさらミステリ小説で、その姿を活写されたところで、もう結構だよという気になる。小説の中での彼らの奮闘振りに共感を覚えるより、私達は何と下らなく、ばかみたいな問題に汲々として、何かを捨てて残り少ない人生を走っているものかと改めて思ってしまう。

もっとも、殺人や猟奇ばかりで救いのない小説などよりは、かなり良質な作品であることは認める。また作者の人間に対する暖かい視線が滲み出ており、単なる警察小説の枠を越えた味わいがあるとも思う。ただ、何と言うか浪花節というか演歌的というか・・・そういう点が、私が好きになれない点なのだろうと思う。

動機」も合わせて買ってしまったので、こちらも読んではみるが。

2003年7月17日木曜日

【本棚】貫井徳朗:慟哭


本作は93年に発表され世間を驚かせた作品である。作品の内容や質、仕掛けられたトリック、そしてこれが貫井氏のデビュー作であり、かつ彼はまだ24歳程度であったということにミステリファンは驚いた。文庫本の高村氏の帯びが振るっている(上)。たった3行のキャッチに惹かれて私は本書を手に取った。私にとっての貫井作品を読むのははこれが始めて。

物語は、心に大きな傷と空洞をかかえ職も放棄してさ迷う松本という男と、警察内ではエリートコースを走る佐伯警視(キャリアで刑事部の捜査一課長)の二本立てで進んで行く。佐伯は妻の父親が警視庁長官というであるため、さまざまな妬みや中傷を浴びながらも、孤独に峻烈なまでな厳しさで自己と他者を律して行動する男として書かれている。私生活においては、家庭とは全く疎遠になり、妻とは別居状態、娘からは憎まれてさえいて、愛人宅から通うという生活だ。一方の松本は、絶えられない心の傷を癒すため、新興宗教に救いを求めて行く。そして両者の物語は連続幼女誘拐殺人という今時の事件を鍵として収斂して行く。

読みながら、ラストに佐伯の警察人生を変えるほどの「悲劇的」物語が仕組まれているのだろう、おそらくは佐伯の娘が誘拐され、そこに「慟哭」ともいうべきものが生じるのだろうとは想像できた。ラストまでグイグイと読ませる。文庫本解説でも、ネット上の多くのレビュでも、トリックの奇抜さ、殺人に至るまでの心理、まさに慟哭というべき悲しみ、ミステリを越えたテーマ性、そして独特の文体について絶賛している。私も最後のトリックにまでは思い至らなかったため、作者の陥穽にまんまとはまってしまったと言えなくもない。

でもなのである。ミステリの上手さは認めるものの、私はこの小説に心酔も承服もできない。読後の救いのなさと、希望のかけらもない虚無さに私は耐えられない。

一旦、小説の構築に合い入れないとなると、否定的な面ばかりが目に付く。例えば黒魔術だ。作者は小説を書くに当たって新興宗教をボーリングしたふしはあるものの、宗教に対する偏見を感じるし黒魔術が登場した時点でリアリティが飛んでしまった。娘を失うという深い喪失感のため宗教に救いを求めるということまでは是認したとしても、その後に、黒魔術を駆使して娘を蘇らせるなどという行為に走ることをどうして承服できよう。亡くした子供を蘇らせるという物語だと、ホラー小説だがS・キングの「ペット・セマタリー」を思い出すが、こちらもこれも全く救いのない小説で読後感はサイアクだった。

自分の子供を誘拐殺害された父親が、別の目的で連続誘拐殺人を行う、このことも認めがたい。子供をなくした親が、連続誘拐殺人犯ではありえないと言ったのは、はからずも佐伯の恋人であったはずだ。

妻とも不仲になり、愛人からも見放され、職場でも自らの厳しさゆえに孤立し、自分を唯一支えていると考えた娘(それは彼の一方的で勝手な思い入れなのだろうが)さえも、自ら陣頭指揮をしていた事件に巻き込まれ死なせてしまう。しかも、妻から娘が誘拐されたかもしれないというメッセージを無視し、捜査一課長としての体面を取り繕うために初動が遅れたという落ち度を犯すというオマケまで付けてだ。この時点で、彼は最後の砦である職場での立場さえ失い、まさに自分を支えるもの一切を喪失することになる。ここまでの悲劇に見まわれたならば、私ならばとてもではないが耐えられないだろう、もはや正気でいられるとは思えない。

よほど気がふれてしまった方が楽であったろうにと思う。彼の脳は現実から逃避するという方向には向わない。ただ救済されたいがために宗教へと、そして娘を蘇らせる目的での魔術と殺人に走る。悲しみの深さには同情できても、そこから筋に乗ることができない。自分も同じ立場になるとオカルトにでもすがるのであろうか。

もうひとつ、気になるのことがある。そこまで佐伯が娘を愛していたのならば、普段の家庭を無視した行動は何だったのかということだ。仕事に没頭し、夫であることと父親であることを放棄し、疲れた自分を癒すのは家庭でなく不倫相手。そういう彼が、実は子供だけは心から愛していると言うのは、彼にとっては本心なのではあろうが、娘や妻にとっては自己中心的な愛でしかなく不実以外の何物でもないように思えてしまうのだ。彼は事件の後、妻との関係を修復する方向にも、犯人をとことん追い尽くすという方向にもパワーを向けることができず、深い喪失感ゆえ捩れた考えを持つようになってしまう。あくまでも自分中心の考えのように思えてしまうのは、私だけだろうか。

これらの仕組みは、トリックがすべて明かされた読了後に始めて分かる事柄だ。従って、ミステリとして読むならば極めて秀逸であると思う。ただやはり、救いのなさにおいて読後感はサイアクで、私はこういう小説を好きになれない。

2003年7月13日日曜日

東京交響楽団第505回定期演奏会

日時:2003年7月12日 18:00~
場所:サントリーホール

指揮:ユベール・スダーン   ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
演奏:東京交響楽団

ブラームス:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
ベートーベン:交響曲 第7番 イ長調 作品92




ピアノのオピッツ氏といえば、1994年のNHKテレビ「ベートーベンを弾く」という番組で出演されていたので知っている方も多いと思う。彼は「ドイツ・ピアノの正統派」としてその筋では有名である。そういう彼がブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏するというので期待してでかけた。
ブラームスのピアノ協奏曲第2番は、1番と違って明るく美しい曲であるが、「ドイツ正統派」がどういうことなのか全く理解していない私は、ガッチリと構成的で硬い演奏を思い浮かべていたのである。しかしオピッツ氏の奏でる音楽は、そんなイメージのものでは全くなかった。

この曲は冒頭で薄靄の中から立ちあがるホルンの響きと、それに導かれて登場するピアノのカデンツァが印象的だが、今日この部分を聴いた時、大げさではなく私はこのまま死んでもいいと思ってしまった。それほどの至福の音色が聴こえてきたのだ。オピッツ氏のピアノは風貌とも風評から抱いたイメージとも全く異なり、そっと撫でるような、あるいは天使がもらす溜息のような(ゲロゲロ!恥かしい表現!)柔らかなタッチで、全く私を別次元の世界へと誘ってしまったのであった。自我や自己を主張しすぎず、バックのオーケストラに柔らかく溶け込むかのような音色は、夢見るごときであった。

決してもって弱々しく女性的という演奏なのではない。締めるところは締め、そして感情の高まるところでは激しくあるのだが、全体的な印象としてはブラームスのアンニュイな感じや、優雅さ、そしてどこか懐かしんだり物思うような雰囲気が非常によく表現されているようで、そういう語りの部分がとにかくCDなどを聴いていては決して感じることができないような雰囲気として伝わってくるのだ。

そうなんだよなと思う。ブラームスは押し付けがましくないのだ。技巧をバリバリとひけらかしたり、力瘤をためて挑みかかるようなことはしないのだ。嗚呼、今までブラームスをベートーベンのように聴いてはいなかったか、と彼のピアノを聴いていて思った。

だからというわけではないが、3楽章はチェロの主旋律が美しいくチェロ協奏曲とでも言いたくなるような部分なのだが、オピッツ氏のピアニズムとは少し異なった表現に聴こてしまったのが惜しい。チェロの音色はふくよかで、それだけを取り出して聴くと全くもって実に素晴らしい演奏なのだが、オピッツ氏のピアノと対話する部分になると、違った話しをしているように聴こえてしまったというのは、私だけの感想だろうか。

満足いかなかったのはそこだけで、全体にピアノを中心とした懐古や対話、そして訥訥とした語りなどを、明るい光の注ぐ部屋で、香り高い紅茶でも飲みながら聞いているような、あるいは寄せては返す波を見ているような、激しすぎずに流れる奔流か、色々なイメージや光を見せてくれる演奏であった。激しい感動ではないが、深い心地よさにブラボー!

さて、お次はベートーベンの第7シンフォニーだ。第一楽章を聴いていて私は思わず笑ってしまった。演奏にではない、こんなに単純にしてくどいフレーズの繰り返しなのに、期待して高ぶってしまう自分がおかしく、そして何とブラームスとは異なるのだろうと改めて思ったのだ。

スダーン氏の指揮に注目すると、彼の指揮は非常に分かりやすいように思えた。キビキビと弾ける様に奏でて欲しい時には、あたかもバスケットボールのショートパスのような振りで指示を投げかける。第2楽章では、主旋律が重々しいテーマを奏でるとき、ビオラなどが裏旋律を奏でるのだが、スダーン氏は主旋律の方は見向きもせず、ビオラにガシと正面から対峙し音を引き出してくる。そういう指揮振りから音楽が多重的かつ立体的に浮き上がってくる。

まあそれ以外にもイロイロあるのだが、ベト7には細かいことはいらない(^^;; 小気味良く歯切れの良い音楽がビュンビュン進んで行くことを楽しめればよいとも思う。スダーン氏の指揮においても、この軽快さは第3楽章からラストまで延々と続く。あたかもはずみ車が、慣性によって一度廻り始めたらもはや止まらないとでもいうかのようだ。非常に健康的な感情の発露を全身で表現しているかのようで、例えばかりで恐縮だが(悪文の典型ってやつだな)陸上の400m走のように、ひと時も力を抜かずに走り抜けたかのような感じを受けた。

実際、弦セクションは猛働きであったようで、演奏が終了し拍手喝采を浴びているときに、コンマスの大谷さんは汗を拭うような仕草をしていたし、大谷さんの隣の奏者は「手がしびれちゃいましたよ」みたいな仕草で大谷さんに笑いかけていた。

東京交響楽団を聴くのは今日が二度目なのだが、ヴァイオリンセクションの上手さには改めて感嘆した。少しハイキーで透明な感じの音色を特色とし、特に弱音での美しさが際立つ。ブラームスで聴かれた、ピアノをバックに静かに裏で支えている部分など、涙ものの美しさだった。ヴァイオリンだけではないが、フレーズの出だしのアンサンブルの合い方は、若々しさと小気味良ささえ感じる、実に丁寧だ。そして演奏からは音楽以上の、いや音楽というものの喜びそのものが伝わってくるような気がするのだ。それがコンマスの大谷さんのキャラクターによるものなのか、このオーケストラを育てた秋山和慶氏の影響なのか、それは分からない。

今日は定期演奏会ではあったが、明日は新潟公演になる。それだからだろうか、アンコールにはシューベルトの「ロザムンデ」から第3楽章が演奏された。アンコールについて語るのはもはや野暮というものであろう。

2003年7月12日土曜日

高村薫:わが手に拳銃を


これは「李歐」のもととなった小説である。「李歐」を先に読んだのだが、本作も興味深く読むことができた。登場する人物などはほとんど「李歐」と同じなのだが、やはり作品としては全く別物であった。登場人物の設定や末路が若干異なっているし、主人公の一彰やリ・オウに与えられた性格も微妙に異なっていることに気づく。こちらでの二人は、もっと直接的で外発的なように見える。

「李歐」のなかで一彰は、ひたすら李歐を焦がれて待ちつづける男として書かれていたが、ここでは、暴力団の原口にも惹かれながら、それでも心の底でリ・オウを渇望し、かつ、自分の中での狂気と戦っているかのような姿として書かれている。一方、そのリ・オウも天性の明るさと才能は十分に発揮しているが、妖しいまでの魅力にまでは昇華しておらず、どことなく汗臭くオレ様王国を夢見る若者という殻をひきずっているようにも思えた。

こんなことをいちいち比較していても、しかし意味のないことだ。作品はモロに高村ワールドであるし、文句なく面白い。

五十発の銃声がいつまでも耳から離れず、目を閉じると網膜に血の色の花が散る。それがまた、身の毛のよだつ美しさだった。
この美しさに札束の夢と蒼白の月。
このリ・オウの晴朗な狂気。男ひとり狂うのに、これ以上何が要るか、と一彰は思った。

という描写は本書のラストだが、こんなにも痛快な終わり方があるだろうか。さすればこれは、男と男が惚れ合い、惹かれ合った深い恩義と友情の話でもあるし、男と男の心からの約束の話しでもあるし、そして、男が組織や家族や国家などのしがらみを脱ぎ捨て「自由人」として翔び出す話でもある。

それ故にといおうか、あまり捩れたところや屈折したところはなく、感情も行動もストレートなため分かりやすい。「李歐」では何もかもがはっきりしなかった背景が、こちらでは詳細に解説されているので、「李歐」を先に読んだ私は、謎解きをされているような気分になったものだ。

どちらが作品としてお奨めできるかというモノでもなさそうだ。それぞれが別で、読後に感じる感慨も全く別のものだからだ。ただ、「李歐」の方が深く感動してしまったことは確かだ。作品としては実は「わが手に拳銃を」のタッチの方が私は好きなのだが。

「わが手に~」を上梓していながら高村氏が改めて「李歐」を書こうとした意図を考えると興味はつきない。やはり、彼女は李歐という存在そのものを書き尽くしたかったのだろうと思う。「李歐」が高村氏の小説にして始めて、女性による小説という雰囲気を醸し出しているわけも納得できるというものだ。

2003年7月10日木曜日

長崎の幼児投げ捨て事件などに思う

またしても信じ難いと世間を言わせるような事件が起きた。幼児を全裸にし悪戯をしようとし、騒いだのでとっさに駐車場から20m下に突き落としてしまった犯人が、12歳の中学1年生であったという事実。

この事件を聞いて、かつての神戸市での事件を思い出す人も多いだろう。少年法の改正を主張する人も出てくるかもしれない。しかし、そうではない、おかしくて、間違っているのは、自分たち大人の世界なのではないかと自問することはないのか。

少し前に起きた、早稲田大学でのレイプ事件もしかりだ。一部の大学生が学生であることを放棄して久しい。それをもはや誰も奇異なこととは感じない、そうして学生であることを放棄した者も、この不況下ではあるものの、ある時期になれば社会に旅立つ。

ことは12歳の少年や大学生の話ではない、欲望を制御できないままの子供のような大人たち、その大人たちを見て育つ子供たち。親が厳しく教育すればよいと言うものでもない。社会からの情報を遮断して、隠匿生活でもしていれば別だろうが、いやおうなく、様々な刺激情報が流れてくる。刺激を再生産し消費するように仕向けているのは、はからずも大人たちだ。

早稲田の事件や長崎の事件について糾弾したり背景を書く週刊誌が、その自らの頁で、ほとんどポルノまがいの記事も載せているという矛盾と破廉恥さ無節操さ。

自分で自分の脚を食う蛸のように、自らの方向性を食いつづけているツケが、ある時期に噴出してくる・・・そんなやりきれなさを味わう。12歳の少年にしても、学生たちにしても、どこで何が狂ってしまったのか、考え始めると事件の根は深いと思わざるを得ない。



2003年7月5日土曜日

【音盤】ホロヴィッツの展覧会の絵など

Mussorgsky:Pictueres at an Exhibition
Scriabin:Etude Op.2 No.1、Prelude Op.11 No.5、Plelude Op.22 No.1
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever

BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。

ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。

音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。

他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。

「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。

ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。

いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。